第一章
地下街の朝はけたたましいスピーカーの音から始まるが、誰一人としてその音に目覚める者はいなかった。天井に程近い位置に設置された古ぼけたスピーカーから流れるのは起床時間を知らせる単調な伝令で、スニッチの知る限りその挨拶は一字一句変更されたことがなかった。
『住民の皆様は、今日もガバメントへの感謝を忘れぬように』
スピーカーは女性の意気揚々とした声でそれだけ言い残して、再び大きくブチッという音を立てて沈黙する。スニッチが目覚めたのはそんな朝の挨拶から一時間ほど経ってからのことで、粗末な麻の布の上で掛け布団もなく眠っていたスニッチの足に、誰かが引っかかったからだ。それでもスニッチが飛び上がったり、驚くことはなく、スニッチはまだ視界の曖昧な目を開いて何が起きているのかを確認しようとわずかに頭だけを持ち上げた。スニッチの足元に、何人かの男の足が見える。それだけでスニッチは状況を理解すると、再び誰かが自分を足を引っ掛けることがないように身体を丸めて眠ろうとしたが、一度目覚めてしまってはその喧騒にまどろむこともできなかった。諦めて上半身を緩慢に持ち上げると、ぼさぼさの頭を掻いてから煤けた右手で目を乱暴にこする。スニッチがその場でのそのそと胡座をかいて、自分を起こした男たちを見ると、男たちはスニッチには目もくれずに取っ組み合いの喧嘩をしていた。スニッチは彼らに疎ましそうな、そして軽蔑の混じった視線を向けると、大きな欠伸をひとつして一度伸びをし、ゆっくりと立ち上がってから自身のボロボロのズボンのポケットを軽く叩いて持ち物を確認する。食料であるピンクミートも、ロックピックも盗まれてはいない。そのことだけ確認すると、スニッチはまだ眠っている人々を踏まないようウサギのような足取りで皆が雑魚寝をしている場所を抜けた。ふと振り返ると、喧嘩をしていた男たちはバラバラと思い思いの方向に帰っていくところで、勝者であるらしい男がその手に戦利品であるらしいネズミを握っていた。スニッチはそんな男を今度は呆れた目で見る。食料難は、地下街の最下層にあたるこの場所では確かに問題だったが、スニッチは関係のない話だった。自分にないものは、それを持っている誰かから盗めば良いのだ。スニッチの視線に気づいた男は、スニッチを睨むとこれみよがしにネズミを齧り始める。スニッチはふんと鼻を鳴らして意地悪くにやにやと笑うと、ズボンの両ポケットからピンクミートを取り出してみせた。ネズミをかじっている男や、喧嘩をしていた他の男たちのみならず、眠りから覚めてきた人々はそれぞれスニッチに憎しみの入り混じった羨望の視線を向けていた。スニッチは片方のピンクミートをポケットに収め、もう片方のピンクミートを見せつけるように齧ると、踵を返して地下街を歩き始めた。目的地は決まっていた。
最下層に建物らしい建物は存在しない。皆が粗末な茣蓙や藁の上に座っており、人が通る度に何かしらの取引を持ちかけている。スニッチの世界には貨幣というものは存在せず、すべては物々交換の上に成り立っていたが、そもそもスニッチ自身が貨幣という単語すら知らなかった。そのような言葉を、親友でありこれからそのねぐらに向かおうとしているレフティという青年から聞いたような覚えはあったが、彼のインテリじみたうんちくは基本的に右から左へ流していたので、スニッチにとって物々交換は理に適った取引方法だった。実際、スニッチも盗品を元にして生計を立てていた。かじったピンクミートをポケットに再び仕舞いながら、スニッチは両手をそのポケットに入れると悠々と歩き出す。地下街はいつでも薄暗く、地下街を照らすべき照明はいつもちらついていて、朝も夜もなかった。コンクリートの冷たい床をスニッチは裸足で歩いていたが、スニッチがその冷たさを特別に感じることはなかった。スニッチたちが雑魚寝をしているエリアから離れると、最下層はだんだんと賑やかになっていく。ただその賑やかさは華やかなものではなく、ただただ人口密度が上がっているだけで、そこかしこで罵声が飛び交い、たまに甲高い女性の叫び声が聞こえた。
「助けて」
最下層で最も賑わっている場所に差し掛かると、スニッチの足元に青白く骨ばった腕が伸ばされる。足を掴まれそうになるのをスニッチが軽快な動作で避けると、腕の主は頬が痩け、ぼうぼうと髪の伸びた女性で、数人の男たちに組み伏せられていた。スニッチはそんな女性に肩をすくめて見せ、歩みを止めることなく通り過ぎていく。その女性の末路はスニッチにも容易に想像できたが、そんなことは地下街では日常茶飯事だった。人混みが出来るほど人々がひしめき合っている場所を通過しながら、スニッチは目玉だけをきょろきょろと動かして『カモ』を探す。盗みを働きやすいのは主に老人で、スニッチは杖とも呼べないような木の棒をついてよろよろと人混みの中を歩こうとしている老人を見つけると、誰にもぶつかることなく人混みの中を移動し、いつも被っている紺色のケープのフードを被ってから老人のそばをかすめるように通過した。それだけでピンクミートが三つほどと、一冊の小ぶりな本が手に入る。老人はスニッチにスリを働かれたことに気づく様子は勿論なく、スニッチは人混みを抜けながらフードを脱いで手に入れた本をぱらぱらとめくったが、スニッチには記号の羅列にしか見えなかった。ただ、その本をレフティは喜ぶだろう。ポケットにピンクミートを収め、本を片手に持ったまま、スニッチはぶらぶらと本を持った手を揺らしながら地下街を進んだ。地下街の最下層は歩き回るだけで何かしらのトラブルに巻き込まれることが多かったが、その日は運が良かったようだった。そのうち、スニッチの視界にボロボロの布で出来た三角形のテントの先端が目に入る。スニッチの目的地はそのテントだったので、スニッチは少し早足になり、それから小走りになってテントへと向かった。