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小奇跡しか起こせない聖女候補ですが、悪の道を歩むためにただ働きをやめます

掲載日:2026/07/16

 朝目が覚めたとき頭の中に降りてきた言葉が、『私は搾取されている』だった。


「その通りだわ……」


 メレディは硬い寝台に上体を起こしたまま、しばし呆然とした。

 小さな窓の外がほんの少し、明るくなっていた。夜明け前まで、まだ時間があるようだった。

 九歳のとき、聖女候補に選ばれた。その時に与えられたこの部屋は、北側の塔にあった物置部屋だった。


「個室だからありがたく思え」


 それから十年、試用期間の聖女候補としてずっとここを使っている。試用期間は本来一年なのだが、『小奇跡』しか起こせないメレディだけは、正式認定を保留されたまま十年が過ぎた。


 ほかの聖女候補たちも最初は似たり寄ったりな部屋をあてがわれたが、孤児のメレディよりはましだった。けれど彼女たちは、すぐにもっと待遇の良い部屋へ移っていった。

 彼女たちがメレディよりも大きな奇跡を起こせるようになり、正式な聖女候補になったからだ。

 

だが。


「大聖女さまがご高齢なので、朝の祈りを免除されているのはわかるわ。だけど、聖女候補全員参加が義務づけられているはずなのに、なぜ私だけでやっているの? 聖女の資格である『奇跡』を起こせる修行のひとつだというのはわかるけど、だからって一人でやれっておかしくない?」


 大聖女さまは年を召してから、奥の祈りの間にこもることが増え、聖女候補の日々の管理は大神官長と事務室へ任されるようになった。


 そんななか、祈りを一人でするほうが力がつくからと誰かが言った。それならと奮起したのは十歳のころだった。でも今ならわかる。どんなに熱心に祈ろうと、一人の祈りは一人分でしかないのだ。


「朝食の支度も、その後の皿洗いも洗濯も、なぜ私一人でこなさなければならないんだろう。それは全部、正式だろうとそうでなかろうと聖女候補全員の仕事じゃないの。それを一人でこなす方が力が強くなるだろうって言われて頭から信じていたけれど。強くなったのは奇跡の力ではなくて腕力だわ。いい加減なことを言ったの誰よ」


 思い出せたのは、「そうなのか!」と本気になって一人でがむしゃらにこなし始めたことだけだった。それだけ、『小奇跡』を卒業したかったのだ。


 この十年、毎日くたくたになるまで働き、修行した。


 切り傷の治癒や、熱が少し下がる治癒、萎れかけた薬草の回復や泣きやまない子どもが眠れる、という小さな奇跡を施してきた。戸外では折れかかった車輪を町まで保てるような『小奇跡』を起こした。


 その都度、町の人々には感謝された。だが、神殿で聖女と認められる『奇跡』だとは認定されない。『奇跡』は天候を操り雨を降らせたり、魔獣に食いちぎられた四肢を蘇らせたり、重症を回復させたりするというような大きなものでなければならないのだ。


「このまま修行を積んでも『奇跡』を起こせる気がしない。だったら私はここでずっと聖女候補としてこき使われるわけ?」


 聖女候補のまま、聖女になれないかもしれない、ということを考えないようにしていた結果、いつの間にか修行することだけを見つめる生活になっていたらしい。


 そっと膝の上の自分の両手に目を落とした。あかぎれと、マメだらけだった。自分の奇跡の力は、自分には使えない。聖女候補同士で『奇跡』で治せばいいはずだが、メレディはいつも神殿の内外を飛び回っていて、頼む余裕がなかった。


「それも解せない話だと今ならわかるわ」


 そのとき、壊れかかった蝶番のついた戸が叩かれた。


「いつまで寝ている! 早く仕度なさい!」


 朝番の神官が迎えに来たらしい。どうやら思った以上に時間が過ぎてしまったようだ。メレディは慌てて寝台から飛び降りた。


「はい、ただいま」


 おかしいと思ったばかりなのに従順な受け答えを反射でしてしまい、メレディは顔をしかめた。

 元は白かったはずの、今では黄ばんだ聖女候補用の制服に着替え、顔をさっと洗って適当に髪を梳いて後ろでくくった。


 戸を開けると、三十代くらいの神官が腰に手を当てて待っていた。


「メレディ。あなたはいまだ小さな奇跡しか起こせていないのです。もっと精進しなければならない身なのですから、もっと早く起きて人の倍は祈るべきでしょう。それなのに定刻近くになってもまだ祈りの間に来ていないとは情けない」


 この神官は説教好きで有名だった。


「申し訳ありません、すぐ参ります」


 メレディは申し訳なさそうな顔を作り、しおらしく頭を下げた。この人にはこれが一番効く対処法だと長年の付き合いでわかっていた。

 神官は満足げな顔で頷いた。


「では、急いで参りますよ」


 メレディは大股で廊下を歩く神官の後ろを小走りでついて行った。


 その日、メレディは祈りながら国母神である女神さまに心の中で語りかけた。


(女神さま。メレディはこの十年間、真面目に修行も奉仕活動も神殿内の労働もこなしてきました。でも、『小奇跡』しか起こせません。このまま修行しても、たぶん『小奇跡』のままでしょう。もう、空しくなりました。……いっそ、グレてしまおうかしら。十年間分、好き勝手に暴れまわりたくなってきたわ)


 メレディはなぜかそれがいちばんいいような気がした。

 心の中に不満と怒りが渦を巻き始めた。


(こんなにも、私は辛抱を重ねて来ていたんだわ)


 メレディは押し殺すようにため息をついた。

 そのとき、頭の中に柔らかな声が響いた。


『そう思うなら、神殿を出てお行きなさい。そして、悪の道を歩んでみなさい。きっと素敵な体験をするわ。その姿を私に見せて?』


 メレディははっとなった。顔をあげて、正面に佇み微笑んでいる女神像を見た。

 女神像の口元はゆるく微笑みをたたえていた。


 いつも見ている顔なのに、メレディにはなぜか、いたずらっ子のような微笑に思えた。

 メレディは数度瞬きをして、目をこすった。もう一度まじまじと女神像を見たが、いつもの柔らかな微笑にもどっていた。


 メレディはすっと立ち上がった。祈りの途中だったが、誰も見ていない。朝番の神官も本来なら一緒に祈りをするはずなのだが、メレディが一人で祈り始めてからはだれも来なくなった。


「これはもう、この瞬間から悪の道に進めということなのだわ」

 心にむくむくと突き上げるような衝動が湧いてきた。


「悪の道に進むのなら行動を今までとは真逆にしなくては。それも、徹底的に!」


 メレディは女神像の前で、拳を突き上げた。


 メレディは早速、大神官長の執務室を訪ねた。

 入室して、メレディは礼も取らずに話し始めた。


「私は今この時をもちまして、聖女候補を降ります。今までお世話になりました」


 白眉に埋もれた大神官長の目が開かれ、口がぽかんと開けられた。


「『小奇跡』しか起こせない聖女候補など、神殿のお荷物でしかありませんよね。今まで気づかなくて申し訳ありませんでした。では」


 メレディはぺこりと頭を下げて退室しようとした。


「待ちなさい!」


 大神官長は執務椅子から立ち上がって手を伸ばした。

 メレディはちらりと後ろを振り返った。


「辞めるなら引き継ぎは? そもそも行く当てはあるのか?」


 一瞬、そうでしたごめんなさい、と言いそうになった。だが、メレディは女神像の前で悪の道を歩くと決めたのだ。ここは、言葉から変えなくてはなるまい。メレディは拳を握りしめた。


「私が十年やってきた仕事は本来、聖女候補全員でするものです。私一人がいなくなったからって困ること自体がおかしいはずです。それに私の行く先など大神官長様には関係ありませんよね」


 大神官長が、ぐ、と喉を鳴らした。


「私はもともと孤児でした。神殿預かりだったお給金をいただいて、さっさと去ります。ごきげんよう」


 メレディは踵を返して執務室を出て行った。背後で「おい」とか「ちょっと待て」という声が聞こえたが、悪の道を進む自分が気にすることではない。


 メレディは次に事務室に向かった。

 戸を開けてすぐに、


「メレディです。聖女候補を降りましたので、今までのお給金の全額を払ってください」


 と言った。部屋にいた事務官たちが、大神官長と同じくぎょっとした顔になり、一様に口をぽかんと開けた。


「『小奇跡』しかできなかったから、お給金が少ないのはわかっています。でも、十年聖女候補をしてきました。お給金のほかに退職金、でますよね?」


 一番奥にいた事務官長が、眉根を寄せて言った。


「『小奇跡』しか起こせない仮の聖女候補には、『奇跡』を起こす聖女候補の規定をあてることはできない。したがって、退職金はない」


 メレディは口を引き結んだ。それを言われると何も言えない。だが、ここで怯むわけにはいかない。


「だったらお給金は」

「それは聖女候補の食費や光熱費、被服費などの経費に当てられ、残金が支払われる仕組みになっている。お前は『小奇跡』の布施しか得ておらず、実際は赤字だ。したがって、残金はゼロだ」

「そんな」


 事務官長は鼻で笑った。


「聖女候補の末席にかろうじて引っかかっていた身分だ。お前がいなくなったらその分、食費も何もかも浮く。お前がいなくなれば、赤字補填の調整の手間がなくなる分、ありがたいよ」


 メレディは真っ赤になった。

 自分がいることで迷惑をかけていたとは考えたこともなかった。


 ああ、だから皿洗いも洗濯もなにもかも、私が一人でやらなければならなかったのか、と今更ながら気づいた。

 メレディは我が身を恥じた。目尻がジワリと熱くなった。

 ごめんなさい、と頭を下げそうになった。


 だが。

 

 悪の道を歩くのなら、それはちがう。メレディは泣きそうになっていたのをすんでのところで踏みとどまった。

 メレディは、ふん、と鼻を鳴らし、つまらなそうな顔をつくった。


「あらそう。そんなに豪華なものを食べさせてもらった覚えはないし大食いしたこともなかったんだけど。だったらいいわ。ごきげんよう」


 メレディはそのまま、事務室を出て行った。

 閉じた扉の向こうで事務官たちの笑い声が聞こえた。

 メレディは唇をかんだ。


「メレディ、こんなところにいたのね! 朝食後の皿を洗わずなにをしているのよ!」


 聖女候補の一人、メグが不機嫌な顔で近づいてきた。


「洗濯だってあるのに! 早くしてよ」


 メレディはキッとメグをにらんだ。


「私は聖女候補を降りたの。あとのことはみんなでやって頂戴」

「はあ? なに寝ぼけたことを言っているのよ」


 聖女候補の中でも、メグは一番能力が高い。だからか、自然とほかの候補の子たちの中心にいるようになった。その彼女が、私の力を強くするためになるからと、みんなでやるはずの皿洗いや洗濯をするように言ってきたのだということを今頃になって思い出した。


 すべては彼女が計画したのだと思うと、無性に腹が立ってきた。


「私は正式な聖女候補のみんなと違って試用期間の聖女候補のまま十年過ごしてきたの。『小奇跡』のような小さな親切みたいなものじゃ誰も救えないってわかったのよ」

「だからいっぱい修行させてあげてるでしょ」

「正しく修行してても、私はここにいるだけで赤字を生むって言われたわ」

「赤字? なんのことよ」

「私にかかる経費の話よ。ちっぽけな『小奇跡』では私の経費は賄えないんですって。どんなに修行しても私は仮の聖女候補のまま。溜まるはずの給金もなく退職金もなく、ここにいても若さがなくなり働く口も少なくなる。このまま朽ちていくなんていやよ。ばかだったわ」


 メレディの話にあっけにとられたのか、メグは口をぽかんと開けた。


「みんなにも言っておいて。じゃ、ごきげんよう」


 メレディはメグに背を向けて廊下を歩きだした。


「え! ちょっと待ちなさいよ! 皿洗いと洗濯をしてからでいいでしょ!」


 焦ったメグの声がしたが、振り返らない。


 結局私は最後までみんなの体のいい雑用係だったんじゃないの、とメレディは心の中で自嘲した。

 涙を必死にこらえ、神殿の門まで歩いていった。

 途中で、神官の一人とすれ違った。


「メレディ殿、どこへ?」


 いつも咳をしている、青白い顔をした、年若い神官だった。


「聖女候補を降りましたので、出て行くところです」


 彼はびっくりした顔になった。


「それはまたなぜ」

「私はここにいるだけで赤字を生む存在なんだそうです。では」


 情けなくて、さっきまで我慢していた涙が目尻に浮かんだ。

 メレディは泣き笑いしながら、


「ごきげんよう」


 と言って、顔を伏せてその場を去った。


「待ってください。まだ話が」


 ごほごほ、という咳が聞こえてきたが、メレディは振り返らなかった。


「ごめんなさい」

 メレディは小声で謝った。


 彼とは奉仕活動で時折、顔を合わせた。いつも青い顔をして、神殿の参拝客の応対をしていた。私はこっそりと彼の咳が和らぎますようにと祈ったが、本当に一時的に和らぐだけで、祈りの重ね掛けをしても数刻後にはまた咳が戻っていた。


 彼は神官なので、本来なら聖女が『奇跡』で治したり癒したりするものだ。だが、なぜか彼の咳はおさまらなかった。


 彼がまだ少年だったころ、はじめて治療を受けに来た。

 大聖女は、


「これは病気というよりは、体質によるものでしょう。まずは体力をつけ、養生することが先ですね」


 と言った。あの時、私はほかの聖女候補たちと一緒に大聖女の『奇跡』を部屋の隅で見学していた。大聖女の言葉を聞いて、メレディは初めて『奇跡』より先に、本人ができることをしなければならないものもあるのだということを学んだ。


 大聖女はまた、決してなんでも『奇跡』で何とかなるとは言ってはならない、ということをメレディたちに教えてくれた。


 その後も大聖女さまは彼の体調を定期的に観察し、まずは自分の免疫力を上げるための手助けとしての『奇跡』を小さく分けて施していた。メレディはそこからも、一気に治す『奇跡』ばかりではいけないのだということを学んだ。


 大聖女の言葉を受け、彼は今までの生活を変えようと決意した。

 体力をつけるため、よりによって規則の厳しい神官見習いとして神殿へやってきた彼を見て、メレディは体力がつく前に底をつくのではないかと心配した。


 そこは大聖女さまも気にかけていらっしゃったようで、彼の健康状態について、周囲の先輩の神官候補生に一言あったらしい。


 そういう一種の特別待遇が敷かれたのには理由があったようだった。彼はどこぞの令息だったようで、そこそこの寄付金とともに、一般の神官候補生として神殿生活を送り始めた。座学は得意だったらしく、すぐに階級が上がり、神官になった優秀な人だった。


 メレディは体力のない彼のことを芽の出ない自分と重ねて見ていたが、クラウスはメレディよりはるかに優秀な人だった。


 それも、これでお別れだ。


 自分のちっぽけな『小奇跡』で彼の健康状態がなんとかなることは少ない。きっと自分がいなくても、彼は立派に神官として精進されるに違いない。


 門の外へ出て、メレディは一度、振り返った。

 高くそびえる尖塔、装飾の施された屋根を支える、白く太い石柱。どれも見慣れたものだった。外での奉仕活動で疲れ果てて帰ってきたとき、この景色を見たらほっとしたものだったが、もうそんな日は二度とない。


 メレディは軽く頭を下げて、街へと足を向けた。


 悪の道を進むには、悪を施す対象が必要だ。まずはどんな悪ができるかを考えねばならない。そのためにはとりあえず人がたくさんいるところで考えたらいいのではないか。

 メレディはそう考えて元気よく進んでいった。


 中央に噴水がある広場を中心とした市場が開かれているところまでくると、メレディは朝から何も食べていなかったことを思い出した。

 ぐう、とおなかが鳴った。

 緊張の糸が切れたらしく、歩く足が急に重くなった。メレディは噴水の近くで、立ちすくんでしまった。


「せめて、パンだけでも取ってくればよかった……」


 おなかをさするが、空腹を訴える音は鳴りやまない。

 悪の道にも、まずは食料が必要だ。そこは神殿生活と変わりない。そう簡単に悪だけを施すことはかなわないのだと、メレディは一つ学んだ。

 ため息をついたメレディの背後に、どん、と何かが当たった。


「いったあああい」


 女の子の叫び声がした。

 振り返ると、四歳くらいの女の子が石畳の上に倒れていた。

 どうもメレディにぶつかったものはこの子だったらしい。


 女の子は両手を頭の後ろに当てて泣き出した。


「痛いよぅ」


 倒れた拍子に頭を打ったといったところか。


「痛いよう、母様ぁ。痛いよぅ……痛い……」


 ぽろぽろと涙をこぼしながら頭を押さえて泣く姿に、往来の人々がメレディを白い目で見ていた。


「悪の道を考えようにもおなかがすいて頭がまわらないうえに、子どもが泣いているのは私が悪いような目で見られるとは……はっ」


 メレディの目が輝いた。


「私、もうすでに女の子を泣かせるという悪の道を一歩進めているのでは?」


 我ながら上出来ではないか、と心の中で自画自賛する。

 女の子はわんわん泣き続けていて、ときおり高い声で叫んで泣き喚いた。

 メレディは耳が痛くなり、顔をしかめた。


「このまま泣き続けたら声帯を傷めるかもしれない。……じゃなくて、私の考えがまとまらないから困るのよ」


 メレディは女の子の前にしゃがみ込んで目を合わせた。


「転んで頭を打ったんだよね。痛かったね」


 女の子はしゃくりあげながらメレディを見た。


「痛いの。母様を探していたら痛かったの」


 メレディはくすりと笑った。


「うんうん。お母さまが見つからなくて痛かったんだね」


 女の子はこくりとうなずいた。


「頭に触っていい?」

「どうするの?」

「痛いのがなくなるおまじないをしてあげる」

「わかった」


 女の子はまたうなずくと、鼻をスンスン言わせながら静かになった。

 メレディは女の子の小さな後頭部に手を当て、女神に祈った。


「あれ、もう痛くないよ!」


 女の子の嬉しそうな歓声があがった。


 メレディは手を離し、にっこりした。


「よかったね」

「お姉さん、ありがとう! 聖女さまみたい!」


 メレディは苦笑いした。


「私は聖女じゃないの。悪女になろうとしているの」

「痛いのを治してくれたのに聖女さまじゃないの?」

「ただの小さなおまじないだからね」


 女の子は泣きすぎて赤くなった目をぱちぱちさせながら首を傾けた。


「コレット! こんなところにいたのね!」


 一人の女性がスカートのすそを翻しながら駆け寄ってきた。


「母様!」


 コレットはぱっと立ち上がって母親へ抱き着いた。


「あれほどそばを離れてはいけませんと言ったのに。心配したのよ」


 コレットは母親のスカートに顔をこすりつけた。


「ごめんなさい」


 母親は叱ってはいるが、安堵を浮かべた表情で、しきりとコレットの頭をなでていた。


「あら。たんこぶ?」

「さっき、私にぶつかって転んでしまったんです。でもじきに、たんこぶはなくなると思いますよ」


 メレディの眉尻がさがった。

 メレディの力では、痛みを取り除き、たんこぶをふつうよりは早くなくなるようにするのが精一杯だ。


「まあ、コレットがぶつかったんですか。それは申し訳ございませんでした」

「お気になさらず」

「お姉ちゃんがおまじないで痛いのを治してくれたの!」

「……それは」


 母親がはっとした顔で、メレディをまじまじと見た。


「もしや、聖女候補のメレディ様では?」

「私を知っているのですか?」


 母親はしっかりとうなずいた。


「メレディ様には毎月、街に奇跡巡回でお越しになっていただいておりますもの。私は主人とともに市場組合の運営に携わっております」

「そうでしたか」

「それで、メレディ様は巡回日ではないのに、なぜここに?」


 メレディは事務官長の赤字発言を含め、いきさつを話した。もちろん、悪の道へ進む決意も語った。


 母親は、最初はびっくりしていたが、だんだんと訝し気な顔になった。頬に手を当て、少しの間目を落とした後、メレディへ微笑した。


「よろしければ、拙宅にお越しになりませんか? 私はセシリアと申します。コレットのことでお礼をしたいと思いますし」


 メレディはすぐに、いえそんな、と言いそうになった。口がすでに「い」の形になっていたのをすんでのところで引っ込めた。ぐう、とおなかが鳴ったのだ。

 コレットがメレディのおなかにそっと手を伸ばした。


「痛いの?」


 メレディはぐっと喉が詰まった。


「痛いんじゃないのよ」


 メレディは無理やり口角をあげた。

 悪の道へ進むにも、まずは腹ごしらえが必要だ。それに、悪を施すにも、どこかの拠点が必要なのではあるまいか。


「どうぞご遠慮なく」


 セシリアはメレディのおなかの音など聞こえなかったかのような顔で、重ねて申し出た。


「メレディ様とはいつかゆっくりとお話してみたいと思っておりました。よければ私の願いをかなえていただけたら嬉しいですわ」


 市場組合の運営側のセシリアとの話、という言葉に、メレディは閃いた。

 悪の道には情報も必要なはずだ。これは、施しではなく、情報を得ることと、おまじない程度のちっぽけな『小奇跡』への報酬だと思えばいい。

 メレディはにっこりと、


「喜んで」


 と答えた。




 コレットたちの家は、市場から少し離れたところにあった。市民の中でも比較的富裕層が集まる、静かな高級住宅街だった。

 立派な門構えの向こうには、豪奢な建物が見えた。

 玄関へ通じる道のわきには色とりどりの花が咲き乱れていた。


「素敵」


 メレディは花々の甘い微香にうっとりした。


「こっちよ!」


 コレットはメレディに手を取ると元気よく駆け出した。

 メレディは引かれるままにコレットと玄関まで進んでいった。


 コレットはその後、使用人とともに自室に下がったらしい。

 応接室に通されてまもなくして、メレディの前に、一口で食べられるサンドイッチや焼き菓子などが紅茶とともに並べられた。


「よかったらつまんでくださいね」


 メレディの喉がごくりと鳴った。

 神殿では見たこともない豪華な食事がずらりと並んでいたのだ。たかができそこないの聖女候補だった自分には分不相応では、という思いがこみ上げた。


 いいんですか、もったいないです、と言いそうになった。


 だが。


 悪の道に謙遜の二文字はないはずだ。

 ここは豪快に食べることで、悪を体現する場面であるに違いない。


「では、遠慮なく」


 メレディはサンドイッチに手を伸ばし、大口を開けて放り込んだ。


「おいしい……」


 生まれてこのかた、こんなおいしいサンドイッチを食べたことはなかった。思わず涙目になりそうになったのを、ぐっとこらえた。悪の体現に涙は似合わない。

 メレディは黙々と食べ始めた。

 セシリアはにこにこしながら向かいの席で紅茶を飲んでいた。


「もうおなかいっぱい」


 メレディが一息ついたところで、セシリアはおもむろに話を始めた。


「メレディ様、先ほどお聞きした話で確認したいことがあるのですが」


 メレディは紅茶を飲みながら答えた。


「なんでしょう」

「メレディ様の行なった奇跡が『小奇跡』だとしても、その回数はほかの聖女候補の方よりもはるかに多く、素人の目から見ても、使われた力の総量は大きいものと判断できます」

「……そうなんですか?」


 セシリアは深く頷いた。


「たしかに、ほかの聖女候補様よりも小さな奇跡だったかもしれません。一回のお布施の金額もほかの方よりは少額。それでも、ほかの方が片手ほどの回数の奇跡を授けて終わりだったのに対し、メレディ様は毎回その十倍以上をこなされていらっしゃいました。時には市場の緊急の依頼もお受けいただき、月に二度、三度とお越しになったこともたびたびございましたでしょう?」

「そういえば」


 セシリアはまた頷いた。


「ですので、毎月のメレディ様の生活にかかる費用が赤字になるとは、とても考えられないのです」

「では収支がとんとんだと?」


 セシリアは強く首を振った。


「それどころか。黒字のはずでございますよ。なんなら運営所にある帳簿をお見せしましょうか」


 真剣な眼差しだった。

 メレディはセシリアの言葉を頭の中で反芻しようとした。なのに、頭の中で彼女の言葉はひどくゆっくりとしか咀嚼できず、もどかしい思いに駆られた。


「つまり……」

「つまり、神殿事務官長様の話と、我々市場組合の記録とに齟齬があるということです。おそらくこの件は、地方神殿だけで処理できる問題ではないでしょう」


 女神を祀る神殿は常に清浄で誠実な人間が仕えている場所だとメレディは心の底から信じていた。

 誰かが嘘をつくとは全く考えもしなかったのだ。

 だから、一人で朝の祈りをこなし、一人で朝食の支度、皿洗い、洗濯を十年間こなしてきた。


「騙していたのね」


 メレディは紅茶の持ち手をぎゅっと握りしめた。

 その手がぶるぶると震える。残り少ない紅茶が、カップの中で小さな波を立てた。

 神殿内で悪の道を歩んでいる者がいた。


 女神さまは、『出て行って、悪の道を進みなさい』と仰った。

 順序が違う。それは正しい悪の道ではない。女神さまへの裏切り行為だ。

 女神さまに胸を張って見せられない悪など、悪の道とは呼べない。


「許せません」

「ええ。このあとすぐに主人にも話をします。その後、告発を」

「いえ」


 メレディはゆっくりと頭を振った。


「これは、神殿の不正を、腐敗を暴く好機です。悪の道を進む者として、見逃すわけにはいかない」


 メレディは、空いた手で拳を作ると、上へ突き上げた。


「復讐してやる!」


 ふん、と鼻息荒く、メレディは宣言した。


 セシリアはちょっと困った顔になり、小声で言った。


「それを告発と言うのでは……」


 その日、メレディは彼女たちの家に泊まることにした。

 セシリアの話によると、ご主人がきっちり十年間分の帳簿の写しを作成するため、時間がほしいということだった。そういうことならしかたないと思った。


「悪を施すには正確な証拠と拠点が必要ですものね」


 メレディのつぶやきに、セシリアはにっこり笑って頷いた。





 翌朝、メレディが午前のお茶だと誘われて庭のガゼボで楽しんでいると、水色のすそを翻して一人の男がこちらにやってきた。

 水色の服は神官の制服の色だ。メレディは眉を顰め、身構えた。

 現れたのは、最後に会った病弱な神官だった。


 メレディは慌てて席を勧めた。クラウスは会釈をして空いていた席に着いた。


「メレディ殿、話は伺いましたよ」


 どうも昨夜のうちにセシリアが神殿へ話をしたらしい、とメレディは思った。それは自分がしたかったと口をとがらせていると、


「市場組合の会計長はセシリア殿のご主人で、私の実家の親戚なんです」

「え」


 市場組合の会計長は、どこぞの貴族の出だ。この豪奢な家も、そのためだろうと納得していた。それに、クラウスもいいところの令息だとは聞いていた。


「まさか、あなた、貴族様……?」

「クラウスと呼んでください。親が貴族なだけで、私はいまや一介の下っ端神官です」

「下っ端神官は紺色の制服です。水色は上級神官」

「上級というのは名ばかりで、ほかの方より神殿入りして浅い身ですから、下っ端扱いですよ」


 苦笑しながらクラウスが言うので、メレディはしぶしぶうなずいた。

 クラウスは真顔になって、話をつづけた。


「昨夜のうちに、あなたの小奇跡巡回記録の帳簿を見ました。神殿の記録も。やはり、事務処理に不審な点があります」

「よく神殿の事務官たちが見せてくれましたね」


 クラウスは小さく笑った。


「下っ端とはいえ、一応上級神官です。神官雑務費の記録を見返したいからとかなんとか言って、帳簿を見ることはできるのですよ」

「ただの下っ端ではないってことですね」

「こういうときだけは」


 クラウスは笑みを消すと、メレディに尋ねた。


「証拠はあります。あなたはどうしたいですか?」


 メレディはクラウスの目をまっすぐに見た。

「私はこれから悪の道を進む者として、奪われたものを取り返します」


 クラウスは真顔でうなずいた。


「当然です。正当な権利回復です」


 メレディは首を横に振った。


「いいえ。これは悪の所業です。神殿に恥をかかせますから」

「では、私は証人として同行しましょう」

「お願いします。悪の道にも、証人は必要ですものね」


 メレディは胸の前で拳を握った。


「相手に恥ずかしい思いをさせる。それは悪の所業なのです」


 メレディは、「よし!」と声を掛けながら拳を上に突き上げた。


「……」


 ふん、と鼻を鳴らすメレディを見ながら、クラウスはつぶやいた。

「セシリア殿から話は聞いていたが……」





 それからのメレディの行動は早かった。


「証拠の帳簿の写しもできたことですし、これから神殿に乗り込みます」


 クラウスも、メレディとともに神殿に戻るつもりだったので、同行することになった。

 メレディは、クラウスから証拠の写しを受け取って、しっかりと服の内側のポケットへしまい込んだ。証拠を自分ではなく人に用意させるのも、なかなか悪らしい。だが、恥をかかせるのはメレディ自身でやらねば悪の道にはならない。


 セシリアが馬車を用意してくれたので、二人はありがたく載せてもらうことにした。クラウスがまた咳き込み始めてしまったのだ。メレディはまた、こっそりと『小奇跡』を施した。


 馬車で市場の近くを通りかかったとき、道の中央で立ち往生している荷車を見かけた。


「どうやら今朝の市場に卸す野菜のようですね」

「それは大変」


 メレディは馬車から降りて、荷車の主の年老いた男性に話しかけた。


「車輪が……」


 車軸の棒がひび割れてしまっていた。これでは、重量のある荷を運ぶことはできない。聞けば、代わりの荷車を用意しようにもけっこうな賃料がかかるという。


「たぶん、市場までしかもたないでしょうけれど」


 そう断って、メレディは『小奇跡』を施した。

 車軸はひびが入ったままではあるが、まっすぐになっていた。


「荷を降ろしたらすぐに修理してもらってくださいね」


 メレディの説明に、荷車の主の老人は何度も頭を下げた。


「あのう、少ないのですが、よかったらこれを」


 老人は懐から古ぼけた革袋を取り出し、銀貨を一枚取り出した。

 メレディはびっくりした。『小奇跡』ごときにこんな大金はいりません、と叫びそうになった。

 いつのまにか馬車から降りていたクラウスが、メレディの横に立っていて、メレディを静かに見ていた。


 クラウスの琥珀色の瞳と目が合い、メレディははたと気がついた。

 自分は悪の道を行くのだ。悪には資金も路銀も必要だ。それに。


「ただ働きはもうしない」


 メレディは堂々と、老人から銀貨を受け取った。

 老人は何度も振り返っては頭を下げ、市場へと向かっていった。野菜が全部売れますようにと祈りつつ、その姿が小さくなるまで見送った。ほっとした顔で、メレディはようやく馬車に乗り込んだ。

 クラウスが微笑を浮かべてメレディを見ていたので、


「なにか?」


 睨んで尋ねると、


「いえ」


 クラウスは優雅に首を振ったが、微笑のままだった。

 どことなく居心地の悪いまま馬車に揺られ、ようやく神殿についたとき、メレディはほっとした。


「行きましょう」


 馬車を先に降りたクラウスが、メレディへ手を差し出した。

 それがエスコートだとはわからず、メレディは困惑した。

 クラウスはにこりとして、


「手を」


 と言うので、メレディはおずおずと自分の手を伸ばした。その手を見て、メレディは後悔した。あかぎれとマメだらけの手だった。


 クラウスはちらりと手を見たが、何も言わずそっと握りしめた。

 メレディの手に、クラウスの体温がじんわりと伝わった。なぜか、頬が熱くなった。クラウスの体温は人の体温を上げる効果があるのだろうか、あるとすればそれは『小奇跡』では、などと考え、頬の熱はなかったことにした。


 クラウスの手を借りて馬車を降り、手を放してもらえると思っていたのに、クラウスはメレディの手を自分の肘にかけ直して歩き出した。


「あの、これ」

「エスコートです」

「神官がそんなことをするのは」

「賓客への敬意です」

「これって貴族令嬢のためのものでは?」


 戸惑うメレディに、クラウスは笑いながら答えた。


「私の咳をいつも鎮めてくれていたでしょう。おかげで呼吸が楽なまま、参拝者の対応ができました。あなたがいる日をいつしか待ち望むくらいにね。そういうわけで、その時の礼だと思ってください」


 あんな『小奇跡』に礼なんて、と言いそうになったところをメレディはぐっとこらえた。

 そうか、そのときの礼がこのエスコートというわけか、と納得したメレディは、


「わかりました。対価としていただきましょう」


 と真顔で返した。




 事務室の中は、混乱を極めていた。


 事務官長は自分の机の前に立ち、青い顔で目を泳がせていた。彼がいつも座っている席には、見かけない初老の男が座って、眼光鋭く帳簿に目を走らせていた。


「前事務官長殿だよ。今は本神殿の監査役を務めている」


 クラウスがメレディの耳に口をよせて囁いた。

 ほかの事務官の机にも、見知らぬ男が座り帳簿や書類に目を走らせていて、その机の前には現事務官が、やはり顔を真っ青にして立っていた。


 メレディは唇を噛み、懐に入れた帳簿の写しを握りしめた。自分で叩きつけるつもりだったのに、どうやら悪の道の先客がいたらしい。

 知らない顔の男たちは帳簿を読み込みながら、時折赤インクで何かをものすごい速さで書き込んでいる。


「……見るに堪えぬ」


 前事務官長が押し殺した声でつぶやいた。


「小奇跡巡回の記録を正式な奇跡記録ではなく、奉仕活動の雑務記録として扱っていたのか? これでは本神殿へ上がる報告に、メレディ殿の奇跡が載らぬではないか」


 その声は小さかったが、部屋中に響いた。現事務官長はびくりと跳ねた。

 前事務官長は、ぎょろりと目を動かし、メレディを見た。


「メレディ殿とお見受けする」


 彼の眼光に気圧されつつ、メレディは頷いた。


「昨夜遅くに、市場組合およびクラウス神官より、小奇跡巡回の記録に不審があるとの急報を受けた」


 男はそこで席を立ち、メレディの前に進んだ。

 ほかの、調査をしていた男たちも席を立ち、メレディへ体を向けた。


「メレディ殿の起こした『小奇跡』と呼ばれる十年間分の奉仕への正しいお布施の金額を出すには、しばしの時間を頂戴したい。退職金の計算も、規定では計算できない故、上層部と相談の上、改めて算出させていただく。今わかっている限りで申し上げるが、メレディ殿へ戻される給金は相当な金額になる」


 男はくい、と近くの調査官に首を振った。

 調査官は一つうなずくと、現事務官長を引きずってきて、メレディの前に立たせた。


「この度は、事務室の失態により、ご迷惑をおかけした。現事務官長への教育が至らなかった私の責任でもある。伏してお詫び申し上げる」


 男は床に片膝をつき、頭を垂れた。

 その横では、調査官に肩を押さえられた現事務官長が両膝を床につき、歯を食いしばりながら頭を下げていた。


「くそっ」


 小さく漏れた悪態に、前事務官長の目がぎろりと動いた。現事務官長はさらに顔を赤くし、黙り込んだ。

 メレディは急な展開に動転してしまった。

 もっとこう、自分で高らかに恥をかかせてやるための決め台詞をたたきつけてやろうと思っていたのだ。


「決め台詞、考えてなかった……」


 メレディの頭上から、ふふ、と微かに噴き出す声がした。

 メレディはむっと口を尖らせた。

 男たちはずっと頭を下げたままだ。


「メレディ殿。ここは、何かおっしゃる場面かと」


 クラウスが小声で促した。

 悪の道を歩む者は、ここで寛容さを見せるのか、と考えて、ちがうな、と思った。


 ちらりと見た現事務官長の表情は見えないが、耳が真っ赤になっていた。当初の目的は、この男に恥をかかせることだった。ならば、それは達成していると言っていいだろう。


「不当な扱いを受けたのです。慰謝料を請求します」

「当然です」


 前事務官長が答えた。


「それに、今後『小奇跡』を起こす候補生たちの処遇改善の規定を望みます。もうひとつ。候補生間での雑務の押しつけについても、調査対象としてください」

「要望は、必ず上層部へ伝えよう」

「えっと、ほかには……」


 メレディが言葉を探していると、事務室の戸が勢いよく開かれた。

 青い顔をした大神官長と、本神殿の制服を着た神官がそろって現れた。


「メレディ殿とお見受けする。私は本神殿の総務長だ」


 総務長を名乗った男は、隣の大神官長を軽く前へ押した。


「この度は、当神殿の不始末により、メレディ殿には大変なご迷惑をおかけした。申し訳ない。大神官長にも、候補生管理の責任は問われることになろう」


 総務長に促され、大神官長はうなだれたまま、頭を下げた。


「……誠に、申し訳なかった」


 と小声でわびた。

 総務長はその詫び方が気に入らなかったのか、「まったく」、と不満そうにつぶやいた。


「やけに本神殿の動きが速いのはなぜですか?」


 クラウスの問いに、総務長が、


「本神殿の大聖女さまのお耳にもこの件が入った。急ぎ確認せよとの命が下りましてね」


 総務長が再びメレディへ目を向けたとき、クラウスがすい、と総務長とメレディの前に体を滑り込ませた。


「クラウス殿、そう警戒せずとも」


 総務長が苦笑いした。


「あなたには警戒してもしたりないことはない」

「まだあなたを本部へ引き抜こうとしたことを恨んでいるのか。あなたは規定や典範、経典をほぼ諳んじている優秀な人材なのだから欲しいのは当然だ」

「で、メレディ殿に御用か?」


 総務長は苦笑いのままうなずいて、メレディを見た。


「単刀直入に申し上げる。メレディ殿、本神殿へお越しいただきたい。まずは聖女待遇でお迎えします。正式認定は、本神殿で女神さまの御前に立っていただいたのちとなりますが」

「え」


 メレディがびっくりしているその横で、クラウスが眉をひそめた。


「何が目的です?」

「『小奇跡』と言われる奇跡を、一日のうちに信じられないくらいの回数を起こしていると聞いた。その力はおそらく一般の聖女よりも強いはず。前例のない奇跡を起こすあなたをここではなく、本神殿へ迎えたい」

「いやです。私は悪の道を進むのです」

「女神さまは出て行って悪の道を歩んだあと、あなたの姿を見せろとおっしゃったのでは?」


 メレディは目を開いた。


「なぜそれを」


 総務長は片眼をつむって見せた。


「本神殿の大聖女さまが、今朝、女神さまのお告げを受けた。『そろそろ、悪の道を歩いたメレディの姿が見たい』、と」


 女神像は、神殿の奥深くにある。


 そこは、どんな有力な参拝者であろうとも立ち入り禁止で、もっぱら神官や聖女たちが祈る場である。

 参拝者たちは、女神像の前の扉で祈りを捧げるのだ。


「そうだったけど……」


 女神さまは、「見せて」と仰った。あれは、悪の道を歩いている自分を見守るということだと、メレディは思い込んでいて、このまま悪を精進していこうとしていたのだが、女神さまの言葉を正しく解釈すると……。


「神殿に戻って女神さまの前に立つには、聖女候補になるしかない……」


 呆然としたメレディに、総務長は、


「聖女候補ではなく、聖女待遇ですよ」


 と言った。メレディはまたびっくりした。


「正式な聖女候補ではなく? それ以上の?」

「もちろんです。十年間という長い年月のあいだに、奇跡巡回を月に何度もこなし、その巡回中の奇跡の回数も年々増えていっている。私の一存では断言できませんが、きっと聖女認定が出るはずです」

「そんな」

「どうか、本神殿にお越しください」


 女神さまも待っていると言われた。これは、悪の所業を勧めてくださった女神さまに報わなくてはならない。悪を歩んだ者は、不当な仕事は請け負わず、情報収集をしたうえで行動し、仕事の対価を受け取り、当然の待遇を要求する。そして、世知辛い世の中では、悪こそ義理人情も大事にしなくてはならないのではないか。


 メレディはごくりと唾を飲み込んだ。


「女神さまのお召しとあらば、参ります」


 総務長の目が輝いた。

 いつの間にか立ち上がっていた前事務官長が手を叩いた。

 周りの調査官たちも、拍手を始めた。


「これは、素晴らしい聖女の誕生となるだろう」


 総務長も手を叩きながら、ちらりとクラウスへ目を向けた。

 クラウスは拍手もせず、不機嫌な顔をしていた。


「……嵌めましたね」


 クラウスが低い声で唸った。


「なんのことかな」

「とぼけないでください。メレディ殿を本神殿へ招いたら私もついて行くとわかっていてやったでしょう」

「女神さまのお告げだ」

「クラウス様、本神殿へ一緒に行ってくださるの? だったら心強いんだけど」

 

期待を込めたメレディの目に、クラウスはたじろいだ。


「クラウス殿もぜひ本神殿へ」


 総務長がにこやかに言った。クラウスが悔しそうに唇をかみしめ、小さく頷いた。


「やった」


 メレディは両手の拳を上に突き上げた。

 

 悪の道は、本神殿に行っても歩いていく。だって、女神さまが勧めてくださったのだから。

 


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とても面白かったです
続きを読みたいです。 すごく楽しい物語でした。
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