東京湾ゴーストクルーズ
「お前、ムカつくよ」
それが友人の一人、男勝りな女の子に昔からよく言われた事だった。
どうしてさ。と問えば、そのスカした飄々とした態度が鼻につく。
興味ありませんって壁を作っておいて。その実、嫌になるくらい人の本質を見てる。
お前にその気がないのは知っているけど、それが高いとこから見られてるみたいで、この上なく不快だ。
遠慮ない物言いで、どうだと僕を睨む友人。それを見た僕はといえば、確か盛大に吹き出したと記憶している。
どうしてかと聞かれたら、小気味がよくなったからだ。
竹を割ったかのようにサバサバした姉御肌のカッコよさに。
扱き下ろしているように見えて、友人こそしっかり人を見ているという事実に。
だから純粋に、「君は凄いなぁ」という意味で賞賛を述べたら、何故かチョップが落ちてきた。
「お前、やっぱりムカつく」
友人はそう繰り返す。
「ムカつくから、私が困った時は助けろ。お前が困った時は……まぁ、助けてやる」
酷い押し売りだ。と述べれば、またチョップが飛んで来る。
何となく照れ隠しなんだなぁと察した。
きっとさっきのが、この人なりの友情宣言なのだろう。そう思ったら、少し可愛らしく見えてきた。
「君は頼りになるから、僕としては嬉しいけど……僕の方には期待しないでね」
「知ってる。実際私もそこまで頼りにしないから安心しな」
僕はこんな奴だから。という言葉に重ねて結ばれた、何ともドライな助け合い同盟。
それは……高校時代にあった、数える程しかない青春の一ページだった。
だが。今の僕は、これを思い出す度に、胸が締め付けられるような苦痛に苛まれることを告白しよう。
アレはどうしようもなかったと、僕の大切な人は語る。
僕自身、ではどうすればよかったのかと自問しても、答えは出ない。
だからこそ、今も時々思い出しては、口に残る苦味と後悔を飲み干すのだ。
これより語るのは、怪談じみた現象を伴った、救いのないお話だ。
※
あれは何の変哲もない平日。大学での講義を終えた僕が、敷地内のカフェラウンジにて、ラテを片手に恋人と談笑していた時の事だ。
彼女のスマホが鳴動し「ちょっとごめんなさい」の一言と一緒に、その場で通話が始まって。
結果、手持ち無沙汰になった僕は、道行く人をぼんやりと眺めていた。
季節は四月始め。風がそれなりにあるためか、せっかく開花した桜がまばらに散り始めている。牡鹿の蹄を思わせる可愛らしい花弁が風に舞い、道のあちこちに小さな桃色の彩りを加えるのはなかなかに見栄えがいい。
もっとも新生活に追われる学生達はそんなものには目もくれず、忙しく歩きまわっているのだが。
「……お?」
その時だ。不意に僕のスマートホンに振動が走る。トークアプリ――、ラインの通知らしかった。
おもむろに指でディスプレイをタッチすると、そこには故郷の幼馴染み。……の、友人の名前があった。
友達の友達。こう言えば浅い付き合いに見えるかもしれないが、それなりに交流はあった方である。それこそ、今日みたいなぽっかりと空いた時間で、アプリ越しにトラッシュトークを交わすくらいには。
『滝沢は悪い子』
そう、こんな風に脈絡もなく罵倒が飛んでくるくらいに、気安い姉御肌な友達なのである。
『いきなりすぎ。何で僕が悪い子呼ばわりされてるのさ』
『スケこましだろ』
……それにしても酷い言われようではあるけれど。
『風評被害も甚だしいよ』
『結局、綾(幼馴染みの名前)じゃなくて大学で出会った奴と付き合ったしさ』
『いや、もう何度も言ってるけど、綾は妹みたいな存在で……』
『テメェの罪を数えてみやがれ』
『なんでさ』
会話の合間にアニメや漫画のキャラクターが煽ったり、怒りを露にする絵を挟みながら、僕は少しだけ昔を思い出す。
男の子と女の子の幼馴染みというだけで、周りの友人には随分と勘繰られたものだ。今話している友人もその一人だった。
だからこそ、いつかに故郷に恋人を連れていった時は、幼馴染みも含めて随分と驚かれたものである。
『辰、お前にいつか分からせてやる』
『ほいほい。何をかな?』
憤怒の表情を浮かべたパンダの後にそんなおっかない台詞が飛び出して来たので、僕は小馬鹿にしたようなキャラクターを選びつつ、そんな文を返す。すると歯軋りする絵の後に、渋いおじさんが「ここまでだ……」と、悔しげな顔になった画像が出て来て。
『夜道を歩くときは前と後ろに気を付けな。……頼んだよ』
という捨て台詞とともに、バイバイと手を振る絵が表示され。あっという間に台風みたいな会話が終了した。
きっと暇だったんだな。と、今までのパターンからそう当たりをつけていると、不意に斜め横から頬っぺたをつつかれる。
柔らかな指の感触と、甘いハチミツの香り。すぐ隣で親戚との会話を終えたらしい恋人が、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「寂しいからって、この数分で他の女の子とコミュニケーションを取っちゃう貴方には、戦慄を禁じ得ないわ」
「誤解だよ。彼女はアレだ。通りがかりにじゃれてくる近所の子ども的な……」
「いや、その喩えもどうかと思うわよ?」
呆れたように肩を竦めつつ、彼女は持ち合わせていたトートバッグから手帳を取り出す。「何かあったの?」と、問えば、彼女は「ちょっとね」と言いつつスケジュールを確認し、小さく頷いた。
「ね。貴方、週末は空いてる?」
唐突にそう聞かれ、僕は脳内にカレンダーを引っ張り出す。アルバイトなし。貯まっている課題やレポートなし。これといった約束もなし。
「空いてるね」
僕がそう答えれば、彼女はホッとしたように息を吐き、その後にとても嬉しそうに微笑んで。
「じゃあ、一緒にお台場に行かない? 今ならタダでランチバイキングと、東京湾での素敵なクルージングがついてくるんだけど?」
ついでに私も。と、まるで詐欺師のような胡散臭い事を言い出した。
……今思えば、ここで少し冷静になるべきだったのだ。
そうしたら。限りなく可能性は低くても、あの悲劇は回避できたかもしれないのに。
※
曰く、彼女の親戚に当たるお姉さんが、ギフト券として、遊覧船レストランのバイキング席を二枚貰ったらしい。だが、くれた人のあからさまな「いい人と行ってこい」といった態度に腹が立ち、絶対に行ってやるものか! という叫びながら彼女に投げ渡した……もとい譲ってくれた。というのが、今回の発端らしい。
クルーザーのバイキング席は値段もお手頃とはいえ、それでも大学生の身分ではなかなか足踏みしてしまう。そこに成り行きとはいえタダで乗れちゃうのだから、結構ラッキーな話である。
「船なんて、いつぶりだろ」
「私は中学の修学旅行以来かも知れないわ。思ってたより揺れないのね」
悠々と進む遊覧船の内部は、分かりやすい豪華客船といった雰囲気を醸し出していた。
高級そうな絨毯は、靴で踏み締めるのが畏れ多い気分にさせてくるし、高い天井に吊るされたシャンデリアは、その細部に至るまでが匠の技術を結集させたかのような重厚なフォルムをしている。
広めなホールの奥には、白いクロスがかけられたいくつもの円卓。ナプキンと名札が置かれていて、どうやら座は完全な指定制らしかった。
逆に手前の方には巨大なカウンターが二つほど鎮座し、その両端には大小様々な取り皿と銀食器が置かれている。
そして……何より目を引くのは料理だ。
船内だからか魚介類はマリネやカルパッチョ、ペンネなど、豊富な種類が取り揃えられている。フィッシュフライの付け合わせらしきポテトも山盛りで、その横にはマッシュドパンプキンやサラダバー。スープバーが並んでいた。
肉料理はもっと凄い。
見るからに食欲をそそる豚肉の煮込みものや、ミートローフ。
鶏肉はローストして、赤黒いソースがかけられたものと、恐らくはハーブとオリーブオイルで味付けしたものがある。食べ比べが楽しみだ。
そして、個人的に気になるのがラム肉と思われるグリル。あれは絶対に貰うと心に誓った。
他は五種類のパンに、三種類のライス。
デザートはフルーツポンチとバリエーションに富んだミニケーキ。
それを見た時、彼女が、無邪気に目を輝かせていたのは……。心のフォルダにこっそり保存した。
甘い物。というか美味しいのが大好きなのは知ってはいる。それでも、その仕草にクラリと来てしまうのは、多分惚れた弱味なのだろう。
一通り船内の雰囲気を楽しんだら席に着く。周りの乗客も既に着席していた。
場所は窓際。眺めも良さそうだ。
やがて、案内役が簡単なクルージングの説明などを終えれば、お洒落なジャズミュージックが流れ始めた。
ここからは、バイキングで昼食を楽しむもよし。甲板に出て、船の行く先を眺めるもよし。船が東京湾のコースを巡り、港に戻るまで自由時間だ。
どうしようか? とお互いに見つめ合う。食事スペースはそれなりに賑わいを見せていた。
「料理は逃げないし。もう少し落ち着いてから行きましょう?」
「賛成だ」
飲み物だけ頼んで、グラスを合わせる。お昼だし、ランチクルージングの後は普通にお台場でデートするので、当然ノンアルコールだ。
彼女が手にするのは、ただのブドウジュース。だというのに、ワインレッドを基調にしたオフショルダー姿と妙にマッチしていた。
そうやってしばらくは談笑して過ごす。
せっかくのクルージングだが、生憎と空は曇天。それでも普段見慣れない景色を見ながら、少し豪華な食事を楽しむこの時間に、僕らはささやかな幸せを感じていた。
そこからグラス等を一旦下げて貰い、ちょっと甲板に出る。まだ昼食時だからか、人影はないようだ。
風を切り進む船に、少し童心を刺激されたのは否定できない。
寄り添って景色を眺める傍らで、ちょっとしたお約束のように有名な映画の真似事をしたりして、僕らはクルージングを大いに楽しんでいた。
恋人同士がやるには不吉すぎる遊びだが、東京湾に氷山はない。沈没の心配はないだろう。
「車か駐車場があったらよかったのにね」
不意に彼女が流し目でそんな事を言う。
挑発的に熱を帯びた視線が僕に絡み付く。おふざけの空気が一転し、世界の色が一瞬で塗り替えられた気がした。こうやって僕の心に甘く痺れるような揺さぶりをかけてくるのは、彼女の常套手段だった。
「……僕は、個室に画材も欲しいかな」
負けじとそう返しながら、彼女を後ろから引き寄せる。魅惑的な腰に腕を回したつもりだったが、少し位置が上過ぎて、ふよんと柔らかい二つの塊が腕に乗り上げた。……不可抗力である。多分。きっと。
すると彼女は批難と嘲笑……そして僅かな照れが混じった顔を僕の方に向けて。すぐに蕩けた表情で瞳を潤ませた。
「やっぱりダメ。貴方が死んじゃうかもしれないもの」
別の意味で今殺されそうと、文句を言うつもりだったが、それは彼女のキスで封殺された。
そのまま焦らすようなソフトタッチで、小規模なせめぎあいが始まる。もっとも、流石に外なので、互いの身体が程好く火照った所で寸止めした。
「……夜までお預け?」
頬を上気させながら耳元で囁く彼女。その濡れた唇を人差し指で優しく抑えて、至近距離で見つめ合う。
「……ここのデザート、まだ食べてないだろう?」
「ああ、そうだわ。どれも美味しそうだから迷っちゃう」
「別に全種類食べてもよくないかい?」
「……私にマシュマロボディーになれと?」
「甘く味付けしといてよ。僕が今夜、美味しく頂くから」
おどけるようにそう言えば、ペチンと顎を指で弾かれる。
「口説き文句としては五十点よ」という、厳しい采配が下された。
「貴方だけ味わうのは不公平よ……。私にも、貴方を頂戴?」
危うく僕の心が沈没する。と、見せかけて、既に手遅れだったことを思い出す。結局ケーキは小さいのを更に半分こして楽しむことにして、僕らは再び船内レストランへ戻っていった。
丁度昼食やらを終えて甲板へ上がる人達とすれ違いつつ、ケーキを片手に席へ向かう。そこで――。
「……あら?」
不意に彼女が立ち止まった。どうしたのか。と思い、その視線をなぞると、僕らの席に辿り着く。そこで、僕も思わず眉を潜めた。
僕らの席に、見知らぬ女の人が座っていたのだ。
隣の彼女と顔を見合わせる。繰り返すが、ここは指定席だ。ならば手違いか。勘違いだろう。一先ず僕が話すよ。と、彼女に目で合図すれば、彼女も了承するように頷いた。
連れだって席へ戻る。女の人は、茶髪のセミロング。服装は……地味目な紺のブラウス。脚のほうはテーブルで隠れてよく見えず、顔もまた僕らに背中を向けている為確認は出来ない。
……まだ僕らには気づいた様子はなかった。
「取り敢えず、お席間違えてませんか? でいいかな?」と小声で彼女に確認を取れば、「いいと思うわ」と、返事が帰ってくる。
特にこちらが悪いわけではないのに、少し緊張しつつ、僕は深呼吸してから再び前を見た。すると……。
「……ん?」
「どうし……え?」
思わず気の抜けた声が口から漏れる。すぐ隣の彼女も同様だった。
目を逸らしたのは、ほんの数秒。だというのに……女の人は、霞のようにその場から消えていた。
「……何だ。今の?」
「いた、わよね? 確かに」
席に辿り着く。やはり誰もいない。
見間違えとも思ったが、それはおかしいとすぐに否定する。女の人の髪型や服装を、僕は確認したのだ。一応彼女の見たものとも照合したら、それはぴったりと一致した。間違いなく、ここには誰かがいたのだ。
「一つ前の席か、一つ向こうの席だったのかしら……?」
「いや、それはない。見てみなよ。明らかに違う」
一つ先は白髪頭の老夫婦。一つ手前は、全員黒髪の中年女性が三人。
姿形は勿論、人数からして合わないのだ。
沈黙が訪れる。僕も彼女もその場に立ち尽くしていたが、ずっとそのままでいる訳にもいかず。やがて迷いながらも席に戻ることにした。
彼女を奥へ促し、僕は女の人が座っていた椅子に腰掛ける。
直後、思わず「うわ……」という声が出してしまう。同時に、やはりさっきのは見間違いではないと確信した。
椅子が……妙に生暖かいのだ。僕らは暫くの間、甲板に出かけていた筈なのに。
『どう……して……?』
その時だ。背後にゾワリとした気配が立ち上ぼり、耳元で悲しげな声が囁かれる。
悲鳴を上げなかったのは奇跡だった。ただ、身体は跳ね上がってしまったので、彼女の心配そうな視線にさらされる事になる。
「今、聞こえた?」
「……いいえ。というか、おかしいわ」
消え入りそうな声で首を横に振る彼女は、震える指でテーブルのある一点を指差した。そこには、空っぽのグラスが一つだけ。
「……確かに、下げてもらった筈よね?」
どうして、ここに一個だけあるの?
※
結局、アレが何だったのかはわからなかった。
言えることは、視えたのも、声を聞いたのも一回だけ。あと、何故だろう。妙な既視感を覚えた位だった。以降は変な気配など欠片も感じないまま、僕らは遊覧船を後にした。
ちょっとだけ背筋が寒くなるような怪体験。
ある意味で思い出にはなるんじゃないか。と結論を出して、僕らはそのまま普通にお台場デートを楽しみ、夜は新橋のホテルで一泊した。
「部屋の窓が曇っちゃうくらい……滅茶苦茶にして」なんて恐ろしい威力の殺し文句と一緒に迎えた夜に関しては、ここでは割愛する。
二人で乗った船がハチミツの海に沈んでいく。そんな酷く耽美というか、破滅的な錯覚に陥ったとだけ言っておく。
そこから事が動いたのは、翌朝だった。
二人そろって目が覚めて。寝起きのぼんやりとした意識の中、昨夜の熱がまだ互いの身体に残留しているのを感じた時。目を合わせてしまったのがいけなかった。
抗いがたい燃え立つような衝動が僕らを焦がす。惰性に近い形で僕を翻弄していた彼女の白い手が、今度は僕の太ももを誘惑するように愛撫して。熱情に蕩けた表情のまま、彼女の身体が毛布の中へ消える。
遅れて訪れた、文字通り飲み込まれるような快楽の奔流に身を委ねた時……。まるで戒めるかのようにスマートフォンが鳴り響いた。
我に返り、二人で苦笑いしつつ身を離す。無粋とは思わなかった。寧ろここで止めないと、また暫くはベッドから出られなくなりそうだと思ってしまったのだ。
クールダウンも兼ねてスマホのディスプレイを覗き込む。相手は故郷の幼馴染みだった。
何だろう? そんな軽い気持ちで電話に出て……。電話口の向こうで泣きじゃくる声に、身体中の血の気や熱が一瞬で引いていくのを感じた。
どうしたの? 何かあったの? と、慌てる気持ちを努めて抑え、妹分の言葉を待つ。幼馴染みは迷子になった子どものように僕の名前を何度も呼びながら、やがて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
もたらされた内容は、予期せぬ訃報だった。友人の一人が自殺した……というもの。
そこで僕は、唐突にだが、既視感の正体にようやくたどり着いた。
亡くなったのは、数日前に僕に通り魔みたいなラインを寄越した友人で。
今にして思えば、あの客席にいた女の人と、声は……。
※
故郷にて、友人の葬儀は滞りなく行われた。
泣き崩れる幼馴染みを、もう一人の友人たる女性と一緒に慰めて。
僕は他の仲間達とも久しぶりの再会を果たした。
自殺なんて信じられないと僕が言えば、一人は自殺なんか考える女じゃなかった。絶対おかしいと拳を握る。
一番親しかった男に、何か変わった事はなかったか。と聞いてみれば、男は能面のような顔で首を横に振るのみだった。
連絡が来た時は普通だったのに……。と、僕が漏らすと、また一人は「お前にもラインが来たのか?」と、驚きの声をあげる。
まさかと思って確認すると、故郷の仲間全員に、死んだ友人は連絡をいれていた事が判明した。どれもこれも、他愛ない内容で。
結局、数日後に再び東京に戻るまで、クルージングで視たものは誰にも話さなかった。話せる訳もない。
あれは友人の、幽霊だったのかも。だなんて。
何より、僕は途中で気づいてしまったのだ。
あの時、友人が僕の元に訪れた真相に。
確かに他愛ないやり取りだった。
だが、その中には、確かな叫びが含まれていたのだ。
今更だが、僕の名は滝沢辰。
そして、かの友人は基本的に僕を滝沢と呼ぶ。ラインで呼び出した時もそうだった。
その筈なのに、一ヶ所だけ、彼女は僕を名前で呼んでいた。
それが妙に気味が悪くて、僕は彼女のメッセージを何度も読み返し……答えを得たのだ。
『滝沢は悪い子』
『スケこましだろ』
『結局、綾じゃなくて大学で出会った奴と付き合ったしさ』
『テメェの罪を数えてみやがれ』
『辰、お前にいつか分からせてやる』
ここまでだ。という絵から。
『夜道を歩くときは前と後ろに気を付けな。……頼んだよ』
最初はここまでだ。が、爆撃のような会話の終わり。そのきっかけだと思っていた。だが、違うのだ。あれは、〝伝えたいこと〟がここまでだという意味で。友人は、僕に頼んでいたのだ。
夜道に気を付けろは、まぁ分かる。だが、前と後ろだなんてわざわざ違和感が出るような言及をしている事に、気付く事が出来ていたなら……。友人が投げ掛けた本当のメッセージに辿り着けたのである。
そういう目で見れば、後の話は簡単だ。
前と、後ろ。そこを注意して、順番に意味が通るようにかつ、違和感たる僕の名前も含めて縦に読めば……。
『タ』『コ』
『ス』『ロ』
『ケ』『サ』
『テ』『レ』
『辰』『ル』
すなわち『助けて辰、殺される』
これが、友人が伝えたかった、本当の言葉だったのだ。
どうして、こんなまどろっこしくて分かりにくい助けの求め方をしたのかは分からない。
だがそれでも、あの友人が僕に頼るくらい必死だった事は……想像に難くない。
そう考えたら、あの時聞こえた声にも、きっと続きがあるのだろう。
『どうして……助けてくれないの?』
そんな声が、帰りの新幹線の中で、僕をいつまでも苛み続けていた。
※
失意と悲しみ。やるせなさに身体を満たされたまま帰還すると、部屋には先客がいた。出るときに戸締まりはした筈。だからいるとしたら、合鍵を渡している恋人だろう。と、思っていたら案の定だった。
「お帰りなさい。ご飯にする? お風呂にする? それとも私にする?」
軽いお茶目な言動とは裏腹に、その声と瞳には慈愛気遣いが詰まっていた。
「一人にしてあげた方がいいかな。と思ったけど、やっぱり心配で」そう言いながら彼女は僕から荷物を引ったくると、弱々しい僕をリビングまで引っ張ってくれた。
「……君にする」
「ん、いらっしゃいな」
ソファーに座り込んだ僕が小さくそう呟くと、彼女は傍に寄り添うようにして横になり、そっと両腕を広げた。曲解しない察しのよさが反則過ぎて泣きそうになった。
マシュマロなど相手にならない癒しの柔らかさに顔を埋め、僕は故郷での話と、それに伴って気づいたことを静かに語る。
全てを吐き出す頃には、行き場のないもどかしさに拳が握られていた。
彼女は、最後まで黙って聞いてくれて。今は赤子をあやすかのように抱き締めた僕の後頭部に手を添えている。
だがそこに僅かな震えを感じて、僕は思わず顔を上げた。一体どうしたのか。その言葉が出かかって、すぐに引っ込められる。
恋人の顔が、真っ青になっていた。
「だ、大丈夫?」
「ね、ねぇ。今喋ったこと……本当に?」
今度は僕が気遣わしげに彼女に声をかけると、恋人は確認するように訪ねてくる。それに僕が頷くと、彼女は唇を噛み締めたまま、暫く思案し始めた。
「考えすぎ? でも……」という呟きが彼女の口から漏れる。そのただ事ではない様子に、僕は一抹の不安を抱えながら起き上がった。気がつくとソファーの上でお互い正座して、膝をつけ合わしているという状況が出来上がる。
「教えて。何に思い至ったのか」
「……ただの推測。貴方には、辛い話になるわよ?」
確信がある訳じゃないし。と付け足しながら、彼女は深呼吸した。
「あんな分かりにくい助けを求める状況ってどんなのだと思う?」
「どんなって……大っぴらに言えなかったってことだろう? つまり……」
ゾクリと。寒気が背中を這う。
そうだ。考えられるのは一つだけ。堂々と助けを叫べない。あの時の彼女はそういう境遇だったということに他ならないではないか。
「工作じみてると思わない? 殺人者なら、誰かと連絡を取るのは嫌がる筈。監視下においていたなら、携帯すら取り上げるかも。なのに貴方の友人は、貴方を含めた仲間六人全員に、他愛ないメッセージを送っている」
「…………まさか」
何を偽装しようとしたかは分からない。だが、少なくとも、あの時に彼女は平和な日常にいたと錯覚させるために、連絡を強要されていたのだとしたら。
すなわち……彼女は仲間の誰かに殺された可能性がある?
「……嘘だ」
「……思い出して。貴方が言った事に対する反応。それが一字一句状況も含めて違わないのなら、一人だけおかしい人がいる」
「待って。待ってくれ……!」
浮かんだ考えを感情が否定する。だが、信じたくはない心の底では、その通りだと受け入れてしまう自分がいる。
そこで顔が再び柔らかさに沈む。彼女に再び抱き締められたらしい。彼女は震えた僕を落ち着けるように背中を擦りながら、ゆっくりと真実を口にする。
「勿論、ちょっとの理屈で崩れちゃう疑惑よ。そうね。例えば自分の所にも来たから、貴方もそうだと思った……とか。でも……」
「……皆にあの日ラインが来ていると浸透させたいなら、僕の発言は渡りに船だったのかもしれない」
友人の一人を思い浮かべる。だからこそ、彼は言ったのだ。「お前にもラインが来たのか?」……と。僕は連絡手段がラインだとは、一言も言っていないのに。
重苦しい沈黙が、部屋を満たしている。
結局その日は、ただ震え、二人で寄り添うように眠りについた。
まだ確定ではなのだ。もしかしたら、犯人が適当に連絡する相手を選んだのかもしれない。
認めがたいが自殺で、僕はただメッセージを難しく捉えただけなのではないか。
そんな、祈りみたいな希望的観測を抱くしかなかった。
だが、現実は非情である。
一週間もしないうちに、僕は恐れていた報告を受けることになった。
友人の一人が、殺人の容疑で逮捕された……と。
最後の最後まで、僕や友人たちに救いはなかったのである。