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誰かの啜り泣く声で目が覚めた。
辺りはまだ真っ暗だ。
あちらこちらから寝息が聞こえる。
ここでは啜り泣き自体はあまり珍しいことではない。
両親に会えない淋しさは夜になると一層強くなる。
両親と一緒に寝て貰った事でも思い出しているのだろうか。
…いや、違う。
この声は自分が寝ている真横から聞こえている。
右に少し視線をズラして音の正体を確認した僕は、驚きのあまり目を見開いた。
「…翔くん?」
あの時のままの服装で翔くんは立っていた。
手で顔を覆いながら泣いている翔くんの服は所々血で汚れている。
特に酷いのは刺された脇腹で、その部分だけ楕円形に血が広がっている。出血が止まっていないのか時々血が滴り落ちて、僕の白い枕を真っ赤に染め上げている。
その光景に、僕はむせ返るような血の匂いを思い出して口元を両手で覆った。
翔くんは僕を恨んでいるのだろうか。
あの時翔くんはどんな顔をしていたっけ。
僕はいつからか、あの時の出来事をまるで他人事の様に考えるようになった。
定期的に通わされる精神科のお医者さんが言うには『自己防衛』が働いているらしい。
思い出そうとする度に目の奥がチカチカと点滅する。
それでも思い出したのは、恐怖に歪められた顔で僕に助けを求める翔くんの顔だった。
耐え切れず手で口元を抑えたまま胃の中のものを吐き出した。
その音に気付いた同室の子が迷惑そうな顔で先生を呼びに部屋を出て行った。
*****
『ほんとアンタは愚図ね!誰に似たのかしら』
母親の顔を思い出そうとすると、不機嫌そうに僕を睨みつけている顔しか思い出せない。
昔は一緒にお菓子を作ったりした記憶があるが、いつからこうなったのだったか。
父親がいなくなってからだったように思う。
新しい男と上手くいかなくなる度に罵られ、機嫌が悪い時には叩かれる。
それでも彼女は僕の母親だ。子供は親を選ぶことはできない。
「母さん、今日ね、」
「黙ってよ!」
大きな声で怒鳴られ、僕は息を飲んだ。
…今日友達ができたんだ。
その言葉が言えず、僕が俯いていると邪魔とばかりに母さんに押しのけられた。
周りの大人達は僕の置かれている状況をなんとなくは察しているのか自分の子供に、僕には関わらないようにと言っているらしかった。
それが原因なのか、僕には友達ができたことがない。
学校で班を決める時も僕だけ一人取り残される。
先生も何も言ってくれない。僕をまるでいないかのように扱う。
それでも面倒なことは皆僕に押し付けてきて、やりたくもない委員をやる羽目になった。
僕はそこで翔くんと会った。
翔くんは僕のことを知らないのか、普通に話し掛けて来た。
「なぁ2組って担任誰だっけ?」
僕は配られたプリントを手に数秒固まってしまった。
「…橋本先生…」
「うっわ、オレあの先生嫌い」
ガタンと隣の椅子を引っ張り、僕の横に座った翔くんは少し嫌そうな顔で言った。
「翔!あっち座ろうぜ!」
仲の良い友達だろうか、隣の僕を見るなり、顔を歪めて翔くんを別の席に座らせようとする。
いつものことだ。僕は机に目を落として何も感じていないフリをした。
「え、何で?ドア近いしここでいいよ」
「でも、ほら長谷がいるし…」
僕にチラチラと視線を感じる。
持っていたプリントをぎゅっと握って、この会話が終了するのを待つ。
「長谷っていうの?ここ座ったらダメ?」
その言葉に僕は首を振る。
「ほら、いいって」
諦めたのか、翔くんの友達は僕から離れた違う席に座った。
「長谷って虐められてるの?」
僕が2組って知っているみたいだし、僕のことを知っているのかと思っていたが。
ここまで直球で聞いてくる人は初めてだ。
「…たぶん。僕暗いし、家がアレだから」
「へぇー?あ、オレ翔っていうから!」
「はいはい、翔くんは委員会始まるから黙りましょうねー」
先生が翔くんに注意して、委員会は始まった。
注意された翔くんは笑いながら僕を見て、僕も久しぶりに笑ってしまった。
それから委員会の度に僕の隣に座って話し掛けてくる翔くんのお陰で僕にも友達ができ、苦痛だった学校生活が楽しくなってきた矢先だった。