父が話したこと(雷電、総捲、雷電)
おそらくシンカゲ流の業と思われる記述で、具体的な動きが筆者にはよく分かりません。
現代の新陰流修行者には理解できるところなのだろうと思います。
ただし、最後に柄口六寸の勝、軍用の剣の口伝こそが印可であるとして神伝流につなげるあたり、すべてがこの流派に通底する大事なものと思われます。
自分の父(※林六太夫守政のことか)がした話をここに書き置く。長らく前のことで忘れてしまったことも多いが、大方のところ以下に書いたとおりである。
・雷電
片手に(太刀を)持って引っ提げ、敵の両眼に突き込むや否や後ろに引き、敵が打ちかけるところを受け込んで敵の足を打つ。
はずし打ちである。これは極意の一刀で、石甲、万字、軍用の剣である。口伝が大事である。
(※石甲はシンカゲ流でいう一種の体当たり、万字は居合全般で四方八方自在に抜き打つことを指すと思われるが、『神伝流業手付』に「石甲二刀至極伝来守政先生限りに而絶」とあり詳細不明である。単に「二刀伝来」でなく「二刀至極伝来」とあるので物品ではなく口伝による術と思われる)
・総捲
片手に(太刀を)持って打ち込み、左手で捉える。釣り合いが大事である。
(※「左手で捉える」の意味の幅が広すぎて特定不可)
・雷電
敵と自分の双方が八相の構えから打ち合う。
敵が自分の右を打ち、それを受ければさらに自分の左を打ってくるところを打ち落として後ろに引く。敵が打ってくるのをはずしたり、太刀を上げたり下げたりする兼ね合いについてはよく修行しなくてはできないものである。
太刀を取ってスルスルと向かっていき、敵が切ってくればこれを切り、切ってこなければこれを切らない。(※以下「また…」と箇条書きで各動作について説明される)
また、スルスルと向かっていかずに身を沈めて車の構えでいるときに敵が切ってくれば、その太刀を受けずにその間合いにて勝つ。これは自分の心に自然に浮かんだところに出ていくのだと理解すべきものである。
また、あえて無駄に切り掛かって二の太刀にて勝つ位もある。これも自分の気持ちに乗って行うものである。
また、相懸かりに近寄って敵が切ってくるとき、敵の太刀を殺して勝つ位がある。古人はこれを「和卜」(※真之心陰流の和卜に同じものと思われる)とも言った。
また、敵が先に切りかかってくるとき、左右に体を開いて勝つ位がある。すべて気持ちの働きによるものである。
また、太刀を敵に指し掛けてその太刀を切らせ、それを引きすかして外したところを切る位がある。
また、時として青眼に構えて我が身を囲い、敵が切ってくるところを一度に擦り込んで鍔際において勝つ位がある。
また、敵が切ってくるとき、我が太刀を振りかぶって受け、また、受け流して勝つ位がある。
また、敵が切ってくるとき、我が身を沈め、その沈めた姿勢で敵の手首を打ち払って勝つ位がある。
また、正中線を打ち払って勝つ位もある。
すべて足を踏みつけず、体がその場に居着かないように「浮き浮き」と体を立ててこれらの動作を行うのである。
敵と気持ちが一致しないように(※敵のペースにならないように、の意か)自分と敵とは別のものであると考えるのである。
敵が(敵のペースに)合わさせようとするのを、こちらはそれに構わずに(自分のペースで)ふわりと合わせるのが良い。ふわりと合わせないとこれまで列挙した動作のような変化ができないのである。考えるべきことである。
ふわりと合わせることを敵方がすれば、こちらは負けることとなるので、自分からふわりと合わせるほかの方法はない。深く工夫あるべきことである。
修行の成果・勇気・臆病、この三つの違いばかりである。これは他人から教えることが難しいことで、自ら体得しなければならない。
自分の心で納得し、無理に行おうとしないで気分一杯に動いてみることが良い。思うようにいかないのは不鍛錬か、心に迷いがあって納得していないか、臆病な心があるかである。
真剣であるときは天命・天運に託すよりほかはない。
当流の印可は、居合柄口六寸の勝ち・軍用の剣の口伝であり、それ以外にはない。