山桜
7月、東京はまだ梅雨は明けていなかった。ただ、今月に入ってから雨らしい雨はほとんど降っていない。それでも気圧の配置がどうとかで、梅雨明け宣言はまだ出せないと、テレビの天気予報は言っている。
今年は帰省できないなあ。真っ青な空を見上げながら、真田優菜は軽いため息をついた。
まあ、行くのは涼しい場所だからいいか。そう思いなおし、優菜は大きな布のバッグを肩に担ぎ直し、集合場所の通用門へと足を早めた。
「真田さーん」
高橋が国立博物館の裏手にある警備員室の前に立って大きく手招きをした。彼は優菜と同じ大学で、近世文化史専攻の新居ゼミに所属する学生だ。
新居教授は、江戸時代の風俗や美術研究で知られた第一人者で、優菜が今の大学を進学先に選んだのも、新居教授の存在が大きな理由だった。
集合場所は、国立博物館の裏手にある通用門の脇にある荷物搬入口。秋に開かれる企画展「江戸の風俗と文化展」の準備で、近ごろ博物館に寄贈された未整理資料の中から使えるものを仕分ける作業を博物館から新居教授が依頼されていた。優菜たちゼミ生は臨時の助っ人として呼び出されたのだ。そのせいで夏休みはほとんどなくなるが、寄贈されたばかりで、まだ研究者さえも知らない、歴史の隅に埋もれた何かを見つけられる気がして、優菜の胸はわずかに高鳴っていた。
見渡すと新居教授の姿が見えない。
「先生は?」
「そろそろ来る頃だけど」
そう言って遠くを見た高橋につられて優菜も同じ方向を見ると、道路側からワンボックスの車が入ってきた。
やがて車は優菜たちのいる少し手前で止まり、運転席から新居教授が降りてきた。
「やあ、群馬は遠かったよ。日帰りはきついな」
教授はパタパタと軽く自分の服を払いながら言った。
「いえ、私はいま来たばかりで——」
優菜の返事を全部聞く前に、教授は車の後ろへ回り込み、「さあ、荷物を降ろすぞ。男子は手を貸して」と声を張り上げた。
車に積んでいたのは古びた木箱がふたつ。教授から事前に話は聞いていたが、思ったより大きい。教授が博物館に依頼されて、寄贈品を自ら運転して群馬にある農家の蔵から引き取ってきたのだ。
「この木箱、結構大きいですね」
「これはね、長持って言うんだ。蔵とかに大事なものをしまうのに使うんだよ」
「長持、ですか」
中身は江戸時代の浮世絵に関係したものだと聞いている。
二百年か——
優菜はしみじみと古びた長持を見つめた。
その長持を搬入用の台車に二段に重ねて積むと、「ついてきて」と教授が先に歩きだす後ろを、ゼミ生全員で台車を押しながらついて歩く。
教授は手慣れた様子で入館手続きをすませると、入館証をみんなに渡して建物の奥に進み、貨物専用と書いてある大きなエレベーターの前で止まった。
「このエレベーターは、人間だけの時は使えないから気をつけて」
教授はそう言いながら、下向きのボタンを押した。
上から降りてきたエレベーターの扉が開くと、そこは想像よりも奥行きがあり大きな空間だった。こんな大きなエレベーターは初めてだ。
「でっけえ」
隣にいた高橋が感嘆するようにボソッと漏らした。同じことを思ったみたいだ。
「いろんな展示物とかを載せるからね。これでも小さいくらいだ。さあ、乗って」
促されて台車を乗せた背中から、院生の宇草先輩の「さすが国立」という皮肉にもつかない声に、つい笑ってしまった。
降りたのは地下一階だった。エレベーターがそのまま広い無機質な白壁のホールに繋がっていた。そして博物館の人だろう、中年の男性が待っていて、学芸員のササキさんと紹介された。
ホールは冷房が効いていた。ササキさんがあらかじめ空調を効かせてくれたようだ。
「では二つの班に分けて作業するから、宇草たちの長持はそっち、高橋たちのは向こうの奥に行こうか。宇草班は上田と南田、そっちは板倉がリーダーで高橋と真田さんね」
新居教授はいつものように優菜だけは「さん」付けで呼びながら、それぞれの置き場所を指差した。
「長持を下ろす前に、宇草が持ってるブルーシートを広げて、中身を分類しながら出してくれ。手袋を忘れないようにね。それと、床を傷つけないようにね」
はーい、と返事をして、きれいに二つの班に分かれた。
「真田さん、PCは大丈夫だよね」
教授から聞かれて、「はい、この中に」と言いながら優菜は肩に担いだバッグを見せた。
「昨日言ったけど、わかった物からどんどん例のソフトに仮登録していって」
「先生、電源はどこから」
「ササキさん、電源は適当でいい?」
教授がササキに振り向くと、
「あそこの壁際にある作業台なら、すぐ下にコンセントがありますよ」
と、指差した。
優菜は指定された作業台にノートPCを広げ、電源を確保する。ここはセキュリティが厳しいのでWi-Fiなどは使えない。スタンドアローンで入力できるようにあらかじめソフトをインストールしてある。分類が終わったらいったん大学へ持ち帰り、整理して博物館に提供する段取りになっていた。
「よし、こっちは準備OKだよ」
優菜が高橋たちの方を向くと、男子二人がかりで重い長持の蓋を開けたところだった。
「……うわ、埃すごいな」
板倉と高橋が顔を歪める。優菜が近づくと、高橋が手袋を放ってよこした。
「素手で触らない方がいいよ」
「ありがと」
優菜は受け取ったラテックスの手袋を装着し、指先を馴染ませながら中を覗き込む。
長持の中には、一番上に埃を被った古い和紙が数枚、落とし蓋のように被せられていた。板倉と高橋がその四隅を慎重に持ち上げると、中身が姿を現した。
中は案外きれいに整理されているようだ。
片隅に、一際小さな木箱が収まっていた。高橋がその蓋を横にスライドさせると、中には刃の形も様々な、大小数十本の彫刻刀が整然と並んでいた。
「へえ、道具箱か。これ全部、手作りなのかな」
板倉がその中の一本を慎重に摘み上げた。柄の側面に、古風な書体で二文字が刻まれている。
「彫……辰。ほりたつ、と読むのかな」
「それ、持ち主の名前ですか?」優菜が聞く。
「たぶんね。自分の道具を間違えないように彫ったんだろう」
三人が頭を突き合わせていると、背後から新居教授の声がした。
「どうした、何か出たか」
「あ、先生。彫刻刀に文字が彫ってあって」
「どれ」
教授は板倉から受け取った彫刻刀を、老眼鏡の奥の鋭い眼差しで見つめた。
「ほう……。この彫辰というのは所謂通り名、まあ通称だな。たぶん通り名があるくらい彫師として名の通った腕のいい職人だったんだろうね。自分の道具に名を刻むのは、それを使って生み出す作品に全責任を持つという誓いのようなものだ」
教授は満足そうに頷くと、再び道具箱を覗き込んだ。
「……よし、真田さん。まずはこの道具箱から例の目録ソフトに登録を始めてくれ。高橋、撮影を急いで」
言われて高橋が道具箱をそっと持ち上げて、ブルーシートの上に下ろし、中にある道具をシートの上に並べ始めたときのことだ。
「先生!」
宇草が緊迫したような声を上げた。
「どうした」
新居教授は先ほどの彫刻刀を握ったまま急足で宇草たちの方へ向かった。
「先生、まさかこれ本物の……写楽じゃないですよね」
震えるような手で宇草が教授に差し出したのは、古びた一枚の板のようだった。
「何?」
新居教授は宇草から板を静かに受け取ると、明らかに顔色が変わった。教授はその板を二、三回角度を変えながら凝視すると、
「ササキさん!」
と、学芸員のササキさんを呼んだ。そして宇草に顔を向けると、
「宇草、間違いない。おそらく本物の写楽の主版だ。これは大発見だぞ」
と、興奮した様子で言った。
「新居先生、これって……」
駆けつけたササキの震える声。
「そうだよ、ササキ君。二世嵐龍蔵の、金貸石部金吉だ。こんなものが群馬の農家で眠っていたとはな」
「ちょ、ちょっと上に報告してきます」
ササキはパタパタとスリッパの音を響かせて部屋から出ていった。
「ということは……」
新居教授は、先ほどから手にしていた彫刻刀をしげしげとみつめた。
「大発見がもうひとつだよ、宇草」
「なんですか」
「東洲斎写楽の絵を彫った彫師のひとりが初めて特定されたんだ。それがこの」手にした彫刻刀の柄を宇草に向けた。「この、彫辰だ」
そうこうするうちに、ササキが数人の人と再び入ってきて、新居教授と板を見ながら興奮気味に話している。板倉先輩もその輪の中にいたが、こちらへ戻ってきた。
「板倉先輩」
優菜が声をかけると、板倉は興奮で上気した顔をこちらに向けた。
「すごいことになったな、真田さん。まさか本物の写楽……それも、第一期の嵐龍蔵の主版が出るなんて」
「あの……主版って、そんなにすごいものなんですか?」
優菜の問いに、板倉は「ああ、そうか」と頷いて説明を始めた。
「浮世絵って、色ごとに何枚も版木を作るだろ? その中で、役者の顔や輪郭、一番重要な『黒い線』を彫った最初の板を主版って言うんだ。いわば、作品の魂だよ。でも、普通は何度も摺るうちに磨り減るし、役目が終われば別の絵のために表面を削って再利用されちゃう。二百年前の、それも写楽の主版があんなに綺麗な状態で残ってるなんて、奇跡に近いんだ」
「それを……この『彫辰』さんが彫ったんですか?」
「教授はそう見てるな。写楽といえば第一期の彫りの細かさは、当時の職人の中でもトップクラスだ。その道具と版木が一緒に出たんだから、この彫辰こそが写楽の右腕だったって証明になる」
板倉はそう言うとカメラを手にして「俺、あっちの接写を手伝ってくる。こっちは高橋と二人で進めておいてくれ」と言い残し、再び教授たちの輪へ戻っていった。
「なんか、あっちの方は僕らの出る幕はなさそうだね。こっちはこっちで、できることを進めておこうか」
高橋が再び道具の撮影を始める。優菜は彼が並べた道具を見ながら、『道具箱』『彫刻刀』『砥石』と、淡々とPCに入力を進めた。
「真田さん、ちょっと手伝って」
先に撮影を切り上げた高橋が、長持の奥を覗き込みながら言った。
「底の方に、風呂敷に包まれた何かがあるんだ。結んでないから、持ち上げると中身が崩れそうで。悪いけど、反対側を支えてくれる?」
優菜は長持に手を伸ばし、色褪せた唐草模様の布の下に、掬い上げるようにして指を滑り込ませた。
せーの、と声を合わせて持ち上げると、ずっしりとした木の重みが指に食い込む。二人は息を合わせて、その重い塊をゆっくりとブルーシートの上へ下ろした。
「なんだろね」
優菜がゆっくりと風呂敷をめくると、中には八枚の古びた板——すべて版木と思われる——が現れた。おそらく墨の跡だろう、一番上はかなり黒ずんでいる。
まさかこれも写楽とか……。だとすればこれも貴重な物ということになる。
「新居先生」
彼もまた同じことを思ったらしく、まだ騒ぎが収まらない向こうの輪に向かって高橋が教授を大声で呼んだ。
「どうした。またなんか出たか」
新居教授が駆け寄ってきた。
「これもあの、写楽、ですか」
優菜が版木を指差した。
「どれ」
教授が腰をかがめ、版木を二枚手に取った。そしてしばらく細部まで調べていたが、
「いや、摺り具合を確かめるための試し彫りだろう。写楽じゃない」
そう言いながら「ん?」と風呂敷に目を留めた。
「ほお、面白いものがあるじゃないか。これは蔦屋に出来上がった摺り物を納めるときに使う風呂敷だな」
教授はそう言って包んでいた版木を横に移動して風呂敷を手にした。
「ほら、ここに蔦重と書いてあるだろう」
確かに教授が示した風呂敷の端に縫い付けられたあて布に、確かに「蔦重」と墨で書いてある。
「江戸の総合敏腕プロデューサー蔦屋重三郎、通称『蔦重』さ」
「蔦重って、講義で出てきたあの……」
思わず声が漏れた。近世文化史を専攻していれば、その名を知らないはずがない。喜多川歌麿や東洲斎写楽を世に送り出した、江戸のメディア王だ。教科書の文字としてしか認識していなかったその名前が、いま、目の前の古びた風呂敷に墨書きされている。二百年の時を超えて、伝説のプロデューサーの手触りが伝わってくるような気がして、優菜は背中に微かな戦慄を覚えた。
「そうだよ。この風呂敷こそ、彫辰と蔦重が繋がっていた動かぬ証拠だ」
教授は立ち上がると、満足げな顔でもう一度風呂敷を広げて眺めると、「ササキさん、また面白いものが出てきたよ」と写楽発見に弾む輪の中に戻っていった。
興奮してササキさんたちと話し込む教授の背中を見ながら、優菜はふと、風呂敷から取り出されたままの版木に目をやった。教授は「ただの試し彫りだ」と一蹴した。けれど、一番下に重なっていたその一枚だけ、放っている空気が違った。飴色の色合いは他の版木と変わらないのに、妙にきれいだった。
優菜は吸い寄せられるように手を伸ばし、その版木をそっと持ち上げるとその理由がわかった気がした。重ねていても他の版木が墨で汚れているのがわかるのにもかかわらず、 これだけが、この一枚だけが墨を入れられた形跡がどこにもないのだ。
横から差し込む作業灯の光に透かしてみると、そこには信じられないほど繊細な、それでいて力強い女の輪郭が浮かび上がった。 伏せられた睫毛、わずかに開いた唇。写楽特有のデフォルメがありながら、そこには写楽のどの作品にもない、深い慈しみのようなものが宿っているように優菜には見えた。
「高橋君、なんかこれすごくない?」
「へえ、美人画かな? にしても、さっきの嵐龍蔵みたいな迫力の顔だね」
「これも写楽、ってことはないかな。ちょっと先生に見せてくるね」
優菜は立ち上がると、意を決してまだ盛り上がっている輪に近づいた。
「先生、こんなのが出てきました。これも写楽ですか」
版木を差し出すと、そこにいた全員が優菜の手にした版木を覗き込んだ。
「なに? また出たか」
興奮した声で新居教授が版木を受け取り、しげしげと眺めた。そして先程までの紅潮した顔が一気に冷めるように苦笑いをしながら深いため息をついた。
「なんだ、びっくりするじゃないか。これはさすがに写楽じゃないよ」
周囲にいたササキたちも覗き込みながら頷く。
「でも、髪の一本一本まですごく丁寧に彫られていて、試しに彫ったとは……」
この版木を手にした瞬間に心を奪われた優菜は、ちょっとだけ抵抗を試みた。
「確かにね、よく彫られているとは思うよ。しかも彫辰のところにあったものだとすれば、そう感じるのも仕方ないかな。ちゃんと山桜といういい板も使ってる。でもね」
新居教授はそういうと、優菜に版木がよく見えるように目の前に掲げた。
「まず、そもそも写楽の美人画は一枚も確認されていない。それから、これが写楽だとすると一番大事な落款が彫られていない。作者名だな。写楽ほどの絵師なら、そんなことはまずない。最後に、見当がない」
「見当、ですか」
「うん。浮世絵というのは何回もいろんな色の版を重ねて一枚の絵にするんだ。習っただろ? そのためには見当という目印をつけておかないと、ずれないように印刷することはできないんだよ。これは今の印刷でも同じだ。見当がないってことは、最初から摺る気がない。写楽だったら、まずそんなことはしないのはわかるだろ?」
丁寧に説明されて、今度はさすがに抵抗はあきらめた。
「じゃあ、これは……」
「他の試し彫りのと一緒にして、番号だけ振って登録しておいて」
はい――
声にならないほど小さく返事をして、優菜はすごすごと引き上げた。だが、その版木の飴色のしっとりとした手触りと、版の中から自分を見つめ返す女性の目が優菜の心をとらえて離さなかった。




