序章
待ち合わせ場所の喫茶店は、H駅前の商店街にある。
僕は小脇に茶色いA4判の封筒を抱えていた。それなりの重量感がある。中にはA4版で一行四十字、四十行の紙が五十枚程入っている。
目的の喫茶店の名前は『倫敦』。『ロンドン』と読むのを知ったのは、ここ数年のことだ。それ以前は『りんきょう』だとか『りんあつ』などと勝手に読んでいた。
『倫敦』は雑居ビルの一階で、その雑居ビルの両隣もまた別の雑居ビルが建っている。どの雑居ビルも道路に面している辺は両手を広げれば事足りる程度の幅しかない。なんとなく長屋を思わせる様相だった。ドアや窓は全て木枠に嵌められていて、開店から幾年も経ち赴きがある。
時の経過を感じさせるドアは、その割にすんなりと開いた。チリンチリンと、カウベルが小気味のいい音を立てる。店先が狭ければ店内も狭い。けれど、BARを思わせるシックな雰囲気に統一された店内は、それをまったく気にさせない。
入口近くのレジの横で新聞を読み耽っていた店主が、顔をあげると「はい、いらっしゃい」とはにかみながら言った。年のほど五十歳前後と思われる男性店主は、ロマンスグレーの豊かな髪を自然に整えている。対してラフな服装をしているのだが、なかなか旨いコーヒーを淹れるのだ。味の違いがどうこう、ということはよくわからないけれど、とにかくおいしいのだ。
「お好きな席へどうぞ」
僕は自分が座るには低いカウンター席には座らず、店の奥のテーブル席を目指した。待ち合わせ相手はすでにやって来ていた。十二月の寒空であるにも関わらず、コーラをちびちびと飲みながらメニューを見ていた。彼はドアに背を向けていて、耳からは細いコードが伸びている。音楽を聴いているらしく、僕の来店には気づいていないようだ。
僕は彼の正面の椅子に座った。彼がイヤホンを外すのを待ってから尋ねる。
「何を聞いているんだ?」
「TUBEの『あー夏休み』だよ」
彼は白い歯をちらりと覗かせて笑って言った。
僕は薄いブラウンのダッフルコートを脱ぐと、椅子に引っかけた。座った椅子は案の定低くて、テーブルの下に収めるのに少し苦労した。僕の脚が長いとか、そういうわけではない。カウンター席もそうなのだけれど、規格が昔仕様なのだ。昔の日本人と今の僕らの世代では、体格があまりにも違う。
おそらく店主の妻と思われる五十過ぎの女性がちょこちょこと歩いてきて、僕の前に水の入ったコップを置いた。そして、短く「オーダーは?」と聞いた。
「ケーキセットにしようかな」
「モンブランとチョコがありますよ」
モンブラン、と僕は即答した。
「飲み物は?」
「ブレンドで」
「かしこまりました」
奥さんは店主にオーダーを伝えると、僕と彼以外の唯一の客である老婦人の方へ戻った。常連らしく、和やかに会話を楽しんでいる。
「で、これはなんだい」
待ち合わせの相手の男、松田翔一郎は茶封筒をツンツンと指先でつつきながら言った。
背後でガスバーナーのゴオオという音が鳴る。カウンター席に座っていると、コーヒーの薫りが漂うのだけれど、さすがに僕と松田のところまでは届かないとみて、残念だった。
「小説だよ」
「小説?小説というと、推理小説か?」
「そうだよ。僕が書くのが大抵推理モノなのは知っているだろう」
「……で、これをどうしろと」
彼はちょっと困ったような顔をして言った。
「読んでほしいんだよ」
「今ここで?」
「どうせ暇だろう」
「そうだけどさ」
下唇をつきだしつつ、松田は封筒に手を伸ばした。
奥さんがお盆にカップとケーキを載せてきた。目の前に置かれたカップに注がれた黒い液体から、白い湯気が立ち昇っている。コーヒーの薫りが、僕の鼻腔を刺激して溜息をつかせた。
僕はガラス瓶から小さじに山盛りの砂糖を二杯掬うと、カップにさらさらと注ぎ入れた。翔一郎は嫌そうに眉を顰めた。
コーヒーを一口飲むと、モンブランケーキに手を伸ばした。甘くておいしいけれど、栗のクリームが少し乾いていて、舌の上でクリームの欠片が一片転がったのが気になった。
紙束の一番上は、小説の題名と僕の名前が書いてある。題名は『久美刈村の殺人』だ。
しばらくページを繰っていた彼は、嘆息をついてテーブルの上に置くと、コーラを手に取った。カラカラと氷が音を鳴らした。
「一人称一視点の推理小説なんだな」
「まあね」
「しかし、主人公がお前自身というのはなんなんだ」
「気にせず読んでくれ。だいたい、作者自身が主人公だったり、登場人物だったりするのはよくあるんだ」
「それは知っているけどさ。少し読んだだけだけれど、これはお前が実際に体験した話のテイなわけか。まあ読んでみよう。お前の書く小説は、文体だけは読みやすいからな」
褒めているのか貶しているのかよくわからないことをいうと、彼は紙束を手に取って読み始めた。そんなに長い小説ではない。せいぜい一時間くらいで読み終えるだろう。
僕はちょっと気分を害して、先日美容院でパーマをかけてもらったばかりのモジャモジャ頭をガリガリと掻いた。その拍子に白い物が舞ったので、翔一郎は顔を顰めた。僕は素知らぬ顔でコーヒーを啜った。
翔一郎は一度表紙に戻ってそれを口に出した。
「久美刈村の殺人。進藤ハルヒト……ね」