親は歪んで子は素直
「そう言えば、神田の幽霊は、日本橋でも見かけたって人がいたらしいね」
思い出したように呟いて喜助が柴一を見ると、柴一は言葉に反応して、自分の記憶を辿るように視線を泳がせた。
「えっと、確か火事のすぐ後に神田と日本橋に出たって。でも、誰が言ってたっけ」
「さあねえ。それも、糸井さんに調べてもらおうかな」
「依頼があればの話だろ。依頼もないのに、調べたりしねえ」
確かに、柴一の言う通りだ。糸井さんは表向き小物問屋を営んでいるが、内密に妖怪や幽霊の類といった調査依頼を受けている。喜助と出会う以前から依頼を受けており、初めて会った時は、糸井さんが依頼の件で襲われたところを助けたのだ。喜助が糸井さんの代わりに動くようになってから、糸井さんは受けた依頼を喜助に託し、情報を提供するようになった。喜助が依頼を受け出したのが、柴一を育て始めた一七年前。糸井さんには、それ以前からの実績がある。情報に関しては、喜助よりも確実に情報量が多い。
「何処から依頼を受けているかは知らないけど、依頼来ないかなあ」
「そういや、何処から依頼受けてるとか、聞いたことねえな」
互いの袖に腕を入れて柴一が言うと、喜助は頷いて見せた。
「そう。俺も大して気にしてないから、別段何処から依頼が来ても構わないけど、来るなら早く来てほしいよね」
「親父、退屈そうだよな」
喜助の言葉を聞いた途端、柴一が呆れた顔で呟いた。
「今朝の人殺しの下手人は人だろうし、最近はお茶を飲みに糸井さんの所にお邪魔するくらいだし、柴一は錺作るのに忙しそうだし。誰か相手してくれないかなあ」
「ほっかむりのおじちゃんにでも、相手してもらえば」
「無理。壱は忙しいから」
喜助の言葉を聞いて、柴一は小首を傾げて見せている。
「ほっかむりのおじちゃん、暇そうにしか見えねえけど」
「壱は、お姫様の護衛で忙しいの。何処のお姫様かは、知らないけどさ」
「ふーん」
頭巾を深く被って顔が見えないせいか、柴一は小さい頃から壱をほっかむりのおじちゃんと呼んでいる。壱が喜助よりも背が高いせいか、幼かった頃の柴一は肩車をしてもらおうと壱が来ると飛びついていた。柴一は壱が来ると嬉しがるのだが、長い付き合いの喜助にとっては、嬉しくはない。壱の口が達者で、喜助の言葉は言っただけ返されてしまう。柴一を揶揄う言葉でさえ壱に返されてしまうせいか、喜助としてはあまり面白くないのだ。柴一と過ごしている間は、来てほしいとは思わなかった。
「姫里に相手してもらえば説教されそうだし、山の主達に相手してもらった日には何されるか分からないし。誰も、相手してくれないじゃない。やっぱり柴一が相手してくれないと、お父さん暇で死にそう」
「勝手に死んでこい。っつか、知らない名前出すな。返事のしようがねえ」
「あれ、柴一。姫里は知ってるよ。だって、住まいを探す時に柴一の相手をしてくれたのは姫里だから」
「何時の話だ、何時の。記憶にない頃の話すんな」
袖から腕を出して吠えるように言い返した柴一に、喜助は言葉を返さずに、でもさあと続ける。
「姫里は美人なのは認めるけど性格がきついから、お父さんあまり会いたくないんだよね」
「へえ。じゃあ会った時、今の言葉間違いなく言っといてやらあ」
反抗していると、内心思いながらも喜助は無言で柴一を見た。見られた柴一は、妙に身構えた雰囲気で喜助を見上げている。
「言っても良いけど、その分身体で払ってもらうから」
呟くように返した言葉に、柴一の表情が途端に嫌そうになってしまった。
「どう言う意味だ」
「そりゃあ、姫里に言い付けるに見合ったこと」
嫌そうな表情に加えて眉間に皺が寄ってしまった柴一に、満面の笑みを見せて喜助は柴一の言葉を待つ。
「何か、売り飛ばされそう」
「売り飛ばしたりしないよ。そんなことしたら、楽しみがなくなるから」
柴一の言葉に、満面の笑みのまま答える。
「楽しみって」
「柴一が可愛いから、揶揄いたくて仕方ないんだよね」
「あのな、揶揄うなって。一々、腹立てないといけなくなるじゃねえか」
「一々腹を立てるから、可愛いんだよ。親の愛情くらい、素直に受け取ったら」
益々眉間に皺を寄せた柴一は、特大の溜息を吐いて視線を喜助から外した。
「これだけ性格歪んだ親に育てられて、よく素直に育ったよな。俺、実は凄いんだ」
「自画自賛してるよ、この子は。ま、良いけどね」
軽く肩を竦めて喜助は呟くように言うと、再び焼けてしまった町を見た。
焼けた木材の片付けをしている者達の姿が見受けられる中で、役人達の姿も見受けられる。町の再建に、東京府は既に動き出しているらしい。
喜助がずっと見てきた光景と大差ない、幕府の頃から焼けては再建されと繰り返してきた江戸の町は、東京と名を変えても未だ大差なく再建されていく。いや、銀座の煉瓦街のように、耐火構造の建物に変わっていくのだろう。徐々に燃えにくい素材に変わり、建物が変わっっていく町を、喜助は時代を感じながら眺めるつもりだ。
「少しずつ、変わっていくんだろうなあ」
「は。何が」
「町がだよ。火事も、少しずつ減っていくだろうね。防火対策が進んでくるだろうから、大火が少なくなってくるよ」
「何で、そんなこと分かんだよ」
不思議そうに聞いた柴一に視線を戻して、喜助はくすりと笑った。
「銀座の煉瓦街見れば分かるよ。煉瓦は、火に強いからね」
「でも、煉瓦造りの家って、じめじめして住みづらいって言われてんぞ。何か青膨れになって死ぬだの聞いたけど」
「確かにこの国特有の風土に、煉瓦造りの家は湿気でじめじめするだろうね。でも、煉瓦造りの家は湿気があるだけであって、死んだりはしない。風を通さないだけだよ、煉瓦は。風を通せる造りにしてしまえば、煉瓦でも平気だしね。でも、柴一。よく一〇年近く前の噂、知ってたね。誰に聞いたの」
柴一が、一〇歳になるかならないかの頃の噂だ。その頃に知ったとは思えなかった喜助が聞くと、柴一は不思議そうに視線を喜助に向けた。
「向かいのお縁さん。銀座の煉瓦街の近くに良く行くって言ったら、煉瓦の家は青膨れになって死ぬとか言ってたけど」
「お縁さん、噂好きだからねえ。もしかして、神田と日本橋の幽霊は、お縁さんから聞いたのかな」
「多分。お縁さん話し好きだからさ、品を納めに行くときに捕まると遅くなるんだよな」
溜息混じりに言った柴一の言葉に、喜助はああと小さく呟いた。
「時々、外でお縁さんの楽しそうな喋り声と、柴一の困ったような生返事が聞こえてたのはそのせいか」
「あのな、知ってんなら助け舟くらい出せよ」
「やーだ。そんなことしたら、こっちが捕まるじゃない。頑張って、自分で切り抜けなよ」
「何だよ。親父の方が付き合い長いくせに」
「お縁さんと付き合ってる年数は、柴一と同じ。長屋に越してからずっとだから、一七年だよ。小さい頃の柴一ったら、みんなから福の神だとか言われるし、お父さん困っちゃったよ」
途中から溜息混じりになった喜助の言葉に、柴一は眉間にしわを寄せて見上げた。
「鯛を持って帰った時なんか、みんな大喜びして食べてたけど、あの鯛、柴一が拾って遊び物にしてた根付けが、何処かのお偉いさんの大切にしてた物で、根付けを返したお礼なんだよね」
柴一の表情が、疑問気だ。覚えていない頃の話をしだしたせいだが、表情をころころと変化せさる息子が、喜助には面白くて仕方ない。
「本当は柴一が遊び物にしちゃったから傷が付いてたし、お礼も気が引けて断ってたんだけど、柴一はこっちの気なんか知りもしないで、馴染みの魚屋を見つけてはしゃぎながら駆け寄っちゃって。楽しそうに、売り物の鯛の目玉潰してさ。とてもじゃないけど、買えるような大きさじゃないし」
驚いた表情と不味いと言いたげな表情を続けて見せた柴一を、内心可愛いと思いながらも喜助は更に続けた。
「で、肝冷やしたこっちにお礼だからって、根付けの持ち主が態々弁償してくれたんだよねえ。しかも、魚屋は滅多に仕入れない大物の鯛が売れたからって、大喜びして他の魚までおまけしてくれて。結局、鯛は大きいからお父さんが持って、おまけの魚は柴一が嬉しそうに抱えて帰ったんだよ。当然、鯛もおまけの魚も二人じゃ食べきれないから、ご近所さんと分けて食べたんだよねえ」
話し終えてから見た柴一は、眉間のしわが大きく寄ってしまっていた。
「覚えてねえし」
「そりゃそうだよ。何せ長屋に住みだしてからすぐの話で、柴一はよちよち歩きのまだ何にも分からない歳だったからね」
眉間にしわを寄せたまま、喜助を見ていた柴一に笑みを浮かべてみせる。柴一の福の神は他にもあるが、今はこれくらいで勘弁しておこうと思う。他の話もしてしまうと、いよいよ本題から離れてしまうだろう。仕方ないと思いながら、もう一度視線を町に戻した。
「さて、この辺りの再建はもう始まっているだろうから、何時完成するかな。完成したら、こっちに移ろうかなあ。一七年も住んでると、お父さん家移りしたくなるんだよねえ」
柴一には、喜助と血が繋がっていないことも、喜助が妖で歳をとれないことも話していない。何れ話さなければならないのだろうが、今は話したくない。
「何、家移りすんの」
「まだだよ。後、何年かは住むつもりしてるから、お縁さんとも付き合わないとね」
お縁さんの名前に、柴一は苦笑いを浮かべた。
「お縁さん。頼むから、挨拶だけで済ましてくれよ」
「柴一がお人好しなだけだよ。俺は、そんなに長く話さないけど」
図星だったのだろう、柴一が喜助を見上げたまま言葉を詰まらせている。仕方ない子だと思いながら、喜助はちらりと柴一を見た。
「ま、お人好しだから、色々面倒も見てもらえるんだよ。人の縁を切っちゃ駄目だよ」
「糸井さんの所に行くまでに、俺何人に捕まってると思ってんだよ」
「良いんだよ、柴一だから。それだけ人に好かれているんだから、捕まってなよ」
「良くねえし」
町の者は、余程柴一に話しかけ易いとみえる。一体、柴一は何人に声をかけられているのだろうか。柴一が出かけてから戻ってくるまでに、軽く五時間はかかるのだ。町の者に声をかけられては話をしてと、繰り返しながら糸井さんの所へ品を納め、戻る途中でまた声をかけられて話をする。遅いと思っていたが、毎回何人と話をして帰ってきているのか。捕まっていろとは言ったものの、喜助には疑問に思ってしまう。
「柴一。糸井さんの所に行って、戻るまでに何人と話してるの」
「数えたことない。でも、両手じゃ足りねえと思う」
自分の両手を見ながら答えた柴一に、思わず喜助は呆れた顔をした。
「柴一。それは捕まり過ぎ」
「だから、糸井さんの所に行くの、大変なんじゃねえかよ」
言い返している柴一がどこまでお人好しなのかと疑問に思いながらも、喜助は小さく溜息を吐いた。
「あのね。いくらお人好しだからって、一〇人以上と話して行くっていうのは、どうかと思うんだけどねえ」
「だって、逃げれる程器用じゃねえし」
「それは器用、不器用の問題じゃないよ。単に、柴一が鈍臭いだけ」
悪かったな、仏頂面になった柴一が小さく呟いて不貞腐れてしまった。