00-青い空と白い海
人が生誕の地である地球を離れ、宇宙へと繰り出してから早一世紀。人口爆発と環境汚染、それに伴う食糧生産の悪化。地球単独で人類を支えきれなくなった時、人々はかつてヨーロッパ諸国がそうしたように新天地を開拓する必要に迫られた。僅かな資材、僅かな人員、僅かな資産。第一世代宇宙植民者たちは、人類という種を守るために暗く果てしない宇宙へと旅立って行った。
はじめの内は地球―宇宙間の連携がうまく行っていた。地球は彼らが活動するのに必要で、かつ生産の難しい食料品を供給し、宇宙開拓者たちはその最中に手に入れた様々な副産物、技術や資源を地球へと送った。
だが10年、20年と時を経るにつれて、それは搾取的な関係へと変化していった。生殺与奪の権を握られた開拓者たちは合法的に自由を奪われ、地球へ住まう者たちの奴隷めいた環境へと堕とされた。少しずつ、ほんの少しずつ、宇宙を憎しみが包み込んだ。
西暦2300年。
太陽系開拓者は『火星帝国』を名乗り武装蜂起、時の地球政府だった国連へと宣戦布告。当初即鎮圧されるであろうと目されていた戦いは、しかしその予想を覆し火星優位に進んだ。10年以上も続く『星間戦争』の、これが始まりであった。
西暦2314年5月12日、地球、日本。
沿岸沿いの道を進むバスに揺られながら少年――海東イスカはぼんやりと海を見ていた。薄墨色の髪が窓から吹き込む風に揺れ、キラキラと輝いた。愁いを帯びた表情といい、白魚のような手先といい、『薄幸の美少年』とタイトルを付けられそうなくらいには見てくれがよかった。
彼が見ていたのは青空、白い砂浜、ではない。岩盤がめくれ上がり、さながら剣山のような状態になった東京湾の向こう側、神奈川のあたりを見ていた。もはや関東の大部分では人が生活出来ないようになって久しい。
「また故郷を見ていたんですか、兄さん」
その隣に座りながらスマホを弄っているのはその妹、海東夕菜。イスカよりは二つ年下の14歳、腰までかかる滑らかなポニーテールが特徴的だ。色素は全体的に薄く髪は茶色に、瞳は赤っぽく、肌は色白だ。儚げだが芯の強い性格で、また文武両道。苦手とするところはない。才気に溢れ憧れられることはあれど、不愛想で友達は少なかった。その証拠に彼女のスマホのアドレス帳に記載されているのは片手で数えられるほどの名前だけだ――などと言うと『なぜ知っているんですか』と怒られるのだが。
火星帝国が落とした質量兵器――小惑星にブースターを取り付け地球へと落下させるもの—―により日本は蹂躙された。単純な破壊力もさることながら、質量兵器そのものが放射性物質であるため近隣が汚染されてしまうのだ。今年の1月に核を含めた大量破壊兵器使用規制条約が締結されなければ、地球はスイスチーズになっていただろう。
幸運にも生き残った兄妹は数カ月間避難所で過ごし、房総半島の先端まで越して来た。疎開である。幸いにも軍事基地がなく、敵地への攻撃に晒されなかったこの場所に来ることが出来たのは幸運としか言えない。
「まだあそこに残っている人がいるんだな、って思ってさ」
「髙木さんも美優も、移転するお金がないって」
かつての友人や、近所の知り合いの名前を夕菜は出した。その声のトーンは沈んでおり、澄ましているが傷付いているのだとイスカには分かった。
「宇宙に引きこもってくれていればいいのに。なんで地球にちょっかいを出してくるんだか……こんなことまでして、本当に何がやりたいんだろうな?」
「不見識ですよ、兄さん。そもそも今回の戦争の発端は……」
政治、社会情勢に興味がない兄に比べて、夕菜は聡明だった。家族相手に一説打つことも珍しくない。イスカはそんな言葉を、不真面目に聞き流す。
(なんで戦争なんてことを、ずっと続けているんだろうなぁ……)
イスカは自分の手を見る。今際の際、母の血濡れた手を取った自分の右手を。べっとりとした血の感触は、もう半年近く経つのに未だ消えてくれない。大切な人を失う痛みを知った少年は、戦い続ける人々のことが分からなかった。
夕菜もある程度語りたいことを語り、満足したのかまたスマホに視線を戻した。白浜までは遠い、2人は無言のままバスに揺られた。
「あっ……見ろよ、夕菜。父さんが来ているぞ」
新居の確認と荷物の運び込み、仕事場のセッティングに地元への挨拶回りをするため先に父は白浜の地に降り立っていた。バス停で合流することになっていたのだが……
「すみませんが兄さん、人違いです。あれは父じゃありません」
「現実を直視しろ、妹。昔から父さんはあんな人だった」
場違いなアロハシャツにデカいティアドロップ・サングラス。首はなぜかハイビスカスの花輪をつけた麦わら帽子の中年男が『海東家御一行、大歓迎』という謎めいたプラカードを持ってバス停で待っていたのだ。あれを他人と断じたい夕菜の気持ちも分かる、と思う一方で、無理にでも明るく振る舞いたい父の気持ちも分かるイスカは複雑だった。
荷物をまとめバスを降りる。港町特有の潮風が2人を出迎えた。春の息吹がまだ残るカラッとした気候。少しだけイスカはこの町が気に入った。
「やあ、長居バス旅ご苦労様。疲れただろう、イスカ、ユーナ?」
プラカードを近くにあったゴミ箱に投げ捨て、サングラスを外しながら父、海東良治は二人を気遣った。縮れた五分分けの髪にキラリと光る白い歯、子供のようにキラキラと輝く瞳。イスカは既婚者に盛り上がる奥様のひそひそ話を聞いたことがあったが、盛り上がるのも無理はないと思っていた。
口には出さないが、優しくてカッコいい自慢の父だった。
「どこのどなたでしょう。あなたのような方は知りませんが」
「ああ、まったくこの子は。反抗期かなぁ、イスカ?」
「ごめん、僕もそんな格好の父さんがいるとは思いたくないなぁ」
しばし笑い合い、良治は親指で後ろに止めてあった軽トラックを指した。その傍らにはタンクトップ姿の青年がいた、良治よりも引き締まった体格をしているように見えた。
「彼は御堂くん、近所なんだ。引っ越し、手伝ってくれるってさ」
「いい人なんだね、御堂さんは」
青年、御堂は快活に笑い手を振って来た。
「……もう戦争に巻き込まれることはない。安心していいんだ」
良治は強大の肩に手をやり、そして抱きしめた。父のぬくもりに抱かれながら、しかしイスカはそれをどこか信じ切ることが出来なかった。
(この青い空の下でも、遠い宇宙でも、いまも人は戦っている。俺たちにその火の粉が降りかからないとどうして言えるんだろうだろう……?)
口には出さなかった。漠然とした不安を抱えたまま、イスカは曖昧に笑う。
父が用意してくれた楽園を、自分の手で壊してしまわないように。