第6話 再び目を開ければ
ここからハルカ視点が中心になります。
私が再び目を開ければ、目の前には何事もなかったかのように森が広がっていた。
静かな森。見渡す限り木立が並ぶ。……あれ? 風景が何も変わっていないような……? だったら何も問題はないのだ。しかし、原因不明の違和感がくすぶる。
目の前に広がる景色をよく見る。そして第一の異変に気付いた。
すぐに気づかねばならないことだった。
目の前から、本殿と、神様の姿が消えていたのだ。
「……神様……?」
無意識のうちに声が漏れる。
もう一度、辺りをよく見回した。
次にもう一つ、今までとの違いに気付いた。小動物……いや、生き物の姿が見えない。そこにあったのは、ひっそりと静まり返り、不気味なほどの無音の森だった。
そして、さらに遠くを、目を凝らして見る。頭をもたげたある一つの可能性を、打ち消したいような打ち消したくないような、そんな思いで。
三つ目の違いに気付いた。
木の配置が違う。
やっと分かった。
この森は、今まで私がいた所とは違うのだと。
分かったその瞬間のことだった。
「グルルルルル……」
「?!」
突然の出来事に、無意識に体が飛び上がる。
背後で、獣の声がしたのだ。
恐る恐る、後ろを振り向いた。
「グルルルラァ!」
「……!! う……うわ…………!!」
一気に頭が真っ白になる。
そこにいたのは……
竜、だったのだ。
その竜が、眼に怒りのような光を湛えている。私を睨みつけている。今にも炎を吐きそうな口をしている。力を蓄えるように、躊躇うように、小刻みに震わせている。
「ひっ……!」
その化け物が、ジリジリと私に近寄ってくる。
爬虫類のような鱗で覆われた翼を、バサバサとはためかせて。
この上なく硬いという鱗を、宝玉のような眼を、ギラギラと光らせて。
「……うわあっ!!」
慌てて飛び退く。
私がいた場所の草木は、竜の口から吐き出された業火に焼き払われ、灰になる時間すら与えられぬまま消え去っていた。
「グルルルルララァァァァァァ!!!」
もう一度、竜は咆哮する。
それに呼応するように風が強く吹き、次の瞬間遠くの方で閃光が走った。
それが稲妻だと気づいた時には、既にどす黒い雨雲が頭上にあった。
何本もの火花を散らして。
今にも雷を落としそうな雲が迫っている。
今にも火を吹きそうな竜の口がこちらを向いている。
頭が真っ白になり、もう後ずさるという判断すら出来ない。
ただ、目を見開いて、それらを見つめることしか。
ただ、そこに棒立ちになることしか。
ただ、顔から血の気が引くのを感じることしか。
私には、出来ない。
大いなる自然を味方につけ、全身に何かへの怒りを湛える覇者を目の前にして、私は無力だった。
もう死んだ、という思考しか動かない。
「ウルルル……」
「……」
しかし。
ここで、死にたくない。
神様を残して死ねない。
それは、神様の死も同時に意味するから。
ここで、死ぬわけにはいかない。
どうか……私に、力を……!
そんな、恐怖にも似た願いが、歯車のように、いや風のように、頭の中、時間の止まった思考の中をゆっくりと流れ始めた時。
無意識のうちに、手の中にある「何か」を握りしめていた。
生きたい。
そう、切実に祈った時だった。
手の中から、突如、光が飛び出す。
目を覆いたくなるほど鋭い、しかしながら明るく優しい……そんな、不思議な青い光だった。
この光には、覚えがあった。
まごうかたなき……しかし、今の私に、それを思い出す余裕すらない。
そして、その光は、一度私の手を囲むように収束する。
次の瞬間。
細くしなやかな筋と化し、一直線にあの化け物へと向かう。
「グル?」
「え……え?」
竜はそのか細い光を手で振り払……おうとした。だが、光の筋はそれをスルリと潜り抜ける。
だが動揺もせず、鱗に覆われた体をくねらせて避ける。光はそのまま通り過ぎる。
竜は私を睨みつけ、羽ばたき勢いをつけ始めた。
「グルラァァァ!!」
嘲笑うように咆哮する竜を見て、私はまた固まってしまった。
今度こそ、もう……。
望みを、喪った。
しかしその時だった。
燐光の矢も竜に倣うように体をくねらせたのは。
何も知らぬ竜。当然のごとく勝ち誇る竜。鋭い光は、その背後に矛先を向ける。
刹那。
か細かった光の筋は、突然太くなる。
ギラギラとどこか妖しい刃のような光をまとい始め、雰囲気が一変する。
暖かくも蒼い光から、冷徹な鋭い輝きへ。
突然現れた強い光に目を射られたように感じ、またも思わず顔を背けた。
その隙を狙ってか、私に対し竜が近づく気配……しかし、もはや絶望する余裕すらなかった。
もう、目の前に迫っているであろう竜を正視出来ない。
「ギャアアアアアアアア!!!」
続いて耳をつんざく音がして、いよいよ体が縮んだ。
怖くて立っていられない。
恐怖が、頭と心、いや、私の全てを支配した。
もう、終わりだ。
そのまま、ぎゅっと目を閉じた。
しかし。
何も起こらない。
恐る恐る、閉じていた目を開き……そのまま、目を丸くする。
竜が……ついさっき勝利を確信していた竜が。
目の前で、倒れていたのだから。
糸が切れた操り人形のように地面にへたばっていた。
咆哮はおろか、息もしていない。
一体何があったのか?
まじまじと見て――
「……ひぃっ」
――小さく悲鳴をあげてしまった。
何の音もしない森の中で、その音は良く通った。
その竜は……大量の血を流していた。
心臓と思われる場所が、何かに貫かれていた。
それは、真っ青な光だった。
鋭く強大で、そして妖しく輝く、実体のない刃だった。
私の体より、はるかに大きい刃が、その鋭さをもって、最上級の硬さを持つはずの竜の鱗をも物ともせず、その心臓を寸分違わず貫いていた。
手の中にある「何か」も、同じ輝きを放っていた。
それは、あのお札であった。
私の無事を知り、緊張の糸が切れたのか、はたまた突然大量の血を見せられたからか。
私は、意識を手放してしまう。
――後ろから、足音、どよめき、拍手……そんなものが、遠く響いていた気がした――