「狐など、妹の膝でも丸くなる」と婚約破棄されたので、狐たちに選ばせます ~結婚相手は白狐が決めるので、狐たちと隣国の王さまのところへ行きました~
「狐など、妹の膝でも丸くなる。狐の世話係を妃にはできん」
殿下はそう言って、私の妹の手を取った。
妹〈セレスト〉は空いた手で袖の白い毛を払い、陽を透かしたそれが地面へ落ちるまで眺めもしない。
「もぅ……服につくわ」
私の膝の上で、白狐が丸くなっている。耳の先まで白く、太い尾で鼻を隠している。背に手を置くと、毛が手のひらを呑んで、温かい。狐守は王家の白狐を養う役で、毎朝この背をなでる。そうしているあいだ、指の力がほどけ、息がゆっくり長くなる。狐舎の庭は昼の光に満ち、干し草と日に温まった土の匂いがする。
私はオレリー、二十五歳。王家の狐守を十年務めている。
この大陸では、番となる相手を、人の都合では決めない。
番は、白狐が決める。
女神の使いの白狐が二人の間で丸くなれば番、丸くならなければ縁が無い。王家の婚礼も村の婚礼も、狐が丸くなって初めて立つ。寝息ほど静かな仕草が、家や国を結ぶ印になる。
殿下は狐舎へ一度も来たことがなく、白い背をなでたことも無い。婚約は国王の取り決めだ。十年、私と殿下の間で丸くなった狐は一匹も居ない。そのことは、誰にも言っていない。
「では、狐たちに選ばせます」
「好きにせよ」
「セレストの膝で丸くなれば、私が婚礼を立てます。狐は私が呼びます」
「ふんっ、早くせよ」
長椅子に二人を座らせ、間を空けてから手を叩く。その音が、陽だまりの庭をまっすぐ渡った。
「みんな、おいで~」
三百の白が一斉に伸びをして、わらわらと集まり、尾を立てたまま私の後ろへ並ぶ。やわらかな足音が重なり、地面がかすかに鳴る。膝から降りた一匹の重みは、まだ手のひらのくぼみに残っている。
だが――――。
妹の膝には、一匹も来なかった。
「ねぇ! どうして来てくれないの? あたし、何もしていないわ」
「ふんっ、狐など、餌で釣れる」
列の端から、一番小さいのが抜け出す。〈ふく〉だ。両手に載る大きさで、身体より耳だけが大きく見える。殿下の磨いた靴の上に乗り、欠伸をひとつして、桃色の舌を見せたまま丸くなる。革は日向の熱をたっぷり抱えているらしく、腹の毛がぺたりと広がる。大陸中の白狐の頭目なのに一番小さく、天邪鬼で、みんなが行く方へは行かない。
「見ろ。一匹は丸くなったぞ!」
「でも……あたしの膝じゃないわ」
「膝も靴も、変わるまい」
「ふく、降りなさい?」
ふくは降りない。尾の先だけが、靴の上で一度ゆらりと動き、そのまま静まる。
「靴の上では、番になりませんわ」
「ふんっ! お前が狐どもを操ってるに違いない。狐守を解く。狐は置いて行け」
「置いて行けと言われましても、狐は、養った手について歩きます」
殿下が手を振り、追い払う真似をする。袖が空気を切っても、並んだ白は誰も動かない。
「……なら、連れて行け!」
私は一瞬言葉を失った。狐がいなくなればそれこそ国は混乱してしまうはずなのに……。
だが、殿下の命令であれば受けるより他はない。
「分かりました。三百匹、全部連れて行きます。狐舎の戸は開けたままにしますわ」
大きく息をつくと私は立ち上がった。
門を出ると、背中に日差しが落ちる。土を踏む足音を、耳の奥で数える。
「みんな揃っているわね? 行きましょ……」
ふくは数に入れない。数えるあいだ、居る所に居ないからだ。
◇
白い列が街道を行く。尾が同じ向きに揺れ、土を踏む音が細かく重なる。舞い上がる土埃で、足先だけが淡い灰色になっていく。
十年前、狐が私についてきた日に、私は狐守になった。群れには選ばれて、人にはまだ選ばれていない。分かれ道へ来ると、白い列が迷いなく先に曲がる。国境の方角だ。
向こうから、車輪をきしませて荷車が来る。若者が引き、娘は婚礼の衣装を抱えている。白い列を見た途端、車は道の端で止まり、舞った土埃がゆっくり沈む。若者が息を整えて言う。
「そ、その狐たちは、どちらへ行くんですか?」
「狐に聞いてください。私もついて行くだけです。王都を出てから、まだ一度も止まっていません」
娘のほうが、滑りかけた衣装を抱え直す。指先が、布の端をしっかり押さえる。
「王都の狐舎へ、一匹だけ借りに行くところだったんです。狐が居ないと、婚礼が……」
「婚礼は、狐の居る所で立ちます。人のほうが、狐の居る所まで来ます」
娘は若者を見てから、衣装の端を握り直して私に聞く。
「ついて行っても、いいですか? わたしたち、荷車しかありませんけれど」
「狐が、嫌がらなければ。嫌がれば、居なくなってしまうので……」
娘がしゃがんで、列の端の一匹の背にそっと手を置く。狐は嫌がらず、耳も伏せない。娘の口元がゆるみ、抱えていた衣装が膝まで下りる。日に温まった毛へ、指がさらに深く沈む。
「……ふわふわで、あったかいです。日向の匂いがします」
「毛は服につきます。しばらくは取れませんわよ?」
「構いません。ふふっ、可愛い……」
娘が声をこぼして笑う。若者も口元をゆるめ、荷車の向きを変えて列の後ろにつく。車輪が土を踏み直し、白い尾のあとをゆっくり追う。
「みんな、少し待って。荷車が遅れます」
先頭の白が足を緩める。尾の揺れがそろって半分になり、荷車の車輪もきしまずについて来る。夕方の薄い光の中に、国境の柵が黒い線となって見える。
一行は国境まで歩いた。
◇
国境の兵が、木をきしませて柵を開けると、向こうに王が居た――。
「おぉ! 狐だ! 狐たちが……」
隣国の王、ヴァルテル。十年、狐が一匹も丸くならなかった王だ。縁談のたびに私が狐を連れて来て、そのたび干し魚を持って立っていた人だ。夕日が細長い影をこちらへ倒し、その先が私の足元まで届いている。
「陛下……ご挨拶申し上げます」
私は恭しく挨拶をする。
「おぉ、そんな畏まらんでもいい。ほれ、干し魚なら、三百匹分ある!」
三百匹が、白い波になって走る。
「ははっ! そんな慌てんでもいいぞ。可愛い奴らだ」
王の足元に群がり、干し魚を食べ終えた順に丸くなって眠る。魚の匂いと日に温まった毛の匂いが混じり、私の腹までつられて鳴りそうになる。王が膝を折って、一匹の背に手を置く。大きな手のひらが毛へ沈むにつれ、その肩からゆっくり力が抜けていく。
「陛下。いつから、ここにお立ちでしたか?」
「狐の群れが動き出したとの報告があってな。慌てて来たのだ。そしたら道の先に白い群れが来た」
王が低く笑う。足元の一匹が靴に顎を載せると、王は屈み、大きな指の背が頭をゆっくりなで、耳の間の毛を寝かせる。
「十年、待っていた……」
「……何を、ですか?」
「うちの庭が空いている。狐守ごと、来い」
「三百匹、居ますが?」
「庭は広い」
王の手は、まだ狐の背にある。指が毛の中でゆっくり動くたび、白い腹も穏やかに上下し、地面の影が伸び縮みする。
「この毛は、十年変わらんな」
「毎朝、私が梳いています」
王が手を離す。毛の温度が残った手のひらを、少しのあいだ、確かめるように見ている。
「毎朝梳くと、こうなるのか?」
「毎朝梳けば、こうなります。梳かないと、庭に毛が積もりますので」
荷車が柵の手前で止まり、車輪のきしみが夕暮れの空気に細く残る。
「陛下。あの荷車の二人も、狐について来ました」
「連れて入れ。わが国が狐の居る所だ」
「それが……。婚礼の衣装を、抱えておりまして……」
「なら、客間だ」
王が何か言いつけると、兵が荷車を案内していく。
「狐守どのの飯は、干し魚ではないぞ」
「狐と同じで構いませんが」
「そうはいかんだろう。はははっ!」
「では、狐の次に」
「狐の前だ。美味しい物をそろえよう」
狐を数えながら、開いた柵を通る。夕日のぬくもりが薄れた先に、まだ見たことのない庭が待っている。
◇
二日目の朝、庭は一面、白い毛並みで埋まっている。露の乾いた所から、一匹ずつ腹を見せて転がり、草の青い匂いに小さな寝息が重なる。侍従長は王の後ろで咳払いをしながら、足元の一匹の頭をなでている。
「庭が、狐で埋まっております」
「埋めておけ」
侍従長がもう一度咳払いをする。それでも、足元をなでる手は止まらず、耳の後ろをゆっくり往復している。
村の二人を庭の真ん中に座らせ、間を空ける。娘は婚礼の衣装を膝に載せたまま、布の端を指に巻きつけている。
「おいで。急がなくていいです」
年寄りの一匹が、朝露を分けながらゆっくり歩いて来る。耳の縁は薄く、日を通すと桃色に透ける。
「あの一匹は、歩くのが遅いのです」
「そのままでいい」
二人の間で三度回ってから、年寄りの白狐は静かに丸くなる。二人が同時に手を伸ばし、背の上で触れた指が、そのまま重なる。
「狐が丸くなりました。お二人は、番です」
娘が衣装を抱いたまま泣く。声をこらすたび肩が細かく揺れるが、片手だけは狐の背から離れない。王が隣で、低い声を落とす。
「俺の庭で、初めてだ……」
「初めては、お二人です。おめでとうございます」
「めでたいな……」
王が、重なった二つの手を見ている。朝の光を映す目が、しばらく瞬かない。
「番が決まると、いつもああなるのか?」
「泣く方も、笑う方もいます。狐は、人が泣いても笑っても、同じ顔で丸くなります」
「狐は何を見て決めているのだ?」
「さぁ……丸くなるまでは、誰にも分かりません」
王都からの使いが、白を踏まないよう遠回りし、息を切らして書付を差し出す。王が横から覗く。
『花嫁花婿が狐舎の前に並んでいる、狐を戻せ』
明朝、王太子が来るそうだ。墨はまだ濃く、紙の端が指のあいだでかすかに震えている。
王都の婚礼は、一件も立たなくなろうだろう。
泣いている娘の衣装を見る。布は抱く腕の中でやわらかく波打ち、光を鈍く返す。婚礼は狐の居る所で立つ。
「庭は開けておく。婚礼に来る者は、国を問わん」
「……三百匹分の庭では、足りなくなります」
「山から、まだ降りて来る気配がする……」
王が生け垣の方へ目をやる。葉の奥は朝の光も届かず、深い影に沈んでいる。私には、その言葉の意味がまだ取れない。
「山から、何がですか?」
「今夜、見ろ」
◇
月の下で、一匹ずつ背をなでて数える。夜の毛は昼より冷え、指を入れると奥だけが温かい。三百。全部居る。それなのに、また数える。ぬくもりをほどけず、手がやめたがらない。
王が月明かりの中を来る。そばでしゃがみ、一匹の背に手を置いてから、こちらを見る。干し魚の匂いが、言葉より先に懐から届く。
「小さいのが居ないな。靴の上で寝る奴だ」
「それは頭目です。一番小さいのに」
「知っている。みんなが行く方へは行かん奴だ」
「一匹ずつ、ご存じなのですか?」
「十年、干し魚をやれば覚える。白は同じに見えても、耳と尾が違う」
王の指が、寝ている一匹の耳の後ろで止まる。狐は目を開けないまま首を伸ばす。
「そこを掻かれると、みんな逃げません」
「ははっ、十年、同じ所を掻いてきた」
「ふくは王都に残っています。殿下の靴の上です」
「靴は温かいからな」
言うつもりは、無かった。けれど、冷えた夜気を吸った口から、言葉がこぼれる。
「十年、私との間で一匹も丸くなりませんでした」
王は何も言わず、干し魚を一枚、私の手に載せる。硬い身が指に当たる。狐が一匹取りに来て、私の膝へ顎を載せる。
「明日、王太子が来る。狐を返すか?」
「狐は、養った手について歩きます。……私は、ここに居ます」
「お、来たぞ……」
王が生け垣を顎で示す。暗がりに目が並び、月を返している。山の白狐だ。王都の狐より毛が長い。丸くならず、こちらを向いて座ったまま待っている。
「山から降りて来ている。頭目を待っているんだ」
「いつから、居るのですか?」
「日が落ちてからだ。今も増えている」
「あちらも、数えてよろしいですか?」
「数えなくてよい。今夜は寝ろ」
膝の狐を下ろして、寝台へ向かう。横になっても、膝に残った重みと温かさはなかなか消えず、腹の上に置いた手までじんわり熱を持つ。
◇
朝、門から殿下とセレストが入ってくる。殿下は右足を引きずり、革の擦れる音が途切れ途切れに鳴る。磨いた靴の上には、ふくが乗ったままだ。一度もなでられなかった毛は、それでも朝日を返して白い。
「狐を戻せ。王都の婚礼が、一件も立たん」
「番は、狐が決めます」
「見ろ。一匹は丸くなった」
ふくは寝ている。桃色の舌が少しだけ出て、呼吸のたびに細く揺れる。
「磨いた靴は、日向で温かくなります。ふくは、温かい所で寝ます」
「知らん。私の靴の上で丸くなっている。それが事実だ」
殿下が自分の靴を見る。革の上で、ふくの腹だけがゆっくり上下している。
「では、ここで判定を。殿下とセレストの間に、どうぞ」
「お姉様の狐でしょう? お姉様が言えば、来るはずだわ」
「言っても、膝では丸くなりません。私が呼べるのは、歩く足までです。私の狐ではなく、女神の狐ですので」
「セレストの膝で丸くなれば、狐守に戻してやる」
「では、どうぞ」
二人を芝に座らせる。朝の光が露を細かく照らす。三百匹も、生け垣の向こうの白も動かない。庭には、風が葉をこする音だけが残る。
ふくが欠伸をして、靴を降りる。芝を踏むたび、短い足が草の中へ埋まり、腹の下で露がきらめく。セレストの前を通る。伸びかけた指は、背に触れる手前で止まり、袖の中へ引かれる。
「……服につくわ」
ふくは私と王の間まで歩き、尾で鼻を隠して丸くなる。三百匹が立ち上がり、私と王の周りへ白い輪を描いて丸くなる。生け垣を越えた山の群れも、音もなく王の方へ流れ込んで、そのまま丸くなる。庭の緑が、みるみる毛の下へ消えていく。
三日目の朝、隣国の王宮の庭で、白狐が千匹、私と王の間で丸くなった。
白が、王の腰まで来ている。毛の波は朝日に照らされ、息をするたび静かに膨らむ。
「……動けん」
「……数えられませんわ」
「千は居るな」
王が白を分けて座る。両手は毛に沈み、手首まで見えなくなる。その温かさに包まれたまま、低い声で笑う。
「……温かいな」
「千匹分です。そのまま、動かないでください」
「動けんと言った」
ふくが、その膝によじ登って寝る。前足を掛けて一度ずり落ち、毛をふくらませてから登り直す。
「ふく、そこは陛下の膝です」
「頭目は、好きにさせてやろう」
ふくが尾を膝の上で丸める。王の手が背に置かれ、白い毛が指の形にゆっくり沈む。殿下が、芝から腰を上げる。
「……重くありませんか?」
「軽い」
「ちょっと待て、我々の判定は……?」
「判定は狐がした。庭は開けておく。狐が丸くなる日が来るなら、二人で来い」
殿下が、私を見る。白の波を挟んだその顔は、王都にいた時より遠く見える。
「お前、狐守は、どうするのだ?」
「わたくしは狐について歩きます」
「ふんっ! 帰るぞ!」
殿下とセレストが門を出る。セレストは一度だけ振り返り、袖を払う。払った指は、白い毛の無い布の上で、少しのあいだ開いたままに見えた。
◇
昼。千匹が庭で寝ている。日の当たる所から順に、白がゆっくり寝返りを打ち、草の上へ光の波が走る。王の膝にはふくが収まり、寝息に合わせて太い尾が揺れる。私は隣で、もう数えていない。手だけが、一匹の背を往復し、毛の温かさを確かめている。
「十年、国境に通ったのは、狐のためではない」
「……いつも柵の向こうに先に立ち、干し魚をお持ちでした」
「狐守どのが来る日だけ、持ったのだ」
「狐は尾を振っていましたわ」
「狐守どのは?」
答えられない。手の下の一匹が、寝たまま前足を伸ばし、爪の先で私の袖をかすかに押す。喉まで来たものを、私は息と一緒に戻す。
「……国境の道は、覚えています」
「道の話はしていない」
王が懐から干し魚を出し、渡さずに持つ。指のあいだで乾いた身が少し反り、昼の光を鈍く返す。
「狐は縁を示すだけだ。言うのは、俺だ。オレリー、俺の妃に来てくれ」
ふくがヴァルテル様の膝を降りる。みんながそちらを向いて寝ているので、私の膝に来て丸くなる。群れで一番細い毛に、指が根元まで沈む。指の先から手首まで、順に温かくなる。
「ふく。……先に、答えないでください」
ヴァルテル様は、急かさず待っている。待たなくていい、と私は思う。
「番は狐が決めますが、返事は、私が決めます――――はい、喜んで」




