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第八章

 スニッチが去った後も、レフティはまったく同じ体勢――両足を胸につくまでぎゅっと抱え込み、床に視線を落としたまま――のままだった。義足をあえて見ないようにしていたわけではなかったが、レフティには自分の足などとうに見えておらず、レフティの中でそのとき機能していたのは脳だけだった。レフティはしっかりと開かれた、それでいて焦点の曖昧な目でずっと床を眺めている。それでも目に映っていたのは冷たいコンクリートの床ではなく、昔の記憶だった。貧相だけれど、縁の割れた黄ばんだ皿に載せられた夕食と、それを欠けたフォークで食べる自分。手を引かれて外に出て、大好きな本屋に心を踊らせて向かう自分。そのどの自分にも、しっかりと右足は存在していた。そこでようやくレフティの視線が揺らぎ、ただの棒と化した右足が目に入る。瞬間的に、レフティの中に大きな感情が湧いた。それが憎しみだとか、怒りだとか、レフティにその感情を分類する暇はなかった。思わず大きく拳を振り上げ、その義足に振り下ろそうとしたところで、レフティはぴたりとその手を止めた。その代わり、握られた拳には伸び切った爪が食い込んでいた。


「ぼくは何もしていない」


 レフティは視線を義足に留めたまま、ふと小さな声で言った。その言葉は脳が制御したものではなく、レフティの中から勝手に溢れたもので、それすらもレフティには理解できていなかった。ただ、ダムが決壊したように、レフティはその言葉を繰り返していた。ぼくは何もしていない、ぼくは何もしていない、ぼくは何もしていない。言葉を紡ぐ度に、レフティの目は生気を取り戻していった。それでも、レフティの目はすぐに再び虚ろになる。繰り返すごとに身体に籠もっていった力をすべて脱力させると、レフティは握っていた右手を開いてだらりとそれを垂れ下げた。レフティの右手からは、ほんの少しばかり血が垂れていた。




「レジスタンスの活動はあくまでも秘密裏に行われねばならない」


 解放されたスニッチは、丸いテーブルを囲む椅子のうち、一番粗末そうな背のない椅子に座っていた。女性は掲げられた赤い旗の前に立ち、両手を組んでスニッチを見下ろしていたが、スニッチはそれよりも拘束に傷んだ身体を心底鬱陶しそうに眺めていた。手首を別の手でねじってみたり、首を左右に倒してみたりしているスニッチに、女性は呆れる様子は見せなかった。


「我々が何もしていない、と思われるのはそのせいさ。レジスタンスの活動が少しでも公になれば、すぐにガバメントに粛清されてしまう。だから我々にとって最も大事なのは、隠密的に行動すること」


 一通り自分の身体を見分し終わったスニッチは、椅子の上で胡座をかくと背筋を伸ばして最後の伸びをした。女性はスニッチに視線を合わせたまま、ゆったりとした動作で組んでいた腕を解き、片手を腰に当てた。


「我々の最たる活動は、最上層を目指すこと」


 女性は高らかな声で言う。スニッチはいつもの猫背に戻り、少し前屈みになるとようやくまっすぐと女性の目を見つめた。その大きな目はどこかきらめいていて、まるでこれから世界中で最も面白いおとぎ話でも聞くような表情だった。女性はといえば、そんなスニッチを見て少しばかり眉を下げて顔を和らげたものの、眉はそのまま下がり続け、どこか薄暗くなった。


「前に言った通り。定期的に派遣する最上層を目指すチームは、必ず失敗して生きて戻ってくることがない。我々が確実に辿り着けるのは、現状下層までだ」

「下層には行けるんだ」


 ぱっとしない表情の女性とは裏腹に、身体を小刻みに前後に揺らすスニッチは少年らしい明るい声で言った。下層より上に、パージのシステムはない。そこまで辿り着くだけでも、レフティがパージされる危険は少なくなるはずだった。そのことを声たかだかにスニッチが主張すると、女性は細かく結われた黒髪を揺らして首を横に振った。


「ガバメントはどの層でも、個人個人のことを把握しているんだよ。君の親友、レフティがいなくなったと分かれば、捜索が始まる。それに、下層に義足の人間なんていない」


 子供を諭すような口調でスニッチの言葉を否定した女性に、スニッチは口をひん曲げてあからさまに不満げな表情になる。そのスニッチを見て、女性はテーブルに近寄ると、片手をテーブルについて「だからこそ」と少し語気の戻った声で言った。


「地上を目指すんだろう? 最上層を目指す我々と利害は一致していると思う。あとは君がレジスタンスの一員になるか、ならないかだ」


 その言葉に、スニッチは目を丸くして何度かぱちぱちと瞬きをする。「そういう話じゃなかったのかい」と腑抜けたトーンで言うスニッチに、女性も似たような、驚いた顔になって目を瞬かせると、口角を上げてからすぐにくすくすと笑い出し、次第にはっはっは、と大きな笑い声になった。スニッチからすれば馬鹿にされたようで、スニッチは眉根を寄せて目を細め、口を一文字にする。女性はしばらく笑い続けてから、テーブルに戻るとスニッチの前にその大きな片手を差し出し、「アルベルタよ」と言った。

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