禍内暗然ー終の棲家
一昨年に叔父と祖母、昨年、父が亡くなり、先月、兄が亡くなった。
立て続けの、身内の訃報。母から戻ってこいと連絡を受けた私は、それで、派遣の仕事を切り上げて実家に戻ることにした。
「隣の家の息子さんの頭、見た? 髪、真っ赤でしょう。ヘンな色ってみんな言ってる」
「……うん」
「酒屋さんの娘さん、なんて言ったっけ、あの子。国道沿いのドラッグストアで万引きしたらしくて、お家に警察来てたのよ。あの家の奥さんもう恥ずかしくって家出られないって」
「……そうなの」
夕食時。母は嬉々として、近所のウワサ話を語った。
久しぶりに誰かと食卓を囲んだせいか、母はひどく饒舌で、箸は進んでいなかった。
娘が帰ってきて嬉しいのか、それともウワサ話自体が楽しいのか、私にはよくわからない。
ただ、空っぽだった胃の附に、ガスのような不快な淀みが溜まっていく気がして、美味しくない食事がただでさえ進まなかった。
──私は、昔から、母が苦手だった。
母は、寒村の八人姉妹の末娘として生まれ、口減らし同然で嫁いだ女性なのだという。
嫁が働くと旦那に恥をかかせる、と義父と夫──つまり私の祖父と父──に厳しく言われ、その言葉にただ従ったそうだ。
そのせいで、母は余所で働いた経験もないまま年齢を重ね、親しい友人も作れず、どこか世間ずれしたところがある。
母に命じた本人、工場勤めの父の稼ぎは、しかし微々たるものだった。
母は、どんなに貧しくても、切り詰めて父と兄弟に良い食事と着るものを用意した。美容院にはいかず、自分で髪を切り、服は穴が開くまで着古した──女三界に家なし、を地でゆく人生を送った女性だった。
そして、母は、私たち娘にも、それを強いた。
兄や弟にCDコンポやバイクを買い与える一方、私たちには誕生日プレゼントも車の免許代も出さない。そんなことを平気でした。
だから私も妹も、高校卒業と同時に家を出て、以来20年、帰郷しようとしなかった。
それでも──今になって実家に戻ろうと思ったのは、そんなのでも、母は母、という想いがあるからだろうか。
ダイニングキッチンの食卓。私の向かいの席で、ちいちゃくなった母が座って、細々と食事を取っている。
もともと小柄だった身体がもっと痩せて、こけた頬を上下させてゆっくりと食事を口に運ぶ。その姿を見ていると、ふいに涙がこぼれ落ちそうになる。
祖父母が残してくれた築50年の木造家屋と、父の遺族年金があるものの、生活は貧しいのだろう。
あるいは、先月亡くなった兄が、放蕩のかぎりを尽くしたせいだろうか。兄はろくに働かず、いい年をしてバイクで走り回るのが趣味だった。どこぞに勤めたという話も聞かなかったから、母から小遣いを貰っていたのかもしれない。
故人だというのに、いまだに晴らしきれぬ兄への恨みがフツフツ湧きだしたとき、ふいに母が、天井を見つめているのに気づいた。
「お母さん、どうしたの?」
「ん? ううん───」
と曖昧なことを言って、母はタクアンをポリポリ咀嚼している。
私は、つられて上を見上げた。
色あせた木目の天井が、私たち母娘を見下ろしていた。
そこに、カビのようなものが広がっているのを、見つけた。
やだ、と私は顔をしかめた。赤茶色とうんと薄めたようなカビの色だ。古い家だから仕方ないのだけれど、母だけでなく家まで老いているのか、と思うと暗澹たる気持ちになった。
*
翌日、昼。
リビングで求人サイトを眺めていると、突然、どんっという音がして、私は驚いてすくみあがった。
「なに、今の音──」
「家鳴りじゃない」
ソファーに座り、クロスワードパズルを解いていた母がのんびりと言う。
納得いかない私は反論した。
「家鳴りで、ガラス戸まで揺れる? そんな感じじゃなかったわよ」
「じゃあ、地震よ、きっと」
素っ気なく言って、母は何事もなかったかのように買い物に出かけた。
──私は、ゆっくりと天井を見上げた。
どんっ、どんっ、どっ、
聞こえた。
その音は、確かに今も聞こえている。
音が鳴っている場所は、ちょうど例のカビがあったところと一致している、ように思えた。
「……」
私は、箒の柄でそこを突こうとして──やめた。
地震か、あるいはネズミか、それを追いかける猫かヘビに違いない。
いずれにしても、すぐに止む音だ。そう思うことにして、放っておいた。
だが、音はその翌日も、その次の日も、聞こえた。
──どういうワケか、音がどんどんと小さくなっていく気さえする。
音が小さくなれば安心してもいいのに、私の心は、逆にざわついていく一方だった。
──まさか、ネズミを追いかけた猫が、天井裏から出られなくなって、弱っていっているなんてこと、ないわよね。
イヤな妄想ばかりが膨れ上がっていく。
あまりに気になるので、業者を呼ぶ、と夕食の時に告げると、その時になってようやく、母が観念したように口を開いた。
「大丈夫。心配いらない。そこにはね、カミ様を置いてるの」
少し、照れくさそうな口調で、母が言った。
私は、唖然として「──カミ様」とだけ反芻した。
我が家は無宗教のはずだった。というのも、父が、神だの仏だの蛇蝎の如く嫌っていたからだ。
そんな我が家で発せられた”カミ様”なる言葉に、私はポカンとしていた。
母が、照れくさそうに続ける。
「ほら──うちでね、あんまり不幸が続いたでしょう。
それでね、最近知り合った方がね、教えてくださったの。
うちで悪いことが続くのは、お父さん方の先祖が、とても悪いことをしたからなんですって。それが──よくわからないけれど──とってもとっても悪いことだったんですって。
だから、家にいた神様が逃げちゃって、新しい神様を奉っても、逃げちゃうんだって。
だから新しいカミ様を置いた方がいいって言われたの。それでね、天井裏に、置いてるのよ。カミ様」
私は思わず顔をしかめて、
「やだ。宗教ってこと?」
呟いたが、最後だった。
「──……アンタ……何言ってんの───!!!」
突然目をひん剥いて顔を真っ赤にした母に、怒鳴り散らされた。
「失礼ね────ッ! ほんッと失礼! ああやだァ──信じられないッ! バカバカバカ!!! あんたのそういうところッ! 昔ッから嫌いッ! 無神経ッ!! ア──!!! ヤダァこのヒト───!! アアアア───!!!」
母のその騒ぎ方は、発狂、というにふさわしかった。
テーブルをバンバンと叩き、地団駄を踏んで床を鳴らし、歯を食いしばって耳をふさぐ。欲しいモノを買ってもらえなかった幼児が手当たり次第に癇癪を起こすように、母はそこらじゅうのものに当たり散らして叫んだ。
その、あまりの豹変ぶりに、私はしばらく声も出せないほど驚いた。
「──ご、ごめん、お母さん、ごめん。私、ヘンなこと言ったね。もう二度と言わないから……」
言葉を選びながら謝ったが、両耳を塞いだ母は、私をぎっと睨みつけるばかりだった。
──そんなの、娘を見る目じゃない……。
そう訴えたかったが、これ以上母を刺激したくなかった。
私はよろよろと椅子から立ち上がり、食器をシンクに片づけて逃げるようにリビングから抜け出した。
部屋を出るまで、母は私を、睨みつけ続けていた。
*
「……ねぇ、どう思う?」
『神様? ちょっとイヤだね……』
電話口の向こうで、妹が顔をしかめているのがわかる。
東京で看護師をしている妹は、私が家族のなかで唯一、心を通じあえる相手だった。
妹に、母の様子を話した。
ぼうっとしているけれど、比較的温厚なこと。ただ、カミ様の話題を口にすると、豹変して怒り出すということ。母が怖いということ──。
私の話を聞いた妹は、その場で返答を出すことはなく、たどたどしくこう言った。
『……ねえお姉ちゃん、お母さん、ボケが始まってるってこと、ないかな。それか、新興宗教の勧誘にあってるとか』
「……あんたもそう思う? わたしも、そう考えてた……」
頭痛がしてきた気がして、私はそっと額を抑えた。
孤独になった老人宅に新興宗教がやってくる、というのはよく聞く話だ。母のケースは、まるきりそれにあてはまる。
もしかして母も、何かにつけいれられたのではないか、という想像が頭を巡っていた。
『お姉ちゃん、そのうちわたしも実家、戻ろうか? お母さん心配だし、もうすぐお盆だし……』
だから、妹からそう言われたとき、心からほっとした。
「……うん。そう、だね。正直、私も就職どころじゃなくなってるし、お願いできる?」
『いいよ。それじゃあ、お昼休憩終わるから、いったん電話切るね』
電話を切り、一階に降りる。
母が、台所に立っているところだった。
まな板に串を打ち、長く細い白い身を包丁で裂いているところだった。子供のころ父がよく食べていた、うなぎか、ハモのようなものだと思って、後ろから覗き込んだ。
「お母さん、それ、うなぎ? どうしたの?」
「ううん、ヘビよ」
母は、事もなげに言う。
「──ヘビ?」
「そう。カミ様がね、好きなんだって。お供えするのよ」
母は嬉しそうに言う。
──私は天井を、そっと見上げた。
生きてるの、カミ様って。
母に問おうとしたが、その手に包丁が握られていることを思いだし、慌てて口を噤んだ。
今の状態で癇癪を起こされでもしたら、大変なことになる。
私はそっと言葉を呑み込んで、我慢した。
母が向かうまな板の上では、まだら模様が広がっている。ヘビの皮だ。
それは天井の染みに似ている気がして、吐き気が込み上げた私は、そっと二階へ上がった。
*
翌日──昼。
母が買い物にいったタイミングで、私は物置から脚立を取ってきた。
ダイニングに置き、脚立の脚を、そっと広げる。
例の染みの真下で、私はごくりと喉を鳴らした。
母がいつ戻ってくるか、そこに何があるのかわからない不安とで、私の手はびっちょりと汗をかいていた。
──このままにしておけない。
家のためにも、妹のためにも、カミ様の正体を、この目で確かめないといけない、と思った。
天井の木目は、細い板張りのようになっていて、溝がついている。
指でなぞって触れていく、と、かすかな違和感を覚える。
よく目をこらして見ると、溝に切れ目があることに気づく。手に力を込めると、簡単に押しあがった。
──いつの間にこんなものを作ったのだろう。隠し扉だ。
私は、頭で天板を押し上げるようにして、そこを覗き込んだ。
そこには、空間が広がっていた。
屋根裏部屋、なのだろうか。大人の私が中腰になってようやく歩けるような高さの小部屋だ。天井は斜めに傾いていて、おそらく屋根の形に沿って作られた空間であることが予想できた。
生家にこんな場所があったことを、私は初めて知った。
両腕の力で身体を持ち上げて、屋根裏部屋に身体を滑り込ませる。
部屋に入ると、じめじめと湿度の高い空間に、すえたカビの匂いがこもっているのが強く感じ取れた。やけに視界が開けると思ったら、天窓らしきものがあるのを見つけた。
そこから差し込んだ光が、部屋唯一の光源になっていて、
”それ”が存在しているのが、私の目にもはっきりとわかった。
「......あッ……」
私は、声にならない声を漏らした。
天井から張り付いている”それ”は、蠢いていた。
火が充分に通っていない鶏肉の断面のような、まだらのピンク色。それが、ぐじゅぐじゅと音を立てて脈動していた。
”それ”からは、足が生えていた。身体の大きさにしてはやけに短いが、それは紛れもなく、人間の男の脚だった。
伸びっぱなしの太い毛に隠れる形で、傷跡が見えた。
私は”それ”に、見覚えがあった。
中学生のとき、悪い仲間とバイクで走って、怪我をして負った傷だ。買ってもらったばかりのバイクをダメにしてしまって、父にしこたま怒られていた兄のふてくされた横顔を、私はよく覚えている。
”それ”は、兄の脚だった。
「あ───ッ……あ、あああ……、ああああああ……!」
私の脚は、がくがくと震えた。口が大きく開いて、喉の奥から声にならない声が絞り出る。
兄、だけではなかった。
生肉のようなピンク色のそれから、3つの突起が生えていた。
そのうち二つは、時間が経ってしまったせいか、溶けて様相が窺えなかった。けれど一つだけはまだ原型を留めていた。
白髪の混じった髪。酒の呑みすぎで悪くなったせいで、赤くなった肌──父の頭部。
「お、父、さ……お兄ちゃ……」
顔全体がぶるぶると震えて、言葉にならない。
肉。肉の固まり。異形。そこから生える兄の脚、父の頭。
何が起こって、何があって、そうなったのか、とうてい理解が及ぶものではなかった。私は高熱に浮かされたように、全身を震わせて、ただ”それ”を眺めていることしか出来なかった。
「──何してるの?」
後ろから聞こえた声に、私はバッと振り向いた。
ダイニングの天井から半分だけ突き出された、生白い母の顔が、こちらを見つめていた。
「───……おっ、かあ、おっ、おかあっ、さ、おかあさっ、こっこっこれっ」
ろれつの回らない口で、なんとか言葉を発しようとする私は、
屋根裏部屋に昇ってきた母の手に、目抜き大切が握られているのを、発見した。
どんっ、どんっ、どっ、
──音が聞こえる。
生肉の塊から生えた兄の脚が、踵を床に打ち付ける音。それは、私が、この真下のダイニングにいた時に、聞こえていた音に間違いなかった。
筋肉の反射運動か、そんなことありえない。だって兄はずいぶん前に。
──そういえば、お葬式、あげたっけ?
──死んだって、お母さんに聞いて、私はどうしたっけ? ふぅん、の一言で済ませて、お葬式はどうするの、と聞いたことなかった。お父さんの時も、おじさんのときも。
「──家運が、悪いのよねェ」
そう言った母が、赤錆色の刃物を振り上げる。
私は、声も、あげられなかった。
*
屋根裏部屋に、音が響く。
ざくっ、ぎっ、ぎ──っ、ぎいいいいいっ
「──カミ様をね、作らなきゃいけなかったの」
びしゃっ、だーっ、ばりっ、ばりっ、
「それはお家を守るために、とても必要なものなんですって。作れば作るほどね、うちの家運がどんどんあがるんですって。これでよくなるって。……ホントだホントだ。ワーッ! 嬉しい。キャーッ! 娘が戻ってきたよ──ッ! お父さんお兄ちゃん──ッ」
ぎーっ、ぎっ、ぎっ、ぎっ、ごとっ、ぎーっ
「……お父さんのはね、外に干したときに、風で飛んでっちゃって。追いかけたんだけど、カラスに食べられちゃった。アハハ。あんなに立派だったのに、可哀想にねェ」
びちゃっ、ずるっ、ずるっ、ずっ、
「それで、お兄ちゃんのを作ったんだけどね、ここで乾かしたら、蛆が湧いてね。もう、びっしり。卵みたいに。あ、卵か。あはは。それで、気持ち悪くて、捨てちゃった。でも、お前が来てくれたから、お前のを使うからね。大切に使うからね」
ざくっ、ざくっ、すっ、とっ、とっ、
「……家運って大事なんだって。あたし、ちゃんと考えなかったことなかったの。嫁いで、四十年ぐらいになるのに……おばあちゃんが死ぬまでさ、なーんにも、考えなかった。でも、これからは考えようって思ったの。だってあたしの家はここだけだから。もう実家ないから。ここがあたしの家。終の棲家」
ざくっ、ぎちっ、ぎりっ、
ごとんっ、
「……うん、これでいいね。よいしょ、んじゃあ、ぜんぶ抜いて、一回水に晒してキレイにしようね。……あ、そうだ」
血に染まった母が、笑顔を綻ばせる。
「おかえり。よく、帰ってきてくれたね。アンタみたいな娘がいて、お母さん、本当に幸せよ」
母の喜ぶ顔が、私の視界いっぱいに広がった。
それは私が生まれて初めて見て、そして最期に見た、母の心からの笑顔だった。




