少女と想像力 その3
次の日の朝、克彦は休日にしては早く目が覚めた。そして視界にあったのは、白い天井でもなく、椅子の足でもない。少女の寝顔だった。
――ん、なんでだ? 夢?
前日、寝る前に少女のことを考えていたような気がする。それで夢に出てきたのだろうか。
ふと、鳩尾に何か感じるものがある。手で触って見ると、足だった。もちろん少女の足だ。
――これで蹴られて、目が覚めたのか
そう考えるか否かのうちに、少女の目が見開かれた。腹に重い衝撃を受ける。克彦は思わず呻く。
そして恐ろしい速さで少女の左手が克彦の襟元をねじあげた。さらに右手は克彦の頭の側にそえられている。何かを突きつけられているような、冷たい感触がある。金属質の何か、だった。
彼女はむくりと上体を起こした。その手に引っ張られて、克彦も起き上がる。手に持つ金属よりも冷たい、昨日階段から降りてきた時と似たような目で睨まれていた。
「あなた、かなり変わってるのね?」
吐き捨てるように言った。その声は低く、克彦を貫こうとでもするかのような気配が滲んでいた。
克彦はその迫力に気押されて、けれどあることに気が付く。目の前の女性は気付いていないようだった。
女性は金属片を克彦の頭に強く押しあてて、さながら話に集中しろと言っているようだ。
「去勢済みの猫みたいな奴だけかと思ってた。……ちょっと油断したわ」
女性が、かすかに震えながら右手に力を込めていくのが、冷たい金属越しに伝わってくる。
「何をするつもりだったの、答えなさい!」
しかし克彦は、突きつけられた金属片を事もなげに払いのけた。
「それはこっちの台詞だって。それ、冷たいからやめてくれ」
そう言って彼女の持つ金属片を指さす。それは掌に収まるような大きさで、L字型をしていた。黒く、独特の金属光沢を放っている。克彦は知らなかったが、それは高い殺傷能力を持つ飛び道具の一種だった。
呆気に取られている彼女に、克彦は続けた。
「それで――なんで、ベッドの下にいるんだ?」
「え?」
少女はゆっくりと周りを見渡した後、数回目を瞬く。
「え、私?! また……?」
次の瞬間には顔を真っ赤に染めていた。
彼女は克彦が寝ていた毛布の上に居た。ベッドの上では猫だけが丸くなって眠っている。
暫くのあいだ二の句が継げないでいた彼女が、克彦から目を逸らして呟く。金属片は降ろしていた。
「……悪、かったわ」
克彦はそんな彼女の様子を見ながら言った。
「いや、あの、手を放して欲しいんだけど。苦しい」
少女は慌てて克彦の襟元から手を離した。
克彦は、リビングでテレビを見ていた。青いジーンズに白いTシャツ、その上に赤いベストを着ていた。
特にめぼしいニュースはない。テロ関連のニュースは、あれからぱったりと見ていない。リビングの奥からは先程まで、シャワーを浴びる音が響いていた。
克彦の右手はテーブルの表面を小刻みに叩いている。時折2階に顔を向けては、浴室の方向を忙しげに目をやっていた。
――早く、上がって来てくれよ
母親が起きる前に。
亜希は風呂に入っていた。
彼女はベッドを間違えた直後は何も言わなかったが、暫くしてからポツリと、
「シャワーを浴びたいわ」
そう言ったのだった。
母親が起きてきたときに困ると克彦は主張したが、母親の平均起床時間を訊かれると、正直に「9時」と答えてしまった。
すると彼女は時計を見て、おもむろに立ち上がって克彦を見た。
「そう、じゃあまだ1時間近くあるじゃない」
そう言われ、その論理よりもむしろその微笑みに気圧されて、克彦は頷いてしまったのだ。
――そしてもうすぐ1時間、なんだけど
克彦にとって誤算だったのは、彼女が予想以上に長風呂だったことだ。
今にも階段から足音が聞こえてきはしないだろうかと、彼は心許ない気持で待っていたのだが、そこへ拍車がかかるような事態も、その一時間の間には発生していた。
黒猫がいつの間にかリビングに進出していたのだ。テーブルの上に登ったり、下をくぐってみたり。ぐるぐる回ってみたり。
克彦に首をすりよせている間は安心していたが、一度は2階近くまで登っていたこともあり、克彦は青くなった。かつてないほどの必死さで無音移動と猫確保をやってのけ、克彦の自室に押し込めたときには息がすっかり上がっていた。仕方なく部屋に餌を置いておくと、猫はその時「うにゃー」と、一言鳴いて大人しくなった。
――何がうにゃーだ……
克彦は脱力してしまい、力なくリビングに戻った。
*
9時を少し過ぎたころ、リビングの奥、浴室につながる引き戸が、からからと音を立てて開いた。そこからわずかに湯気が漏れる。
亜希が、湯上りの上気した顔つきで現れた。そこには泥も血の跡もない。髪は後ろで一つに纏められていた。克彦のYシャツとジーンズを着て、腰には革のベルトが覗いている。男女の違いか、袖が余って指先しか見えなくなっている。
「ふぅ……――!」
ありがとう、いいお湯だったわ。
亜希はそう言いかけて、リビングに居る人に気付いた。目を丸くする。
そこには二人、人がいた。一人は克彦。もう一人は彼の母親だった。
*
克彦はこの事態に目の前が真っ暗になった。桃子はまさに平均的な起床時間を記録し、つまり9時ちょうどに階下へ降りてきていたのだった。そして亜希に知らせるチャンスを見出せないまま、桃子の肩越しに、亜希が現れるのが見えたのである。
克彦が0.5秒後に考えたのは、なぜ、だった。学校で学んでいる3ヶ国すべての言葉で、なぜだと心のうちで叫んだ。
そしてしかし、連続する逆境は彼の何かを目覚めさせたのだろうか。彼は即座にその状況に対処した。
桃子が亜希に背を向いていたことと、テレビに意識を向けていたのが幸いした。チャンネルは料理講座だった。3分間の短い番組である。
「あ、母さん! 今のUFOじゃない!?」
爆発するような大声で叫び、テレビを指さす。そして目で亜希に合図を送る。
"早く、今のうちに!"
しかし克彦は愕然とした。横目で見ると、亜希は笑いをこらえていたのだ。
――何で!
「えぇ、どこ? 克彦、いないわよぉ」
桃子はスクリーンを色々な角度から眺めている。もちろん見える訳はない。時間稼ぎも、長くは持ちそうにない。というより、時間を稼げているのが奇跡のようなものだった。
"早・く・逃・げ・ろッ!"
"分かってるわよ、それくらい!"
そのような意味の合図だろう、亜希は何度も頷いて、しかし口を押さえたままだ。まだ安全圏からは全然遠い位置にいた。笑いをこらえるのに必死なようだった。
「分かって、ない……」
つい口に上っていた。桃子が克彦の方を向く。
「何を分かってないの?」
「あ、ええと、ほら! 窓の外にいるってこと! 母さん、見てよ!」
そう言って、亜希がいる方と反対の窓を指し示す。桃子は立ち上がって克彦の側を通り、示された窓に向かって行った。
と、いきなり桃子が克彦の方に向き直る。
「ホントはあっちの窓なんじゃないの? 嘘はだめよ」
その一瞬、空気が固まった。
まず、閉じかけた廊下へのドアが動きを止めた。そしてそのドアの陰にいた、まだ隠れきれていない亜希の動きが止まった。また、半開きのドアから覗く亜希と目が合い、桃子も動きを止めた。最後にそれを見ていた克彦が、思考を止めた。
「あら、お客さん? ごめんなさい、気がつかなくて」
桃子の間延びした声が、こう着状態を破った。亜希の方に歩み寄る。
亜希はその一言に飛びついた。
「こちらこそ、誠に相すみません。インターホンを鳴らしても反応が無くって……」
いわゆる猫なで声というものだった。一度出たリビングに、亜希は堂々と入り直した。後ろ手で扉を閉める。
「もしかして、克彦のお友達の方?」
「ええ、そうなんですぅ。三毛山君にはいつもお世話になっていまして」
――おそろしい、変わり身だな
未だ停止している思考回路の片隅で、克彦はそう思った。
「まあ、そうなの? 嬉しいけど、お世辞はいいのよぉ。うちの克彦が迷惑かけてるんでしょ?」
いいのよぉ、の辺りで、招き猫のように手を振る桃子。
「いえいえ、そんなことないですよ。ねぇ、三毛山君?」
「ええっ?」
唐突に振られてしまう。
「……そ、そうだよ。別に迷惑なんて掛けてないんじゃないかなぁ」
「そお? まあ、いいわ。ええっと、あなたは……」
桃子が亜希の方を、申し訳なさそうに見やる。
「あ、私、千五穂と言います」
「チイホ?」
はたと桃子が目を細めた。首をかしげる。
「あ、数字の千五と、稲穂の穂で、千五穂です」
桃子は指で宙に字を書いていた。頭の中でチイホの漢字を組み立てているようだった。
「あ、ああ、千五穂さんね。よろしくねぇ。ほらほら、そんなところじゃなくって、こっちに座ったらどお? 朝ごはんは食べたの? 一緒にどお?」
亜希はいかにも残念という風に顔を曇らせて、桃子に言った。
「本当に、ごめんなさい。実は皆でちょっとした話し合いがあって……三毛山君にも出席してもらいたいんです」
ぼーっとしていた克彦に、再び白羽の矢が立った。
「はっ? そんな話あっ――」
亜希が克彦の方を睨む。話を合わせろという合図だったが、その眼光の鋭さに克彦の顔が引きつる。
「あ、そうだった、そうだった。はは……」
――「蛇に睨まれた蛙」ってコトワザを、どこかで聞いたことがあるけど
克彦はその慣用句の意味を、生まれて初めて心の底から理解した。
「じゃあ、母さん。行ってきます。はは……」
若干ぎくしゃくした動きで、リビングを出る。後ろから亜希がついてきた。桃子はそんな二人を見ている。
亜希が背中からそっと克彦に耳打ちした。
「ねえ、"忘れ物した。先に行ってて"って言ってあなたの部屋に行って」
「え?」
「いいから」
克彦は怪訝な顔をしながらも言われた通りにする。
「あ、忘れものした。先に行ってて」
克彦は首を傾げながら部屋に向かい、亜希は桃子に挨拶して玄関から家を出た。
なんだか、いつまで経っても三毛山家を脱出できません。でも、本当に異性を家の人に隠れて上がらせようとしたら、このくらいゴタゴタするんじゃないでしょうか^^