六月十七日(水) 午後三時三十分
ピアスをなくした日以来、ヤンシーとチャンタイはピアスの行方を探し続けていた。
先週の木曜日、偶然にもチャンタイがピアスに付いていた石に似た石を持っていた少女を見つけ、その翌日にヤンシーもその石を確認したが、彼女を捕まえることはできなかった。単純に、ヤンシーが明日も同じ道を来るだろう、僕は走りたくないと言ったせいだ。
しかしそれ以来、二人は彼女の姿を見ていない。毎日同じような時間帯に張り込んではいたが、出会うことはなかった。最後に見た日、逃げるように走っていったことから、変に怪しまれたのだろう。ヤンシーはあの日一人でも走って追いかけなかった自分に酷く怒りを感じた。
彼女は学生服を着ていた。似た制服の生徒を尾行した結果、近くの学園の生徒のようだと辺りが付き、今日からその学園の周辺も張り込むことになった。チャンタイの仕出かした事件のせいであまり表だって二人行動はできないので、効率的に考えても二人バラバラで探すことにした。
しかし、学園に到着すると意外なことに偶然にも校庭でイベントが行われていた。学園が大きいためか、二つあるグラウンドの両方使用した大きなイベントだった。特に入場制限もないようなので結局チャンタイも学園に呼びつけ、学園内で二手に分れて彼女を探すことになった。
――本当に見つかるのだろうか?
いよいよイベントも終盤に差し掛かった辺りで、ヤンシーはふとそんなことを思った。部外者も立ち入れそうな所から何度も生徒の顔を確認しているのだが、一向に見つかる気配がなかった。
広い校庭に引っ切り無しに生徒用のテントが設営されている。ヤンシーが担当している校庭にはそのテントが二十一あった。一クラス三十人でも六百三十人いることになるし、また常に移動をする生徒の顔と完全に覚えている訳ではない顔を比較するのには骨が折れる作業なのだ。
まだ彼女を見つけた場所で待ち伏せをしている方がよっぽど気分的にはましなのかもしれない、と思い始めた頃にふいに声を掛けられた。
「こんにちは」
振り向くと、自分よりやや低い身長の男がいた。男は微笑み、気さくに喋り掛ける。
「お元気でしたか?」
突然の挨拶にヤンシーは目を白黒させる。
男は背中まで伸ばして束ねてある一括りの銀色の髪をさらりと揺らしながら笑う。どう見ても欧米系の白人の顔をしていたが、流暢な中国語だった。一見目立つ格好をしているのに、周りにいる人間は誰も男の存在を気にしていない。
――ボスと一緒だ。
ヤンシーは警戒して一歩下がろうとするが、それより速く腕を掴まれた。
「さっそくなんだけど、私のピアスを返してくれないか?」
「……なんのことですか?」
咄嗟にそう答えられたものの、急激に背中から粘度の濃い汗が噴き出して止まらなくなる。一瞬自分達がピアスを奪った連中かと思ったが、こんな目立つ男性はいなかったことに思い至る。
ヤンシーが固まっていると、男はゆるりとヤンシーの持っていたバックに手を掛ける。
「ここにあるのは知っているんだ」
にこにこと気さくな雰囲気で、ヤンシーからバックを取り上げようとする男にヤンシーはペンを突き立てる。インクの色は青――相手の意識を奪う色だ。しかし、男は簡単にヤンシーからペンを取り上げた。
「もしかして魔具?」
取り上げたペンをまじまじ見ると、男は一つ頷いた。
「なるほど、ロンの所の下っ端君なんだね」
そう言うと男は何事もなかったかのようにペンをヤンシーに返した。
――ボスと知り合い?
ペンが通常のペンでないこと、またペンを仕込んだのがボスであることを看破したこと、ボスの名前を知っていること、一度奪った武器であるペンをヤンシーに返したこと――男が発する言葉や行動にヤンシーは困惑した。
ヤンシーの困惑は余所に、男は一人話し続ける。
「でもいくらロンでも許せないなあ、僕の人生最大の楽しみを横から奪おうとするなんて。
君は知ってる? 僕がピアスのありかを探すだけでもどれだけの努力と、どれだけの労力を使ってきたのか。お金だけで言うと、今回だけで僕は全財産の半分がなくなった。まあ、お金なんてすぐ稼げるから良いけどさ。
問題は秘宝『女神のピアス』が手に入るかどうかだ。あれは僕にこそふさわしい物――いや、僕が買い付けたんだから、もう僕の物だ。
本当に、何者かに盗まれたと聞いた時は目の前が真っ暗になったんだけど、君が間抜けで助かったよ」
「……え?」
「まだ持ってるんだろ? ピアスが入っているケースも」
自分のバックに仕舞っているケースのことを思い出す。心臓の鼓動が身体によく響いた。
「ケースがなんなんだ?」
「あれ、発信器がついてるんだ」
ヤンシーは頭が真っ白になった。身体は反射的に逃げ出そうとしたが、腕を掴まれ引き留められる。男の顔には笑顔が張り付いていたが、掴まれた腕は骨が折れてしまいそうなほど痛い。
気が付くとヤンシーのバックは男の腕の中にあった。どういう要領か、鍵が掛っているポケットからアクセサリーケースを取り出すと、バックをヤンシーに投げ捨てた。
楽しみにしていた玩具のケースを開ける子供の表情で、男もケースの蓋を開ける。
開けた途端、表情がなくなった。
「なるほど、お前は囮だったんだな」
無機質な声を男は発した。先ほどの人物とは別人ではないかと疑いたくなる程の変りように、ヤンシーは恐怖を感じ、ただただ首を横に振る。
「誰が持ってるんだ」
「知らない……」
囮ではなかったが、それは事実だった。
怯えるヤンシーの額に男は人差し指を突き立てた。
「侵略」
言葉と共に、突き立てられた指先に頭の中を吸収された気がした。
「な……何を……」
今の行為はされたら不味いものだとは分かったが、既に遅かった。
「なるほど、愚かにもなくしてしまったのだな。そして、一つはこの学校の女子生徒が持っているのか……ふむ、ピアスに修繕もしなくてはいけないのか」
――記憶を奪われた。
***
晴天の中開催された桜庭学園、高等部の体育祭もいよいよ大詰めを迎えつつあった。次の競技は最終競技であり、桜庭学園の名物の一つである競技『本気リレー』だ。桜庭学園の体育祭は各学年十五クラスあることから、小中等部校庭と高等部校庭に分けて行事が運営されているが、本気リレーのみは一括して高等部校庭で行われていた。
各クラスの応援席は、毎年全学年を対象とした室長会のくじ引きで決められており、春斗達2-Dクラスは幸いなことに本気リレーが行われる高等部校庭側だった。また賢人達2-Aクラスは小中等部側校庭、聡子達2-Fクラスは高等部校庭側となっていた。
本気リレーの際は毎年小中等部側の応援席の生徒も応援に来ることがほとんどなので、高等部側の校庭も人でごった返す。この時ばかりは、座って観戦するなら、という前提でトラック中心部の出場選手が待機しない部分が観戦席として解放された。
各クラスに割り当てられたクラス色の襷がトラック中心部でごちゃ混ぜになっている様子を見て、隣にいたDクラス第二走者の川下明美が春斗に呟く。
「こっち側でよかったね」
「そうだね」
小中等部側の生徒がトラック内で日当たりが良い中、狭い所で座って本気レースが始まるのを待っている一方、春斗のクラスメイトは自分の応援席のテントの下でのびのびと競技が始まるのを待っていた。おまけに、小中等部側はわざわざ競技前に校庭間にある校舎分を移動しなければならない。本気レースの時は、小中等部側は明らかに不便だった。
「生徒が多いと地味に不便だな」
春斗が呟くと明美がそうだよね、頷く。それと同時に選手入場が始まった。解説である放送部が興奮した様子で解説を始める。校庭中の生徒がクライマックスである競技に興奮していた。
第一走者である春斗は特に緊張感もなくスタートラインに向かった。スタートラインに並ぶと、Aクラスの第一走者の則雪と目が合った。則雪は春斗に不敵に笑う。
「位置についてー、よーい……」
体育教員が耳を塞ぎスターターピストルを振り上げる。
破裂音が鳴った瞬間、春斗は誰よりも早く駆け出した。
――あれ?
五メートル走って後ろから誰の駆ける音が聞こえないことに気が付いた。
フライングと見做されたのだろうか? いや、それだったら放送で言われているだろう。しかし、後ろから誰も駆けてくる気配がない。
十メートル地点で抜かされる覚悟を決めて振り返る。
「あれ?」
思わず声が出た。
慌てて勢いを殺し、完全に後ろを振り返る。
自分以外の第一走者は皆、スタートのポーズで固まっていた。よくよく見ると、スタート位置にいる教師も固まっている。
――いや……
春斗は辺りを見回した。
――僕以外が、動いていない?
春斗が見回せる範囲、少なくとも桜庭学園高等部校庭にいる人間は須らく時間が止まったかのように動きを止めていた。放送で流れるカルメン組曲だけが、校庭で虚しく時を刻んでいる。
俄かに猛烈な吐き気が込み上げ、その場に吐瀉する。
「な……何が?」
困惑し、戸惑う春斗の目に二筋の赤い光が映る。地面に対し平行にどこからか伸びてくる線の一つは、自分のクラスの応援席に延びていた。
「何なんだ……?」
不安に駆られ、線を追い歩く春斗の肩を不意に誰かが掴んだ。
「春斗!」
慌てて振り向くと、今までに見たことがない程焦った表情の晴希がそこにいた。動いている友の姿を見て、思わず安堵の溜息が零れる。
「晴希……」
「お前、動けるのか?」
「何が起こってるんだ? 何で皆動かなくなったんだ?」
春斗の疑問に晴希は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「……魔法だ」
「時を止める?」
「違う、恐らく範囲内にいる人間の思考を停止させるものだ。止まっているやつ見てみろ、瞬きとか呼吸とかはちゃんとしてるはずだ」
一番近くにいる生徒をまじまじと見る。しばらく観察していると確かに瞬きをしているのが見て取れた。
「なあ、なら、あの赤い光も魔法?」
春斗が指し示す方を晴希はキョトンとした顔で見る。
「赤い光?」
「え? 視えないのか? 二本あって、一つはDクラスのテントに続いてる」
春斗はDクラスの応援席に駆け寄る。晴希も後に続いた。
赤い光は、周りの生徒と同じように動きを止めている光の右の耳――ピアスにから出ていた。よくよく見ると赤い光線はピアスを光源として、今も上下左右に方向を変化し続けている。
「星野さん……?」
どうかしたか、と晴希が訊こうとした瞬間、場違いな程大きな声が校庭に響いた。
『いやー、盗まれたこと自体は運が悪かったが、まさか両方ともここにあるなんて何て運が良いんだろう僕は!』
跳ぶ距離が異様に長いスキップをしながら、長い銀髪を風になびかせながら男が近づいてくる。日本語でなかったため、春斗には男が何を言っているのか理解できなかった。
男はゲームのアイテムにありそうな自分の背丈ほどある杖を持っており、その先に付いている宝石の様なものから赤い光が二筋放たれていた。そのうちの一本が光のピアスと繋がっている。
男が春斗達の存在に気が付く。一瞬動きを止めた後、これまた異様に高いジャンプをして二人の前に降り立った。
「おや、君たちは動けるのかい?」
今度は流暢な日本語だった。
「銀髪の魔法使いが、魔法協会日本本部に何の用だ?」
フランクに話しかけてくる男に、晴希は敵意丸出して問う。
「いくら魔法協会の日本本部とはいえ、やはり銀髪の僕の魔法には、ほとんどの魔法使いは太刀打ちできなかったみたいだね。日本は強い魔法使いが少なくて可哀想だ。今も動けている君たちは日本で数少ない銀髪なんだろうね、僕と同程度の力を持った」
「黙れ。クラウド・ミルア―。指名手配犯がこんな辺境の地に何の用だ」
「大丈夫、優しい僕はこんながら空きな日本本部に何もしないさ。ちょっと僕の大切な物がここの子達の手に渡っちゃったから回収しに来ただけさ」
「大切な物?」
「このピアスさ」
言って光のピアスを指差した。
「このピアスはヤンシーが持っていた方のピアスなんだろうけど、彼女が一体どうして手に入れたか君たちは知っているかい?」
「ヤンシー?」
晴希も春斗も首を捻った。全く聞き覚えがない単語だった。
「知らないようだね。まあいいさ、彼女の記憶を覗けばいいだけだ」
言ってクラウドが光の額に延ばそうとした腕を、春斗は反射的に掴みあげた。クラウドは意外そうに春斗を見る。掴みあげた春斗も自分自身の行動に驚いた。嫌な予感がしたと思ったら、無意識に手が動いたのだった。
「どうして邪魔するの?」
「いや……嫌な予感がして……」
「止めるから、手を放してもらっていいかな?」
頷き、言われるがまま腕を解放する。
「じゃあ、そのピアス外して僕に渡してくれるかな? 本当は僕の物なんだ。なんでその子が持ってるか分からないけど。この際、大人しくそれを返してくれたら彼女には何もしないからさ」
何を仕出かすか分からない男の言葉に仕方なしに頷き、光の耳に手をかける。こんな状況なのに少し違う意味でドキドキした。
ピアスは何の抵抗もなくあっさりと光のピアスホールから外れ、そのまま片手を出しているクラウドの掌に置かれた。
置いた瞬間、クラウドはもう片方の手でピアスを持ち上げ、自分の瞳の前まで持っていく。その際、子供がする以上の無邪気な笑顔を顔に浮かべていた。
「美しい――これが、女神のピアス」
「女神のピアス?!」
晴希は声を荒げる。
「本当に存在したのか?!」
「そう、あったんだよ。まあ、これは僕の物だけどね」
心底意地が悪そうな笑みを浮かべながらクラウドは言った。
「一つ着ければ、魔力が四倍。二つ着ければ十六倍。さて、銀髪の僕が着ければ僕の魔力はいか程に?」
「……おい、それで何をするつもりだ?」
「もちろん、『弱者』の駆逐さ」
「ウゲード……?」
聴き慣れない言葉に春斗が首を傾げると、素早く晴希が説明を加えた。
「魔法使いじゃない人間のことだ」
「おや、君はもしかして見習い(サートン)になったばかりなのかい? なら覚えておくと言い、弱者は本来存在しなくていいものなんだ。必要なのは魔法使いだけだ」
「でも、魔法使いより魔法使いじゃない人の方が多いですよね?」
春斗の疑問に、クラウドは呆れたように首を横に振った。
「魔法が使えないうえ、頭の出来も体の出来も遥かに劣る者に存在意義はないよ。寧ろ、世界を荒らしているじゃないか。そういうことで、弱者は親切な僕が全部消してあげようと言う訳さ」
そしてクラウドは流れる様な手付きで自身の耳にピアスを刺した。
「ふはは! 素晴らしいよ、力が漲るとはまさにこのことなんだね!」
確かにクラウドの身体から凄まじい程の何かが湧き出てくるのを、春斗は間近で感じた。
「おいクラウド!」
「大丈夫、約束通り、そのピアスを持っていた彼女と、魔法協会関係の人には手を出さないよ――その前に、もう一つのピアスを返して貰うけどね」
「捕縛!」
どこかに向かおうとするクラウドに晴希は杖を振るった。振るった先から銀色の光の弾が発射されるが、クラウドは空いた手を軽く横に振るうだけで光を散らした。そのまま飛翔したかと思うと五つ向こうの応援席のテント前に降り立った。光以外を示していた、もう一つの赤い光の元に。
春斗も追いかけようとしたが、晴希に腕を掴まれた。
「俊足」
晴希がそう呟いたかと思うと、腕が外れるくらい強く引っ張られる。瞬く間にクラウドが降り立ったテントの前にたどり着く。
クラウドは一人の女子生徒からスマートフォンを取り上げていた。そのありふれたスマートフォンのイヤホンジャックに見覚えのあるアクセサリーが付いていた。
「全く、高貴なピアスをこんな風に改造するなんて……」
吐き捨てるようにクラウドは呟き、荒々しくイヤホンホールからそれを抜き取ると、スマートフォンをその女子生徒の顔面に向かって投げつけた。
「なんてことをするんですか?!」
春斗は間一髪でそれを受け止めた。
「何を言ってる、それの罪はもっともっと重い。死すら生ぬるい。そうだな……まず、それの目の前でここにいる虫けら達を一人一人殺し、肉親も嬲る様に殺そう……その次は、また後で考えるか……」
クラウドはぶつぶつと一人呟き続ける。
もし晴希がそんなことを言い始めたら、何中二病っぽいこと言ってるんだと笑い飛ばすところだが、相手は大人、しかもかなりの力を持った人間が真顔で言うと笑えない。
「春斗、その子連れて逃げろ」
「え、逃げるって……」
「俺がなんとか足止めするから、お前は望先生探して叩き起こしてくれ」
起こすってどうやって――と訊こうとすると、それより速く晴希は行動した。
パチン
乾いた音が小さく校庭に木霊した。
「「え?」」「あ」
三人の声が同時に発せられる。
「春斗、行け」
晴希が掴んだ女子生徒の腕をそのまま春斗に渡した。
「あ、あの……」
突如覚醒した少女は目を白黒させる。
「笹川さん――」
「逃がさないよ! 束縛」
「解放!」
クラウドが瑞樹に向けて出した光が、瑞樹に当たる直前に透明な壁の様なものに当たって砕け散る。それを皮切りに晴希とクラウドの攻防が始まった。
どう見ても自分達を守るしかない晴希が劣勢だった。
「――こっち!」
春斗は瑞樹の腕を引いた。
春斗達は駆けた。春斗は瑞樹に特に事情は説明できていなかったが、周りの状況に驚きつつも瑞樹は何となく察して春斗の指示に従ってくれていた。
晴希に言われた通り、望を探すがこんな時に限ってなかなか見つからない。時々クラスのテントにも顔を出してくれていたのに、今はどこにいるのか全く見当が付かない。そもそも何故望を起こせと言われたのかも春斗は理解していなかった。
「望先生どこだ?」
「見つからないね!」
こうして春斗達が全力で探している間も、じわりじわりと晴希達の攻防がこちらに近づきつつあった。
「あ、トラック内の選手整理してるんじゃないかな?!」
「行ってみよう!」
朝礼台の後ろから駆けだし、トラックに向かう。固まって動かない人が行く手を阻む。人ゴミの切れ間を探すと、ゴール付近が開いていた。ゴールテープをゴールの外から突き破ると、急に瑞樹が立ち止った。
「いたよ!」
「どこ!?」
トラック内ばかり見ていた春斗は見落としていた。
ゴールテープを持つ生徒の隣に望が立っていたことに。
「えっと、どうやって起こすんだっけ――」
焦る頭で必死に思い出す。
「そうだ、ビンタだ!」
躊躇いつつも望の頬を軽くビンタする。晴希が瑞樹にしたときより遥かに軽い音がした。
「……起きないね」
「なんで?」
望の顔にもう一度、それでも起きずに更にもう一度ビンタをする。
「なんで?!」
「ビンタ以外に何か特別なことしてなかった?」
「えーっと……」
必死にその時のことを思い出そうとするが、ビンタ以外に思いつかない。
「思考停止系の魔法にかかった人を覚醒させるには、他人の魔力と刺激が必要だよ」
頭の上から言葉が降って来た。
振り仰ぐと、そこにはいつぞやに見た女性がいた。賢人達に何と呼ばれていたのか、混乱している今では全くもって思い出せない。
「人が浮い――」
瑞樹の驚きもその女性は無視をする。
「魔力を込めてビンタ!」
「あ、はい!」
春斗は精一杯右の掌に集中する。魔法の勉強を始めて以来、一度も魔法を成功したことはなかった。しかし、身体から魔力を集めることだけはできていたはずだ。
「――」
気が付くと右手が熱くなっていた。そのまま、望の顔に掌を叩きこむ。
ぱちん
掌と望の頬が接触したとたん、掌の熱が抜けていくのが分かった。
「え、桜井君?」
望がキョトンとした顔で春斗を見つめる。
「先生、助けてください! 晴希が……」
春斗の言葉と周りの状況で望は瞬時に状況を理解した。
「司がいない時に限って――」
そう呟いて自身のポケットからスマートフォンを取り出した途端、状況が一変した。
「来る、成虫が――」
「え?」
ツキリと未だに直っていない額のたん瘤が痛んだ。
宙に浮く女性が見上げた校庭の上の空間が歪んでいる。
声を上げる間もなく、見上げる空に罅が入り、砕けた。
「何これ――?」
瑞樹は今までにない光景に顔色を真っ青に変える。望も春斗も突然の出来事に顔が青ざめた。
最初に現れたのは蝿。学校の校舎一つ分程度の大きさだった。
その蝿が時空の穴から地上に降り立つ。次に現れたのはその子供、蛆。親である蝿に続いて、次々と地上に舞堕ちた。
蝿も蛆の大部分も、晴希とクラウドがいる方に向かっておぞましい歩みを進める。
「晴希――!」
望が駆けだした。宙に浮く女性も瑞樹も反射的に望が向かう方へ駆ける。しかし、春斗だけは違う方向に向けて駆けた。
直感的に今の望先生だけではあの蟲を退治できない気がした。それにあの変な魔法使いも今の晴希にも……。
――星野さん……!
魔力が高い光が蟲に襲われる心配もあったが、何より今、あの蟲を退治できるのは光しかいないと思った。
***
本気リレーが始まった、そう思った次の瞬間、他クラスの男子にビンタされていた。
「え?」
思わず勝手に口から言葉が零れた。ビンタした男子は瑞樹の顔を僅かに窺うと、隣で驚いた顔をしている男子生徒に瑞樹の腕を掴ませる。
「春斗、行け」
瑞樹は意味が分からなかった。自分はさっきまで本気リレーの始まりをドキドキしながら待っていたはずだ。なのに何故いきなり知らない男子にビンタをされているのだろう。
「あ、あの……」
状況を説明して貰いたかった。
「笹川さん――」
「逃がさないよ! 束縛」
突如ビンタしてきた男子の向こうから声が聞こえた。白い光の弾が自分目掛けて飛び出してくる。当たると思った瞬間、
「解放!」
目の前にあったのか、できたのか、透明な壁の様なものに当たってそれは砕け散った。
――な、何?
目の前の男子と奥にいた外国人の銀髪の男が、魔法の様なもので戦っている。
どうやら、何故か自分はあの男性に狙われており、先ほどビンタしてきた男子生徒は自分を守ってくれているようだった。
「――こっち!」
隣にいた男子に腕を引かれる。その男子生徒は、そういえばいつぞやに粉々になったパッキーの片づけを手伝ってあげた男子だった。
瑞樹は腕を引かれるがまま走る。走り始めて気が付く、自分達以外の人間の時が止まったかのように静止していたことに。それなのに何故か校庭には放送の曲が流れ続けていた。
「どうなっちゃたの?」
「魔法で硬直してるだけだって」
「魔法?」
「そう、魔法」
目の前の男子は、元々細い目を更に細めて苦笑いする。
魔法なんて、映画の世界みたいだなんて他人事のように思った。
「望先生どこにいるか知ってる?」
「望先生? ――知らないなぁ……」
瑞樹は走るのは大の苦手だったが、不思議と今は脚が軽かった。いつもなら完全に息が上がっている距離を走っているのに、今は息が上がる気配がない。これも魔法なのだろうかと頭の片隅で思った。
「望先生を探してるんだ、見つけたら教えて! あとよく分かんないだろうけど、銀髪の人に捕まったらダメだ」
こくりと瑞樹は頷き、望を探しにかかる。教員控えのテントに向かったが、望はいなかった。近場の教員がいそうな場所から手当たり次第に探すが、望の姿は一向に見つからない。
「望先生どこだ?」
「見つからないね!」
男子は声を荒げる。瑞樹の目にも彼がかなり焦っているのが分かった。
早く見つけれなければ、もう直あの怖い人に追いつかれてしまうかもしれない。必死で瑞樹は思い当たる節を探す。
「あ、トラック内の選手整理してるんじゃないかな?!」
「行ってみよう!」
朝礼台の後ろから駆けだし、トラックに向かおうとするが、固まって動かない人が邪魔でトラックに入れない。人ゴミの切れ間を探すと、ゴール付近が開いていた。ゴールテープをゴールの外から突き破る。もしかしたらとゴール付近も確認すると、探し人の姿が見つかった。
「いたよ!」
「どこ!?」
男子は望の姿を確認するなり、望に駆け寄った。
「えっと、どうやって起こすんだっけ――そうだ、ビンタだ!」
え、先生にビンタ? と一瞬瑞樹は固まるが、自分も恐らくビンタで起こされたと考えると、なんとか納得できた。
男子が先生にビンタをする。小さいが痛そうな音が聞こえた。しかし、望は一向に正気を取り戻す気配がない。
「……起きないね」
「なんで?」
焦ったように彼は何度も望の顔に掌を叩きつけた。しかし、その全てに結果が得られない。
「なんで?!」
瑞樹は原因を考える。この異常な状況で自分でも不思議なほど冷静でいられた。恐らく自分以上に混乱している人が隣にいたからだろう。
――魔法で動かなくなったのなら、元に戻すには手で叩く以外に何か必要なことがあるんじゃないだろうか?
「……ビンタ以外に何か特別なことしてなかった?」
「えーっと……」
彼は困ったように頭を抱えた、その時だった、
「思考停止系の魔法にかかった人を覚醒させるには、他人の魔力と刺激が必要だよ」
頭の上から言葉が降って来た。驚き、振り仰ぐ。顔立ちの整った若い女性が一人宙を浮いていた。
「人が浮い――」
「魔力を込めてビンタ!」
「あ、はい!」
女性の声に彼は従う。彼は瞳を閉じると右手に集中するように、右手の掌を開いた。
何かが彼の掌に集まっていると思った瞬間、彼は望の頬にビンタした。
ぱちん
小気味良い音が鳴った。
「え、桜井君?」
「先生、助けてください! 晴希が……」
瞬時に望は状況を理解した様だった。
「司がいない時に限って――」
そう呟いて望が自身のポケットからスマートフォンを取り出した途端、状況が一変した。
「来る、成虫が――」
宙に浮いた女性が呟いた。
「え?」
彼女が見上げた校庭の上の空間が歪み、瞬く間に割れた――。
「何これ――?」
瑞樹は自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。友達とか学校中の人間が動かなくなるとか、目の前で映画みたいな戦いが始まるとかそこまでは耐えられた。しかし、これは瑞樹にとっては完全に容量オーバーのできごとだった。
――空が割れた。
地上から見上げる形で見ていた瑞樹にはその様に見えた。そしてその割れた亀裂から、巨大な蝿の様なおぞましい生き物が、獲物を探す様にその大きな目を覗かせながら出てくる。蝿が食事中によくするように、その生き物も前足二本を擦り合わせていた。
暖かいにも関わらず鳥肌が立つ、腕を摩ろうと、瑞樹が無意識に腕を上げると今度は小さくガラスの様な物が割れる音が傍から聞こえた。しかし疑問を覚えたのも束の間で、すぐに巨大な蝿の動向に気が移る。
その蝿がグラウンド降り立った――腹の下には本気リレーを観戦しに来ていた多くの生徒がいた――次には、蛆。人の子供程度の大きさがある、大きな蛆が先に降り立った蝿の上や、グラウンド、テント、果てには生徒や来場者の上にぼてぼてと舞堕ちる。
それらは先ほどから戦っている二人の方に歩みを向けていた。
「晴希――!」
望先生がそちらの方に向けて駆けだした。瑞樹も宙に浮く女性も一緒になって後ろ姿を追いかける。
暫く駆けてから、一緒にいた男子生徒がいないことに気が付いたが、望を追いかけるので精いっぱいだった。
***
「静止」
言葉と同時に薄白い光の弾が晴希に向かって放たれた。
「動的!」
晴希はそれを一言で片づける。返しとばかりに言葉を付け足すと、今度は晴希の杖――正確には木を基調とした重厚なデザインのシャープペンシル――からクラウドより少し明るめの光が放たれる。
「停まれ(ケスィード)!」
「進め(サナルカナル)」
しかしそれも簡単に弾かれて、新たな呪文を返される。
「深い眠り(カスタトロ)」
「目醒め(リエント)!」
「遅い人」
「早い人!」
光の弾が放たれては弾けるをくり返す。暗い中で行えばある種の花火のようにみえるだろう。
「病め(オンドルフ)」
「健康!」
延々と繰り返される攻防に晴希は小さく舌打ちをする。
晴希の魔力は確実に削られていた。相手の魔法を打消すには相手が使った魔力と同等かそれ以上の魔力が必要なのだ。クラウドは晴希の力をみるためか、自分に手加減していることは分かりきっていたが、それでも晴希はそれに抵抗するしかできない。
クラウドは指名手配犯ではあったが、魔力痕がのこらない隠密魔法は直接使っていなかった。代わりに、一定範囲の魔力痕残さず、外部に異常を気づかせない隠密魔法が学校全体にかけてあった。これでは外部にいる、晴希の師匠である桜庭司でも学園内の異常には気がつけない。
どれほどやり取りを交わしたのだろう、相手の魔力の減り具合が分かり始めた頃に自分の魔力の底が見え始めた。修行以外でこんなに魔力を消耗するのは初めての経験だった。
自分の魔力は多い方だとは理解していたが、今ほど自分の魔力の多さに不足を感じたことはなかった。クラウドが着けている『女神のピアス』は片方だけ、片耳だけでは着用者の魔力はおよそ四倍にしかならないが、元々の魔力が同程度の者同士では大きな差となる。クラウドが着けていない、もう片方のピアスを元々着けていられれば、恐らく魔力の量では晴希が勝てていたのだろうが、そのピアスは現在ピアスの形ではなくなってしまっているし、ピアスを直す暇もない。そもそもそのピアスもクラウドが持っている。
晴希は埋められず、寧ろどんどん開いていく差が悔しかった。
まだ一五分も経過していないが、一時間以上この状態が続いている気がした。春斗が望を起こし、師匠にさえ連絡が取れれば問題は収束に向かうことは分かっていたが、春斗が望を見つけ起こすまで、自分が持つかが怪しい状態になってきている。
遣い魔を出すことも考えた、しかし出したところですぐに消され、魔力の消耗にしかならないことが分かりきっていたのでそれは止めた。
何にせよ、晴希にはもう五分もクラウドを足止めできるかどうか怪しい状態であった。打開策が思いつかず、小さく舌打ちをした所で、周囲の空気が変わり果てていることに気が付いた。
巨大な何かが割れた音に空を振り仰ぐと、それと目が合った――正確には、気がした。
晴希の様子に、遊びに集中していたクラウドも空を振り仰ぐ。
「蟲――」
割れた時空の隙間から、巨大な蝿の様な生物がこちらを見つめていた。
「防御結界!」
晴希は咄嗟にクラウドの結界内にいる全員に対し、結界を張った。この結界は対象物の表面に張られるのだが、硬性のため、中のもの――結界で守っているものが動いたりしてしまうと壊れてしまう。本来なら動いても問題ない軟性の結界を張りたいところだったが、魔力が足りなかった。
晴希は前につんのめるように倒れた。
もう晴希にはあの蟲を退治するどころか、自分の身を守る力すら残っていなかった。いや、それ以前に生命活動をギリギリ保てる程度の魔力しか残っていなかった。時間が経てば回復するが、現在は一般人以下の魔力しかない。
全速力で走った後のように呼吸が整わない。心臓が激しく脈打っている。
どこかに飛んでいってしまいそうな意識を必死に繋ぎとめる。
恐らく望一人ではあの強大な蟲は退治できないであろう。しかし、外部の応援を待とうにもクラウドの結界により、外部からはこちらの異常を察知することはできない。まず何より春斗が望を覚醒させなければ、話は始まらないのだが……。春斗は望を見つけられたのだろうか。それ以前に、クラウドが魔法を解けば――否、それでは晴希がかけた結界が効かなくなってしまう上に、一部の蟲が外に逃げてしまう恐れがある。
――くそっ、間が悪い……。
舌打ちしようにも舌にすら力が入らず、仕損じる。
しかし、晴希はこの状況が起こるべくして起こったことであることは分かっていた。銀髪の魔法使いが二人同じ場所に二日程度いるだけで蟲はやってくるものなのだ。
現在クラウドの魔力は銀髪四人分、それに晴希も合わせると計銀髪五人分の魔力がこの場にあることになる。また、最近強大な蟲がこの周辺を狙っていることは分かっていた。
晴希は必死に視線を上げる。クラウドの表情を見て、再び舌打ちを――仕損じる。
――こいつ……。
晴希はクラウドの顔から僅かに漏れる焦燥を見逃さなかった。普通の人間では気が付かないであろう、クラウド本人も気が付いていない、僅かな焦り。
――蟲退治をあんまりしてこなかったな。
魔法使いとしての生き方として真っ先に分けられるのが、『蟲と積極的に闘っていくか否か』である。この考え方でいくと、晴希は積極的に闘う方で、クラウドは自分を襲う蟲しか闘わず、できるだけ蟲との接触を避ける方だ。
晴希のように積極的に闘っていると、四、五年に一度は今回の様な強大な蟲と出遭うが、クラウドのような魔法使いはまず出遭うことはない。
蟲を退治するには魔力ももちろん必要だったが、それなりに強い蟲を退治するためには経験も必要不可欠なのだ。クラウドにはその経験が晴希よりも圧倒的に劣る。
だから晴希にはクラウドの高笑いも、自分を奮い立たせているようにしか見えなかった。
『ハッハッハッ! まさかここで力を試せる獲物が現れるとは、絶好の機会!』
蝿がクラウドの前に降り立った。続いて蛆が母親の後を追う子供のようにグラウンドやそこにいる生徒の上に舞堕ちる。
一部の蛆は地上に落ちる前にクラウドに焼き消された。
晴希の真横にも蛆は落ちてきたが、魔力がほとんどなくなっていたことと目の前にクラウドという大きな餌があることから狙われることはなかった。
次々と襲いかかる蛆をクラウドは手あたり次第に焼き消していく。
蟲退治の定石は、まず発生源である次元の穴を簡易的に閉じることなのだが、クラウドは圧倒的な蛆の量と不気味に佇む巨大な蝿のプレッシャーからかそのことを忘れてしまっている様だ。
――頼むから、目だけは合わせるなよ。
そう晴希が思った瞬間、あろうことかクラウドは蝿を見上げてしまった。蝿の個眼の一つとクラウドの瞳が視線を交わす――途端、クラウドの動きが止まった。
晴希は単純に終わったと思った。
クラウド、そして恐らくここにいる全ての人間の人生が。
蟲に少しでも恐怖を感じている時に、蟲と目を合わせてはいけない。
クラウドは焦りから忘れていたが、これも蟲退治における常識だった。蟲は己への恐怖を見破り、相手を支配する。
動けなくなったクラウドに我先にと蛆が集る。クラウドは悲鳴を上げる間もなく、身体の全てを蛆に包まれた。更にその上から、蛆の隙間を縫うように蝿の口が射しこまれる。
「ああぁぁ……」
小さく、くぐもったクラウドの声が聞こえた。
「晴希――!」
聞き慣れた声が頭上から響き、視線のみを上げる。何年振りに見るであろう、望の焦りきった顔が視界に入った。
望は晴希と視線が合うなり心底案した様に破顔する。
「二重結界!」
望は後に付いてきた笹川や美琴も一緒に入れて結界を張った。
「大丈夫、晴希君?」
美琴の言葉に晴希はほんの僅か頷く。頷いて本来あるべき影が足りないことに気が付く。
望が張った結界の中には、春斗の姿がなかった。
「――」
晴希の動揺の理由を察したかのように、美琴は報告する。
「春斗君ならDクラスのテントの方に走っていったよ」
晴希は薄らとしか開けなくなっていた目を大きく見開く。
――なんで?
そして春斗につい最近できたばかりの恋人の存在を思い出す。彼女を助けに行ったのかとどこか寂しく思った。
現在の状況は非常に逼迫していた。現在クラウドを襲っているあの蝿の蟲は晴希が全快の状態で、かつ望らの援護があってやっと退治できる程度の蟲である。しかし現在は、晴希の数倍魔力がある状態のクラウドの魔力を食った状態で、かつ攻撃の要の晴希が戦闘不能な状態なのだ。晴希以上の魔法使いはこの空間にいない、そして外からの救援は考えられない――完全に詰んでいるなと晴希は心の中で苦笑いする。
――春斗、お前彼女助けに行っても、このままだと皆死んじまうんだからな……。
***
春斗は今までにない速さで運動場を駆け抜けた。
――星野さん、晴希!
すぐに光の元にたどり着き、右の掌に集中してから右腕を振りかぶる。もちろん罪悪感はあったが、それどころの話ではなかった。
「起きて――」
掌が光の頬と接触する瞬間、腕の動きが止まる。右腕が掴まれていた。
反射的に覗いた光の瞳と目が合った。
「ごめん、起きてる」
悪戯っぽく光は笑った。笑いながら光は何事かを呟いて変化を解く。
変化を解くなり光は更に別の呪文のようなものを唱えたが、春斗には聞き取れなかった。呪文を唱えた途端、周りの人間に薄く膜の様な物の上に更に膜が掛かった。もう結界張ってくれてるみたいだけど、念のためと光ははにかんだ。
「クラウドさんもドジだなぁ。不用意に魔力を増幅させるから、蟲が急に寄ってくるんだよ」
変化を解いた途端、一斉に蟲が光に襲い始めたが光はそれを全く意に介さない。
「全く、面倒なことこの上ない」
気が付くと、光は極細パッキーを一本手に構えていた。パッキーを指揮者のように優雅に振るいながら、光は難なく蛆を退治していく。
光を目の前に蟲たちは呆気なく消えていく。火を使っているのに、動きが止まっている人間を害する様子は一つもなかった。
蟲の量の多さに光が僅かに溜息をついたかと思うと、光は小さく呟いた。
「踊り狂う白炎」
瞬時に目の届く範囲にいる全ての幼虫型の蟲に、薄白い靄の様な物がかかった。あまりの蟲の多さから校庭全体が靄に包まれたように感じた。
それぞれの蟲が苦しそうにのたうち回り靄に抵抗するが、一向に靄が蟲から離れる気配がない。寧ろ蟲が暴れ狂うほどに靄は色を濃くした。春斗はその靄の端から蟲の身が焦げていく様を見て、それが靄ではなく白い炎であることに気が付いた。不思議と焦げた臭いはしなかった。
――白い炎の魔法……。
改めて魔法であることを認識して、春斗はやっと光の魔力を感じなかったことに気が付く。そして思い返してみると、光が蟲を退治している時に初めて居合わせた時も、その他に光が魔法を使っている時に居合わせた際も、光の魔力らしき違和感を一度も感じたことがないことに気がついた。
目の前で蟲を食べるように白い炎が踊る。
春斗が何故? と思った時には辺りには元いた蟲は見る影もなかった。
光は急に春斗の腕を掴んだ。
「行くよ! 飛翔する勇者」
え、という間もなく、腕が急激に上に引っ張られる。
「うわぁぁああ!」
「あははっ」
気が付くと校舎の屋上と同程度の高さにいた。驚く春斗を見て光は楽しそうに笑う。
時空の穴の目の前までさらに飛ぶと、光はそこに立ち止まった。
向こう側にいた全ての蟲はこっちに来てしまっていたらしく、空がただぽっかりとその巨大な口を開けているようだ。あまりの暗さに、穴を覗いた春斗は思わず生唾を飲み込んだ。
「えいっ」
光はパッキーを持つ腕を大きく上から下に振るう。光の動きに合わせて、穴の端が上から下に閉じた。今度は下から上に腕を振るうと、空の口も下から上に閉じる。それを数回繰り返すうちに、時空の穴は見る影もなくなってしまった。
「降りるよ」
「うん」
されるがまま、春斗は光に腕を引かれ地上に向かって降りていく。重力を感じず、内臓が浮いた感覚が気持ち悪かったので有難かった半面、降りる先に先ほどからずっと見えていた巨大な蝿がいるのであまり行きたくないという気持ちもあった。しかし、蝿がいる辺りは晴希がいた所だと気が付くと、そうも思わなくなった。
晴希が蝿付近で倒れているのが見えた。晴希と蝿の間には望が立っており、望と蝿の間には薄い球状の膜があるのがわかった。
地上に降り立つ。
「晴希!」
まだ少しふわふわする脚で春斗は晴希に駆け寄った。薄い膜をそのまま突き進んだが、薄い膜は何の妨害にもならなかった。
晴希は瑞樹に膝枕をしてもらい、幾分楽そうだった。薄眼を開けて春斗の無事を確認すると、僅かに苦笑いした。
「星野さん、ありがとうございます」
望は用心深く蟲を睨んだまま言った。
「クラウドさん、負けたんですね……」
同情するように光が見つめる先には、上半身だけになったクラウドの身体があった。
隣にいる瑞樹が悲惨な光景に震えているのが分かった。春斗もその光景に思わず嫌な鳥肌が立った。
後ろを振り向き、思わず望は首を傾げた。
「あれ、なんで春斗君がこっちに?」
「え? どういうことですか?」
春斗も首を傾げた瞬間、地面が僅かに揺れた。単純に蝿が動いただけであったが、動いた目的が問題だった。
「――星野さん!」
光は春斗とは異なり、望の結界内には入っていなかった。蝿が巨体とは思えない素早い動きで光を食すべく腕を動かす。しかし、光は咄嗟に叫んだ春斗に振り向き、蝿に背を向け春斗に微笑んだ。そして振り向きもせず蝿に向かって手にしていたパッキーを投げつける。それは矢のように真っ直ぐに飛んでいき、振り上げられた蝿の腕の根元を突き抜けた。
透明な蝿の体液と共に、身体から分離された腕が地上に落ちる。不気味な悲鳴が校庭に響いた。
「――凄い」
望が小さく呟いた。
「怯える小動物」
光は呪文を唱えると、四階建ての校舎に匹敵する高さの蝿の頭上まで跳躍し、ピクリとも動かなくなった蝿の頭上に降り立った。
光の姿が蝿の複眼に揺れる。
いつの間にか光は自分の背丈の半分ほどの大きさの極細パッキーを手にしていた。傾いた太陽を背に佇む姿は、不思議と剣を手にする勇者のように見えた。
「さよなら」
光は極細パッキーを蝿の脳天に衝き刺した。黄色い閃光が蝿の顔を突き抜ける。一拍おいてから腕の時とは比べ物にならない程大きな奇声が校庭に響き、黄色の光に包まれたかと思うと、巨大な蝿の姿が見る影もなく消えていた。
光は今でも何故か息があるクラウドの傍らに降り立ち、膝を付いた。春斗もそこに駆け寄る。
「……生きてる?」
光は春斗の言葉に頷く。
近くでみるクラウドの状態は、遠くで見た時より、より悲惨な状態だった。腹から下の部分が欠損しているのは分かっていたが、粗方の腸が抜かれ肋骨の膨らみで身体の膨らみを保っている状態を目の当たりにすると、寧ろ何故この状態で生きているのかが不思議に思えてくる。
生きているという点と、あまりに現実から乖離した身体の状態が春斗の感覚を狂わせていた。
『死にたくない……』
クラウドが僅かに頭を揺らした。
振り乱れた髪の隙間から、女神の雫が顔を出す。静かに光が言葉を返す。
『魔法が使えなくなっても?』
クラウドは本当に少しだけ目を見開いた。
『貴方の嫌いな弱者になっても?』
『弱者に、なるぐらいなら、死んだ方が、ましだ』
吐き出す様に言ったクラウドに、光は冷たく微笑んだ。
クラウドはその頬笑みから光の意図を読み取り、酷く焦りを見せた。
『やめろ……やめて、くれ』
『決定権は貴方にない』
冷たく言い放つ。
クラウドはすがる様に光の腕を掴もうとしたが、そこまでの力は残されておらず、指先がピクリと動いただけだった。
光がクラウドの額に手を置く。同時にクラウドを中心に足元に魔法陣が描かれる。
春斗もその魔法陣の中にいた。魔法陣を描く光が強くなる度に、魔法陣の中に力が充ち溢れてくるのを感じた。何万光年先にも光が届く、そんな恒星が光輝くような、美しく、そして強い力――これが光の魔力なのだと気が付いた瞬間、その力が光の手に収束し、クラウドの身体に流れ込んだ。クラウドの身体が眩しい程の黄色い光を帯び、延びていく。
「凄い……」
春斗は思わず呟いた。瞬いた次の瞬間には、クラウドの身体が元に戻っていた。ご丁寧に服まで元通りであったが、ある一つの特徴だけは違っていた。
クラウドは身体が修復されるなり、飛び起きた。起き上がるなり、自分の髪を摘まみ、色を確認すると酷く動揺した。
「あああぁ……。なんてことを……」
光は冷たい表情でそんなクラウドを見つめていた。
クラウドは自分の皮膚の変化にも気がついた。皮膚は張りを失い、皺が目立っている。先ほどまでは『青年』という風貌をしていたが、今は『初老』という方が近い。春斗はその姿を見てやっと、クラウドの本当の年齢が分かった様な気がした。
「くそ……なんで……っ」
クラウドは光の襟元を掴んだ。声も張りのあるものから一転、覇気のないしゃがれたものになっていた。
光はその姿を憐れむように見返す。
「貴方も貴方が見下し虐げてきた、弱者として、罪を償いながら残りの生を全うしなさい」
「――」
尚も何かを訴えようとするクラウドの額を、光は軽く人差し指で弾いた。
「?!」
クラウドの動きが止まる。瞬きでさえ、できなくなる。光はそんなクラウドの耳からゆったりと女神のピアスを外した。そのまま自分の耳に着ける。瑞樹から奪っていた――正確には取り返した――ピアスもクラウドのポケットから取り出した。掴まれていた襟元の手を外し、逆にその手首を片腕で掴むと、再び額を人差し指で弾いた。
金縛りが解けたようにクラウドは動き始める。呼吸も止まっていた様で、息が上がっていた。崩れ落ちるように、地に膝をつく。
「嫌だ……私は……何故、こんな…………」
クラウドの傍らに望が立つ。望はどこからか持ってきた綿製のガムテープでクラウドの両手首を固定した。年老いた、魔法も使えないクラウドを捕縛するにはそれで十分だった。
「一緒に来てもらおうか」
望の口調はきつくはなかったが、有無を言わせない迫力があった。返事を待たず立ちあがらせると、望は光に
「申し訳ないけど、後は任せていい?」
と言ってクラウドと共に校舎内に入っていった。
「望先生も魔法使いだったんだ……」
「そうだな」
ひとり言のつもりだったが、地面の方から返事がきた。
「なあ、晴希いつまで女の子に膝枕してもらってるんだ?」
「うるせー、俺は魔力を使い果たしてクタクタなんだ」
言い訳をする晴希は放っておいて、春斗は瑞樹に謝罪する。
「ごめんね、膝枕させちゃって……」
「あ、うん、別に私は大丈夫だよー」
慌てて瑞樹は両手を振った。
「ほら、見っともないぞ」
春斗は晴希の手を掴み全身を使って起き上がらせる体勢に入る。
「おい、俺本当に疲れてん――ちょっと、ストップ」
焦り声から急に真面目な声になるので、春斗は驚いて振り向いた。
振り向くと眉間に皺を寄せて心底不思議そうに春斗を見る晴希と目が合った。
「なんだよ」
「いや、お前に手を握られたとたん、急に魔力が増えた」
「は?」
「春斗、手、放してくれ」
春斗は言われるまま晴希の手を解放した。晴希は一つ頷くと、再び春斗に手を繋ぐように要求する。それを何度か繰り返した。
「――やっぱり、春斗、お前が原因だ」
「何が?」
「お前と手を繋ぐと、魔力が増える」
「魔力が増える? 回復してるだけじゃないのか?」
春斗に考えが伝わらず、晴希は苛立ったように頭を横に振った。
「違う違う。お前と手を繋いでる時だけ、魔力の回復速度が上がってるんだ。つまり、時間当たりに生成される魔力が増えてるんだ」
「早く回復するなら良かったじゃん」
再び晴希はもどかしそうに頭を横に振った。
「いや、うん。それは俺としても助かるんだけどさ……問題は、何で増えるかってことなんだよ」
「魔法使い同士の相乗効果とかじゃないのか?」
ままならないとばかりに晴希は溜息をつく。
「何だよ……」
深く溜息をする晴希を見ていると、視界の端を黒い影が横切った。
クラウドの魔力を食べて成虫化した蝿が、羽音を殺して飛翔していた。それが真っ直ぐ光に向けて気配のない殺気を出しながら飛んでいた。
どうやら春斗以外誰も蝿の存在に気が付いていないようだった。蝿はロケットのように速く空を切る。あと一秒も経たないうちに光を襲うだろう。
――星野さん!
春斗はクラウドのあの悲惨な光景が思い出され、頭が真っ白になった。空っぽの頭で何か呪文を唱えなければと思ったが、そもそも唱える呪文が思いつかない。しかし身体が脊髄反射のように勝手に動いた。自分の身体でないように、勝手に人差し指を蝿に向け、口を開く。
「太陽の断罪!」
突如空から一筋の火の矢が現れ、音速で飛行する蝿を音もなく刺し貫いた。一瞬で人の握り拳台の大きさの蝿は焼き消え、後には灰すら残らなかった。その光景まで見てやっと春斗は金縛りが解けたかの様に自分で声を発した。
「あ――」
意識のある者は皆、春斗を驚いた顔で見つめていた。
「春斗、今の――」
「違っ――勝手に口が……」
「お前、そういえば望先生の結界も通り抜けてたよな?」
「結界って、通り抜けれないものなのか?」
「違うのもあるけど、基本そうだな」
「――うっ」
急に口の中の酸味が増した。春斗は耐えきれずその場に蹲って嘔吐した。気が付くと光が春斗の隣に座って心配そうに背中を擦ってくれていた。光は強く晴希を睨む。
「晴希君、責め過ぎ!」
その言葉に平手打ちを食らったかのように、晴希は目を白黒させた。
「あ……」
「とりあえず桜井君が落ち付いたら、思考停止魔法解除するからね。これ以上延びると、学校の七不思議になっちゃう」
光の鶴の一声でその場は一旦解散になった。春斗の体調がある程度戻った時点で、光がクラウドから引き継いでいた魔法が解除され、体育祭が再開された。
春斗はスタートのタイミングを合わせるのに一苦労したが、なんとか一走目を首位で切り抜けた。しかし最終走者である晴希は、ある程度体力は回復したものの、体調は万全ではなく、残念ながら本気リレーでの一位は逃してしまった。




