当流介錯の事、同心得の事、同切心得、同心得の事、同紐皮の事
介錯をするときのあれこれについて論じています。
現代の形で行われている介錯(順刀)とは、想定・心得が全く違うことに注目したいところです。
・当流の介錯について
当流は古伝、つまり居合の祖である。昔は介錯は死人を切るも同然のことであり、介錯はしなかった。もしも介錯を好む者(※ここでは介錯を依頼してくる者の意か。)がいれば、「自分は介錯は下手である。主君に従う身であるが私個人は介錯をするのは下手である。しかし、放し討ちならばどちらが勝つかは分からないが早速受けてたとう」と言うべきである。
それでも介錯をせよと命じられれば介錯をすることとなる。事前に下手だと言っているので、誤って切り損じがあっても失敗とはならない。忠臣・義士などであっても介錯を言いつけられるときは一度は前述のとおり断っておくべきである。しかし、もし義理があって介錯することとなれば、強く断ち切るべきである。切り損じて失敗としないように一度は断るのである。
・介錯の心得について
介錯をするときは、切腹する人に向かって「今日はあなたの切腹における介錯人は何之何某が行うよう命じられたが、この者は公用があるため、もし遅れが生じるときは介錯人はわたくしになるとお考えください」というように偽って話すのである。これは切腹する人の気持ちを迷わせる口上である。
不心得の者が「介錯人はわたくしです」と真っ正直に話した場合、相手は「介錯人に罪はないが、今日自分を切る者は介錯人である。一時的な敵である」と考えて色々と工作したり切腹に用いる短刀で介錯人を突こうと覚悟するものである。
先述のように「何某が遅れればわたくしが」と偽っておけば誰が介錯するか分からず気持ちが迷うのである。これは古来からの先例によるものである。
・介錯で切ることについて
三宝に短刀を入れて切腹する人の前に置き、その人の左に脇差が自由に届くくらいの間合いを取る。切腹する人は北向きに座るので、自分も北向きに座る。切腹する人が三宝を取って戴くところを右に振り向き、立って抜き打ちに切るのである。あれこれの始末は構うことはない。
・介錯で切ることの心得について
切腹する人がもし短刀を取って自分を突こうとするときは、そのまま抜き付けて突き倒して切る。このような者は胴切か、大袈裟に切る。もちろんこれは失敗ではなく、いかようにも理由が立つ。
これを他流では「見付介錯」という。自分を突こうとするのを見付けて介錯するという意である。
・介錯の紉皮(※訓みは「なわがわ」?)について
近頃は介錯に紉皮をつける(※切ったとき首が飛ばないよう皮を残すの意。後の記述も見るに紉皮を「か」けるの誤写か)というが、古伝はないことである。
日頃から稽古で人を切って手応えを覚えておかない限り、紉皮を掛けるなどと言ってはならない。紉皮を掛けようと切り損じるよりは切り放した方が見事である。
それだけでなく、当流ではもし紉皮が掛かったら刀ではね切るのである。首が切り離れないでいると検使に疑われるため、皮が少しでも掛かっているのは都合が悪いので切り離すのである。これは古伝である。
近頃の紉皮を掛けるというのは、切腹する人が前に倒れるためか、または足を爪立てるためだという話である。
当流は初め(※介錯の心得についての項を参照)に言ったとおり、一度は下手であると断りおくので、仰向けに倒れようともどうなろうと少しも失敗とならないのである。
とにかく介錯人なんて良い事ないから断れ! でもやるときは仕損じるな、もし仕損じても大丈夫なように言い訳しておけ!
というある種のサラリーマン的悲哀すら感じる内容です。
武士であっても「できて当たり前、失敗すれば恥」というものは辛いものなのでしょう。