第10話 もう一人の聖女【side:???】
◆ ◇ ◆
――ガルムディア帝国・帝都“ティルノーグ”。
この地は、帝国の中枢を担う大都市である。
中でも、皇族の住まいのである“ヴァニリア宮殿”は、帝国臣民から聖地だと崇め奉られていた。
しかし格式高いはずの宮殿の中では、俗世と何ら変わらない男女の言い合いが繰り広げられている。
否、より詳細を明らかにするのなら、鼻息を荒く詰め寄る男を、少女が冷たい視線で射抜いている――と、称するのが適切であろう。
「セフィリナ! 僕が事故に巻き込まれたのに、一度も見舞いに来ないのは、どういうことだ!? 本当なら付きっきりで……」
「……事故? 黙って政務から抜け出した挙句、勝手にモンスターと戦って負傷した結果と聞きましたが?」
「そ、それは……」
「自業自得です。それに見舞や看病に出向くほど、貴方と親しくなった覚えもありませんよ。エルデファルド殿下……」
宮殿の一角、とある部屋の出入り口で歯軋りしている男の名は、エルデファルド・レ・ガルムディア。
次期ガルムディア皇帝の座を約束された男だが、普段の尊大な態度からは想像もつかない低姿勢で、寝室の主のご機嫌を伺っていた。
「い、いつものことだが、少し素っ気なさ過ぎないかい? 君は僕の妻となるのだから、そういう自覚を持ってだね!」
「その件については、以前にもお断りしました。ですので、夜分に私の寝室を尋ねるのは止めて頂きたい」
一方、寝室の主こと――セフィリナ・ソルフィールは、あのエルデファルドから言い寄られながらも、本気で迷惑がっているようであった。
もしエルデファルドの隣を夢見る多くの貴婦人が見れば、嫉妬で憤死しかねないほどの塩対応だろう。
「っ……ま、まあ、既に決まっている結婚だ。君がどう思おうが、結果は変わらない。でも、この僕を焦らして、恋の駆け引きを仕掛けてくるなんて……全く、君は罪な女性だ」
実際、前髪を触りながら、甘い言葉を投げかけるエルデファルドの出で立ちは、優雅で様になっている。
そこに情熱的な流し目でも加えれば、どんな女性もその気にさせてしまう。こうして迫れば、落ちない女は誰もいなかったのだ。
ただ一人を除いて――。
「これが二度目の忠告です。私の耳が腐り落ちる前に、お引き取り頂けますか?」
「なっ、こ……のッッッ!?」
冷淡一蹴。
鋭い紅眼は、やはり拒絶の意志を示している。
しかし次期皇帝を相手に、ただの平民がこんな粗雑な対応をするなど許されるはずがない。
ましてエルデファルドの傲慢不遜さを思えば、即打ち首でもおかしくはないだろう。
だがエルデファルドの変貌と、平民が黄金宮殿で生活している理由ついては、実に政治的で複雑な要因が絡み合った結果の産物であった。
「ん、ふぅ……こ、この話は一旦置いておこう。僕は心が広いからね」
「とてもそうは見えませんが……」
「そんなことより、今日は君にちょっとしたサプライズがあるんだ!」
「……訊かねば、帰らないのでしょう? 早くして下さい」
そう言ってセフィリナが肩を竦めれば、紅混じりの黄金――灼金色とでも称するべき長髪が肩を流れ、その様にエルデファルドが息を呑む。
確固たる意志を感じさせる、鋭い紅眼。
シミ一つない白磁の肌。
紅のネグリジェ越しに、起伏の激しい凹凸をこれでもかと強調する扇情的な肢体。
淡い月光に照らされて悠然と佇む彼女は、まるで月影の女神の様――。
セフィリナの暴力的な美貌に魅了され、エルデファルドが現実に戻るまでには、それなりの時間を要することになった。
「っ、あ……んん! き、君も宮殿と戦場の往復だけでは退屈ではないかと思ってね! 僕が作った冒険者パーティーの一員に加えることにしたんだ」
「それで?」
「しかもSランクで、当然リーダーは僕! サブリーダーは君だ! 最高の暇潰しだろ?」
「もうどこから問い質すべきなのか、分からないのですが……」
セフィリナは額を手で抑えながら、大きな嘆息を漏らした。
得意げなエルデファルドの様子と相まって、まるで親子のやり取りだ。
少なくとも、サプライズプレゼントを贈り、それを受け取った婚約者の会話ではない。
ちなみにセフィリナは、一七歳になったばかり。
いくら大人びた容姿をしていても、二三歳のエルデファルドと同年代と言えるかは微妙なところであった。若者の一歳差は大きいのだ。
「とにかく貴方の身に何かあれば、国全体が揺れる。そんな危険なことは、今すぐにでも止めるべきです。帝国の現状は、既に知っているはずでしょう?」
「そ、それだけかい? 他にもっと言うことが、あるんじゃ……」
「逆に問いますが、こちらに何の確認もなく、お前を自分が作った冒険者のパーティーに入れてやった……と、事後報告されて、私が喜ぶと思っていたのですか?」
エルデファルドは下唇を噛みしめながら、セフィリナを睨み付ける。
しかし皇子の怒りは、何の意味を成さない。
灼金の少女は、毅然とした態度を崩さなかった。彼女はいつもこうなのだ。
どんな権力にも靡かず、他者に媚びず、超然的で、常に孤高で――。
故にセフィリナの笑顔が、エルデファルドに向けられたことは一度もない。
かつて隣国の士官学校に偶然立ち寄った際、生徒として在籍していたセフィリナに一目惚れして、熱烈に迫った時も――。
こうして宮殿で天上人の如き華やかな暮らしを与えても――。
それどころか、セフィリナの能力と帝国の危機という状況を最大限利用しなければ、彼女をこの宮殿に縛り付けることすら出来ない有様であった。
だがそれもそのはずだ。
セフィリナの一度失われた笑顔を取り戻したのは――かつて彼女が笑顔を向けた相手は、エルデファルドではないのだ。
故にエルデファルドの熱烈な求愛自体が、はた迷惑な行為としか認識されておらず、一人で盛大に空回りしているだけであった。
しかしエルデファルドからすれば、完璧最高な自分に女が靡かない――という発想自体が存在していない。理解出来ない。
ただ現状に苛立ちを募らせるばかりだ。
どことも知れぬ田舎から、隣国の士官学校に通っていた少年。
これから帝国の全てを手にする自分。
誰かどう考えても、同じ男としての格が違うはずなのに――と。
実際、同じような状況のもう一人は、飛び付くように、その身体と人生全てを差し出してきた。
エルデファルドの魅力が損なわれていないことは証明済みだ。
故にセフィリナの心が動かないことに、要因があるとすれば――。
「……も…………つも…………」
普段なら、エルデファルドが年上の威厳を見せようと余裕ぶった態度を取り、この辺りでやり取りが終わっていた。
しかし今のエルデファルドは、突如戦局に介入して謎のモンスターを打ち負かした剣士によって、誇りを酷く傷付けられた。
その癒しを求めてセフィリナの元を訪ねたのだから、平時の精神的余裕など存在するはずもない。
「いつもいつも、いつッッも!! そうやって、この俺の気遣いを無駄にしやがって! いい加減に黙って言うこと聞けよ! なぁ、おいッ!!」
怒声、狂乱。
エルデファルドは金切り声を上げると、髪を振り乱してネグリジェ姿のセフィリナに掴みかかっていく。
そのまま目指すのは、彼女の背にある天蓋付きの寝台。
年頃の男女が寝台ですることなど一つしかない。
エルデファルドは、強行突破という暴挙に出た。
犯罪としか呼べない、一線を越えた暴挙に――。
「……っ、い、ひぃっっいいっ!?」
次の瞬間、エルデファルドは寝室に押し入るどころか、無様に廊下を転がる。
セフィリナに触れることもできず、恐怖に駆られて床に這い蹲っていた。
「何と、不埒な……」
怒気を放つ真紅の眼光は、猛禽の如く鋭さを増している。
セフィリナの手には、セクシーなネグリジェ姿とは酷く不釣り合いな、槍斧が収まっていた。
エルデファルドの暴挙を察知し、セフィリナは先の一瞬で抜剣。
侵入者の眼前に刃を突き出し、皇子の激昂を殺気だけで鎮めてみせたのだ。
最強の職業とされる、“勇者”。
その力を与えられたエルデファルドであったが、年端もいかぬ少女に制圧されている。
まさしくこの構図こそ、滅びの危機に直面しているガルムディアが、セフィリナを求め、元来平民であるはずの彼女が宮殿に住まう理由に直結していた。
セフィリナが得た職業の名は、“聖女”。
“勇者”に匹敵する稀少職業であり、彼女も替えの利かない、帝国の希望なのだから――。
「……これで三度目です。お引き取り下さい」
「ふ、ぎっ、ぎぅうううっ!?!?」
エルデファルドは怒りと屈辱で目を血走らせるが、喚くことすら出来ない。
癇癪を起した子供の如く、言語化不可能な呻き声を出力するのが精々であった。
押し寄せる敗北感。
奇しくもそれは、謎の剣士によってプライドを傷付けられ、エルデファルドを打ちのめした時に抱いた感情と酷似していた。
「ぎぐ、っ……ぅ!!」
せめてもの抵抗だったのだろう。
エルデファルドはわざとらしく足音を立て、セフィリナの寝室から逃げ去った。
しかし大股で宮殿の廊下を進むエルデファルドの顔に浮かぶのは、怒りや屈辱ではない。
欲望に塗れた勝利の笑みだった。
これからもガルムディアの勢力を維持・拡大していくためには、エルデファルドとセフィリナの婚姻は最高の一手だ。
皇帝や諸侯、臣下たちも大賛成で、既にその予定で話を進めている。
故にセフィリナがどれほど気丈に振舞おうと、婚姻を拒否しようと、結末は何も変わりはしない。
何億という帝国臣民を人質に、最後は首を縦に振って、身も心もエルデファルドに捧げるしかない。
後はさっさと子供でもこさえてやれば、完全に王手だ。
もう逃げることは出来ない。セフィリナの意志など関係ない。
“勇者”と“聖女”――これは運命の結婚なのだから。
何より、かつてセフィリナが笑顔を向けた相手からは、既に全てを奪い取った。
無様な男が、宮殿に足を踏み入れる機会を完全に滅し、セフィリナがその存在を認識することすら絶対にあり得ない状態を作り出した。
後は全て時間が解決してくれる。
最強、最高、至高の人間。それこそが、エルデファルド・レ・ガルムディア。
そうとも、セフィリナにその魅力を味合わせてみせる。
だからこれは負け惜しみではない――と、エルデファルドは必死に優越感に浸っていた。
◆ ◇ ◆
セフィリナは、寝室の窓際に佇み、満点の夜空を見上げている。
月光に照らされる少女の表情は、どこか切なげで――。
「所詮は、籠の中の鳥ですね。あの頃は、こんな未来が訪れると思っていなかったのですが……」
セフィリナの脳裏に、過去の記憶が過る。
それは固く鎖された少女の氷心を融解した、とある少年と過ごした数年間の記憶――。
“聖女”である自分を敵視したり、媚び諂って来た他多数とは違う、どこか冷めた瞳が印象的だったこと。
いつしかそうした人間から、自分を守る防波堤となってくれていたこと。
積極的に人の輪に入ろうとしないくせに、他人のためには無茶をするところ。
かつて自分の隣に立っていた少年。
黒天の鎧剣を手にした彼の姿は、今も少女の記憶に焼き付いている。
そして少年に抱いた淡い恋慕の炎もまた、セフィリナの心中で、今も熱を強め続けていた。
「貴方は今、何処で何をしているのですか? リオス・ファランクス……」
その言葉、届くことなく――。
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