武芸小伝曰
伝書内にある他書籍からの抜粋部分です。伝書の一つ『居合根源之巻』の伝系にある林崎甚助、田宮平兵衛、長野無楽齋についてを抜粋しています。
○『本朝武芸小伝』からの抜粋
・林崎甚助重信
林崎甚助重信は奥州の人である。林崎明神に祈ることでその刀術に精妙を得て抜きん出た人である。抜刀の始祖である。
『北条五代記』に曰く、「「長柄」の由来は林崎明神が老翁に化身して長柄の有用性を林崎甚助勝吉という人にお伝えになった」という。(著者(※ここでは武芸小伝の著者)が思うに勘助(※原文ママ)は写本時の写し間違いであろうか。五代記には勝吉とあり、伝書には重信とある。
老翁に化身した明神とは鹿島明神のことをいうか。伝書には奥州楯岡の近辺に林崎明神という神社があって、甚助はこの神に祈って抜刀の極意を悟ったとある)
・田宮平兵衛重正
田宮平兵衛重正は関東の人である。林崎重信に師事して居合の精妙を得て、まさしく変幻自在の腕前であった。後に対馬守と名称を改めた。
その子である対馬守長勝はその業を継承し、池田三左衛門尉輝政に仕えた後、辞して常円と名を改めた。それから紀州に赴いて大納言頼宣卿に仕えて八〇〇石の領地を得た。
その子は掃部長家といい、後に平兵衛と名を改めた。大獻大君(※原文ママ。大猷大君の誤記か。徳川家光を指す)が田宮の武芸を見ようと頼宣卿に命じて江戸に召してご覧になったため、全国で有名になった。
その子である三之助朝成は常快と号した。
その子の次郎左衛門成常がその業を継承して中納言吉宗公に仕えたので、その末流が諸州に存在するようになったという。長年にわたり芳名を伝えるものか。
齋木三左衛門清勝という紀州の人がいた。幼い頃から田宮長家に師事して刀術の練習をしていた。後年は朝成に師事してついに宗家となり、延宝年間に江戸に来てその武芸で有名になった。
北条早雲記に曰く「勝吉(※林崎甚助)は長柄の刀を腰に差し、初めは田宮平兵衛成政がこのことを伝えた。政正(※成政の誤写か。異本では成政)が長柄を差して諸国を修行してまわり、柄に八寸の徳、見越に三重の利、その他神妙なる秘術を伝えたことで、以後の人は皆、長柄の刀を差すようになった。成政の兵法は第一級のものである。「神妙な奥義というのは、扱えるものであればどれほど長い刀でも使うべきである、長いほど勝利は一寸増しだ」と伝えた。」
・長野無楽齋槿露
長野無楽齋槿露は刀術を田宮重政に学んで精妙を得た人である。井伊侍従に仕え、九〇余歳で亡くなった。
なお、『武芸小伝』の長野無楽齋の次項には一宮左太夫照信があり、上泉孫次郎義胤とともに長野無楽齋に師事したことが記されていますが、『居合根源之巻』の伝系には一宮左太夫がいないため、伝書に書かれなかったものと思われます。