不動智神妙録 その2
このあたりは有名(?)な話なので聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。
人物名に誤記があるのは古書にはよくあることですね。伝書が書かれたときにうろ覚えで書いたのかもしれません。
・「間不容髪」という言葉がある。「間」は「あいだ」であり、たとえば二つの物を打ち合わせたとき、その間に一筋の毛髪も入れないというような意味である。
「髪」とは「髪筋」のことである。たとえば手拍子をパンと打って鳴らすとき、手を打ってから音が鳴るまでの間に、髪筋の入る間もなく音が鳴るというような意味である。手を打ったあとから音が鳴ろうと考えてようやく鳴るというものではない。手を打つと同時に音が鳴るのである。
兵法に例えていえば、敵が振り上げる太刀に心を止めれば間ができて自分の動きができなくなる。敵が振り上げる太刀と自分の動きとの間に髪筋も入れないというのは、敵の太刀が自分の太刀となることである。
禅問答にこの心持ちが大事である。仏法では一つのことに心を止めることを嫌うので、心を止める者を愚か者というである。
流れの早い川に玉を流すように流れに乗って少しも動揺しない心を尊ぶのである。
・「石火の機」ということがある。これも「間不容髪」と同様に早い心持ちのことをいう。少しも物事に心を止めずに自在に動くことを火打ち石を打つと同時に閃光が走るのに例えていうものである。
物事に心を止めて、思案・分別をして動こうとすればできないことである。
この石火のように動くことを石火の機といい、西行法師の歌に
世をいとふ 人としきかば かりの宿に
心とむなと 思ふ斗りぞ
とある。「心を止めるなと思うばかりだ」という下の句を考えると、これは兵法の極意に当たるものである。
心を止めないことは大事なことである。禅僧に対して「仏とは何か」と問えば、その問いが終わらないうちにパンと手を打つだろう。「その手を打つのはなぜか、又、禅とは何か」と問えば、指を弾いて鳴らすだろう。
もし禅僧が問われて思案してから言葉を言うのであれば、それは煩悩で誤りである。思案・分別すらなく気持ちが湧き出るのにも心を止めないことを尊重するのである。止めない心は色も香りも映さないものである。
心の根源を神とも仏ともいう。思案してから言い出すものは、どんなに素晴らしい言葉であっても住地の煩悩にすぎない。
どんな道でも心をただ一つのものとする。
人から呼びかけられて「ハイ」と反射的に答えるのは不動智である。「何の用か」と思案してから「何の用か」と言う心は住地の煩悩である。自分を呼んだ声に心が止まって心が動かされたのである。
何事においても心が動揺しないで止まらないことが良いこととする。このように禅機の心を兵法でも用いて動き、少しも心を止めることがないようにしなければならない。
・「水上打胡芦子捺着すれば則ち転」ということがある。「胡芦子」とは瓢箪のことである。「捺着す」とは手で押すことである。瓢箪を水に浮かべて手で押しても、ヒョッと脇によけてしまう。このように何をしてもところどころに止まらないことが良い。(この一章は言葉にすることが困難なことであるが、先師から伝えられたものであるから、一字一句漏らさず書き写したものである)
・「応無所住而生其心」とはこの文を読んでみるとすれば「応に住する所無くして其の心を生ずべし」(※金剛経の一節)と読む。
どんな業も行おうとするに当たって心からしようとしなければ手も不動心を生じない。しかし心が生じてしまえば動きに心が止まる。
心が止まることもなく、心を生じさせなければならない。しかし心が生じれば心が止まり、心が生じなければ動くことはできないのである。
止まる心が生じても心を止めることなく物事を行える人を諸道(※あらゆること)の名人であるというのである。
仏法では止まる心から執着の心が起こり、輪廻転生もこれによって起こる。
この止まる心は諸道において悪である。心が止まらなければ諸道において自由自在である。これは生き死にを分ける境界線である。
花や紅葉を見て花や紅葉だという心は生じさせながらも、そこに止まらない心を尊重するのである。
慈円の歌に
柴の戸に におわん花も さも有ば
眺めてけりな 恨めしの身や
とある。「花は無心に咲いて匂っているのを自分は心に止めて眺めてしまったよ」と我が身を顧みて、出家した身でありながら俗な心が抜けきらないことを嘆いたのである。
このように詠んだ歌であるが、心を止めなければそもそも悔やまないのである。見ても聞いても何をしても一つところに心を止めないことを至極とするのである。
「敬」という文字を「主一無適」(※集中して意識を他にそらさないこと。朱子学の用語)と解釈されている意を心に定めて他に意識をそらさず、身体を動かすのにその動きを理解・会得して他に意識をそらさず、刀で切ってもそのことに意識をそらさなければ、「敬」といえる。これは最も大事なことである。
特に主君の命令を承ることは「敬」の字の心持ちであり、これは仏法でも同じである。
「敬白の鐘」といって鐘を三回打ち鳴らして合掌し、敬白(※神仏に祈願すること。啓白)するが、このときの仏を敬う心は主一無適・一心不乱と同じである。
しかし仏法では「敬」の字の心は至極のものではなく、自分の心を動揺させないために習い覚える修行・稽古の位である。長い年月の間これらの稽古をすれば心は自由自在となり、先述した「応無所住」という至極の位に行き着くのである。
「敬」の字の心は心がどこかに止まろうとするのを引き止めるもので、止めるまい、止まれば心が乱れると思って少しも油断せずに無心であろうとする位である。
心が不自由であれば身体の動きにかげりが生じるものである。
兵法にあって曰く、「打ちつけよ。その打つ手に心を止めるな。打とうとする手を一切忘れて打て。相手も空であり、自分も空と心得よ。空に心はとらわれないものだ。形あるものには心が引かれて止まるが、空であれば止まる心もない」とある。
また、建長寺を開山した無覚(※無学の誤写か)禅師が大唐の乱において捕らえられ、元の兵士に切られようとするときに、
珎重大元三尺剣電光影裏截春風(※珍重す大元三尺の剣、電光影裏に春風を截る)
という句を作って唱えた。すると相手は太刀を捨てて合掌して拝んだという。
禅師の句の意味は「人の世にあって電光の音が聞こえる。振り上げた太刀の光も電光と同じで、その音には何の心もなく、切る人も空、その太刀も空であり、切られる自分も空であるから、切る人も人でなく、切られる自分も自分ではない。ただ電光が鳴り響くなかで吹く風の音を聞くのと同じである。実体があるものは一切ない。風を切る太刀に切りごたえなどない」という意味である。
このように心を忘れて切ってあらゆる動きを行うのが上手の位である。