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誰も見ていないと思っていたのに辺境騎士様だけは違いました

作者: 茗子
掲載日:2026/06/02

「私の給料はゼロで構いません。ですが、孤児院と騎士たちの冬服予算だけは残してください」


三日間、一睡もしていなかった。


決算期限まで、あと二時間。

深夜の執務室はひっそりと静まり返り、羊皮紙を擦るペンの音だけが響いている。

インクは掠れ、酷使し続けたソフィアの指先は微かに震えていた。極度の眠気と疲労で紙に並ぶ数字が二重三重にぶれて見えても、彼女は祈るように最後の項目を確認し続けていた。


 王太子や官僚たちの浪費で火の車となっている国庫。その中で、弱い立場にある者たちが冬を越すためのわずかな予算だけは、血を吐いてでも死守しなければならなかった。


コツ、コツと、廊下の向こうから規則正しい騎士の巡回の足音が聞こえてくる。

ふと、机の端に目をやる。

そこには、いつの間にか温かいお茶が入ったカップが置かれていた。

カップの下には、小さなメモ用紙。

『少し休んでください』

武骨だが、どこか温かみのある文字。足音の主が置いてくれたのだろうか。それが誰なのかは知らない。ただ、この見知らぬ誰かの気遣いだけが、限界を迎えていたソフィアの体を動かす唯一の燃料だった。



 


数日後。王立学園の卒業パーティー。

シャンデリアが眩く輝く会場で、ソフィアは最後列の影にひっそりと立っていた。

身に纏っているのは、目立たない灰色のドレス。華やかな装飾も何もない、ただの事務服のような装いだ。


「見よ! 私が寝る間も惜しんで進めた改革の成果だ! 今年も我が国は黒字である!」


 王太子が壇上で決算書を高らかに掲げると、会場は割れんばかりの拍手喝采に包まれた。

三日間の徹夜。血を吐くような努力。

そのすべてが、たった今、他人の手柄として消費されていく。

誰の視線も、影に立つソフィアには向かない。インクが染み付いた指先を隠すように、彼女はそっと両手を組んだ。

称賛を一身に浴びた後、王太子は冷酷な視線をソフィアに向けた。


「ソフィア・アルトワ! 貴様との婚約は本日をもって破棄する! 私の輝かしい治世に、陰気なお前は不要だ。そんなに辺境の騎士どもが大事なら、一生辺境の砦でくすぶっているがいい!」


「そうですわ。そんな汚らしいお仕事は、平民の方々に押し付けておけばよろしいのに」


王太子の腕にすがりつきながら、聖女リリーが無邪気に、残酷な言葉を放つ。

会場中から、冷たい嘲笑の波が押し寄せてきた。

反論の言葉ならあった。けれど、ソフィアは決して声を荒らげなかった。

高位貴族としての気品と誇り。背筋を伸ばし、彼女は静かに一歩だけ引いた。


「……承知いたしました」


ただ一言。

それだけを告げ、懐から決裁印を取り出してテーブルに静かに置く。

そして、踵を返した。

嘲笑に包まれる会場。

その中でただ一人だけ。

会場の隅で、黒髪の騎士が激しく眉をひそめていた。彼は去っていくソフィアを追いかけようと無言で人混みをかき分けたが――閉まる扉には間に合わなかった。

ソフィアは、その存在に気付かなかった。





 

王都を去る馬車の中。

ガタガタと揺れる車内で、ソフィアは深く息を吐き出した。

すべてが終わった。心の中には怒りよりも、ただ底知れぬ虚無感だけが広がっている。

ふと、座席の隅に何かが置かれているのに気づいた。

見覚えのない、上質な毛布。そこから微かに、あのお茶と同じ香りがした。

毛布の上には、一枚の短いメモが添えられている。


『今日も明かりがついていましたね。毛布を置いておきます。朝方は冷えるので。少しでも眠れますように』


ソフィアの心臓が、大きく跳ねた。

その武骨な字を知っていた。毎朝、執務机の端にそっと置かれていた、あの差し入れのメモと同じ字だった。

誰も見ていないと思っていた。

誰にも必要とされていないと思っていた。

誰にも心配されていないと思っていた。

けれど。

この人だけは知っていた。

ソフィアは声を殺して泣いた。






馬車に揺られること数日。ソフィアは辺境の地へと辿り着いた。

砦の前に到着し、馬車の扉が開かれる。

出迎えたのは、黒に銀の装飾が施された軍服を纏う騎士たちだった。

その中心に立つ辺境騎士団長、ノア・レオンハルト。

漆黒の髪に、鋭い眼光。「最強の鬼神」と謳われる彼の威厳に、周囲の空気までがピリッと引き締まっているように見えた。

ソフィアが静かに馬車から降り立つ。

その瞬間。

ノアの鋭い眼光がソフィアを捉え――完全に固まった。


「……」


そのまま石像のように硬直したかと思うと、一歩前へ踏み出そうとして。

見事に階段を踏み外し、盛大に転げ落ちた。


「だ、団長ーーー!?」


部下たちの悲鳴が砦に響き渡る。

慌てて立ち上がったノアは、顔を真っ赤にしてソフィアの前に直立不動で立ち、裏返った声で叫んだ。


「お、お怪我はありませんか……っ!」


「え……? あ、はい。私は何も……」


最強の騎士のあまりにも不器用な姿に、ソフィアの張り詰めていた心がほんの少しだけ解けていく。

 




その日の夜。ソフィアはノアの部屋に招かれていた。

部屋に入った瞬間、ソフィアははっと息を呑んだ。空間に満ちていたのは、あの馬車にあった毛布と同じお茶の香り。そしてソフィアの視線が、棚に置かれた見覚えのある茶葉の缶と、自分に出されたものと同じ武骨なカップで止まる。


「……ソフィア嬢」


ノアが、不器用な手つきで一つのティーカップを差し出す。

ソフィアはカップを受け取り、震える声で尋ねた。


「⋯あのメモを書いてくださっていたのは、ノア様だったのですね。……どうして、私なんですか」


誰も私など見ていなかったのに、どうしてこの人は見つけてくれたのだろう。

ノアは、不器用に視線を逸らした。


「……気になった」


「え?」


「皆が帰った後も、お前だけ残っていた。何度も、倒れそうな顔をして……」


ノアの声は低く、けれどどこまでも優しかった。


「皆がお前を悪女だと言った。でも俺にはそう見えなかった」


ソフィアの胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。

有能だからではない。

この人は、ボロボロになって傷つきながらも必死に耐えていた『私自身』を、ずっと見ていてくれたのだ。

温かいお茶の香りが、冷え切っていたソフィアの心を満たしていく。

張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた気がした。

ソフィアは、生まれて初めて肩の力を抜いた。





王太子がいつものように朝の執務室の扉を開けたとき、そこには異様な光景が広がっていた。

机の上には、山積みにされた未処理の書類。

いつも決まった時間に置かれている紅茶がない。危険案件に添えられているはずの丁寧な注意書きもない。誰も何も説明してくれない。


(私は、あいつに……)


呼吸をするように当たり前に問題を片付けていた彼女。

限界まで擦り減っていたであろう彼女に、自分は一度も『ありがとう』と礼を言ったことがなかった。

ふと、ソフィアの顔を思い浮かべようとして、王太子は戦慄した。

どんな顔をして笑う女だったか。思い出そうとしても、俯いて黙々と帳簿を見つめる灰色の姿しか思い出せないのだ。

何色の瞳だったかも思い出せなかった。

自分は彼女の顔を、まともに見たことすら一度もなかったのだ。


「殿下! 商人ギルドの代表が契約の破棄を申し出てきました!」


「なっ、なぜだ!」


「代表はこう申しております。『我々は王家を信用していたのではありません。ソフィア様を信用していたのです』と……」


ソフィアという防波堤が消えた国庫は一瞬で底をつき、城内は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。


「どういうことだ! 予算がないとは!」


頭を抱える王太子の横で、聖女リリーが不思議そうに小首を傾げた。


「お金がないって、どういうことですか?」


「リリー、君の『祈り』で何とかならないのか。今すぐ現金が必要なんだ」


「足りないなら、ソフィア様が何とかしてくださると思っていましたわ」


悪意はない。反省もない。

ただ無邪気に、他人の血と汗を養分にすることに何の疑問も抱いていない。底知れぬ無自覚な搾取の恐怖。


「…………っ」


王太子は絶望に目を見開いた。

自分は、こんな空虚な人形のために。あんなに必死だった彼女を手放してしまったのだ。


「……馬車を出せ。今すぐ、辺境へ向かう」






 辺境の砦の応接室に通された王太子は、目の前の人物を見て息を呑んだ。

そこにいたのは、俯いていた「陰気な女」ではない。

深緑の美しいドレスに身を包み、穏やかで気高い光を宿したソフィアだった。


「ソフィア……。すまなかった」


かつてないほど頭を下げ、王太子は短く痛切な謝罪を口にする。

だが、ソフィアの表情は揺るがなかった。ただ静かに、凪いだ海のような瞳で彼を見つめ返した。


「もう、手遅れでしたね」


謝罪したのに、戻ってこない。

その絶対的な拒絶に、王太子は反論の言葉を見つけられず、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。

 




 王太子が力なく辺境を去った後、執務室に戻ったソフィアの元へ、一人の文官が手紙を持ってきた。


「ソフィア様、王都の孤児院から届いた手紙です。なんでも、何人もの子供たちが代わる代わる書いたそうです」


受け取った便箋には、子供のたどたどしく不器用な字で、一言だけ書かれていた。


『おねえちゃん、ありがとう』


三日間寝ずに死守したあの小さな数字。

誰にも見られていないと思っていた努力が、優しい結果として返ってきたのだ。

 




夜。

ソフィアの帳簿を、ノアが静かに閉じる。


「まだ仕事があります」


「ない」


「ですが――」


「もう十分だ」


ノアは少し困ったように笑った。


「だから休め」


「……」


「俺が心配する」


ソフィアは何も言えなかった。

ノアの大きく無骨な手が、ソフィアの肩をそっと包み込む。

温かいお茶の香りがした。

あの日。

誰もいないと思っていた。

けれど。

本当は違った。







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