1人分の人間
「われわれは現在についてほとんど考えない。たまに考えることがあっても、それはただ未来を処理するために、そこから光を得ようとするに過ぎない。現在は決して我々の目的ではない。過去と現在は我々の手段であり、未来のみが目的である。」
『pensée』―Blaise Pascal―
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私は平凡な大学生であった。
裕福でも貧乏でもない平均的な家庭に育ち、他人より少し正義感の強い親に育てられた。
地元の中学校を卒業した後には学区内で二番目に成績の良い公立高校に通い、二年生でバレー部の部長を務めあげ、三年生になり部活を引退した後は勉学に励んだ。
親の勧めもあり、二年生の後期に塾に通い始めていた成果もあってか、第一志望の都内の私立大学に現役で進学することができた。
また、際立って社交的というわけではなかったのだが、不思議と人間関係には恵まれていた。環境がよかったのだろう。友人は多いほうではなかったが、親交の深い友人もおり、特別不満を抱いたことはなかった。
このように、私は幾らか優秀な、しかし平凡な学生として青春を過ごしてきた。
周囲からは真面目で勤勉な性格だと評されることも多かった。親はそれが嬉しかったらしく、酔うと度々この話題を繰り返した。しかし実際の性格はというと、私が情熱を傾けられることがなかったため、ただ親に言われたように生きていただけというのが正しいかもしれない。
このように私は平凡な、いや。平凡とするには両親と友人、そして環境に多少は恵まれてはいたが、それでも至って平凡な大学生であったのだ。
そんな私にもひとつ、平凡でない異質な点があるとするならば、それは私自身が過去に跳ぶことのできる特異な体質の持ち主である、という点だろう。
わかりやすく例えるならば、タイムワープだろうか。
私はその体質のことを”ジャンプ”と呼ぶことにした。
ただ、私は私自身がもつその"ジャンプ"という能力について、それを特別な力だと感じたことはなかった。
私にしてみれば、例えばその能力は。
生まれつき記憶力が優れている。
あるいは視力がよい。
または芸術的な色覚センスに秀でている。
そんな風に、誰しもが持つ、他人より少し優れた長所のひとつだと、よくてその程度にしか認識していなかった。
あるいは、長所とすら感じていなかった節さえある。
そう感じていた理由の一つには、私が私自身で"ジャンプ"をコントロールすることができなかったから、というのもあるだろう。
私はこれまでの人生の中で16年間と3か月。自らの特異な体質に気が付いてからも、自らの意思で"ジャンプ"ができたことはなかったのだった。
例えば自分がタイムワープ物の小説かなにかの主人公になったとして、学生として過去に戻れる能力を手にしたとき。学生なら誰もが一度は考えたであろう『期末試験の設問をすべて暗記して、試験開始前にタイムワープすることで全科目満点の秀才になる』といったような、便利で、人生が幾分か楽になるような恩恵は、ジャンプから得ることができなかったのだ。
私にとって"ジャンプ"とは特に意味のない無用の長物であり。
人生に全く寄与しない、弁当箱についてくるバランのような存在であったのだ。
私が彼女に出会い、人生に意味を見つけた。あの時までは。
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はぁ。
紅葉アカネは小さく息をつく。
左手で頬杖を付くように、左耳から垂れるピアス、ロブのピアスを指で軽く引っ張った。
そのまま上へ、耳の縁をゆっくりとなぞる。2つ、3つと金属を触る。
やがて指が4つ目のピアス、インダストリアルに触れたとき。私以外の指がそっと、同じようにインダストリアルのピアスに触れた。
「やあ」
いつの間にこんなに近くにいたのか、やや幼げな高い声が、真後ろから聞こえてきた。
声の主は椛キリハ。奇麗に染まった金髪とビビッドの派手なファッションに、嫌でも目を奪われる。
「椛、何してるの…」
「それはこっちのセリフだよ、アカネ。何か嫌なことでもあった?」
キリハは私の耳から手を離すことなく、顔を覗き込むようにして首を傾げる。
「とりあえず手、離してくれない」
「えー、やだ。それより、わたしの質問に答えてよ」
キリハは私の言葉を拒否すると、ゆっくりとピアスをなぞっていく。
私とは逆に、上から下へ。
キリハの細く伸びた指が、インダストリアルからロブへと下りてくる。
「嫌なことなんて、特にないけど。どうして」
「だってアカネがピアス触るのって、そういう時でしょ。困ってる時とか、落ち着かない時とか」
自分では特に意識もしていない、ただの癖のひとつだと思っていたのだけど。
他人からはそう見えているのか。
あるいは、キリハが心配性なのか。
「本当になんでもないの。強いて言うなら、線形代数のテストが憂鬱なくらい」
「えー、嘘だあ。アカネが成績いいの知ってるんだから」
そんなことを言ってはいるが、キリハだって成績はいい。
見た目こそ完全にギャルだが、その実、勉強に対する姿勢は非常に前向きなのだ。
だって、勉強できないギャルって格好悪いじゃん。
とは彼女の弁。
「まあでも、嫌なことがあったんじゃなければ別にいいや」
キリハは私の耳から手を離し、当然のように隣の席へと腰を下ろす。
私の荷物なんてお構いなしだ。
「ちょっと」
「いいじゃん、ちょっとくらい。別にだれか来るわけじゃないんでしょ」
キリハはクスクス笑う。
結構失礼なことを言われている気もするが、キリハに悪気がないこともわかっているので、私は返事の代わりにため息を吐いた。
実際、席をとっておいても誰が来るわけでもない。
「ため息吐くと、幸せが逃げるよ」
「じゃあ、ため息を吐かさせないでよ」
「別に。ため息を吐かさせるようなこと、しているつもりはないんだけどな」
キリハは愉快そうに、口の端を歪める。
こういう時、キリハに何を言っても意味はない。
私も本当に困っているのかと聞かれれば、首を横に振るだろう。
キリハだって本気で、私を困らせているつもりなどないのだ。
気まぐれな猫、みたいなものだと思うしかない。
「…別にいいけど、講義が始める前には隣を空けてよね。今日、試験なんだから」
「もちろん。それよりさ、今日のテスト範囲教えてよ。アカネに助けてもらわないと私死んじゃうよー」
「やればできるんだから、ちゃんと勉強しなさいよ」
何が楽しいのか。講義が始まるまでの5分間、キリハはずっとクスクス笑っていた。
私がキリハと出会ったのは、大学一年生の春。
居場所もなく、ひとり図書館で微分方程式の参考書とにらめっこをしているとき。
ちょうどその時、狙いすましてきたかのように私に話しかけてきた少女がいた。
モデルのような整った顔立ちとスタイルで、学科の新入生ガイダンスでも一際目立っていた少女。
髪は奇麗にブリーチされており、振る舞いから髪から何もが明るくて、私とは何もかもが正反対で、できれば関わり合いになりたくないな、と遠巻きに思っていた彼女。
私は一方的に彼女のことを知ってはいたが(というよりかは、彼女のことを知らない同期生などほとんどいなかったとは思うが)彼女の方が、全然タイプの違う私なんかを認識しているとは、これっぽちも想像していなかったのだ。
だからというわけではないが。
「おや、だれかと思えば紅葉さんじゃん。図書館で勉強?」
大学一年生のときの私は、完全に油断していた。
人間関係から解放されていた。
40人近くの人間が強制的に、あるいは共生的に生活を強いられる高校生活の終わり。
それは、お世辞にも他人とのコミュニケーションに秀でたわけではない私にとっては、この上なく有難いことだった。
集団生活を円滑に進めるため、現代文や数学や化学や政治経済を勉強することと同じように、人間関係についても絶えずリソースを割いて生活していた3年間が終わったことで。
人間関係に割くエネルギーはすっかり枯渇しており。
私は完全に、対人能力を放棄していた。
「はい?」
「?」
「ああ。ごめんなさい、名前を…、ど忘れしちゃって。同じ学科よね。あなたも勉強?」
「あっ、ごめんごめん。急に話しかけちゃって。私は椛、椛キリハ。ちょっと暇だったからさ、図書館に」
相手の困惑した顔を見て、焦って言葉を紡ぐ。
ど忘れとは言ったが、そもそも彼女の名前を覚えてはいなかった。
派手な髪の女だな、とその程度の認識でしかなかったからだ。
「私さ、紅葉さんと一度話してみたかったんだよね。だから、見かけて思わず話しかけちゃった」
「なんで私なんかと…。というか、いつものグループの子は一緒じゃないの」
ちらりとキリハの後ろを見る。
辺りを軽く見回しても、それらしい人影は見えなかった。
「まっすーとよっちゃんのこと? 一緒じゃないよ、ってか、別にそんなに仲良くないけどね」
「ふぅん。そう」
仮に本当のことだったとしても、それ人の前で言うのはどうなのか。
私が他人に言えたことではないが。
「そんなことよりもさ、何してるの。勉強?」
キリハは私の席の真後ろに立つと、上から机を覗き込む。
別にやましいことなど何もしていないが、見られることに抵抗を感じて腕でノートと参考書を覆った。
「えー、なんで隠すの。って本当に参考書だ」
「別に何してたっていいでしょ」
私は少しだけ苛ついて、迷惑そうな顔を作ってキリハを睨む。
「あはは、ようやく私のこと見てくれた。怖いけど、その顔も素敵だよ」
「何言ってるの、あなた…」
「冗談。でも、紅葉さんと話してみたいなって思ってたのは本当なんだ。紅葉さんっていつもひとりで、クールでカッコいいし。どんな人かなと思って」
「それ、馬鹿にしてるの? それとも褒めてるの?」
「もちろん、褒めてるよ。美人で物静かで勉強ができて、漫画やアニメのキャラみたいだもん」
今日初めて話した人間に手放しで褒められ、思わず背筋に悪寒が走る。褒められるのが嫌なわけではないが、反射的に反論が口をついて出てしまう。
「クールなんじゃなくて、単純に陰キャなのよ。コミュ障なの。人と話すのが苦手なの。勉強だって私よりできる人間はごまんといるし、顔だってあなたの方が可愛いじゃない」
「面と向かって可愛いって言われると、流石に照れちゃうなあ」
わざとらしく、両手て口を覆うキリハ。
その姿が妙に様になっていて、余計に腹立たしい。
それに、と。
コミュ障でもないでしょ。とキリハが付け加える。
「だって私と会話できてるじゃん」
「あなたが勝手に喋ってるだけじゃない」
はぁーーーーーー、と。
私は大きくため息を吐くと、左耳のロブのピアスを触る。
不意に話しかけられたからというのもあるだろうが、キリハとの不毛な会話に消耗させられてしまった。
脱力し、だらんと椅子に深く腰掛ける。
「疲れたわ」
「紅葉さんはさ、人とお話するの、嫌い?」
「得意ではない、というだけよ」
「好きじゃないんだ」
私は無言でピアスを弄る。
この場合の沈黙は、同意とみなされるかもしれなかったが、もうどちらでもよかった。
「あは。やっぱりそうなんだ」
他人との会話が嫌いそうだと思った人間にわざわざ話しかけるモチベーションは理解できないが、そんなことはおかまいなしに、キリハは笑う。
キリハはどこか嬉しそうに両手の指を組み、そのまま祈るように、両手を胸の前に持って行った。
「私ね、紅葉さんとは仲良くなれそうだなって、そう思ってた」
「私は仲良くなれなさそうだな、って今思ったわ」
いや、最初から思っていたか。
「ねえ、連絡先交換してくれない?」
「は?」
「これ、私の連絡先。都合のいい時にでも連絡してよ」
「ちょっと…」
いつの間に書いたのか、電話番号と無料通話アプリのIDが書かれた付箋を私のノートに貼ると、それじゃあね、とだけ告げて足早に去っていった。
あまりに唐突な展開に、私はただ、その後ろ姿が階段の向こうに消えるまで見ていることしかできなかった。
これが私、紅葉アカネと椛キリハの出会い。
同じ大学の学生が、図書館でたった数分間。他愛もない会話をしただけの出会い。
ただ、それだけの、歪な二人の出会いだった。
「アカネ。これからカラオケ行こうよ」
「私、カラオケで歌えるレパートリーがないから。椛がずっと歌っててくれるっていうなら、行ってもいいけど」
「ええ、やだ。わたしアカネが歌ってるのが見たいんだもん」
「なにそれ、余計嫌よ」
太陽が頭の真上から差す中、私はキリハと並んで歩く。
普段は鬱陶しいキリハの軽口も、いつもより少し小気味いいのは、夏の開放感のせいか。
前期最後の試験が終わったことで、若干気分が浮ついているのかもしれなかった。
教室を出てしばらくまっすぐ歩いていると、青々とした葉を茂らせた木が並ぶ、大きめの遊歩道へと出る。
綺麗に整備された並木道で、大学パンフレットの表紙もよく撮影されるような場所だ。
「じゃあどこだったらアカネは付き合ってくれるの」
「別にカラオケでもいいけど…」
「やった、じゃあカラオケで決まりね。何時間にしようかなあ」
「2時間でいいんじゃない」
「えー。2時間じゃ足りないよ。それに、ちゃんとアカネも歌ってよね」
まあ結局、カラオケに行けばキリハは勝手にずっと歌っているのだけれど。
デュエットを強要されることはあるが、曲を入れることを強制されることはない。そういう意味では、カラオケは楽でいい。
正門を出て一つ目の交差点。
じんわりと額に滲む汗を手の甲で拭う。
額に張り付く髪や、じっとりと湿った衣服が鬱陶しい季節だ。
「あったかいね」
「暑いわよ」
「アカネちゃんの隣にいると、あたたかいよ。まるで、お母さんのお腹の中にいるみたい」
キリハのとんでもない発言に、思わず咳こんでしまう。
隣に立つキリハは、無邪気なにこにことした顔をこちらに向けていた。
「流石に気持ち悪いわ」
「アカネちゃんと一緒にいるときだけだよ。私が私でいられるのは」
「そういうのが気持ち悪いって言ってんの」
軽くキリハの頭を叩く。当の本人はというと、何事もないようにケラケラと笑っているだけだ。
歩行者信号が青に変わるのを待ちながら、キリハと他愛もない話を繰り広げていると、ふと。
強烈な光が、視界を白く塗り潰した。
それはまるで、日光が網膜を直接焼くような刺激。
何故か、私はこの光景を覚えているような気がした。
ああ、まずいな。
私の脳か本能か。何かが私に警鐘を鳴らす。
何がよくないことが起ころうとしている。
具体性のない危機感と焦燥感が、私の中でぐるぐると渦を巻く。
一方で、まるで他人事のように状況を俯瞰している私もいた。
「ちょっと、アカネ。大丈夫?」
心配そうな顔をしたキリハを見上げながら、パクパクと動く口の動きを追う。
あれ、キリハってそんなに背、高かったっけ。
意識が混濁する。
「本当に顔色悪いよ。熱中症? お水持ってこようか」
大丈夫。
ちょっと眩暈がするだけ。
そう答えようとした瞬間。
「だめ」
頭で考えるより先に、反射的にキリハの両の手を握った。理由は私にもわからない。でも、そうしなければいけないような気がしたのだ。
その瞬間だった。
何の前触れもなく唐突に、視界を横切るように巨大な鉄の塊が通過した。
両腕に確かな衝撃を感じ、力の反作用でキリハが大きく飛んだのがわかる。
キリハの体はあまりにも軽く、簡単に私の手を離れていった。
非現実的な光景に思考が追い付かず、ただ目の前の光景を眺めることしかできない。
私を覗き込むように立っていたキリハは、質量に引きずられて姿を消してしまった。
すべては一瞬のうちにすぎていく。私が事態を認識する前には、もうすべては終わっていた。
あとに残されたのは私と静寂だけ。
「キリハ…?」
ガンガンと鳴る頭を振りながら、ゆっくりと起き上がり辺りを見回す。
何の変哲もない交差点だ。
光景は昨日と変わらず、事故の起きたような形跡もない。
昨日と違うことといえば、隣にキリハがいないことぐらいか。
この時、私は初めて世界で一人ぼっちになったような気がした。
「ないな」
次の日から、私は消えてしまったキリハについて調べていた。
思えば、私はキリハについて何も知らなかった。
住んでる家と連絡先は知っているが、それ以外は何も知らない。しかも、そんなことにも今の今まで気が付かなかったというのだから、我ながら随分いい性格をしている。
「大学周辺で事故が起こったというニュースはない。ついでにキリハの連絡先もない」
ふー。っと長い息を吐く。
スマホの検索エンジンを閉じ、無料通話アプリの連絡先を開く。もはや何回目かもわからない動作だが、定期的にやらないと気が済まなかった。
今日も連絡先に椛キリハの文字はない。
まあ、そもそも椛キリハ以外に誰の名前が登録されているのか、という話でもあるが。
キリハが住んでいるマンションにも行ってみた。
キリハは親元を離れてそれなりにいいマンションで一人暮らしをしているので、訪問自体は簡単だった。
ただし、記憶にある部屋の表札には他人の名前が書かれていたが。
私が部屋の番号を間違えているのかもしれないと思い端から表札を見て回ったが、「椛」という名前はどの部屋にも掲げられていなかった。
廊下の端からインターホンを押して回ろうともしたが、これは三件目で管理人を呼ばれたのであえなく撤退した。正直、この時点ではもうここにはいないだろうという諦めもあった。
特に考えもなく、キリハと帰るはずだった道を、一人で大学へと向かって歩く。
もう一度あの交差点を見れば、何かがわかるかもしれない。そんなわずかな希望にすがって、私はとぼとぼと歩みを進めた。
いくら夏休み期間だからとはいえ、人間が一人消えたら誰かしら気がつく。大学や学科の同期から何の連絡もなければ、事故や事件に関する注意喚起もない。私とは違い、キリハには友達が多かったし、様々なグループに属していた。本人に言えば否定されるかもしれないが、数日間音沙汰がなければ心配してくれる人間は大勢いる。
単に、キリハが失踪したり事故にあったわけではないということは、今の状況が雄に物語ってくれていた。
そもそも、私は何故キリハを探しているのだろう。
いつも無遠慮に接してくる彼女のことを、好ましく感じていたのだろうか。
他の人間に比べれば多少の関係はあったが、私は彼女のことを、鬱陶しく感じていたような気もする。
そもそもひとりの人間に固執することに何の意味がある。
他人のために努力することにメリットがあるのか。他人のために時間を費やすことのどこに価値があるのか。
そもそも椛キリハなんて人間が、本当に存在したのか。私が作り出した想像上の存在なんじゃないか。
そうでなければあんなに都合の良い、私にとって都合の良い人間がいるはずないじゃないか。
そもそも私は――。
「はっ、はは。そうか、私は」
「おいおい、危ないぞ」
強い力で肩を引っ張られ、空気の壁にぶつかったように体が硬直する。慣性が脳を揺らし、平衡感覚がぐにゃりと歪んだ。
そこで初めて、自分が交差点に飛び出そうとしていたことに気が付く。慌てて足を止め、ふらつく足で声のした方を振り返る。
「キリハ?」
「誰だよ」
「…なんだ、アオイか」
「なんだって何だお前。今轢かれそうだったんだぞ」
目の前で悪態を吐く女は戸木アオイ。
スラっと長く伸びた手足に、短く切りそろえられた髪。スポーティでラフな格好を、これが正解であるかのように着こなしている。
キリハはモデルのようなスタイルの良さがあるが、アオイにはアスリートのようなスタイルの良さがある。
おまけに顔もいい。キリハは私のことをまるで漫画やアニメのキャラクターのようだと言っていたが、私に言わせれば、戸木アオイこそ漫画やアニメから出てきたような人間だ。
私がどれだけ褒められようと、自分の顔と頭に自信を持てない原因の9割はこいつのせいかもしれない。
「で、何してたんだよ。考え事か?」
「関係ない」
「キリハ、って言ってたな。友達…、か?」
アオイとは長い付き合いだ。別に親しくはないが、親しくない理由を彼女は知っている。だからこそ、不思議に思ったのだろう。
「椛キリハ。知ってる?」
「いや、悪いが知らないな。同じ学科なのか?」
まあ、アオイはそもそもキリハを知らないだろう。同じ大学とはいえ、アオイとは学部も学科も別だ。
そんなことを考えていると、アオイは顎に手を当て、私の顔をじろじろと眺め始めた。
「何見てんのよ」
「お前、やっぱ変だぞ。まるで昔に戻ったみた――」
そこまで言うと、ふと何かに気が付いたように、アオイは宙を見る。
つられて私もアオイの視線の先を追うも、そこには点滅する信号機しかない。
「昔…? いつアカネは…」
「おい、無視してんなって。暑さでおかしくでもなった?」
「いやほら、また口悪いし。いやさあ、大学に入ってから、奇麗になったよなあと思って」
アオイは再び私に向き直ると、瞳をまじまじと見つめてくる。
私も目を逸らさず、その瞳を覗き込んだ。
「嫌味か?」
「言葉使いが、な。おまけに、学生生活がちょっと楽しそうだった。お前が他人の話することなんて、今までなかったから驚いたのを覚えてるよ。問題は、誰の話をしていたのか、アタシが一切知らないことだ」
思い返しても、アオイにキリハの話をしていたかは思い出せない。
アオイとはそう頻繁に会話もしていないはずだが。
「…アタシじゃない誰か」
「何の話」
「なんでも」
アオイは小さく息を吐くと、踵を返す。
「なあ、久しぶりに話さないか。どうせ他に、相談できる相手もいないんだろ」
交差点から歩いて20分。スーパーや飲食店、居酒屋などが密集する学生街から遠ざかるにつれて、徐々に喧騒は小さくなっていく。周囲の景観も、いかにもな住宅街といった街並みへと変わっていく。
閑静な住宅街を更に歩き続けると道は細くなり、目に入る建物も次第に古びたものが多くなっていった。
「…お邪魔します」
大学から離れた安アパートの2階。ギイギイと鳴る木製の廊下を歩いた一番奥に彼女の部屋はあった。
とても女子がひとりで住むような物件ではないが、こと戸木アオイに関しては、これ以上なく似合っている物件のような気がした。
一応言っておくが、悪口ではない。
「人が来ると思ってなかったから汚いんだけど、まあ上がってよ」
玄関で靴を脱ぎ、アオイに続いて奥へと進む。洗濯機によって狭くなった廊下を抜けると、6畳ほどの部屋に出た。ひんやりとした冷気が体を包む。
クーラーの利きすぎた彼女の部屋は、彼女の言った通り、まあまあに汚かった。
脱ぎ散らかされた衣類と畳まれずに放置された布団に、文鎮と化したダンベル。至る所に本がうずたかく積まれ、床に直置きされたパソコンの周辺にはビールの空き缶が散乱している。何に使うのか、工具や刃がむき出しのカッターナイフまで落ちている有様だ。
汚いというより、大変に散らかっているといった印象。
どこに腰を下ろしたものかと辺りを見回していると、グラスを持ったアオイと目が合った。
「うち、椅子がないんだよね。家に来る友達とかいなかったし。申し訳ないんだけど、ここでいいかな」
アオイはバツが悪そうに床を指す。
「もちろん。というか、期待してない。それに、急に家に押しかけたのはこっちだし」
まあ誘ったのは私だし、とアオイは顔の前で手を振った。
私は床から伸びた本のタワーを崩さないよう、アオイと向き合って床に座る。
「カルピスでいいか。うち、ビールかカルピスしかなくて」
「そのうち体壊すわよ」
私が首を縦に振ると、アオイはカルピスの入ったグラスを床に置いた。
氷がカラカラと音を立てる。
「ありがとう」
折角なので、グラスに口をつける。
実際、大学からかなりの距離を歩いたので、喉は乾いていたのだ。
「ヴッ」
めちゃくちゃ甘い。
想定外の味に思わず咽そうになり、咄嗟に口を閉じたところで変な声が出てしまった。
一口飲み干したところで、グラスから口を離す。
ところで、と。
私がグラスを床に置いたタイミングで、そうアオイが切り出した。
「何があったんだよ」
「一つだけ約束して欲しいんだけど」
アオイは先を促すように顎をしゃくる。
「私はこれから荒唐無稽な話をするわ」
「笑うなって?」
「別に。笑ってもいいけれど、真剣に悩んでいるの。真剣に答えて」
「もし茶化したらどうする?」
「殺す」
「ふざけんな」
ふざけなければいい話よ。そう答え、グラスを持ち上げ口をつける。
こんな風にアオイと会話をすること自体久しぶりだ。
そこに感慨はないが。
「キリハ。椛キリハという女学生がいたの」
「友達なんだろ?」
「友達かと聞かれれば、どう答えるのが正確なのかはわからない。気まぐれな、鬱陶しい猫みたいな存在」
「よくそこまで他人をこき下ろせるよな、お前」
アオイは呆れたような、諦めたような口調で呟くと、髪をわしわしと掻いた。
「仕方ないじゃない。それ以外に表現する方法を知らないのよ」
私はアオイから目を逸らし、左耳を触る。
その癖、相変わらずだな。アオイは小さく零す。
私は聞こえないふりをして、話を続けた。
「とにかく、大学から帰る途中に、その椛キリハが交通事故に巻き込まれたの」
「大学の近くで交通事故が起きたなんて話、聞いてないけどな」
「私もよ。でも確かにこの目で見たの。あの子がトラックか何かに巻き込まれて引きずられるのを。でも、その一瞬だけ。そのあとには何も残ってなかった、事故の後も、死体も、トラックも」
「異世界にでも転生したか」
「ぶち殺すぞ」
「冗談だって」
ふざけるなと言ったでしょう、と私は返す。でも真面目な話、とアオイは答えた。
「その椛が本当に交通事故に巻き込まれたっていうんだったら、それくらいしかないだろ。超常現象だかなんだか知らないけど、消えちまったんだろ。存在が」
私は小さく頷く。実際、そうとしか言いようがなかった。
「本当に存在ごと消えたんだとしたら、あと考えられるのはタイムパラドックスとかな。異世界転生とどっちが現実味があるか、っていう話だが」
「私は真面目な話をしてるんだけど」
「だからアタシも真面目な話をしてるんだよ。普通じゃない現象に遭ったって言うんなら、普通のことを考えても仕方ないだろ」
アオイは氷の溶けたカルピスをストローで撹拌しながら、話を続ける。
「アカネはさ、シュレーディンガーの猫は知ってるか」
シュレディンガーの猫。
名前は私でも知っている。確か量子力学における思考実験だったはずだ。
50%の確率でガスが発生する装置に猫を入れたとき、猫が生きているか死んでいるかは実際に装置の中身を確認するまでは決定しない。普通に考えればそんなことはあり得ないけれど、確率的には猫が生きている状態と死んでいる状態が重なりあって存在する。とかそんなような話だった気がする。
「まあ、概ねそれであってるよ」
アオイはストローでカルピスを口へと運ぶ。
「シュレーディンガーの猫に対する解釈のひとつに、多世界解釈っていう考え方がある。この解釈では、観測者も事象の中に含まれるんだが、猫を例に出すと『生きている猫を観測した観測者』と『死んでいる猫を観測した観測者』ふたつの重ね合わせ状態に分岐し、観測者が選択しなかった方の選択肢は消滅するとされる」
「は?」
「タイムワープ作品に見られる現実の改変の一般的なイメージって、過去の時間軸では本来あり得なかった事象を引き起こすことによって未来が変わってしまう、っていうのが一般的なイメージだと思うんだけど」
アカネが過去に跳んで過去のアカネを殺したりすると、本来の宇宙が歪んでアカネの存在はなかったことになる。過去から見た未来のアカネ、つまりお前が消える。
つまらなそうにアオイは告げる。私にはアオイの意図がわからず、適当な相槌を打つ。
「タイムパラドックスでしょ」
アオイは頷くと、手にしたストローで私の胸を指す。
水滴が飛び、私のシャツに小さなシミを作った。
「じゃあ問題。タイムパラドックスはどうして起こるのでしょうか」
どうしても何も、今アオイが説明していたのだが。
そう思い首を傾げる私を、どこか楽しそうに眺めるアオイ。
「どうしても何も、今アオイが言ってたでしょ。本来あり得なかったはずの出来事を、過去で起こしてしまったから」
「ご名答。ところで、さっきアタシがした話、覚えてる?」
ぱちぱちぱちと、力のない拍手が鳴る。
「シュレディンガーの猫の話をしただろ。猫が生きている状態と死んでいる状態は、蓋を開けるより過去の時点では、まだ重なり合っていたかもしれないんじゃないかって。本来生きていたはずの猫がタイムパラドックスによって死んでしまったのだとしたら、それは "過去において、死んだ状態の猫を誰かが観測してしまった" んじゃないか、っていう話」
ここでいう猫は。
私は口の端を歪めた。愉快だったからじゃない。その逆だ。
目線を上げると、アオイと目が合った。
不愉快にも、私と同じ顔をしている。
「死んだ猫ちゃんを観測ちゃったのは、誰だったんだろうな」
私が見たトラックが。
そうだったって言いたいわけ。
私が殺したって?
喉まで出かかった、その言葉を押し殺す。唇の下で鉄の味が滲む。
「別にそうは言ってない。アタシは、可能性の話をしてるんだよ」
「多世界解釈だか何だか知らんけどさ、選択肢が存在するのなら、いくらだって選択し直すこともできるんじゃないの」
「これは他世界解釈に限った話ではないんだけど、波動関数は観測によって固有の値へと収束するっていうのが定説らしい。つまり何が言いたいのかというと、一度観測してしまった選択肢は収束してしまって、変わることはないんじゃないかってこと」
「チッ、…ああそう」
言い負かされたような気持ちで、私はアオイに聞こえるように舌打ちをした。気持ちというか、本当にただ言い負かされただけなのだが。
アオイも私も、仮定の上に過程を、想像の上に妄想を重ねているだけなのだから。
「じゃあどうすればいい。どうすれば私は、椛キリハを救える」
「何にこだわってるんだ、お前」
椛キリハの何が、お前をそこまで駆り立てる。
アオイの素朴な質問に、私は口を開いた。
「椛キリハだけが、私を必要としてくれたんだ。他には何もいらなかった。友達も、家族も、何も。だけど、キリハだけは、私を必要としてくれた。それ以上の意味が、何になる? 私が間違っていたのか? 私は普通になりたかったんじゃない。普通でありたかったんだ。ただそれだけなの。それだけなのよ」
指の間からハラハラと髪が落ちる。爪の間には頭皮が混じり、赤く滲んでいた。
「アタシじゃ、ダメだったのか」
「アオイは、一人でなんだってできたじゃない」
私なんて、必要としてなかった。
「アオイは、一人分の枠からははみ出していたの。人という字は、人と人が支え合う字だって言うでしょう。でも、本当は違うのよ。人っていうのは、人と人、二人でようやく一つなの。一人じゃ絶対に、完成しないのよ。私はずっと半分だった。私はようやく見つけたの、私のもう半分のピースを。私はね、椛キリハのためじゃなく、私のために、椛キリハを探しているのよ。不義理な人間だと笑ってもいいわ。でも、私にはそれしかないの、私が紅葉アカネでいるためには、椛キリハが必要なのよ」
だってそうじゃなきゃ。また私は不安定な私に戻ってしまう。
誰のために努力し、誰のために生きていたのかわからなかった、紅葉アカネに戻ってしまう。
自分でも正確に理解していないことが、口をついて出てくる。
脳を経由せず、言葉が脊髄から溢れてくるようだ。これが私の本心なのだろうか。きっとそうなのだろう。だって他でもない私がそう言っているのだから。
「椛キリハがいない時から、お前は紅葉アカネだったんだよ」
そう告げるアオイの本心は、表情からは読み取れない。床を向き俯いて、零すように呟くアオイは、なんだか私の知っているアオイではないような、そんな気がした。
「でも、アカネがアカネの思うアカネでありたいって言うんなら、アタシも手伝うよ。だって、これまでもずっと、アタシはそうし続けてきたんだからさ」
言うが早いか、アオイは床に落ちていたカッターナイフで、私の頸動脈を裂いた。流れるような手つきでカッターナイフを手に取ると、身を乗り出して私を押し倒す。私が逃げられないように胴体に馬乗りになり、左手で頭の位置を固定しなぞるように皮膚に刃を当てた。
その綺麗な人差し指で刃の背を押し、力をこめる。ぷつぷつ、という繊維の避けるような音が、頭の中でこだまするような気がした。
「えう」
一瞬の出来事だった。
アオイの指の動きを目で追い、行為の意味を脳で理解するよりも早く、私は終わっていた。
反射的に首を押さえ圧迫する。血液がぶじゅぶじゅと音を立てて吹き出し、生暖かい液体が手首を伝って水たまりを作った。
アオイはカッターナイフを放ると、右手でゆっくりと私の左耳をなぞった。下から、ピアスの数を確かめるように。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。指先がよっつめのインダストリアルに触れたとき、アオイは体重を預けるように私の上に重なった。
耳元で、啄むように唇が動く。
「ごめんね。でも、すぐにアタシが助けてあげる。安心して、ゆっくり寝てて。きっとすぐに、この悪い夢から覚めるから」
体重に潰されて追い出されるように、肺から口へと空気が抜ける。逆に、口から肺へと空気が供給されることは、もうない。
アオイが発した言葉の意味を理解することなく、私は意識を手放した。
はぁ。
紅葉アカネは小さく息をつく。
左手で頬杖を付くように、左耳から垂れるピアス、ロブのピアスを指で軽く引っ張った。
そのまま上へ、耳の縁をゆっくりとなぞる。2つ、3つと金属を触る。
やがて指が4つ目のピアス、インダストリアルに触れたとき。私以外の指がそっと、同じようにインダストリアルのピアスに触れた。
「よっ」
いつの間にこんなに近くにいたのか、やや気だるげな低い声が、頭上から降ってきた。
声の主は戸木アオイ。短く切りそろえられた髪。講義室には似つかわしくないスポーティでラフな格好に、嫌でも目を奪われる。
「戸木、何してるの…」
「それはこっちのセリフだよ、アカネ。何か嫌なことでもあったのか?」
アオイは私の耳から手を離すことなく、顔を覗き込むようにして首を傾げる。
「とりあえず手、離してくれない」
「どうしようかなあ。それより、私の質問に答えてよ」
アオイは私の言葉を拒否すると、ゆっくりとピアスをなぞっていく。
私とは逆に、上から下へ。
アオイの長く伸びた指が、インダストリアルからロブへと下りてくる。
「嫌なことなんて、特にないけど。どうして」
「アカネがピアス触るのって、そういう時だろ。困ってる時とか、落ち着かない時とか」
昔からの癖、知らないとでも思ってたのか。と、いたずらっぽくアオイは笑う。
自分では特に意識もしていない、ただの癖のひとつだと思っていたのだけど。
他人からはそう見えているのか。
あるいは、アオイが心配性なのか。
「本当になんでもないの。強いて言うなら、線形代数のテストが憂鬱なくらい」
「嘘つけ。アカネが成績いいの知ってるからな」
そんなことを言ってはいるが、アオイだって成績はいい。
見た目こそ完全なスポーツ馬鹿だが、その実、勉強に対する姿勢は非常に前向きなのだ。
というか、私より頭がいい。容姿端麗・文武両道の完璧超人無敵女ゴリラだ。
「お前、馬鹿にしてるだろ」
まあでも、嫌なことがあったんじゃなければ別にいいか。アオイは呟くと、当然のように隣の席へと腰を下ろす。
当然、私の荷物の上にだが。
「ちょっと」
「いいじゃんか、ちょっとくらい。別にだれか来るわけでもなし」
今日のテスト範囲でも教えてくれよ、とアオイはクスクス笑う。
結構失礼なことを言われている気もするが、アオイに悪気がないこともわかっているので、私は返事の代わりにため息を吐いた。
実際、席をとっておいても誰が来るわけでも――。
「来るわよ、もう一人。うっさいのが」
「私以外にか?」
アオイは不思議そうに首を傾ける。つられて私も首を捻った。
「…確かにそうね。私、今誰の話しようとしてた?」
「そんなの私が知るかよ」
席をとっておいても誰が来るわけでもない。
「こんな話、私たち前にもしたことなかった?」
「さあなー。私は知らね」
「そう…。戸木って、前から『私』って言ってたかしら」
「おいおい大丈夫か? 暑さでやられちまったんじゃないだろうな」
アオイは心配そうに、私の顔を覗き込んだ。額に触れた手のひらから、アオイの熱が伝わってくる。
それが何となく気恥ずかしくて、やや乱暴に手を払う。
「大丈夫よ。少し、ぼーっとしていただけ」
「本当かよ。全く、私が付いてないと心配だなあアカネは」
心配そうな目を向けるアオイに、子供じゃないんだからと返す。
「もう、講義が始める前には隣を空けてよね。今日、試験なんだから」
「もちろん。それよりさ、今日のテスト範囲を教えてくれよ」
「私より勉強できるくせに、嫌味か」
何が楽しいのか。講義が始まるまでの5分間、アオイはずっとクスクス笑っていた。