第零章 見習い聖女の帰還そして追放
第零章 見習い聖女の帰還そして追放
ここは大阪のダウンタウン。有名な電波塔や動物園のある観光客にも人気の界隈。一人の修道女、シスターが通りを歩いている。その背丈は周りの女性よりは頭半分ぐらいは大きく下手な男性よりも上背がありそうだ。手足の具合から衣服の上からでも引き締まったスレンダーな体型だと推測される。
「ふわあ、眠う」
大あくびをしながらシスターは通りを歩く。上を向いたせいで被っていたフードはずれ落ち、ベリーショートの黒髪があらわになる。そこに突如浴びせられるフラッシュとシャッター音。
「こら、シスターが朝から大欠伸だなんて。いい絵が取れたら、どこかにあげちゃおうかしら」
スマホのカメラを向け、遠慮なく撮影しながらシスターに声をかけるのも女性だった。こちらは公立っぽい微妙にやぼったいブレザーを着ており、丸い眼鏡をかけて、身長はシスターと比べて頭一つ分低かった。
「なんや、園子。久しぶりに会うのにいきなりやね。ここは隣人への愛というものを拳で語らへんとあかんかなあ」
拳をぽきぽき鳴らすシスター。
「いや、ごめんね、なつき」
園子と言われた女子が両手を合わせて謝る仕草をする。
「いや、わかればええんやで」
鷹揚に掌を見せるなつき。二人は歩き出した。
「間違えていたわ、シスター見習いだったわね。それに修道院の尊厳を損ねる事をすれば進学に影響する所だったわ。それを止めてくれるなんて、本当にありがとう」
園子は瞬く間の変わり身で何の感謝もこもっていない礼をしながら言った。
「なんやねん、もう。神様は、感謝そのものを受け取るんやで。アブラハムはんがな」
なつきは一回言葉を切って首を傾げた。
「あぶらはむ、はむ、はんばーぐ。えっと、思い出されへん。何やったっけ?」
園子に問いかけるなつき。
「何それ? 新しい宣教スタイル? 勉強ができないのは変わらないのね。なるほど、それじゃ見習いから先には進めないわね。でも、一歩は進んだんじゃない。あんたの口からアブラハムとか聞く日が来るとはねえ!」
腕を組んで何やら納得したように首を縦に振る園子。
「う、うっさいわ。来る日も来る日も勉強漬けで、頭おかしくなると思ったわ! 園子こそ、進学校はつらいんとちゃう?」
フードを被りなおすなつき。
「あんたが頭悪くて良かったわ。大学進学までお金を工面してもらえる事になって、正直助かってる」
園子は、今度はちゃんと頭を下げてお礼をした。
「その言い方は、ないんとちゃう!?」
なつきは、脳直でカウンターを返す。
「二人分の援助金を一人分に集めて私は大学、勉強のできないあんたはシスターを目指す。そんな発想、私にはできないわよ。本当の所は勉強から逃げたかったんでしょう?」
園子はメガネの下で眼を光らせた。
「Sや! 園子ちゃんはドSや!」
図星を突かれ涙目になるなつき。
「ふうん? アルファベットまで覚えて。成長したのね、なつき」
口角をニィとあげて嘲笑する園子。
「うわー、もう。恥ずかしいわ。あんたとは、やってられへんわ!」
なつきは水平チョップで園子にツッコミをいれる。
「って。園についたのね。なら仕方ないわ」
新世界の繁華街の最南端、自動車道を挟んで向こうは動物園という場所に新世界修道院の児童養護施設「新世界の園」はあった。
「うわあ、懐かしいなあ、道代もジェーンも元気なん?」
自分が育った施設に帰ってきて浮かれるなつき。
「元気ね」
園子は何か含めたような言い方をする。
「それは、よかったわ! いつもみたいにお遊戯室で集まってるんかな!」
なつきは、大きな目をキラキラさせる。その足どりは軽く、お遊戯室へと向かう。
「十中八九そうだと思うわ」
少しうつむき加減になった園子。
「ねえ覚えてる?」
遊戯室のドアに手をかけるなつきに対して、園子は声をかける。
「何を?」
なつきは何も覚えてはいなかった。これこそが試練の始まりだった。
「えっと、何これ! 誰がこんな事したん!?」
お遊戯室は元の姿から変わり果てていた。
「私は反対したんだけどね」
園子は床や壁面を埋め尽くす赤色を中心としたペイントを見ながら顔をしかめた。ちなみに、中には誰もいなかった。
「シスターは何もしてくれへんの!?」
なつきは口をへの字に曲げながら言った。ちなみにシスターとは園の管理を任された修道女のこと。
「さあ? ちなみに、神の国とか言ってたけど」
園子は、そう言ってからなつきの様子を窺うように眺めた。
「言ってた? これをやった子らを園子ちゃんは知ってるん?」
鼻息も荒く腕まくりをするなつき。
「道代とジェーン、あとあんたは知らないだろうけど未央って子も加担してるわ」
盛大にため息を吐きながら園子は嫌そうに眼を細めた。
「うちの最初の仕事が決まったわ! こんなん、あかん! シスターに直談判してくるわ!」
部屋を飛び出そうとするなつき。
「待ちなさい。本当に覚えてないの? この状況をみて思い出すことは?」
園子の目はやけに冷たかった。
「うーん。知らん!」
シスターに直談判することで精一杯になっているなつきには、他の事を考える余裕はなかった。
「そう。なら少し痛い目を見てもらう必要があるわね。ここに私たちは神の国を建国することを宣言するわ!」
園子の目がなつきを睨む。
「あんたもそっち側なん? よう、わからへんけど」
目をパチパチさせて混乱するなつき。
「そうね、今決めた。このままじゃあの子達が可哀想すぎるわ。あんたの頭の悪さに振り回されるのは私だけで充分よ!」
園子の言葉は静かだったが、切れ味は鋭かった。
「なんか分からへんけど、いけずせんとうちが忘れてることがあったら教えてくれへんか? 園子ちゃんは、頭ええけどなんか人情があらへん」
なつきは口をとがらせながら言った。
「人情? あんたの人情に期待して、さすがにあんたでも忘れはしないだろうとたかをくくっていたわ。シスターの研修を受けていた二年間は、そりゃあ忙しかったでしょうよ。あんたの頭なら入れた分、何かが飛び出してきても不思議じゃないのかもしれない。でも、忘れちゃいけないものもあるんじゃない?」
園子はまくし立ててからじっとなつきを見た。
「何かうちが忘れてて、それを思い出せないとあかん。で、神の国ってなんや? 天国なんとちゃうん?」
園子を見返すなつき。
「さあね?」
園子はそっぽを向いた。
「いけずせんと教えてくれてもええやん?」
なつきは地団駄をふむ。
「自分で思い出さなきゃいけないと気付いたんでしょ? いい加減頭脳労働をこっちに頼り切るのはやめてもらえる?」
びしっと指をつきつける園子。
「そんなこと言われたって、分からへんもんは分からん!」
なつきは頬をぷくっと膨らませた。
「あんたにとって悪い事じゃない。この園にいる子供たちにとってもね。これはあんたにとって試練。思い出すこと自体が試練になるとは思わなかったけれども。私が迎えに行ってよかったわ。こうして不測の事態に対処する事ができたのだから」
園子は静かに笑みを浮かべた。
「試練、シスターとしての」
混乱する頭でなつきはなんとか園子の言葉を理解しようとしている。
「そうよ。貴方の頭に合わせた知の試練。その頭の瓶に蓄えられた、水の試練といった所かしら。ここに神崎園子は、試練の開始を宣言するわ」
園子はサラッと髪をかきあげる。
「わかった。うちは思い出さないとあかんのやね!」
なつきの目がやる気に満ち燃え上がる。
「というわけでここは神の国。部外者はお引き取りください」
園子は有無を言わさぬ調子でなつきを部屋から追い出した。
「どないしよ」
なつきは、追い出された遊戯室の前で眉の間にしわを寄せて悩んでいた。
「おや、淀さん」
なつきの背後から穏やかな女性の声がする。
「あっ、シスター!」
なつきは後ろから来たシスターに向き直る。
「相変わらずお悩みの様ですね」
にこやかな笑いも変わらない。なつきが小さい頃からこの施設にいるのに相変わらず若いままのシスターだった。
「えへへ、シスターさんにかかったら、お見通しなんやねえ。神の国ってなんなんですか?」
後頭部をかきかきしながらなつきは照れ笑いをした。
「相も変わらず。本当に相も変わらず」
シスターは、なつきの手を取って歩き出す。
「道を示してくれはるん?」
なつきの顔が希望に輝いた。
「ええ、図書室まで行けばおのずと示されましょう」
その声は微かながらも十二分になつきの耳朶をふるわせた。
二人は図書室へと歩いて行った。
「これは、漫画!? なつかしいなあ!」
図書室の中でなつきがシスターから渡されたのは一冊のマンガだった。
「えっと、男の子向けの内容で、世界が滅んだ後に拳法家達が活躍する話だった覚えがあるわ。これがどうしたんですか、シスターさん?」
小首をかしげるなつき。
「あなたは昨日の事を忘れるような子供でしたね。本当にお変わりなく。その純真無垢は信仰に通じる所があるのかも知れません。いえ、これはただの独り言。どうぞ読み進めて下さい」
シスターに促され、漫画を読み進めるなつき。
「これは!」
モヒカンの暴徒により、血と汗と涙の結晶の作物を奪われるシーンに、なつきの目は釘付けになった。
「これは!」
なつきの鼻から荒い息が漏れる。
「天啓はありましたか!」
シスターは手を組んで神に感謝をささげる。
「やっぱり面白いな!」
食い入るようにマンガに熱中するなつき。
「何か、思い出したことはありませんか?」
シスターの慈愛に満ちた細い目がさらに細められる。
「うーん。すみません、わからへんわあ」
なつきは尚もマンガに夢中だ。
「おお、神よ。与えられた羅針盤すらかなぐり捨て未知の海へと繰り出すこの若者に、どうか平穏と幸福に満ちた未来を与えて下さい」
シスターは目の前で軽く十字を切り眉を八の字にしながらなつきを眺めた。
「どうしたん、シスター? 何か悲しい事でもあったん?」
視線に気づいたなつきは顔をあげ、シスターの事を心配した。
「いえ、その優しさがあればこそ、試練を超えうる武器になりましょう」
シスターは微笑んだ。
「なんや、試練とやらにシスターはんも一枚かんではるんやね。なるほど、道を示すにしても、ようわからんやり方をしたのはそのせいか」
なつきは首を縦に振って納得している様子だった。
「これを告げるのは心苦しいのですが、貴方に課した二年間の実習教育も思ったほど成果をあげられなかったようです。本来なら学校の勉強もちゃんとやってこそのシスターですから、例外的処置だというのは分かっていますよね?」
微笑んだかと思ったシスターの顔は明らかに精神的な痛みを感じていた。
「神さんや、皆の愛によって生かされてる。そうやね、シスター」
太陽のように笑うなつき。
「園の実務を立派にこなせるようになる事。それが院から貴方に与えられた最終試験なのです」
申し訳なさそうに頭を下げるシスター。
「子供達の面倒を見ればええんやね! なんや、そんな簡単な事。ここから出る前に普通にやってたし!」
なつきは、白い歯を見せて拳を握りこむ。
「その意気があれば、子供達も必ず貴方に心を開いてくれるはずです」
シスターもつられて上品に笑う。
「やっぱり、神の国のことは教えてくれへんのやね」
なつきがずるをしようとしている子供のような目で問いかける。
「それは、貴方の心の中にあるとだけ言っておきましょう。それより、以前やってもらっていたお手伝いよりもシスターとしてのお勤めは厳しいですよ。覚悟はできていますか!」
シスターは腕まくりをしながら部屋の片隅にあるロッカーの中からモップを取り出す。
「勉強はあかんかった。でも、実務はそこそこだったんやで!」
なつきはシスターと共に園内の清掃を始めた。