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夢想神伝重信流伝書 現代語訳  作者: 七志草
神伝流極秘
11/13

不動智神妙録 その3

 不動智神妙録はこれで終わりです。

 原文も論理の抜け落ちみたいなものがあるので、残念ながらこの伝書ではなく本来の不動智神妙録を読む方がずっとわかりやすいです。

 史料的には真之心陰流目録とともに伝えられていることが重要なのかもしれません。

・「学問之道無他求其放心矣」とは孟子の言葉である。「離れた心を探して我が身に帰せ」という意味である。

 たとえば、飼っている犬や猫が家を離れてどこかに行ってしまったときに探して我が家に連れて帰ると同じく、人間も悪いところに離れていった心を探し出して我が心に帰らせるのである。我が心の本性は善であるから、悪から善に帰すのである。

 本性とは五常(※儒教の仁・義・礼・智・信のこと)である。放心とは自分の五常の本心から離れた心を探して出して帰すことなのである。

 邵康節という人は「心は離れなければならない」と言う。

 この心持ちは、心を離すまいと捕らえておくと、繋がれた猫のように身動きが不自由になることをいう。物事に心を止めず、また、物事に心が止まらないように離してしまい心をいずこへとも放って捨ておくという意味である。

 これは初心者が稽古のおり、動きに心が止まり、敵に心を止めることを例えたものである。

 至極の道に至ったときは、心を捨てなければ役に立たない。

 蓮の華は泥に染まらずに清く咲き、磨かれた水晶は泥に入れても染まらない。心を蓮や水晶のようになし、その行くところに放してやれば良い。

 心を引き抱えて離さないのは初心者とすることである。

 稽古のときは孟子がいう心持ちで行い、至極のときは邵康節のいう心持ちで行うのである。


・中峯和尚の話したことに「放心をそなえよ」というものがある。この心は邵康節が心を一箇所に止めおくなといったのと同じ意味である。

 また、「退転せざる(心を)を具えよ」ともいい、これも中峯和尚の話である。

 退転せず常に変わらない心を持つことである。一度はよくできたことがあっても、そこで終わらせない心を持つのである。

 先述した放心の心をよく持ち固めるという意味である。


・「本心染心」というものがある。「染心」とは悪しきことである。「本心」とは一箇所に心を止めないで全身に広がった心のことである。

 「染心」とは何か心に見つけて一箇所に気持ちが固まったところを、本心が一箇所に集まってさらに凝り固めてしまい染心となったものである。これは本心を見失ったから生じるもので、ところどころの動きにかげりが生じることになる。

 たとえば、本心は水のようであり、染心は氷のようである。水と氷は一つのものであるが、氷では手も洗えない。氷を溶かせばどこへなりとも流れていく心を我が身にも同様にとらえて、動きあるところに水のように心を流して行き渡らせることを本心というのである。


・「有心と無心の心」というものがある。

 「有心の心」は染心と同じことである。ひずむ心があるのを有心という。

 「無心の心」は本心のことである。一箇所に心が固まることなく、分別・思案も何もないときに、全身に行き渡って滞りがない心を無心という。

 無心といっても木石のような無生物と同じではなく、心を止めることなく無念・無心であることをいう。

 身体に常に水が静かに満ちているようにしておき、必要なときに噴き出るようにするのである。

 たとえば、車輪の軸は固定されていないからこそ車輪は回ることができるのである。

 何か考え事をしているときに何を見ても何を聞いてもスッと入ってこないのは、考え事に心が止まっているからで、心に余計な物があるからである。

 この心にある物を除去しようと思う心が逆に余計な物になり、それがまた除去しようとする心を生む。除去しようとする心がなくなれば自然と無心の位に至るのである。

 これを常に心がければ無心の位に至ることができる。

 古い歌に

 おもはじと 思ふも物が 思ふ也

    おもはじとだに おもわじやきみ

とある。また、

 心こそ こころまよわす 心なれ

    心に心 こころゆるすな

とある。


・「心の置き所」ということがある。

 敵の動きに心を置けばその動きに心を取られる。また、自分の太刀に心を置けばその太刀に心を取られる。そして自分の意識に心を置けばその意識に心を取られる。

 ただ自分の心をへその下(丹田)に押し込んで動かすな、敵の動きに従って対応しろと言われているが、これは敬の字の位で、修行・稽古のときの位である。

 仏法向上の心は我が身全体に行き渡って広がるため、手を動かすときは手に働き、足の動くときは足に働く。

 思案・分別すればその思案・分別そのものに心を取られるため、全身を捨て置いて思案・分別をしないようにするのである。

 (「偏」というのは)一箇所に置いて役に立てるといって一方に偏らせることである。

 正心というのは、全身に心が行き渡って一方に偏らないことをいう。心をどこに置くともなく全身に行き渡っている状態である。

 敵の動きに従ってそのところどころで心を用いるのである。一箇所に心を止めないよう工夫することが修行であり、大事なことである。

 一方に偏って心を置けば八方(※「九方」の誤写か)が隠れてしまう。心を一方に置かずに用いれば、十方の心となる。

 これは常に修行・工夫することが大事であり、秘すべきことである。



 これらの物語について、貴殿の執心あることにより一切残さず伝授します。


                      山川久蔵幸雅

天保七申年

六月吉祥日

   島村右馬氶殿

 最後に島村右馬氶のお願いで不動智神妙録の物語りを書きました、という趣旨の文言がありますが、実際どうなんでしょう。

 同じく右馬氶に伝授された『長谷川流伝書』にも不動智神妙録と同内容のものがあるようで、最後の奥書も一種のテンプレートなのかもしれません。

 ちなみに島村右馬氶は細川義昌の父親です。細川の姓は義昌の代になって本姓に戻したものです。


 次回は真之心陰流の目録です。業名のみで内容は書かれていません。

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