教師たる者その1【いつ如何なる時も冷静であれ】
「――どうして現場の意見が通らないんだ!」
会議室中に響き渡る怒声を聞きながら、俺はあるドラマのタイトルを思い出して吹き出しそうになっていた。うだるような暑さの続く真夏の昼のことである。ちなみに今日は夏休みである。大事なことなのでもう一度言う、みんなちゃんと聞くように。今日は「夏休み」である。つまり、ここに雁首揃えて集まっている我が同僚たちは、全員休日出勤中であるわけだ。勿論、俺を含めて。まっくろくろすけ出っておいで~。
「そうは言ってもね、国語の入学試験にリスニングを導入するなんて、他校でもほとんどやっていないし、子供に受験させようと考えている親御さんたちも身構えてしまうからねぇ……」
怒声を張ったおじさんに汗を拭きながら答えるおじさんという地獄絵図。ちなみに怒鳴っているほうが教科主任で、怒鳴られているほうが教頭である。いまいち覇気の無い教頭の言葉に、あきれ果てたようにため息をつきながら教科主任は席に着いた。座り際に「このクソハゲが……」と呟いたのを、主任の隣に位置していた俺は聞き逃さなかった。ふえぇぇ、聖職者が暴言を吐かないでよぅ……と現実逃避を兼ねた幼女化を脳内でしていると、教頭がまた汗を拭きながら発言した。
「山田クンの言いたいことも分からないではないけれどね、我が校の方針は門戸を広くして、面倒見の良い手厚い学園にすることだからね。最初から入学する生徒を絞るようなことはねぇ、世間や塾の評判も気になるし、ここは慎重にだねぇ……」
「とかいって、楽だから現状維持したいだけですよね、先輩」
「こらこら、問題発言だぞ」
小さな声で横からささやいてきたのは、俺の後輩教員の蛯名宮である。ろりぃな顔に似合わぬ毒舌に定評があり、生徒にもそれなりに人気がある若手先生である。あだ名はエビちゃん。安直極まりない。ちなみに美乳らしい。らしいというのは、普段は胸の形が分からないような大きめのスーツを着ているからであり、エビちゃんと一緒に臨海学校に行ったとあるおばさん教員が、「あれは……まさにマナスルの輝き」と風呂上りに茫然と呟いたというまことしやかな噂からそう判断されているのだ。「俺もその精霊の恩恵に与りたい(マナスルは精霊の山という意味)」と同僚の男性教員たちで下卑た会話をしていたら、まさしく雪山のように冷たい眼でエビちゃんに蔑まれたのは記憶に新しい。
「だいたい、この話何時間つづける気なんですかね。もう夕方ですよ。残り少ない髪の毛すら刈り取られれば良いのに」
「いやん最後の希望すら刈り取るなんて、まるで死霊のはらわたのラストシーンみたい」
「喩えが古い上にマニアックすぎて伝わらないんですけど。それでも国語教員ですか」
おじさん哀しい(´;ω;`)ブワッ
俺が若者とのジェネレーションギャップをひしひしと感じている間にも、会議は踊る。今度は進路部長が現在の我が校の位置づけと、他校の動向分析を述べているが、真面目に聞いている教員が半分、死んだ目をしている教員が半分というところ。ゾンビ教員たちの名誉のために言っておくが、彼らはけして学校経営や教育に熱意が無い人種というわけではなく、朝から続く中身の無い会議自体に辟易しているだけなのだ。
その必要性自体は認めつつ、進まない会議に飽いているのは、俺も同じ。
数年前まではこんな状態の会議では無かったのだ。小規模な学園ではあったが、先生同士の激論が交わされ、生徒の成長を第一に据えた教育方針を定めようとする熱気に溢れていた。それが上手く影響したのかどうかは定かではないが、だんだんと入試を受ける子供たちの数も増えていって、あと一歩のところで人気校とまではいかなくとも中堅の私立学校になれる、というところである転機が訪れたのだ。
とある大手教育グループによる合併。
合併とは名ばかりで、実質は吸収に近い扱いだった。どんどん生徒の数を増やしつつあって、評判もそれなりになったけれどまだまだ借金があった学校なんて、大手からしたら良い投資対象だったのだろう。学校を飛び越えて、母体となる学園そのものを買収された我が私立学校は、今までの管理職たちはヒラの教員にされ、現在新しく大手から送られてきた人物が校長教頭を務めているのであった。
ちなみに先ほどまで怒声を張っていた教科主任の先生が、元教頭である。ここまで学校を大きくしたのが自分たちであるという自負があるだけに、新しい管理職たちとはどうもソリが合わないらしい。
教科主任の気持ちは俺にも痛いほど分かるが、同時に新しい管理職たちの気持ちも分からないではない。彼らの使命はカネの成る木としての現在の学校を維持することなのだから、殊更に塾や親御さんの意向を気にするのも無理のない考え方でもある。
しかし。
「親の顔色ばっかりを気にして生徒を置き去りにする教育をしても、長続きしないんですけどね」
「エビちゃん的確ゥ」
エビちゃんは今の経営体制になってから採用された教員のくせに、今の体制に反抗的である。なんでも前の我が校の教育の評判が大学にまだ残っていたらしく、それに興味が出て採用試験に応募したらしい、それはさぞかし現状に失望したことだろう。
ともかく。
会議は踊る、されど進まず。
一日かかって為された会議の結論は、「さまざまな変更や改革を前向きに検討しつつ、我が校の伝統を崩さない」ということだけだった。つまり、エビちゃんが批判していた現状維持である。生徒たちの様子毎年毎月毎日も変化していくこの世界において、現状維持とは怠惰とイコールである。
休日出勤をしてこれでは、ため息の花だけ束ねたブーケも簡単に作れるだろうというものであった。
「異世界転移、ですか?」
「で、ある」
「そんな織田信長の口癖みたいな言葉を真似しても、カリスマの無い先輩にはまったく似合いませんよ」
「……で、あるか」
エビちゃん、一応俺は先輩なんだけど……。
会議が終わった後、俺とエビちゃんは学校の図書室に来ていた。なんでも学校の初代校長がたいへんな読書家だったらしく、その蔵書も含めて古今東西のさまざまな本を集めていたら、ちょっとした公立図書館並みの規模に膨らんでしまったという学校併設にしては珍しい大規模の図書室である。
そんな図書室に何の用があるのかというと、今エビちゃんが聞いて来た話題を調べるためである。
「どうやら小耳に挟んだところ、今生徒たちの間では異世界転移や転生といったものが流行っているらしくてな。はてさてどんなものかと思って調べにきたわけさ」
「はてさてって言葉おじさんくさいですよ」
「おじさんの心に会心の一撃。おじさんは倒れた……」
「はいはい。で、どんなものなんですか、異世界転移って」
ふむ。俺もまだまだ知らないから説明するのは難しいな。
「ここにトラックが一台あります」
「はい」
「前途ある若者がそれに轢かれて命を落とします」
「冒頭から爆速バッドエンドじゃないですか!」
たしかに!
「いやここからが面白くなるらしくてな、轢かれた若者がなんやかんやで異世界に行って、カミサマから特別な能力をもらって悠々自適な生活を送ったり、国を興したりして悠々自適に暮らしたりするらしい」
「悠々自適すぎません?」
「うむぅ……でも生徒がそう言ってたからなぁ」
「つまり、はてしない物語とかナルニア国物語とか、そっち系のお話ですか? 現実世界で不遇な少年たちが、異世界に行って成長して戻ってくるとか」
「ああ、たぶんそう。知らんけど。でもあんまり成長はしないらしいし、戻ってもこないって。最初に特別な能力をもらうから、そんなに苦労しないらしい。えーっと、あの、なんだったかな、オレツエーっていうジャンルらしい。知らんけど」
「つまり」
「うん」
「現実で不遇な子供たちが、特になんの努力もしないで能力を手に入れて、その能力のおかげで周りからちやほやされて、特に挫折とかもしないから居心地が良くて、そのまま異世界で過ごしちゃう話ですか?」
「たぶんそうね」
「……ただの現実逃避じゃないですかそれ」
「いやぁ、俺に言われても。生徒に人気だって話だから……」
大人二人、異世界ものの魅力がわからず困惑街道爆進中。
まあ、それを調べるためにこの図書室に来たわけなんだけれど。生徒理解は大切だからねぇ。5年も10年も世代の違う彼らを、自分たちの感覚だけで判断してしまうのはとても一人よがりだし、良い結果につながるはずもない。健全な教育は生徒理解と教材研究から、という金言は何時の時代も変わらない。個々の生徒の特性を把握していなければ、良い学級経営も授業も夢のまた夢にすぎない、というのが俺のポリシーでもある。
「……でも、気持ちは分からないでもないですよ」
「ん?」
「異世界転移。ここではないどこかを夢見るのに、たぶん、世代とかは関係ないですよ。私だって子供の頃は白馬に乗った王子様がいつか迎えにきて王城に連れてってくれることを夢に見てましたからね」
「きゃーロマンチスト! おじさんドキがムネムネ~」
「……先輩ってほんと加齢臭はあるのにデリカシーがないですよね」
「まままままだ加齢臭がするような年じゃないやい! ……してないよね?」
「さあ」
「•(´_`。)グスン」
キレやすい若者のおじさんいじめをなんだかんだ二人で楽しみながら、俺たちはいわゆるライトノベルが蔵書されている棚に向かった。俺は特に気にしたことはないが、まだまだ学校現場というものは文学や哲学書が一等であり、ライトノベルや娯楽小説は生徒の読み物に適さないと考えている先生も多い。そんな学校の施設の蔵書としては、やはりなかなかの量だった。その中でも生徒の情報通り、「異世界」と題に付いているものが多く目に付く。
「どれどれ……」
そう言ってエビちゃんが手に取った本の題名は、『とくに取り柄が無い俺が異世界に転移したらモテモテ!? ハーレム王国一代建国記~神にもらったこのゴッドハンドでどんな美少女もヌレヌレ~』。
……タイトル長っ!? あと限りなく18禁の匂いがするけど、司書さんこんな本図書室に入荷して怒られないの!?
案の定というか何と言うか、エビちゃんは少しだけ顔を赤らめながら本を上下にぶんぶんした。
「お、男の人ってどうしてすぐこういう……! 大体ハーレムって、なんで一人の女性じゃダメなんですか! 最低!」
「いやまあ、近代的に言うと一夫一婦ってのは明治日本で意図的に導入されたロマンティック・ラブ・イデオロギーに由来してるからなぁ。エビちゃんイデオロギーに囚われすぎなんじゃないの? もうちょっと勉強しなよ」
「さっきまでドキがムネムネとか言ってた人が急に真面目にならないでくださいよ!」
なんで真面目になったのに怒られてるんだろう……。
ぷんすかしはじめたエビちゃんを尻目に、俺は再び書架に眼を向けた。異世界、異世界、異世界。時たまに別のジャンルのライトノベルもあったりはするが、おおむね異世界ものの内容の物が多い。こういったジャンルが流行るのには、もちろん色々な理由があるのだろうけど、きっとそこには、生徒たちが抱える様々な不安が関係している。複雑な家庭環境、先の見えない将来、AIに仕事を奪われる社会、試験や部活など目の前の難題、そして、退屈な日常。社会学者の宮台真司が提唱した、終わり無き日常感覚の中で、どんどん己の内に閉塞を抱え込む、そんな毎日のストレスのはけ口として、このジャンルのライトノベルはこの上なく機能しているのだろう。
……仕事柄か、少々考えすぎてしまったようだ。今日はあくまで異世界ものの魅力を調べにきたのだから、純粋に楽しむことから始めよう。そう思って新しい本に手をかけようとした俺は、ここでふとあることに気づく。未だにぷんすかしているエビちゃんの方を向く。
「そういえばエビちゃん」
「なんですかまたハーレム賛美ですか」
「いや別に俺はハーレム信者じゃ……そうじゃなくて、今更なんだけど、エビちゃんは何で俺について来て図書室に来たの? もうこんな時間なのに」
「え」
外は夕暮を過ぎて、きらめく街の灯り以外はもう暗い。平常なら取り立てて遅い時間ではないが、なんと言っても今日は夏休みである。現に、他の先生たちはみな「おつでーす」と言ってさっさと帰っていったではないか。俺がエビちゃんに異世界ものを調べるという用事を伝えたのは図書室に着いてからであるし、俺と同じ生徒理解のためではないだろう。ただなんとなく会議室から出て、なんとなく一緒に図書室に来てしまったが、よく考えれば疑問である。
ははーん。
なぜかあたふたしているエビちゃんにピンときて、俺は言った。
「さてはエビちゃん……俺のことが好きだな?」
「うじむしせんぱいきえてください」
「ごめんなさいっ!」
エビちゃんこわいよぅ! 吹雪もかくやという冷たいまなざしを注ぐエビちゃん。あれ……なんだかちょっとこの視線が気持ちいいぞ……? 内なる性癖が目覚めようとしていた俺に、エビちゃんが雪の女王の声音で一言。
「教育職員免許法第十一条第一項」
「……それだけはご勘弁をっ! 平にっ、平にご容赦!」
説明しよう!
【教育職員免許法】
その名の通り教育職員、つまり教員の免許に関する取り扱いについて定めた日本国の法律である。その第十一条第一項とは、以下のような条文である。
第十一条 国立学校、公立学校(公立大学法人が設置するものに限る。次項第一号において同じ。)又は私立学校の教員が、前条第一項第二号に規定する者の場合における懲戒免職の事由に相当する事由により解雇されたと認められるときは、免許管理者は、その免許状を取り上げなければならない。
一 国立学校、公立学校又は私立学校の教員(地方公務員法第二十九条の二第一項各号に掲げる者に相当する者を含む。)であつて、前条第一項第三号に規定する者の場合における同法第二十八条第一項第一号又は第三号に掲げる分限免職の事由に相当する事由により解雇されたと認められるとき。
……わけわかんねぇだろ~。
つまり、簡単に言うと、「全体の奉仕者としての公務員として相応しくない行為をしたヤツは、教員でも免職にして免許取り上げちゃうぞ☆ 国民に代わってオシオキよ!」ということである。
今の俺の行為がこれに相当するとしたら、うん。
エビちゃんへのセクハラ。
セクシャル・ハラスメントである。
逆から読んでもトンメスラハ・ルャシクセである。
今時の日本は、「○○さんおっぱい大きいよね」は当然のこととして、「○○さんってカノジョいるの?」「シャンプー変えた?」、果ては「週末なにしてるの?」という質問ですらハラスメント認定される立派な先進社会である。それに照らし合わせれば、先ほどの俺の「さてはエビちゃん……デュフフ……俺のこと好きでしょ……デュフフ」という質問など、議論の余地無く認定の嵐であろう。俺としたことが、不覚だった。
「先輩、セクハラですからねそれ」
「はい、反省しております……」
「本当ですか?」
「はい、本当です……だから、職だけは、どうか職だけは……おちんぎん欲しいですぅ……」
「……なんとなく反省してないように聞こえますが。まあ、いいでしょう。私は寛大ですからね!」
「エビ様! いや宮様!」
「人を皇族みたいな呼び方しないでください」
エビちゃんは何とか許してくれたらしい。良かった良かった。
これでおじさんの平穏教員ライフは喪われないで済んだらしい。
……あれ? 結局エビちゃんはなんで俺と一緒に来たんだろうか。まあいいや。
しばらくして、エビちゃんと俺は大体の異世界もののライトノベルを流し読みすることを達成した。大体の傾向は掴めただろう。異世界ものにもスローライフ系、内政系など細かなジャンルがあることが分かったし、これで夏休み明けの生徒たちとの会話にも困ることはない。これだけ頑張ってもすぐに流行に置いてかれてしまうのが、若者のすごさであり、おじさんの哀しさでもあるんだけれど、なんて柄にも無く苦笑しながら、俺はまだ熱心に本を読んでいるエビちゃんに声をかけた。
「エビちゃん、もう遅いし、そろそろ帰ろうか」
「あ、そうですね、ちょっと待ってくださ――」
エビちゃんがそう言って読んでいる本を棚に戻そうとした時、何故かエビちゃんの言葉と動きが止まった。
「ん? どうしたの?」
「いや……今までこんな本、この書架にありましたっけ?」
彼女が指差す先には、背表紙に何も書かれていない真っ黒な本がひっそりと納まっていた。たしかに、カラフルなライトノベルの棚にこんな本が混ざっていれば、最初に気づいていてもおかしくない。おかしくはないが、現実そこにその本は鎮座しているので、やはり我々が気づかなかっただけだろうと結論付けるしかない。人間、年を取ると大抵のことには驚かなくなり、すこし不思議なことがあっても自分の気のせいで済ましてしまうものなのだ。それを成長と取るか老いと取るかは人それぞれだけれど。
「うーん、まあせっかく目に留まったんだから、最後にちょっとだけ読んでみるか」
俺はそう言ってその本を書架から取り出した。
なんと背表紙どころか、表表紙も裏表紙も真っ黒な異質極まりない本だった。とにかく外の見かけからは何の情報も得られない。たまにミステリーの本などであらすじなどを一切書かずに謎めかせるような手法を取っている本はあるにはあるが、それにしても全て真っ黒などという本には、少なくとも俺は出会ったことがない。
「なんだか変な本ですね」
「そうね。でもこういうのに限って反対に中身はギャグだったりして」
「あー……先輩の中身が、実はただのセクハラオヤジなのと一緒ですね」
「うえぇ、さっきのことまだ気にしてるでしょ」
「いいえ。それにしても先輩ってやっぱり国語教師向いてませんよね」
「突然の人格否定!? なぜ!?」
「……自分で考えてみてください、ターコ」
急に軟体生物呼ばわりされてショックを受けつつ、やはり気になるので本の頁をパラパラとめくってみる。
しかし。
「あれ、白紙だ」
「あれ、ほんとですね。やっぱり先輩みたいに中身無しのタコ助野郎でしたね」
「ふえぇ……ひどいよぅ(野太い声)」
「…………」
「無言やめてっ!」
しかし流石にきもかったという自覚はある俺は、結局最後まで白紙だった本に興味を失くし、それを閉じようとした。――その時。微かに、しかし確かに俺の耳の声が届いた。
(……が……か……)
「ん? エビちゃんなんか言った?」
「え? なにも言ってませんけど」
「ち……が……しいか…」
「ほら! なんか聞こえたでしょ今!」
「ほんとだ……え、なんか気のせいかもしれませんけど、その本から聞こえてませんか?」
彼女にそう言われて、俺は思わず右耳を本に向けて近づけた。そうしたら結果的に、左耳を本に近づけたエビちゃんと思わぬ距離まで顔を近づけることになった。意図せずして、睫毛の長さまではっきりと分かる近さである。あ、エビちゃんって、やっぱり若いだけあって肌ぷるぷる。眼もくりっと大きくて吸い込まれそうだし、唇も……「ちょっと先輩なにこっち見てんですか……さすがに恥ずかしいんで、やめてください」……こういう時に限って、毒舌じゃなくて普通に照れるの、おじさん的に反則だからやめて欲しい。昔から年上好きのお姉さんに憧れていたはずの俺の琴線が触れそうになる。
「え、エビちゃ――」
その時、耳元で大きな声が鳴り響いた。
「――ちからがほしいか!」
「うわっ!」
「きゃっ!」
突如本から発せられた眼をくらませる眩しい光に、二人ともはじけるように身を本から離そうとした。しかし、何故だか足が動かない。そればかりか、まるで光を発する本に吸い込まれるような、そんな感覚に陥ってくる。この光からは逃れられない、なぜかそう直感した。それはエビちゃんの方でも同じだったらしく、突然の事態に手をばたばたさせながら動揺を声ににじませてこちらに叫んでくる。
「せ、先輩! なんですかコレ!」
「分からない! でも、こういう時こそ冷静にならなくちゃ、俺たちは教員なんだから」
俺の一言にはっとしたように、エビちゃんが動きを止めた。「そ、そうですよね……教員ですからね……!」生徒の命も預かっている教員は、不測の事態にも冷静に対処して安全に努めなければいけない。それが火事だろうが不審者だろうが災害だろうが、謎の本から発せられる謎の光だろうが、情報収集をして事態の解決を図らなければいけないのだ! そう、まずは冷静に……。
「えっ」
「あ」
しかし、抵抗の動きを止めてしまったからだろうか。吸引力を増した光の中に、正確には本の中に、あっさりエビちゃんがすぽっと上半身だけ吸い込まれてしまった。
「せせせせんぱぁい! 助けてください! なんか! なんかうにょうにょしてる!」
「おおおお落ち着くんだエビちゃん! 冷静に、冷静になろう! 今足を掴んで引き上げてあげるから!」
有限実行。エビちゃんのじたばたしてる下半身だけをしっかり持って、俺はエビちゃんを引っ張りだそうとした。異常な事態の連続に、一応は32年生きている俺も頭の中はハテナでいっぱいだった。まずは冷静に、まずは冷静に、目の前に見えるものからゆっくりと観察して……。
「あ」
「ななななんですかせんぱい! またなんかが!? っていうかこっちはうにょうにょしてて、それどころじゃ無いんですけど!?」
「エビちゃん」
「だからなんですか!?」
「24にもなって、いちごパンツはないんじゃないかなとおもぷげらっ」
危機的な状況でどうやったのか分からないが、エビちゃんの足がロナウドも裸足で逃げ出す正確さで見事に俺の顎を蹴りあげたことで、俺は一瞬気を失った。それどころか川向こうで、もう鬼籍に入っているはずのおばあちゃんが手を振っていた。「せんぱいのど変態エロ助! 地獄に落ちろ! 教育職員免許法第十一条第一項!」こんな時でもやけに正確な条文で罵倒を受けながら、俺が意識を失う前に見たものは、俺が手を放したことでほぼ全身が本の中に吸い込まれようとしているエビちゃんと、同じように徐々吸い込まれようとしている自分の足であった。
教員たるもの、いついかなる時も冷静に。
いちごパンツかぁ。
そして俺は意識を失った。