第99話 魔物と少女
魔国の旅、始まりの森、その2です。
目の前に現れたのは、トロール。
黄緑色の筋肉質な身体で、私たちの前に立っている。
「ほいっ」
後ろの方で掛け声のような何かが聞こえ、瞬間、脇を白銀色の筋が走り――
「ちょ、ちょっとミーシャ、やめて!」
「え? はっ、そうだった」
魔物にこちらから攻撃しない、という約束を早速忘れたらしい。私には剣筋が見えなかったが、金髪ツインテールの元気美少女は、その美しい剣を振り下ろす直前の姿勢のまま、ユーリやステラ、ソフィアに取り押さえられていた。
「うう、魔物を見ると狩りたくなっちゃう……」
「我慢しろ、頼むから」
「あのトロール結構強そうだったよぅ……。戦ったら楽しいと思ったのに……。はぁ、ダンジョンで魔物いっぱい倒したい……剣振りたい……」
「魔王城に着いたら沢山振ってもらうからな、それまでイライラを蓄えててくれ」
「はぁーい……」
とは、言ったものの。
「グルルルルゥ?!」
トロールはさっきまで敵意がなさそうに見えたのに、突然襲われたのだから、当然のようにこちらへの怒りをあらわにしている。
こちらが仕掛けたせいとはいえ、これは武力行使をしないと危険かもしれない。
幸い、今はまだ群れを成していないが、もしこいつが仲間を呼んだら。
「……すまない。やっぱりミーシャ、倒してくれ」
「わーい、了解!」
血気盛んな少女は、1秒とかからないうちにトロールを斬り倒してしまった。その細い腕と、まるで身体の一部のような細い長剣で。
嬉々とした表情に、恐怖を覚えてしまう……いや、仲間にそんなことを思っては駄目だ。
「うーん、見かけより弱かったなー、今の奴。物足りないや」
「……もうやめてね?」
「……はぁい」
……この旅、案外前途多難かもしれない。
トロールが倒され、もともとそいつが居た空間には灰色の靄がたゆたっていた。魔物特有の魔力が、その場に放出されたのだ。
魔力の放出……そのことを考えた時、ふと王宮でのことが連想された。葡萄酒のグラスを包む紫の靄、石から立ち上る煙。そして、ルナが放出した呪い。かけられた嫌疑を思い出して重い気分になるが、当時のことを思い起こすと、名案が浮かんだような気がしたのだ。
「……あの、ひとつ思ったことがあって」
「どうした?」
「私、王城でルナの……魔族のかけた呪いを浄化するのに、【加持祈祷】のスキルを使ってたの。そのとき、周りに立ち込めてた紫色の靄はふわっと消えたんだ。色のついたのが薄まって広がるとかではなくて、文字通り、消えていくの」
「……それが目的なんじゃないのか」
「それはそうなんだけど……私は、呪いを消そうとしたわけだけど、この紫色って魔力なんだよね、人間のとは違う、魔族の。魔王特有って、コグニス様は言ってたけど」
「ああ、そうだな」
「つまり、このスキルって、そういう魔力を消せるってことだよね」
「そう……なるな」
「……でさ、勇者パーティって、魔王を倒せなくて、封印するだけじゃん。それって、魔王を倒してしまうと魔力……というか魔素がこの世界に放出されてしまって、大災害になってしまうから、だったよね?」
「そうだ。あっ……ハルカ、まさか……!」
「そう……それで、巫女の力を上手く使ったら、魔王を倒すことだってできるんじゃないかって思ったの」
私のその提案に、しばし、5人の間に沈黙が流れる。
それから。
「ハルカっ! それはちょっと危ないよ!」
「そうよ。魔王の魔力は凄まじいわ……それを全て浄化するとなると、いくらそのスキルに熟練していたとしても、力の消耗がひどいものになるのは間違いないわ」
「え、ええ?」
「うん。ハルカは頑張り屋さんすぎるんだよ……ソフィアとは別の意味で」
「えと……みんな、心配してくれてありがとう。まだ状況がわからないから、そもそも出番があるかはわかんないけどね……だけど、然るべき時に、ひとつの選択肢にぐらいにはなれるかもって思うんだ」
さっきの靄は、まだそこにあった。雲とか煙とは違う。空間に留まり続けて、しつこいという印象だ。
「だから、ちょっとだけ、確かめるだけ確かめてみたいの」
私は、その方向に向けて祓い串をかざした。
そのまま、スキルを発動し、浄化の舞を舞う。
かつての私は、踊る間に決まって意識を手放していた。だが、王宮で毎日、呪いを祓っていたのだ。もう、習熟度の低かった頃の私ではない。
串に結ばれた紙垂の狭間から、ほろほろと燐光の粒がこぼれ落ちる。それらは辺りにふわふわと浮かび、私の足取りに呼応するように舞う。
そして、その光に吸収されていくように、目の前に浮かんでいた禍々しい暗雲は、綿菓子のように軽やかに、きらきらと溶けていき、見えなくなった。
やっぱり、私の仮説は正しいのかもしれない。
もしそうなれば、巫女の力で、この世界の歴史を覆すことだってできるかもしれない。
流石に、魔王を倒すだけの戦力はないとしても……強い力を持った仲間が倒すことを可能にするような能力が、私にはあるのだ。
口に出すとまた止められそうだから、言わないでおくけれど。
それから、再びみんなで歩き始める。
「あ……道がひらけた」
ユーリの呟き声で、ハッと気づく。
自分たちの周りを窮屈なものにしていた、モノクロな木々の壁が、突如途切れた。
目の前には、広々とした大草原……といっても、相変わらず生気を失った灰のような野原だけれど。
いかにせよ、私たちは、始まりの森を越えた。
いよいよ、魔国に入るのである。
「……といっても、もう日が傾きだしてるな。一旦帰るか」
「了解!」
「よし、じゃあ……【テレポート】」
彼の宣言とともに、モノクロの視界が歪む。
瞬きののち、よく馴染んだ街並みが目に入る。毎日見ていたはずの景色が、まるで極彩色ともいえる鮮やかさで、私の目を射るように思われた。
明日から見える景色は、どんなものだろうか。どんな旅が待ち構えているだろう――





