冬の女
それは、冬の初めの頃だった。
その日は、彼が昼間から店に来ていた。いつも通り、カウンター席の端に座り、ランチを食べていた。
そして彼女は、ランチタイムの終わる少し前に来店したお客様だった。彼女は、ちょうど彼の後ろ側にある、二人掛けのテーブル席に一人で座った。
ショートカットにボーイッシュな服装。年のころは十二、三歳くらいと思われた。ろくに手入れされてないと見えるぼさぼさとした髪に隠されて気づき辛いが、端正な顔立ちをしていた。少年なのか、少女なのか見分けがつかない。声をかけようとすれば誰しも、どちらであることを前提に話しかければいいのか迷ってしまうだろう。
彼女はレモンティーをオーダーし、それを飲みながら窓の外を見ていた。
その日は天気も良く、日に日に寒さが増していく中でほんのりと気持ちを和らげてくれるような陽気だった。
窓の外を歩く人も久しぶりに多く見られた。彼女はその流れを眺めているように見えた。誰かと待ち合わせなのか、その相手を探しているのか。そのようにも確かに見えるが、ただただ眺めているようにも見えた。どうにも掴みどころのない、いろんな意味で判断しかねる存在だった。
やがて、彼女ははっとして立ち上がった。待ち人を見つけたのかと、私は一瞬思った。だが、すぐに席に着いた。
窓から目を離し、俯いて紅茶を飲んでいる。何故か彼女の表情には苦悶の色が浮かんでいた。残念ながら彼女が何を見たのか、私にはわからなかった。待ち人と思ったのが人違いだったのだろうか。それにしては少し事情が違うような、そんな気がした。
やがて、ランチ営業の時間の終わりが迫り、店内には彼女と彼だけが残っていた。彼はランチを食べ終わり、食後のコーヒーを優雅に楽しんでいた。
彼女の前にはすっかり冷めたレモンティーがあった。
「…ね、聞きたいんだけどさ。」
店内に他に誰もいなくなったのを推し量るようなタイミングで、誰へ、ともなく彼女がそう言った。
「男の初恋って、何歳くらい?」
店内には私と彼しかいない。そして、両方とも男である。彼女の問いは、私たち二人に向けられたものだろうか。一瞬迷ったが、私はそう判断し、そうですね、と少し考えた。
「何を以て、初恋、と定義すれば良いのか、この年になると少し迷います。」
私は困って笑ってごまかした。正直、恋愛経験は全くないというわけではないが、多い方ではもない。そして、語るほどの何かがあるわけでもない。お茶を濁していると彼女が更に訊いてきた。
「じゃあ、初めて女と付き合ったのは?」
「何故、そんなことを聞く?」
少し不機嫌そうに彼が口をはさんできた。質問内容は確かにプライベートにかかわる事だから、答えたくない人もいるだろう。実際、私は少し困っている。答えたくないわけでは無いが、答えることもない。そういう人間は私だけではないと信じたい。
その時、はじめて彼はカウンターチェアを回して彼女の方に向き直った。足を組み、椅子の背と、カウンターに背中を預けている。やはり、機嫌は斜めのようだが、怒るというレベルではないようだ。
「だって…アイツが…」
彼女はそう言うと俯いてしまった。
「俺さ、もうお前と遊べない。」
ユキが、幼馴染のコウイチにそう言われたのは一週間ほど前だった。
コウイチとユキは幼稚園からのくされ縁で、中学になった今でも同じクラスだった。クラスではお調子者の二人で、いつでも公認の親友同士だった。一時、クラスメイトが色恋に艶立ち始め、付き合ってるの、などと聞いたことがあったが、答えは二人とも全力でノーだった。
「恋人よりも深い、親友だ!」
というのが二人の口癖で、暇さえあればつるんでいた。
小学生の間は同じ少年野球チームにいて、中学になって女子チームが無かったため、ユキはソフトボールに転向していた。チームは離れたが、それでも二人は仲が良く、部活が終わった後もキャッチボールをしたり、休日にバッティングセンターに行ったりしていた。バカな話で盛り上がり、時間を忘れてはしゃぎまわった。
変わらない。ずっとそのままだと、少なくともユキは思っていた。
その、瞬間まで。
「何で?どういうこと?説明しろよ!」
ユキは小さい頃から男の子に交じって遊ぶのが好きだった。上に兄が二人、下に弟が一人という環境で育っているのもあるかもしれない。ユキは言動がどこか少年のようだった。多分、思考回路も男に近いのだろう。だからこそ、男のコウイチと男友達のようにつるんで遊べた。
「彼女が、できたんだ。だから・・・」
ごめん、と言ってコウイチは俯いたまま立ち去った。
残されたユキはただ黙って佇むしかなかった。言葉も何も出てこなかった。何とも言い表しがたい、悲しみのような、怒りのような、ぐちゃぐちゃに混ぜられた絵の具のような気持ちだけが残っていた。
それから、部活が終わると、待っていた少女と一緒にコウイチは帰って行った。だから自分と遊べないというのか。そうなれば、休日も彼女と過ごすからダメだ、ということなのだろう。
思い返してみれば、ここ最近誘ってもあまり応じなかったことが多かった。体よく断られている、と、思ったこともあった。何故だろうと思ったこともあったが、なるほど、彼女ができたというのなら、納得できる。
納得はできるが、
「納得行かない・・・」
ユキは部活の後、残された白球を地面にバウンドさせながらこぼした。
行動の理由は納得できる。でも、彼女ができたからって、どうして遊べなくなるんだろう。
「そりゃ、自分の彼氏がほかの女の子と遊んでたら嫌だよ。」
クラスメイトの女子はそう言っていた。事情が事情だけに本気で相談したわけでは無く、それとなく聞いてみた。その答えがこうだった。それなら、彼女がダメだと言ったのだろうか。確かに少し前までは断られることも増えたが、遊んだ時もあった。それが彼女には面白くなかったのだろうか。
「あんたもいいかげん、彼氏作れば?そうしたら女の気持ちが少しは分かるようになるわよ。素材は良いんだし。オシャレしなよ。もっと可愛くさぁ。」
そう言ったのは隣の席の女子だ。オシャレに詳しくて、自分自身も綺麗にしてる。そんな彼女が、ほとんど身づくろいをしない自分にそう言いたくなるのは当然のことだろう。それは認める。
気が付くと教室の中のオンナノコたちはどんどん綺麗になっていた。
髪も綺麗にして、どうやってるのか見当もつかないアレンジをしていて。花の唇に色付きリップ。先生に隠れてのアクセサリ。恋の話にほほを染めて。
あげく、コウイチまでもが恋人ができたという。ユキは自分だけが置いて行かれるような、そんな気がした。
「あれ?コウイチ君は?彼氏じゃないの?」
そう聞いてきた、新顔であろう誰かの台詞に、
「昔からの親友。恋人より深い仲なんだってさ。」
誰かが代わりに答えていた。昔からそう思っていた。確かにそうなのだが、今はその言葉がやけに痛かった。
「何でだろ、そう、なんなきゃいけないのかな。オンナノコっぽくなんなきゃダメなのかな。オンナノコにならなきゃ、アイツの彼女になれないのかな。彼女じゃなかったら、アイツと遊んじゃダメなのかな…」
彼女は立て続けに言葉を漏らした。堰を切ったように。そして、言葉につられるように涙も出てくる。
「何で、ガキのままじゃダメなんだろう。あの頃はさ、男の遊びについていけなきゃ、アイツとは一緒にいられなくて、だから…」
何度も何度も乱暴に涙をぬぐいながら彼女は言葉を続けた。
私はふと気づいて素早く入り口のプレートをクローズに変えた。少しばかり、時間が早かったが、今日のところは容赦してもらおう。
今は咲きかけの、乙女の花を守る方が大事だと思えた。
「時間は、止められない。」
彼が静かにそう言った。彼女が顔を上げて彼を見た。顔が苛立ちに歪んでいる。自分の気持ちを否定されたと思ったのだろう。
「だが、その時間の中をどう生きるかは自分で決められる。」
彼の言葉に彼女は怒りを収めた。彼は先ほどは不機嫌そうに見えたが、彼女の執拗な質問攻撃の元が分かったせいか、その不機嫌さは消えていた。理由がわからないことには多少の不快さを覚えるが、分かってしまえば消えてしまうようだ。彼は穏やかな目で彼女を見守っている。
私は彼女にホットミルクを入れた。彼女はそれを一口飲んだ。
「おいしい…優しい甘さだね。何か入ってる?」
彼女が柔らかく微笑む。そういう表情は間違いようもなく少女のものだ。
「はちみつですよ。甘いものは心の栄養です。」
私はウィンクしてそう言った。彼女は無邪気に笑った。
「君の、望みは何だ?」
彼は彼女に穏やかにそう言った。彼女はカップを置いて考えていた。彼女の中の苛立ちも消えたようだ。
「アイツと、ずっと笑いあっていたかった。」
うん、と彼女は小さく頷いた。自分で自分を納得させようとするように。そして、何度か一人で頷いていた。自分でもわからない、自分自身の中を覗くように。そして、納得していくように。
それから、ユキはしばらくコウイチに連絡しなかった。そもそもコウイチの方から遊べないと言ってきたのだから連絡する用事もそうあるわけではない。同じクラスである以上、登校すれば顔を合わせることになるが、今となっては幸い、席が離れていたので必要以上に接触しなかった。そこは少しばかり不自然であったかもしれない。遊べない、と言われただけで、話をするのもダメだと言われたわけでは無いのだから。
ユキは気持ちを整理したかった。本当に自分が望んでいること。それを知りたかった。
時間は止められない。彼の言葉を頭の中で繰り返す。だが、誰もがその中で生きている。時間という流れに、時に逆らい、時に身を委ねながら、その中で自分らしさを探し、自分らしく生きようとしている。
それは誰にも平等だ。自分にも、他のオンナノコにも、オトコノコにも、そして、コウイチにも。
自分だけ置いて行かれているわけでもない。ただ、それぞれのペースがあるだけなのだ。それぞれの生き方があるだけなのだ。
では、その中で自分が望むことは何か。自分は何が気に入らないのか。
コウイチを取られたと思っているのか。コウイチに、置いて行かれたと思っているのか。
ユキははっとした。コウイチはコウイチだ。同じ時間の中で今も生きてる。
コウイチは変わらない。
自分も、きっと。
心の底にあるものは、ずっと。
ユキはそっと、自分の胸に触れた。子供の時とは違う、時間の流れを感じるものが、ここにも一つある。そして、心臓の音。それは変わらないもの。子供でも、今でも、そして、これからも同じもの。
多分、そして、その奥にあるものも。ユキは花のように微笑んだ。
その日、部活を終えたユキは校庭の水飲み場で水を飲んでいた。
「おう。」
そこに現れたのはコウイチだった。
「お、おお。」
ユキは戸惑いながら返事をした。確かに何かを掴んだ気はしたのだが、果たしてそれで何か変わったかと言えば、現実にはまだ頭はごちゃごちゃだ。何を言っていいのか戸惑って、ほとんど衝動的に口から言葉を出した。
「どう?彼女とうまくやってる?」
言ってから、そんなこと聞いてどうするんだと自分で自分の行動にダメ出しをしていると、コウイチはぴたりと動きを止めた。聞いてはいけないことだったのかと慌ててユキは次の言葉を探した。
「ほ、ほら、あ、あたしとのさ、時間を犠牲にしてまで付き合ってるわけだし、うまくいっててもらわないとこっちの立場っていうかその…ね、」
「ユキ。」
訊かれた事には答えずにコウイチがユキの名前を呼んだ。ユキはびくっとして言葉を止めた。怒っている、と、思った。とりあえず謝らなければと思った。
「ごめん…何言ってんだろね。あたし。」
「振られちまった。」
ししっと歯を合わせたままでコウイチはいたずらっぽく笑った。
ユキは驚いたが、次の瞬間、気づいた。それは、強がってる時の、コウイチの癖。やはりお別れは辛かったのだろうか。
「ほんと、お前との時間犠牲にしてまで頑張ったんだけどな。」
ごめんごめん、と、気の入らない謝罪の言葉を口にする。ユキはそれも強がりだと気づいている。長年の付き合いの賜物だ。
少しの間、珍しい沈黙が二人の間に流れた。
「…俺さ、焦ってたのかも。周りがどんどんオンナノコの話するようになって、カノジョ作ったりしてさ。置いて行かれそう、って。」
「それ、あたしもある。」
「そか。」
二人でへへっと笑った。ユキはコウイチも同じ気持ちだった事がなんだか嬉しかった。
「でさ、コクハク?されて舞い上がっちゃって、知らない子だったけど、付き合うことになって…」
「知らない子だったんだ…」
ユキはなんだか拍子抜けした。てっきりコウイチも前からずっと好きな子で、両思いで付き合うことになって、などと一人で勝手に考えていた。そのことが却って今、笑いを誘う事態になっていた。だが、ここで笑ったらコウイチの強がりに止めを刺してしまいそうだったので懸命に耐えた。コウイチの事を笑いたいわけでは無く、自分の勘違いがおかしいのだが、今このタイミングで笑ったら、コウイチは間違いなく自分が笑われたと思ってしまうだろう。それは避けたかった。
「だから舞い上がったって言っただろ。」
ぷぅっと膨れる。そういうコウイチの姿をユキはずっと見てきた。そう、この流れなら、そういう顔をする。それを守れてよかったと思う。
「でも俺、彼女といても、全然楽しくなくてさ、それが顔に出たんだろうな。」
「コウイチ、すぐ顔にでるもんね。」
「うるせ。」
「つまんないって?」
「そ。私たち合わない、別れましょって言われて終わり。」
「別れるも何も。」
「って、思うよなー。付き合ってるって自覚、できる前にオシマイ。」
コウイチは腕を頭の後ろで組んで空を見上げた。
「でもさ、知らない女でも、振られると結構きついのな。何かこう…要らないって言われたみたいでさ…」
「気にすることないじゃん。コウイチはコウイチでいい男だと思う。その良さを分からん節穴女は他所の男にのしつけてくれてやったらいーのさぁ。」
ユキはそう言って笑った。相手の女にはやっぱり少しばかり怒ってる。自分達の仲を引っ掻き回して去っていくなんて許せん、とも思う。けれど、こうして自分の中の気持ちが、そして、コウイチの中の気持ちが、おかげで少し見えた。そのことには感謝しないといけないかも、と、少しだけ、思った。
そうして二人は空を見上げた。コウイチが何かをいいかけた瞬間、灰色の空からちらちらと雪が舞い始めた。それがコウイチの鼻の頭で溶けて消える。
「おおっ、初雪!」
「いいね!積もったら雪合戦できるかな?」
「気が早ぇな。」
「せっかちだから。」
「言えてる。」
「そこは否定してよ。」
「お前のことは全部わかってるよ。」
そう言ってコウイチはうん、と頷いた。
「俺さ、やっぱまだ、お前とこうやって遊んでる方が楽しいわ。」
「奇遇だね。あたしもさ。」
そういうと二人は高く手を掲げた。
直後、ぱあん、と、景気の良い音がグラウンドに響いた。
「ピーターパン・シンドロームって言うらしいね。大人になりたくない気持ち。
でもさ、まだ大人って年でもないし、無理しなくてもいいかなって。自分のペースで行けばいいよね。」
そう言って彼女は笑った。とても明るい笑顔で。
その日の彼女はランチの他にナポリタンとパフェを頼んでいた。
それを綺麗に平らげて、彼女は席を立った。服装はやはりジーンズにTシャツ。だが、髪は、切ったばかりなのか、綺麗に整えられていた。そもそも以前の彼女なら、美容院に行くより、自分で切っていたのかもしれないと、私は何となく思ったが心の中だけに収めている。
「これからアイツとバッティングセンター。そのあとアクション映画見に行くんだ。」
いかにも楽しみ、と、言った様子でそう言う。そういう姿は少年のようにも見える。
時間をかけずに会計を済ませ、また来るよ、と言って出ていこうとすると、ちょうどやってきた彼と鉢合わせた。
「あー・・・」
気まずそうにそう声を出すと、ぺこりと頭を下げた。
「あの時はごめんなさい。それと、ありがとう。」
彼女がそう言って頭を下げると、彼は穏やかに笑って外を指さした。
「…外で、待ってるぞ。」
窓の外へ目をやると、彼女と同じ年頃の少年が街路樹の下で人待ち顔で立っていた。
「あ!」
彼女はそう言ってひらひらと手を振ると出て行った。
不揃いの羽がやっと生え始めたような、また一歩成長を始めたその背中を、彼は穏やかな笑顔で見送っていた。