第七章
レフティのテントを後にしたスニッチは、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、足を大きく地面に叩きつけるようにして歩いていた。素足だったからこそべちべちとした音しかしなかったが、スニッチの両肩はなで肩ないつもより数段せり上がっていて、ほとんど頬にくっつきそうだった。歩を進める度にスニッチの顔は険しくなってゆき、スニッチはテントの隅に縮こまったレフティのことと、レフティが見つけた雑誌のことを交互に考えていた。二つを併せて考えると、スニッチの苛立ちは増すばかりだった。目の前に機会が転がっているというのに、それを掴もうとしないレフティの心情がスニッチには理解できなかった。スニッチはこれからどこへ向かうのかについて何も考えていなかったが、足は自然と来た道を戻っていた。スニッチは再び最下層の中で最も賑やかな場所に到達し、一旦ぴたりと立ち止まる。それからスニッチはハイエナのようになった目で人混みを検分すると、群衆の中では一際背の高い黒人の女性に目をつけた。黒髪をぴっちりと編み込み、背筋を伸ばして立っている女性の身なりはすべてがボロ布で出来ているにしろ最下層にしては派手なもので、左肩から腰まで流れるような布を身につけ、健康そうな右肩を露出していた。その胸には、最下層ではなかなか見ることのない煌めくネックレスがぶら下がっている。それを見るなりスニッチがなるべく身を縮めて屈みこみ人混みの間を縫って近づくと、履いているズボンも凝った作りで、穴が空いていそうな箇所にはそれぞれきちんとあて布がされていた。スニッチはさらに女性に近づくと、ズボンのポケットの位置を確認してから一度だけ小さく深呼吸をし、それから女性のそばをそっとすれ違うように動く。女性のポケットから手に入ったのは黄ばんだ紙の切れ端で、スニッチは歩みを止めないままその紙切れの裏と表を検分したが、スニッチには何も読み取れなかった。レフティなら読み取れるかもしれない、とふと考えた後で、再びテントで縮こまるレフティのことを思い出したスニッチはもう一度紙に視線を落とすと、放り投げようと右手を宙に浮かせる。しかし、次の瞬間にはその右手首はがっちりと何者かに掴まれていた。驚いたスニッチが思わず振り返ると、手首を握っていたのは先程スニッチがスリを働いた女性で、女性は黄色く光った獣のような目でスニッチを睨んでいる。手首にこもる力は強く、そして掴んでいる手は存外大きかった。
「お坊っちゃん、運が悪かったね」
女性がそう言うなり、スニッチの腹には鈍痛が走り、スニッチの視界は即座に失われていった。
スニッチが目を覚ましたときには、コンクリートで四方を囲まれた決して大きくはない部屋の中にいた。真ん中にところどころをなんとか補修して持っている、といった様子の大きめの丸いテーブルがあり、それを囲むように種類も高さもバラバラな椅子が並んでいる。テーブルの真ん中には何かしらの紙が敷いてあり、部屋の壁中にも図形や文字の並んだ紙が無造作に、それでいてたくさん貼られていた。スニッチ自身はといえば、その部屋の隅に横たわっていて、両手と両足はスニッチには何か判別のつかないもので縛られていた。ぼやける視界を何度も瞬きして鮮明にすると、部屋の中には何人か人間がおり、そのうちの一人が例の女性であることが分かった。女性はしばらくの間、部屋の中にいる誰かに話しかけていたが、スニッチが身じろぎした音に気づいたのだろう、薄暗い部屋の中でもよく分かるその黄色い瞳でスニッチを見下ろした。その薄暗さにも慣れてきたスニッチの目に、女性の背後の壁に掲げられた赤い旗が映る。それが『レジスタンス』のものであることを一瞬で悟ったスニッチは、サンダルで音を立てて近づいてくる女性をただただ見上げるしかなかった。
「あんたはあの紙切れを、それからあたしの顔を見たね」
「紙切れの内容なんて分からないよ。おれは字が読めないんだ」
幸運にも塞がれていなかった口で、スニッチは居心地の悪い女性の視線から逃げるためか、拗ねたようにそっぽを向いた。女性はスニッチのすぐそばまで来るとかがみ込み、「それが本当かどうか、あたしにもあんたにも証明する術がないからね」と力強いトーンで言う。顔を近づけようとする女性にスニッチはどんどん首をひねっていったが、そのうちそれ以上ひねることができなくなり、スニッチは大きくため息をついて女性の方を見た。女性は口角を片方だけ上げ、爛々と光る目でさも面白そうにスニッチのことを見下ろしていた。スニッチは女性から漂う香りに顔をしかめると、「じゃあおれをどうするっていうんだい」と尖らせた口で言った。
「勿論ただじゃ逃さない。取引だよ。あたしたちの命令に従うか、あるいは」
女性は歌うような調子でそう言うと、突然言葉を切ってから後ろを振り向き、頷いて何かしらの合図を出す。合図の後に出てきたのは、腕の太さだけでもスニッチの胴体ほどある、焦げ茶色の髭をたくわえた屈強な男性で、女性は目だけを動かしてスニッチを見ると、親指でその男性を示してみせた。女性も、その屈強な男性も、またスニッチも何も言わなかったが、女性の意味するところはその部屋の全員が理解するところだった。それでも、スニッチが恐れおののくことはなかった。
「レジスタンスなんだろ。あんたら、聞くところによれば仰々しい組織だけど、実際には何も活動しちゃいないじゃないか」
「生きのいいお坊っちゃんだね。でも、あたしたちが何もしてないっていうのは間違いだよ」
腕を背中で、そして足首までも縛られた窮屈な態勢のまま、今にも噛み付いてやろうとばかりに頭を動かして喋るスニッチに女性はパチパチと手を叩いていたが、言葉の半ばで手を止める。「我々は定期的に、最上層を目指すチームを送り出しているんだ」という女性の言葉に、スニッチはぴたりと陸に上がった魚のようにもがくのをやめた。「最上層へ?」と腑抜けてしまったスニッチの声に、男性を下がらせようとしていた女性は瞬時に振り向き、「興味があるのかい?」と聞いた。スニッチは視線をうろうろと泳がせてから女性の顔を真正面に見ると、「最上層に行けば、地上に行けるのかな」とか細い声で呟いた。女性はその言葉にあからさまにぎょっとすると、「どうしてそんなことを」と声を低めて聞いた。
「親友がパージされそうなんだ。義足だっていう理由で。でも、地上には人間にも劣らない義足があるって、雑誌に書いてあったよ」
「パージだって」
女性はスニッチの言葉を聞くと、心底憎い物を見た、とばかりに顔を背けた。
「あれはガバメントの中でも最悪の政策だよ」
女性はゆっくりと立ち上がり腕を組むと、スニッチに半分ほど背を向けた。パージという単語に過剰なまでの反応を見せる女性に、スニッチは追い打ちをかけるように「止めることはできないのかい」と聞く。女性はすぐに首を振って、「そのためには最上層に行かなきゃならないんだ」と大きく煙でも吐くように言った。
「じゃあレフティはどうすればいいんだよ」
「最上層へ行って、ガバメントを打ち倒すことができたら。そうすればあんたの親友も助かるかもしれないけど」
女性はそこで再びスニッチを見下ろしたが、その視線は先程までの強いものではなく、どこか憂いを含んでいるように見えた。それを後押しするように、女性は「最上層に辿り着けたチームは未だにひとつもない。生きて帰ってきた人間もいない」と虚しく言った。
「だからって、次も失敗するとは限らないだろ」
そんな女性と縛られた両手や両足首にしびれを切らしていたスニッチは、ほとんど喚くように言う。スニッチを見下ろしていた女性はそれから長いこと黙っていたが、そのうち別の男性を振り返って顎で指示を出すと、小ぶりなナイフを持った男性がスニッチに近寄り、スニッチが逃げようと身体をよじる間もなくスニッチの手首と足首を縛っていた紐を切った。あっけなく解放された両手と両足首に、驚きのあまり体勢を変えることすらできなかったスニッチに、女性は今度は目線を合わせるようにかがみこむ。女性はそれから大きく息を吸い込んで、スニッチを試すように聞いた。
「あんた、レジスタンスとして活動する気はないかい」