ファーストシングル:『これからもI need you.』
「君は彼女に必要ない」
大手レコード会社のプロデューサーを名乗る男が切り出した本題の、それが第一声だった。
洒落た、いかにも大人が使いそうな喫茶店だ。お互いの目の前には出されたばかりのコーヒーが湯気を立てていた。
「いきなりずいぶんな物言いですね」
自分の倍は歳を重ねていよう相手に対して、僕は苛立った声を隠そうともせずに言った。
男は四十は超えていそうな外見だった。スーツをそつなく着こなし、いかにも仕事ができそうなオーラを漂わせていた。
実際に世に送り出した歌い手は数知れないのだろう。この男と会うのはこれで三回目だ。話の内容や自分で調べた範囲のことを総合して考えても、男は身分を偽った詐欺師の類でないことはもう十分理解していた。
「事実だ。夏明秋香、彼女は十分にプロとして、メジャーで通用するレベルだ」
男はそこで目の前のコーヒーをひとくちすすった。
「だが君はどうだ。まるでゴミだ」
「……っ」
分かっていても、自分の努力をむげにされるのは心がかきむしられるような気持ちだった。
僕は男を睨みつけることで、なんとか平静を保とうとする。
「まるで不協和音だ。どこまでも自己満足で、取るに足らない。作り手が自分に酔っているのが分かって、聞いていて恥ずかしくなる」
「あんたは、そんな取るに足らないガキを罵るためだけに来たのか? レコード会社ってのはずいぶん暇なところなんだな」
「おっと、これは失礼。だが、それに対してそんな楽曲を歌っている歌い手はどうだ。彼女はまさに才能の塊だ」
そんなことは知っていた。
秋香には才能がある。そんなこと、僕が一番知っていた。
「そんな彼女を君が腐らせている。君が横にいるせいで、彼女は羽ばたけないんだ。分かるか?」
そんなこと、貴様に言われる筋合いはない、と。
そう叫んでやれたらどれだけ良かっただろうか。
言ってやりたかった。
だが、言うことはできなかった。
なぜなら、メジャーでやっていくことは、秋香の夢なのだから。
「これが、約束のものだ」
男はそう言って、男の名刺が入ったCDをテーブルの上に置いた。
「中に、オレが彼女のために用意した曲が入っている。オレは約束を果たした。そっちも守ってもらうよ」
「分かってますよ。これを秋香に渡せばいいでしょう」
「そうだ。これを彼女に渡してもらえれば、それで君の仕事はお終いだ」
君はそれで用なしだ、そう聞こえた。
約束とは以前会った時に、詐欺でないのならオリジナルの楽曲を、秋香のための曲を用意してみろ、と言ったものだった。
「別に中身くらいは君も聞いて構わない」
「ああ、せいぜいそうさせて貰いますよ」
僕は男からひったくるようにしてCDを受け取った。
「そういえば、君のことについては少し調べさせてもらったよ」
「なに?」
「父親は『あの』冬木トウヤだそうじゃないか」
「…………ッ」
息がつまった。
男の視線が首に絡みつき、首を絞めているような気がした。
先ほどまでとは全く違った種類の息苦しさが僕を絞めつけた。
動悸がする。頭が痛い。もう解放されたと思っていたのに。もう忘れられたと思っていたのに。
どこまで行っても、親父の影は僕につきまっとってくる。
「親子揃って、音楽の才能には恵まれなかったようだな」
男は鼻で笑いながらそう言うと、さっさと席を立ってしまった。
僕は、いつまでも席から動くことができなかった。
夏明秋香は僕の同い年の幼なじみだった。
十月十日生まれ。二十歳。さそり座。AB型。今年大学三年生。
黒髪ロングでナイスバディ。女性にしては背が高い。悔しいけど美人。
本人曰く、ちょい太めの眉がチャームポイント。さばさばした感じのナイスガールだ。
彼女との出会いは小学四年生の夏だった。
僕の家は母親がピアノ教室を開いており、それなりに有名な教室だった。
そんな家に生まれ育った僕はごく自然にピアノを弾くようになった。物心付く頃にはすでにピアノを弾いていた僕の音楽は、一言で言ってしまえば順風満帆だった。どんなに難しい曲でも少し練習すればすぐに弾けるようになった。周りはお母さんはそれをとても喜んだ。僕は褒められるのが嬉しくて、もっと練習をした。
最初はその繰り返しだった。ピアノが好きだというより、褒められるのが嬉しかった。褒められれば褒められるほど、僕はピアノに打ちこんだ。
そのときは、ずっとそんな日々が続くのだと思っていた。
だけど、僕の天下はそんなに長く続かなかった。
小学四年生の夏、お母さんの教室へ秋香がやってきた。あとで知ったことだが、秋香は色々な教室をたらい回しにされたあげく、うちに来たらしい。どうやら、秋香を教えられる教室がなかなかなかったらしい。
そんな彼女が弾くピアノは、まさに『本物だった』という表現がピッタリだった。
本物の天才だった。
僕は人よりも少しだけ器用だったかもしれないが、秋香はそんなレベルではなかった。
僕は楽譜を正確に弾くことはできても、彼女のように楽譜を彼女にしか弾けない曲にすることはできなかった。
当然僕は嫉妬に狂った。とは言っても、当時は嫉妬なんていう感情を理解できるわけもなく、とにかくなんだかムカつく奴。
僕の秋香への第一印象はそんな感じだったと思う。
そんな僕に、彼女はいつも挑発的な視線を向けていた。ガキの頃から人をからかうのが好きなやつだった。
改めて思い返してみると、彼女は本当に嫌な奴だった。
だけど、秋香の音楽に対する思い入れは本物だった。
彼女の才能は技術だけのものではなかった。心の底から好きなものを、どこまで純粋に取り組むそのメンタリティまでもが、彼女の才能の正体だった。
そのことに気が付くのに、三年かかった。その三年は戦いの日々だった。練習しては挑み、挑んでは跳ね返される。僕は死に物狂いでやっているのに秋香はいつも悠々とその僕をいなす。その不公平さ、理不尽さをいつも呪っていた。
負けるたびに思い知った。僕のピアノはどこにでも代えのいるピアノで、秋香のピアノは彼女だけに求められたものだった。
だけど、そうじゃなかった。僕にとっては秋香を倒すためだけの辛い修行だったピアノは、彼女にとっては辛くもなんともない、むしろ楽しい時間だったのだ。これもあとで知ったことだ。このときの僕が秋香よりも絶対にたくさん練習していると思い込んでいた練習時間よりも、実際の秋香はもっとずっと練習していた。
勝てるわけがなかった。
僕のピアノは代えがきくのではない。僕にとってピアノは代えがきく、の間違いだった。僕はただ周りより少し器用で、それが褒められることが嬉しいだけで実は別にピアノである必要も音楽である必要もなかったのだ。だけど、秋香は違った。彼女はきちんと音楽を愛していた。だから、勝てるわけがなかったのだ。
そのことに気が付いたのは、小学六年生の時、秋香が事故にあってからだった。
事故といっても命に別状のあるようなものではなかった。それでも、大事故だった。
秋香が怪我をしたのは指だった。
秋香を見舞いに行った病室で、これまで僕に対して弱みのひとつも見せたことのなかった彼女が泣き崩れるのを見て知った。
彼女がいかに、僕なんかとは違ったのかということを。
指には後遺症が残った。日常生活に支障はないが、複雑なピアノ曲は、彼女はもう一生弾くことはできなかった。
秋香の事故をきっかけに、僕もピアノを弾くことをやめた。
ひとつ、気付いたことがあったのだ。
代わりに、新しいことを始めた。それは、作曲だった。
気付いたこと、というのは、どうやら自分は秋香に惚れているらしい、ということだった。
彼女のどこに惚れたのか、それは自分でもよく分からない。
見てくれだけはいいが、性格はひん曲がってるし、頑固だし、人の話は聞かないし、実はずぼらで音楽以外なにもできない奴だし。よく好きな人のことは全部が好き、というが、全然そんなことはない。僕は秋香には直してほしいイマイチな部分がいくらでも見つけられた。
だけど、好きだった。
そして、好きな彼女には彼女の好きな音楽を続けて欲しかった。
どうすれば彼女が音楽を続けられるのか、必死に考えた。
そしてたどり着いたのが、僕が作曲し秋香が歌うという方法だった。
父親の影響、というのは考えたくないが、さすがに全く関係ないとは言い切れないのが辛いところだ。
指が駄目なら歌えばいい。当時は真剣に考えてのことだったが、よく考えればどう考えても子どもの浅知恵だ。今考えれば、指が駄目ならドラムだってある。まだしもドラムのほうが、演奏である分ピアノとの関連性はあったかもしれない。
だけど、子どもの浅知恵は実を結んだ。秋香は歌の才能もあった。いや、こうした言い方は秋香に失礼かもしれない。なにしろ彼女はピアノが駄目になって以後、その情熱をそのまま歌につぎ込んだ。ある程度の資質には恵まれたとはいえ、彼女の実力は彼女の情熱と努力のたまものだった。
そして、気付けば秋香からピアノを奪った事故から八年の月日が経過していた。
僕は八年前からずっと、曲を作り続けている。秋香はあれからずっと、僕の曲を歌うヴォーカリストだった。
大学生になってからは、『シンガーソングライターズ』というユニット名でインディーズ活動もしていた。
その僕と秋香の関係こそが、あのプロデューサーが秋香に必要ないと断じたものだった。
「『シンガーソングライターズ』の今後について話がある」
翌日、僕はそう言って秋香を家へ呼んだ。
大学生の男が好きな女性を部屋に呼ぶ、と言えばずいぶん色っぽい話のように思えるが、幼なじみである僕らにとっては昔からある遊び場のひとつ程度の認識でしかなかった。なにより僕はまだ実家暮らしだったし、母親のピアノ教室は家で開かれているので一階には年中無休で母親が常駐している始末だ。ピアノの音が鳴りやまない家の二階で作曲案を出し合ったり次のライブの作戦会議をしたりする。それが『シンガーソングライターズ』の常だった。
そんな訳で、僕はある意味いつも通りいつものように秋香を呼びだした。
約束の時間になると秋香は現れた。子どもの頃からの習慣で、インターフォンは鳴らない。秋香の声がして玄関が開いたかと思うと、母親と秋香が話している気配が下からする。やがて階段を上がってくる足音と、部屋の扉のノック。
「あいよ」
僕は言って扉を開く。
そこには背中まである綺麗な黒髪ロング。彼女お気に入りの黒のTシャツにジーパンというラフな格好の秋香の姿があった。手にはコーヒーカップが二つ乗ったお盆を持っている。うちの母親が入れたものだ。これも、いつものことだった。
「冬木先生は今日もお元気そうだな」
秋香はうちの母親のことを昔の名残で冬木先生と呼ぶ。
「元気過ぎて困ってるよ。最近また元気のいい生徒が増えたみたいで張り切ってる」
「いいことじゃないか」
「まあ悪いことじゃないけどさ」
そんな他愛もない会話をしながら、僕らは小さな丸テーブルに向かい合って腰を据える。
これもまた、いつものことだ。
秋香はお盆から僕のコーヒーを僕の前に置き、自分のコーヒーを取る。僕の前にはミルクひとつ。自分の前にはミルクひとつに砂糖二本。
それからまた、他愛もない話が続く。昨日見たテレビのこと、この間貸したCDの話、最近会った懐かしい同級生。
なにもかもがいつも通りすぎて、これからもずっとこんな日常が続くような錯覚を覚えた。
「君は彼女に必要ない」
だが、そんな錯覚を覚えるたびに、その一瞬後にはあの男の言葉が脳裏をよぎる。
そのたびに背筋が寒くなる。動悸がして、呼吸の仕方を忘れそうになる。分かってる。そんなことは分かってるさ。約束は守る。
秋香がやってきてから三十分も経った頃に、僕はようやく本題を切り出した。
「最初に確認しておきたいことがあるんだけど、秋香はやっぱりメジャーになって、プロとして音楽をやっていきたいんだよな?」
秋香が音楽で生計を立てるという意味でのプロ志望であることはまず間違いない。
だけど僕は、そのことを言葉にして確認したことがなかった。
秋香も、自分たちがプロとしてやっていくのかどうか、という話題を持ち出そうとはしなかった。
お互い、この話題を強いて避けてきた。僕たちは自分たちの目指す場所に対するズレを言葉で確認してしまうことを恐れていた。
そして、これまで避けてきた話題をいきなり僕が持ち出したことに秋香は少しだけ驚いたような顔をした。
しかし、すぐに神妙な顔になると口を開いた。
「そうだな、私はプロになるのが目標だ。できれば音楽だけやって生きていたと思ってるよ」
「それを夢じゃなくてさらりと目標と言っちゃうあたりは、なんというか、秋香だよね」
「む。どういう意味だ」
「敵わないな、って意味だよ」
僕は笑って肩をすくめた。
本当に、敵わない。
いつまでたっても、どこまでいっても秋香は僕の先を行っている。そんな気がした。
「春紀、知っているか」
「なにが?」
「音楽行為は三つの種類に分類される。『演奏』『鑑賞』、そして『作曲』だ。これらの音楽行為は普通バラバラに行われるのが普通だ。作曲家は演奏に携わらない。CDを録音するのはプロの仕事だし、音楽を聞く人間はそうして生まれたCDを家の中で聴く」
「まあ、そうだな」
「だけど、これら三つの音楽行為がピタリと一点に収束する場所がある。どこだか分かるか?」
考えてみる。作曲家がいて、演奏者がいて、鑑賞者がいる場所。
少し考えてみて、秋香が言いたい場所が分かった気がした。
十分な間を空けたあと、秋香は言った。
「ライブだ。あそこでは全ての音楽行為が一点に交わる。その瞬間の快感は何にも勝る。その瞬間の後に来る拍手の渦の中で浸る余韻は人を狂わせるに足りる」
その瞬間を思いだしているのか、秋香はどこかうっとりとした声で言った。
その表情はどこかエロティックで、僕をどきりとさせた。
「春紀も、そうは思わないか?」
「僕は……」
僕は、そこまで思うことはできなかった。
確かに演奏が終わったあとの拍手は何にも勝る報酬だと思う。あの渦の中にいるときは、この時のためにここまでやったのだという気分にもなろうというものだ。
だけど、それだけを求めて生きていけるかと言えば、僕には無理だった。
僕が音楽のプロをいうものを思い浮かべる時に真っ先に思い浮かべるのは、世間のアーティストではなく、身内の背中だった。
母親もある意味音楽のプロだったが、それでもない。
「春紀はプロで音楽がやりたいとは、思わないか?」
僕が音楽のプロを思い浮かべる時に真っ先に思い浮かぶのは、それは僕の父親の背中だった。
僕の父親は冬木トウヤという名前の作曲家だった。
本人曰く業界引っ張りだこの大人気作家さまだったらしいのだが、いくぶん調子のいい人間だったので真実のほどは分からない。
ただし、それなりに実績を残している作曲家だったのは間違いがない。未だに聞こえてくる懐メロの中には、いくつか親父が作曲したものがあるのを知っている。
だが、世間が冬木トウヤの名前を語る時に出てくるのはそんな華々しい話題ではない。
盗作疑惑の果てに自殺した作曲家。
それが世間の冬木トウヤに対する記憶だった。僕が中学二年の時のことだ。
世間では自殺ということにされていたが、事実は少しだけ違う。
親父は確かに死んでいたが、自殺ではなく事故死だ。盗作疑惑が取り沙汰され、記者に追いまわされるのに飽き飽きしていた親父は自棄酒を飲み、車道でぶっ倒れて交通事故。それが警察の出した結論だった。僕も恐らくその通りだと思う。あの図太い親父が盗作容疑をかけられたくらいで自殺する繊細さがあったとは思えない。
だが、世間はそう見なかった。
良心の呵責に耐えきれず自殺か!?
しばらくはそんな見出しがゴシップ記事の紙面に躍った。
そのせいで僕と母さんはそれなりに酷い目にあった。
僕の目から見ても明らかにピアノ教室の生徒は減ったし、記者などからは相当無神経な質問を僕も母さんも浴びた。
僕は、学校で浮いた。いや、今更誤魔化したってしょうがない。僕はいじめにあった。不幸自慢をする気はないが、相当陰湿なものだった。学校という空間の中では親が(一部でではあるが)有名人だと、それだけで目立つ。それはなにも良いことばかりではない。その親のゴシップが世間で取り沙汰されたりなんてされれば、その結果は考えうるかぎり最悪なものになる。
あげくに親父はまともな説明も弁解もできずに死んでしまった。盗人野郎、生きていて恥ずかしくないのか、などなど。謂れのない中傷に始まりありとあらゆるいじめを受けた。あの時の僕がおかしくならずにいられたのは、たったひとりでも味方が、秋香がいてくれたからだ。
親父は身内から見ても、いや、身内から見た方がより、褒められた人間ではなかった。
粗野で、声が大きく、強気に出れば意見が通ると思っているような人間だった。
酒癖が悪く、いつもべろんべろんになるまで酔っ払っては僕の頭を太鼓かなにかのように小突きまわしては下品な笑い声をあげていた。なぜ、母さんがこの父親と結婚したのかは、未だによく分からない。端的に言って、僕は生前から父親のことが大嫌いだった。
そんな父親だったが、キーボードの前に座る時だけはいつも子どものように澄んだ瞳をしていたのを覚えている。ヘッドホンをつけて、なにやら鍵盤を叩いては五線譜に音符を書き足していく。音楽のプロという言葉を聞いた時に僕が思い浮かべるのはその背中だった。
三人家族の全員が音楽をやっているにも関わらず、家族の会話に音楽の話はほとんどない家だった。
そんな中で一度だけ、親父が僕に音楽を語ったことがあった。あれは、いつのことだっただろうか。もうそんなことも思い出せない。
「ただの"二人のため"だけの曲であれ」
「なにそれ」
「作曲の極意だ。覚えておけよ、ガキ」
親父はそう言って僕の頭を小突いた。
その続きがあったような気もしたが、もはや虚ろな記憶の彼方だった。
それにしても、まったくもって訳が分からない。それに、とても矛盾していた。
うちの親父は顔に似合わず非常にラブソングの多い人だった。つまり、とても大衆向けだった。
テメーはその他大勢に向けた曲ばかり作ったあげくに死んじまったじゃねーか。
親父のこの言葉を思い出すたびに、そう思った。
盗作疑惑の真偽は結局あやふやなまま人々の記憶から消えていった。僕自身にも、その真偽は分からない。なにせ内弁慶で口下手な人間だったせいで、問題が取り沙汰されても世間に向けてなにひとつ説明をしようとはしなかった。僕ら家族に向けて説明したこともない。だけど、変なところでプライドの高い男だったので、おそらくやってはいないと、僕自身は思っているのだけれど。
だけど、間違いなく言えることはひとつ。
僕は親父のようにはならない。
それだけは心に決めていた。
僕が自分の父親を毛嫌いしていることは、秋香も知っている。
その父親がプロの作曲家だったからこそ、僕がプロになりたがらないということも。
だが、僕が秋香に直接言葉で確認したことがないように、秋香もこれまで僕に言葉で確認しようとはしなかった。
「春紀はプロで音楽がやりたいとは、思わないか?」
しかし、ついに聞かれてしまった。
秋香が真摯に答えた以上、僕だけがはぐらかすことはできない。
僕は深呼吸をすると、口を開いた。
「僕は、親父のようにはならない」
「そう、か……」
秋香は明らかに落胆した顔を見せた。
秋香が僕にもプロを目指してほしいと思っていることは薄々感づいていた。
その気持ち自体は、とても嬉しい。それだけに、秋香のそんな顔は胸がかきむしられる思いだった。
だけど、今日の僕の本題はここからだった。
口を開くと、声が震えそうになった。我慢だ。僕の心の内を見抜かれてはならない。僕は秋香の足手まといにだけは、なりたくなかった。
「だから、今日ここで『シンガーソングライターズ』を解散しよう」
「なんだって?」
その瞬間、秋香の顔が物凄い形相になった。
秋香は怒っていた。その事実は嬉しいと同時に辛かった。
――ごめん、やっぱり嘘。
そう言えたらどれだけよかっただろうか。だけど言うわけにはいかなかった。
解散、それが僕の出した答えだった。
あの男に言われたからではない。これは僕自身が出した結論だ。
そもそも僕はプロになる気はない。にも拘らず、秋香と一緒にいたくて、一緒にやるのが楽しくて、プロの真似事にまで手を出してしまった。それがそもそもの間違いだったのだ。僕の音楽は秋香が音楽を続けるためだけにあった。それは、もう八年前から決まっていて、きっとこれからも変わらない。
そして秋香はプロを目指している。その秋香がプロになるチャンスが今目の前にあるというのだ。見逃す手はないはずだ。
だってそれは、僕が音楽を辞めさえすれば手が届くのだから。
「本気なのか?」
秋香は冗談や気の迷いが許されない、真剣な面持ちで問い返してきた。
「ああ」
「理由は、説明してもらえるんだよな?」
僕は頷くと、机の引き出しからあの男から預かったCDと名刺を取りだした。
「この間、レコード会社のプロデューサーをやってる人から貰ったものだ」
秋香は僕の取りだした物に意表を突かれたようで、テーブルの上にある二つのものを呆然と眺めていた。
「そのプロデューサーは秋香をメジャーデビューさせたい、と言っていた。CDはその本気を示すためのものだそうだ。僕も聴かせてもらったけど、中には一曲だけ、歌の付いていない未発表の曲が入ってる。彼が言うには、それを秋香に歌ってもらいたいんだそうだ」
僕はテーブルの上にCDプレイヤーとヘッドホンを置いた。
「とりあえず、試しに聞いてみてほしい。秋香にこれを聴かせる約束なんだ」
「……分かった」
秋香はなにか言いたそうにしていたが、言葉を飲み込むように一度目を閉じると、CDプレイヤーに手を伸ばした。
しばらく、沈黙が続いた。秋香は静かに曲に耳を傾けている。
そういえば、秋香に貸したヘッドホンはあのバカ親父の形見だったな、なんてどうでもいいことを思い出していた。
たっぷり十五分以上が過ぎた。ようやく秋香はヘッドホンを外した。
中の曲は四分と少ししかない曲だったので、何度か聴き返したのだろう。そんなことを考えていると、
「凄いな、この曲。ケチ付けてやろうと思って四回ループしてみたけど、無理だった」
僕と全く同じことをしているところが、なんとなく笑えた。
僕の場合、そのためにループした回数は十や二十ではきかないが。
「僕もそう思う」
「こんなものを渡されたら、まあ確かに相手の本気を認めざるを得ない」
秋香は肩をすくめながら言った。
「じゃあ……」
「だが、この話はお断りだ」
「なっ!?」
あまりにも予想外の言葉に、僕は二の句が告げられなくなる。
一度つばを飲み込むと、改めて口を開いた。
「なにを言ってるんだよ、秋香」
「だから、この話はお断りだ。私はそのプロデューサーの元でプロになる気はない、と言ったのだ」
「ど、どうして」
「私はあくまでも『シンガーソングライターズ』として、プロになりたいんだよ」
頭を、見えない金槌でガツンを殴られた気がした。
「そんな彼女を君が腐らせている。君が横にいるせいで、彼女は羽ばたけないんだ。分かるか?」
男の言葉が何度も何度も頭の中で繰り返される。
まさにその通りだった。言い逃れのしようもない。
僕なんかがいるから、秋香が羽ばたけない。
「聞いてなかったのか、秋香。僕はプロにならない」
「なら、私は春紀がその気になるまで待っているとしよう」
「駄目だ。一生ならない」
「なぜそんなことが分かる」
「分かるから分かるんだ。なんでもくそもあるか」
「理由になっていない」
「ああ、もう! 頑固者が!」
思わず叫んでしまってから、哀しくなった。なんで僕がこんなことを言わなくてはいけないんだ。なぜ、僕に言わせるんだ。
もう僕と一緒にいるな、と。
あっちにいけ、と。
なんで彼女のことが好きな僕が、こんなことを言わなくちゃいけないんだ。
「頑固者はお前のほうだと、私は思うけどね」
今度は秋香も少し苛立った声を上げた。
「そもそも、私が私の音楽をどこでやろうと、それは私の自由だと思うのだが」
「だから『シンガーソングライターズ』は解散だって言ってるだろ」
「解散理由が不服だ。子どものままごとじゃないんだ、片方が『やめた』と言ったからといって、『はい、そうですか』では済まないだろう。そもそも、私は春紀がヴォーカルが必要だと言うから始めたんだ。言いだしっぺは春紀だ。その責任はどうなる」
「お前、プロになりたいんじゃなかったのかよ」
「その通りだとも」
「じゃあいいじゃねーか! これからはプロで出来るんだよ。なにが不服なんだよ。責任なんて、もう十分果たしただろ!?」
もうこれ以上、いじめないでほしかった。
気を緩めたら、涙さえ漏れてしまうような気がした。
「もう決めたことだ。秋香がなんて言おうと今日金輪際で『シンガーソングライターズ』は解散だ。僕はもう音楽をやらない!」
僕の音楽は、もうとっくに役目を終えていたのだ。
大学に入って始めたインディーズ活動だって、そもそもがロスタイムみたいなものだ。もうとっくに役目なんて終えていた。『シンガーソングライターズ』は僕が引き際を渋ったがために生まれたような存在だった。そいつに僕自身が引導を渡したのだ。これ以上の責任の取り方がどこにあるというのか。
「なんだ、それは」
だが、それでも秋香は引かなかった。
それどころか、先ほどよりも瞳を怒らせて僕へ迫った。
「春紀にとっての音楽は、そんなものだったのか」
「そんなもの、ってなんだよ。お前に僕のなにが分かるっていうんだ」
「春紀のことなんて知らない。ただ私は腹立たしいぞ、春紀」
秋香の押し殺したような声に、僕は気圧されて黙る。
「お前にとって音楽は、なにかあれば捨ててしまえる、その程度のものだったという事実は、実に腹立たしい」
秋香は眉間にしわを寄せた。
「私はな、春紀。お前がプロになりたがっていないことはずっと知っていた。その理由だって、おおよその見当はつく。だから、そのことについてどうこう言うつもりはない」
今にも掴みかかりそうな雰囲気だった秋香が、ついに僕の胸倉を掴んだ。
「だが、それでも春紀は音楽が好きだと信じていた。その春紀が作る音楽だから歌ってきた。それがなんだ、プロになりたくないくせに、プロになれなければ辞めるのか。私は、そんな奴の作った歌をここまで信じて歌ってきたわけだ。傑作だな!」
「ふざけろよ」
僕は秋香の手を振り払った。
「なんで秋香に、僕が音楽を適当やってたみたいに言われなくちゃなんねーんだよ」
そんなこと、一番言って欲しくない相手じゃないか。
身体の中全身を言い知れない"なにか"が物凄いスピードで駆け巡っている。耳元で"なにか"が轟々と物凄い音を立てている。
頭ん中ぐちゃぐちゃで、自分がなにを考えているのか、これからなにを言おうとしているのかも、もうなにもかも訳が分からなかった。
「お前に僕のなにが分かるんだよ! いつもなんでも人並み以上に出来るお前に、僕のことなんて分かんねーよッ!」
「ああ、分からないさ!!」
秋香が、一際大きな声で叫んだ。
「春紀がなにを考えているかなんて分からない! それが分かったらこんなに怯えたりなんてしない」
秋香がなにを言っているのかが理解できなかった。
怯える? 秋香が? 誰に?
「もしかして私は重いんじゃないか、私は春紀の負担なんじゃないかって、いつも思っていた。そうした負担が積み重なっていつか嫌われるんじゃないか、その可能性にいつも怯えていた。少なくとも音楽があれば春紀と繋がっていられた。少なくとも歌を歌う私は春紀から必要とされていた。もちろん音楽が好きだってこともある。だけど、それだけじゃここまで頑張れなかった」
僕は、半ば呆然と秋香の言葉を聞いていた。
春紀というのが自分のことであることは理解できても、僕の中にある秋香と秋香の語る秋香自身のことが、上手く繋がらなかった。
「私は、不安なんだ」
秋香は泣きそうな声で言った。
ただ、ようやく秋香にこんな弱々しい声を出させてしまったのが自分であることに気が付いた。
その瞬間、口は勝手に動いた。
「僕だって、不安だった」
なにを言うべきかも分からない。だけど、なにかを言わなければいけない気がした。
「秋香は昔から僕の理想の、さらにずっと先にいた。秋香自身にはそういうつもりはなかったかもしれないけど、僕にとって秋香はやっぱりそういう存在だった。僕は常に焦っていた。どうすれば近づけるのか、どうすれば肩を並べられるのか。でも僕がどんなに努力しても、秋香は僕以上に努力していて差は開く一方だった。だから、ずっと焦ってた」
秋香を見る。
秋香も僕を見ていた。
「音楽は好きだよ。音を作るのは楽しいし、聴くのも好きだ。でも僕にとっての音楽は、それ以上に秋香と肩を並べるための武器でもあった。それを手放したら、秋香の才能はまぶしすぎて直視できなかった。僕は常に強がってる必要があった」
そう、僕は強がっていたんだ。
自分だって出来ると。秋香と共にいる資格があるんだ、と。
そうしないと、いつか僕よりも秋香にふさわしい人間が現れて秋香を連れ去ってしまうような気がした。
「色んな言い方が出来ると思うけど、一番かっこ悪い言い方をすれば、僕の音楽は秋香の為の音楽だった。……押しつけがましい言い方だよな、本当にごめん」
「いいよ、続けて」
僕はひとつ深呼吸をすると、再び口を開いた。
「うん。それで、僕は音楽が好きだけど、やっぱりプロにはなりたくなかった。正直はところ、自分の作ったものを不本意な形で見えない誰かから後ろ指さされたりしたら、僕は耐えられない。自分の父親が言われただけでさえ辛かった。自分が言われたりしたら、なんて考えるともうそれだけで駄目だ。僕は、あんな風にはなりたくない」
世間が親父のことを忘れるまでの日々は、今思い出しても地獄のような日々だった。
未だに夢に見ることがある。忘れられるわけがなかった。
「でも、秋香はプロを目指してる。そんな秋香だから憧れたわけだけど、プロになるっていう夢が目前まで迫った今、もう僕は秋香の横には並べない。秋香は望みさえすれば、もうプロになれるんだ。だから、僕の音楽は役目を終えたんだ」
僕は、僕の話は終わりだという意味を込めて秋香に頷いて見せた。
秋香もそれを受けて小さく頷いた。
「勝手に私をいう人間を決めつけて、勝手に役目を終えられては困ってしまうぞ」
先ほどまで違い、柔らかい言い方ではあったが、僕はなにも答えることができなかった。
できるわけがない。
「ただ春紀は真摯に自分の心の内を話してくれた。だから、私もできるだけ真摯に話したいと思う。聞いてもらえるか?」
「うん」
「もちろんプロにはなりたい。ピアノをやっていた頃から音楽で身を立てることは夢だった。それは今も昔も変わりない」
だけどな、と秋香は続けた。
「だけど、今は春紀の歌を歌うことこそが私の音楽だ。八年前、初めて春紀が作曲した曲を聴いたときから、ずっとそうだった」
「僕が初めて作った曲?」
「そうだ。私はあの曲にとても感動した。この曲をもっと多くの人に知ってほしいと思った。もちろん、今聴けばその曲のレベル自体は大したものじゃないだろう。だけど、それからずっと、私は春紀の作る曲のファンだった。その曲を歌えることこそが幸せだった」
過大な評価に僕は居心地が悪くなる。
僕の曲がそんなに大したものだとは思えなかった。ただ秋香に歌って欲しい、その一心で継ぎ接ぎの技術とも言えないようなもので急造したものだ。
だけど、秋香が感動したというのであれば、僕は胸を張るべきなのだろう。それがものを作る者としての正しい態度だ。
「気が付けば、私の音楽は春紀がいなければ始まらなくなっていた。八年間、どうすれば春紀と一緒にプロになれるのか、それだけを考えてきた。だけど、おじさんのことがあって、その夢は口に出せなくなった」
秋香はそこで一拍の間を置いた。
「だが私はその夢を諦めなかったし、今でも諦めていない。私はいつまででも待つ。どんなことがあっても、プロになることも、春紀の歌も諦めない」
「…………」
「…………」
そして、僕達の間に沈黙が降りた。
考えてみれば僕たちは奇妙な関係だった。
僕の音楽は秋香が音楽を続けるためにあった。
秋香の音楽はそんな僕の歌を歌うためにあったという。
互いが互いを必要をする関係。
それはある意味理想的な関係と言えたかもしれない。
だけど、僕と秋香の間には決定的に違うものがあった。
たったひとつの違いで、理想的な関係は理想ではなくなってしまう。
「秋香」
「なに?」
「ありがとう」
こんな僕を想ってくれてありがとう。
こんなにも僕を想ってくれてありがとう。
「べ、別に私が好きでやってることだ。春紀がお礼を言うことじゃない」
「うん。でも、ありがとう」
そして、ごめんなさい。
「それでも、『シンガーソングライターズ』は解散しよう?」
「な、んで」
僕のその返答は予期していなかったのか、秋香の声は呆然としていた。
「僕は秋香と二人でずっと音楽がやれればそれで満足なんだ。二人でずっと音楽ができたらそれだけで幸せなんだ」
「なら、いいじゃないか。私はそれでいいって言ってるんだ」
「秋香がどうとかじゃないんだ。僕が駄目なんだよ」
「言ってることが滅茶苦茶だ」
僕はしずかに首を振った。
「確かに、そうできればずっと幸せだったかもしれない。でも、それは秋香の目標がプロじゃなければの話だ」
「そ、それは……」
秋香の目標はプロだ。
そんなことは本人が言わなくても分かっていたし、言葉で確認した今であればなおのこと無視はできない。
「僕の音楽は秋香が音楽を続けるためにあった。その僕が、秋香の音楽を潰すような真似はできない」
「私がいい、って言っても、か?」
「『したくない』じゃないんだ、『できない』んだ。無理だよ。僕は自分のせいで秋香にプロを諦めさせたまま、何食わぬ顔で秋香と音楽を続けるなんて不可能だ。僕はそんなに器用にできない。これは秋香のために言ってることじゃないんだ。僕が無理なんだよ」
「…………」
秋香はついになにも言わなかった。
「秋香が聞いていてくれるから。だから、音楽は続けることにする。秋香の言うとおり、いつかプロを目指せる日が来るかもしれない。僕は僕を信じきることができないけど、僕を信じてくれる秋香のことは信じられる」
だけど、
「だけど、秋香はそれに付き合ってほしくない。プロになるってのは、やっぱりそんな甘いものじゃないよ。秋香だって分かってるだろ?」
「なにを」
「なりたい、ってだけじゃどうにもならないことだってある。プロになるっていうのは運も必要だ。たまたま、今は、たまたま千載一遇のチャンスが目の前に転がっているだけなんだ。今を逃したら、もう二度とチャンスはないかもしれないじゃないか」
僕は秋香に近寄った。
「道が開けている今を見逃す、それも、僕のせいで見逃すことは、秋香がどうこうじゃなくて僕が耐えられないんだ」
そして、その手を握った。
強く、強く握った。まるで祈るように。
「頼むよ」
熱い。
物凄い熱を持ったなにかが、頬を伝った。
秋香が息を呑む音が聞こえた。そして、なにかを諦めたような溜息をついた。
「分かったよ」
一度こぼれると、涙は止まらなかった。秋香の優しい声は泣きっ面には応えた。
ダサい。ダサすぎる。
泣くだけはするまいと思っていたのに。
消えてなくなってしまいたい気分だ。
男が女を泣き落としなんて、一生かかっても挽回できるかどうかも怪しい大失態だ。
「分かった」
秋香はもう一度そういって、小さい子をあやすみたいに僕の頭を抱きかかえてよしよしと撫でた。
そうしたら、もっと泣けてきた。
どれくらい時間、僕はそうしていただろうか。
無心で泣き続けていたせいで、時間の感覚が全くなかった。
それくらい、僕はずっと秋香の胸の中で泣き続けていた。
そして、ひとしきり泣いて気が済むと自分のかっこうが情けないだけでなく、非常に恥ずかしいかっこうであることに気が付いた。
「ご、ごめん」
僕はそう言って秋香の元から飛びのいた。
秋香の方はまったく気にした風はない。むしろ、若干ご機嫌のようにも見えた。
「春紀、『シンガーソングライターズ』を解散してもいい」
そして、そのままご機嫌な口調で喋り出した。
「ただし条件がある」
「じょ、条件?」
「いつかでいい。急かすつもりはない。なんなら、お前がじいさんになってからでもいい。ただし、いつか必ず春紀もプロになるんだ」
じいさんになってからでもいい、とはまた気の遠くなるような話だ。
お前、どんだけ待つつもりなんだ。
「そしてプロになるまでも、なった後も、一生かけて、私のために歌を作り続けると誓え」
秋香のその言葉を聞いた時、頭の奥で忘れていた記憶が開く音がした。
「『ただの"二人のため"だけの曲』って?」
「そんなもんは自分で考えろ」
「じゃあ親父は誰と誰のために作ってるんだよ」
「自分で考えろっつてんだろ、クソガキ」
「なんだよ、自分から変なこと言いだしておいて」
「お前、最近作曲してんだろ」
「な、なんだよ。わりーのかよ」
「いや、別に」
「…………」
「…………」
「一度しか言わなーぞ」
「なんだよ、突然」
「俺の作曲の極意だ。一度しか言わねーから耳の穴かっぽじってよく聞いておけ」
「んだよ、いらねーよ。自力でやるよ」
「いちいちうるせえガキだな。親父が有難い話を聞かせてやるって言ってる時は子どもは黙ってきくんだよ!」
「痛ってーな、クソ! 殴ることねーじゃねーか!」
「いいか、俺の曲はな、全部俺自身とかーちゃんのために作ってんだよ」
「なんだそりゃ」
「いいか、曲は必ず世界で二人のためだけに作れ。ひとりでもいけないし、三人以上でも駄目だ」
「………………」
「まず、自分ひとりのためだけに曲を作るな。そんなもんはクズだ。世の中にとって自分ってのがどんだけ小さくて気にもされない存在なのかを自覚してない奴に人を感動させるものなんて書けない。次に、他人のためだけに曲を作ってもいけない。そんなもんはゴミだ。自分がどこにも居ない作品に人を感動させる力なんてない。そして、その他大勢のために曲を作る奴はアホだ。世の中アホは多いが、そういうのは他人に任せておけ。分かったか?」
「いや、訳分かんねーし」
「頭の悪りぃガキだな。いいか、バカなお前にも分かるようにもっと簡単に言ってやる。お前はお前自身と、秋香ちゃんの二人のためだけに曲を作ると今ここで誓え! 万事それで上手くいくんだよ。分かったかクソガキ!」
その翌日に、僕は生れて初めて曲を完成させ、そして親父は交通事故で死んだ。
忘れていたのは、ただのそれだけの内容だった。
「それが、条件だ」
秋香の声がする。
誓うとも。
僕は一生秋香のために曲を作ろう。秋香と、僕自身のための曲を。
なんのことはない、僕は親父のようにだけはなるまいと思いつつ、その背中をそのまま追ってしまっていたわけだ。
だとすれば、やることはひとつだ。いつか、親父を越えよう。同じ道をいく運命ならば、越えるくらいしか『クソ親父のようにならない』方法はない。
いつになるかは分からないけど、まあ大丈夫だろう。死んでしまった親父と違い、僕は生憎と生きている。髪の毛が真っ白になることには、たぶんきっと追い越しているんじゃないかと思う。
なるしかない。どんなに間違っても盗作したなどと後ろ指を指されたりしない、大作家様に。
「絶対に、って。プロになるには運も必要だって話だったんじゃないの?」
「運など私への愛で越えて見せろ」
「う。よくそういう恥ずかしいこと言えるな」
「今の私は非常に機嫌がいい。今ならどんな恥ずかしいことでも言えるし、なんならしてやってもいいぞ」
「え、遠慮しときます……」
なにが起こっても怖いので。
「そうだな、春紀もなにかひとつくらい恥ずかしいことを言ってみせろ」
「ええ!? 一生分の恥を晒したばっかじゃんか」
「私は春紀の口から恥ずかしいやつが聞きたい」
「う、うーん。そうだな……」
「飛びきりなのを頼むぞ」
僕の想いの人はなにやら期待に目を輝かせている。
「今思いついた、次回作のタイトルなんだけど……」
言いかけて、思っていた以上に小っ恥ずかしいことに気が付く。
「早く言え」
「わ、分かったよ」
僕は、今の自分の素直な気持ちをそのまま口にした。
END.