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夢想神伝重信流伝書 現代語訳  作者: 七志草
神伝流極秘
9/13

物語之趣(不動智神妙録)

 ここから『神伝流極秘』に入ります。

 前半は沢庵和尚の『不動智神妙録』とほぼ同内容の話があり、その後に真之心陰流兵法・竹内流柔術の目録に続きます。

居合に関する内容は後半以降です。

 まずは不動智神妙録の部分(数話分)から書いていきます。

物語のこと


・無明住地煩悩

・諸仏不動智

 「無明」とは、明らかにならないという意味の文字である。

 「住地」とは止まることであり、止まることとは、する・見る・聞くことに心が止まることをいう。止まる心は避けるものである。

 兵法においては、敵の振り上げる太刀を見るとそこに意識が奪われて自分が刀を抜いても敵に切られるようなことを、止まるというのである。

 敵の振り上げる太刀を見ても少しも心を止めず、その太刀の拍子に合わせることなく、考えたりもせず、振り上げる太刀を見るや否や自分の太刀を振り上げて柄で押し込む。また、太刀を敵より早く打ち込むまでもなく、太刀の峰から押し込むのである。

 このように間髪を容れず心を止めずに動くことを、禅では「石火の機」という。

 兵法において、無力(※「無刀」の誤写?)ように刀を持たずに相手の刀を自分の刀にすることは、禅では「却而把鎗頭(却って鎗頭を把り)倒刺人来(人を倒し刺し来る)」という。鎗はやりのことで、鎗頭とは敵の白刃をもぎ取って敵を突くことをいう。

 敵からの打ち込み、その人、その太刀、その拍子に対して少しでも心を止めれば切られてしまう。敵に心を止めれば敵に意識を持っていかれてしまう。自分の中の一箇所に偏って心を止めればやはり意識を持っていかれてしまう。

 何かに心を止めることを仏法では「住地煩悩」として忌避するのである。

 その手で行うところ・目で見るところ・耳で聞くところなど、すべてにおいて一箇所に偏って心を止めることを忌避するのである。


・「不動智」というのは、「不動」は動かないという意味の文字である。「智」は知恵のことである。

 動かないからといっても木石のように心のないものではない。心が動かなければ体はうごかないものである。

 いかなるところに心が動こうとも、少しもそれに心を止めないことを「不動智」という。心は自分の体に有りながら、体以外のところに動く。この知恵を名付けて「明王」というのである。

 右手に剣を握り、左手に縄を持って悪魔を捕縛しよう、仏法を妨げるものを降伏しようとして眼を怒らせて立っている姿は元来のものではない。これは仏法を守護するためにそのような姿をとっているのである。

 「内証」は不動智の体裁をとって人々に見せることをいい、「悪魔」とは仏法を妨げるものを悪魔という。

 不動明王の姿を恐れて仏法を妨げる心を止めるために、知恵ある人は、不動明王というのは、心の正しく定まった不動智を「明王」と表現し、心を動かさず、(体を)動転させないことを「不動」と表現したことを悟るのである。

 千手観音は千の手が持つ。弓を持つ手もあれば、斧を持つ手もあり、様々な手がある。もし一つの手に心を止めれば九百九十九の手がまともに動かなくなるだろう。一箇所に偏って心を止めるようなことがないことで、千の手を働かせることができるのである。

 観音菩薩は、千の手はなくても不動智に開眼すれば千の手を持つのと同様に働かせることができることを人びとに教えるため、千手観音の姿をとったのである。

 不動智の位に至ったならば、何も知らなかった元の「住地」の初心に戻るものである。兵法を知らないときは構えも何もできないので、それらに心を止めることなく立ち回り、打ち込まれればそれに合わせ、そこに余計な意図を挟まないのである。

 様々なことを学習していくと、色々と心を止めてしまい余計な意図が生じてしまい、打とうとしても逆に切られることになる。

 剣を学ぶ初めは、全く学習しないときよりも不自由となるが、長年稽古を重ねれば、身の構えも太刀の納めも何をするにも心を止めず、まるで何も知らなかったときのように自由に動けるようになる。

 これは初めと終わりが似たものとなる位である。一から十まで数えると次は十一と繰り上がってまた一から始まる。こうして数えていって「上無かみむ」(※十二律と呼ばれる音階の最上位)の位になったらやはり上の位と下の位の数字は隣り合わせとなる。

 仏法にも文字にも心にも習熟している人は仏の文字を見ないようになり、無心無念の至極の位に落ち着き、一切心を止めることなく自在に動くことができるようになるのである。

 鎌倉の仙国禅師(仏国禅師の誤写か)の歌に

 心ありて もるとなければ 小山田に

    徒ならぬ かがしなりけり

とあり、この歌のとおりである。

 山田のカカシとして人形を作り、弓矢を持たせておくと鹿がこれを見て逃げる。人形には心がないが、鹿は恐れて逃げるので、心がなくても有用なため無駄ではないということである。

 あらゆることで道に至った人の動きの比喩である。身体の働きはただ動くことであって心がどこにあろうとも構わないという無心無念のものであり、山田のカカシの位に行き着くものである。

 愚かで平凡な者は初めから知恵が動きに現れない。すべての動きについて同様に才覚・分別が現れないように余計な心を捨て切らなければ上手とはいえない。

 道を極めると一理の修行(※ 「事理の修行」の誤写か)ということがある。

 「わざ」とは手足で行うことをいう。初めに兵法を習うとき、身構え・太刀(の構え)・三箇(※三箇の大事又は三学円太刀か)・九箇(※九箇の太刀か)などの色々なことを年月を重ねてよく稽古することを「修行」という。

 また、「理の修行」とは一心の上の至極のところをよく心得て修行することである。

 「事の修行」ばかりでは自然に動くことができない。また「理の修行」ばかりでも「事の修行」がなければ身体や太刀を自由に動かすことができない。

 このように「事」と「理」の二つは車の両輪のように不可分のものである。一心によく理解して身体によく稽古してバランスよく修行すべきである。

 仏教に例えるため、現代人には難解な内容ですが、よく読むと一つのことを手を替え品を替えて説明しようとしていることがわかります。

 元々の不動智神妙録と書き振りが変わっているのは沢庵和尚の言葉を理解しようとした痕跡なのでしょうか。

 このあたりは拙訳よりも『不動智神妙録』の書籍を読んだ方が理解しやすいと思います。

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