放課後の逆光
『放課後の逆光』
教室に夕陽が差し込む。机の上に散らばったプリントや教科書は橙色に染まり、その中で一人の少女が机に伏せていた。彼女の名前はミカ、開ききらない瞼を持ち上げ、ミカは無言で窓の外を眺めている。彼女の黒髪と薄暗い表情は、クラスメイトたちが彼女を「病み系」と呼ぶ理由そのものだった。
そんな中、教室の扉が勢いよく開く。
「ミカちゃん、まだ残ってたんだね!」
入ってきたのはユナ。明るい金髪に派手なネイル、キラキラ輝く笑顔を見せる彼女は、誰が見てもギャルそのものだ。それもただのギャルじゃない、キラキラギャル、クラスの中心にいる彼女と、いつも孤立しているミカが言葉を交わすことなど、通常ならありえない。
しかし、どういうわけかユナは、ミカとの会話を好む。彼女が一人で机に突っ伏していると、話しかけて来るのはいつもユナだ、ミカにはその理由がイマイチよくわからなかった。クラスで孤立している私を憐れんでいるわけでもなさそう…なのに、そこ抜けに明るくて活動的なユナは、どうして私なんかに話しかけてくるのか?
「何か用?」
ミカは冷めた口調で答える。しかしユナは、そんなことはおかまいなしに隣の席に座り込んだ。
「なんでもないけどさ、最近哲学の授業でやった“意味”とか“存在”の話、ちょっと面白いなって思ったんだよね!」
ユナは無邪気に言う。
「…哲学が面白い?」
ミカは若干不機嫌そうに言う、実際、ミカは哲学というものが面白いと感じたことがない。なぜなら
「あんなの、答えがないものを延々と考えてるだけじゃん。無意味でしょ」
と言い放つ。
「でもさ、答えがないから楽しいんじゃない?」
ユナは窓の外を指差した。
「例えばさ、この夕陽がなんで綺麗なのか、夕焼けを見るとなんで涙が出てくるのか、電車の音は、どうして懐かしく感じるのか。誰もわからないじゃん、でも、それを考えるのって悪くないでしょ?」
ミカは少しだけ目を細めた。クラスの人気者で、何も考えていないように見えるお調子もののユナの言葉に、意外な深さを感じたのだ。実際、このユナという女は決してバカではない。バカの言葉を使うが、バカではないのだ。
「…バカみたいに聞こえるけど、少しだけわかる気がする。」
ミカがそう言うと、ユナは嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、ミカは何とも言えない気持ちになる。
このキラキラギャルは、自分とは全く違う世界にいるのに、何故か自分に近づいてくる。正直、不思議だ。対象的な私達が、なぜ言葉を交わすのか、その理由を考えてみるのも、悪くないのかもしれない。それも、哲学なのかもしれない。そう、思ったから。
—☆—
翌日も放課後の教室には二人の姿があった。しかし、しかし、太陽のように明るいユナは、まるで沈みゆく夕日のように、いつもの明るさを少しだけ欠いていた。ミカはそれが少し気になっていたが、聞き出せずにいる。自分の優しさの無さと、コミュニケーション能力の欠如に嫌気がさす。
「ミカちゃん、ちょっといい?」
ユナが机に肘をついて顔を覗き込む。ミカは内心、嬉しそうに
「何?」
と、ミカはボールペンを回しながら答える。
「実はさ、家でまた親が喧嘩してて、ちょっと疲れちゃった、ううん、もうずっと、無理をしている」
ユナの声は小さかった。普段の彼女からは想像もできないほどか細くて、弱々しい響きだ。ミカはユナの両親の不仲をしっていた。だからといって、学生の私が、ユナの両親の何かを変えることはできない、できないはずだ。
「…それでも、学校では明るく振る舞うの?」
ミカは尋ねる。
「うん。だって、家で暗い顔してる分、学校くらい楽しくしたいじゃん」
ユナは机に頬をつけて言った。その姿は、普段のキラキラしたギャルとは全く別人のようだった。
「無理しなきゃいいじゃん」
ミカはそっけなく言う。言葉にして、少し後悔した。なんで私は、他人に優しくできない。
「それができたら苦労しないよ」
ユナは苦笑いを浮かべた。
「ミカちゃんは…凄いよ。嫌なことがあったら、ちゃんと嫌って言える。私には言えない。頭の中がみんなに見せてしまうと、きっと、みんなから嫌われちゃうし———」
言葉を遮るように。ミカは黙ってカバンから小さなチョコレートを取り出し、ユナの机に置いた。
「甘いものでも食べて、少しは気を紛らわせれば」
「え、なにそれ。優しい!」
ユナは少し元気を取り戻したように笑った。その笑顔に、少しだけ満足感を覚え。彼女の言葉に、ミカの表情も少し明るくなる。それは、優しいといってくれたことも関係する、が、それ以上に、彼女にとっての私が『無理をしなくていい相手』になれたことが嬉しかったから。
—☆—
ある日の二人の放課後。ユナは昼間の明るい雰囲気から一転、闇夜のように、暗いオーラを纏っていた。今にも消えてしまいそうなユナの存在が、ミカの心を締め付ける。
「ユナ、どうしたの?」
ミカがそう聞くと、ユナはしばらく沈黙した、静かな夜のような時間が彼女たちを包む。やがて雨が振り始めた、教室の窓に雨粒が当たる音のように、ユナの口からもポツリ、ポツリと、言葉が漏れ始めた。
「昨日ね、パパと、ママが、離婚することになった」
その言葉に、ミカはたっぷりを間をあけてから
「…それで、どうするの?」
ミカが尋ねた。
「どうもしない。傷つくのは慣れっこだから。でもさ、慣れるのも悪くない気がするんだよね。慣れれば痛くないし、怖くない、そうでしょ?そう、だよね?」
ミカは静かに首を振った。
「慣れるって、本当にそうかな。慣れるっていうのは、感じなくなるってことじゃないの?ねぇ、ユナは本当にそれでいいの?」
ユナは考え込む。夜は、まだ続いている。
「でもさ、感じなくなるのも、もしかしたら楽になる方法かも」
彼女の心に限界が来ていると、ミカは考えた。
「ユナ、私は、私はユナに救われているんだ。暗くて、性格が悪くて、友達がいなくて、いつも一人だけど、ユナが色々な話をしてくれるから、頑張れる気がして、だから」
そこから先の言葉に、ミカは少し勇気を出した。
「だから、ユナ。傷つくことに慣れないで。私には、ユナの両親が離婚することを、どうすることもできない。でも、話なら聞くよ、いつでも、どこでも、ユナの話は聞く。なんにもしてあげられないかもしれないけど、会いにいくよ。放課後にアイスを食べて、クレーンゲームだってしちゃう、それじゃ、それじゃ駄目かな…?」
言い終わると、雨が止んだ。通り雨だったようだ。
「アイス、言ったね~?」
ユナがいたずらっぽく笑い、ミカも少し笑った。
—☆—
その日の帰り道、二人は並んで歩いていた。雨が降った後の空気が澄んでいて、どこか穏やかな気分だった。
「ねえ、ミカちゃん」
ユナがふと立ち止まる。
「何?」
「私たちは、どうして言葉を交わすのだと思う?」
その問いに、ミカは言葉を失った。数日前に同じことを考えていたからだ、あの日の疑問に、今なら少しだけ答えが出せる気がする。
「きっと、二人が孤独を嫌っているから」
ユナは声を上げて笑った。その笑顔が朝日のように眩しくて、ミカは安堵した。
きっと、人生には昼も夕方も夜も朝もあって…でも、二人がいれば。月並みな言葉だけど、開けない夜はない、そんな風に二人は思った。