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静かな朝の店先に、花屋の娘が、白いワンピースの裾をはためかせ、窓の外から横目を流す。こちらの様子を窺っているのか。新しく近所に開かれた、怪しげな武器屋の店内が気になるのだろう。
(ほんと、可愛いなあ……)
少女の様子を眺めながら、ぼんやりとその行く先を想像するのが、リリスの密やかな日課となっていた。
何とも平穏な一日の始まりである。微かに揺れる海風が、潮の香りを小路に注ぐ。この通りを選んだ理由でもある。海の匂いは、季節によって違うらしい。
「中心街でまた乱闘。三人死んだってさ」
血の気の多い密猟者の集うこの街で、穏やかな日常の一片を楽しめる場所はそう多くなかった。リリスはあくびをしながら、開店前のさみしい店内を見回して、
「ほんと物騒よね。ここは」
「ええ。とりわけギルド本部の辺りはもう、ガラの悪い密猟者で溢れかえっていますから」
魔境外縁都市イストマス。王国民の享受できる保障、その安定に通ずる全てのものを捨て、一獲千金を夢見て集った「荒くれ者ども」の支配するこの街で、彼女は商売を始めることに決めたのである。
中心街よりやや東。街の外れの「帆船通り」の一角に、リリスの魔道具店はその門を構えていた。
「うちは高価なものばかり取り扱うから、来客が多くたって仕方ない」そう言って、静かで穏やかな通り沿いの物件を求めていたリリス。レンガ造の二階建て、一棟貸の建築を斡旋業者より紹介された彼女は、その立地を見るや即断し、すぐさま契約書にサインを書き込んだのである。おかげで割高の仲介料を支払う羽目になったことすらも、彼女にとっては些細な出来事であった。
ディオンと出会ったのは、その数日後のことである。
「あの時リリスさんに拾ってもらえていなければ……今頃どうなっていたか……」
開業に際し、作成した宣伝用のビラを街中にばら撒いていたリリスは、とある裏路地へ入り込んだことをきっかけに方向を見失っていた。そこで彼女は偶然にも、道端にうずくまる一人の青年を発見したのである。
それがディオンであった。彼女は最初、手を差し伸べるべきか判断に迷った。イストマスの街を訪れておよそひと月。同様の光景は、それまで何度も目にしてきていた。王国統治の及ばぬこの街に救済は無い。失職はすなわち死に直結するということを、彼女はまざまざと見せつけられてきたのである。
特段、人手を求めている訳でもなかった彼女である。声を掛けるべきではない。手を差し伸べる道理もない。この青年だけに情をかけて、仮初めの道徳的行為に酔いしれようと考えてはいまいか。そう何度も自身に言い聞かせ、彼女は青年のもとを立ち去ろうとした。
しかし、彼女は立ち止まった。
そして笑った。それは今、目の前に浮かんでいる微笑みに似た……。
「ねえ、聞こえてる?」
追憶より引き戻されるディオン。これもつい先週の出来事なのであると、何か不思議な感覚に包まれる。あの偶然が無ければ今頃は、路頭に迷って死んでいたか、密輸船の荷下ろし作業に従事する労働者として、終わりのない苦役に甘んじていたのかもしれない。
「外の空気でも吸ってくるね」
彼女は席を立ち、表に向かって歩み出した。ふわりと香る、甘いにおいが鼻を擽る。開かれた扉。風にゆらめく金髪が、昼下がりの暖かな陽光を受け、淡くきらめいている……。
「いい天気だなあ」
リリスは全身に朝の日差しを浴びながら、小路の長閑な光景を見渡して、ふっと笑みをこぼした。左に視線をやると、二軒隣の花屋の娘と目が合って、互いに小さく会釈する。お出かけから戻ってきたのだろう。少女は照れくさそうに頬を赤らめた。水を浴び、きらきらと揺れる色とりどりの草花に、思わず見とれて立ち尽くす。少女はそそくさと店に戻ってゆく。
正面には古めかしい、小さな書店が佇んでいた。店と言っても開いているところを見たことはない。看板に書店とあるだけで、肝心の店内が見えないものだから、実のところ何であるかも分からないのである。しかし人の出入りはあるようで、ごく稀にではあるものの、締め切られた扉の向こうから、光の漏れる夜があることをリリスは知っていた。
「ここ、本当にやってるんですかね」
知らぬ間に、ディオンも店先へ出ていたようである。リリスは振り返って、
「扉の奥からね。時々声が聞こえるんだ」
「声?」
「内容はまるで分からないんだけど。たぶん、異国の言語かも」
「気味の悪い話ですね。これまた……」
「そう? 何だか興味を惹かれない?」
そんな会話を二三交わして、二人は店内へと戻って行った。ふとリリスが振り返ると、書店の扉のすりガラスの向こう側に、こちらを見つめる目玉が二つ。店の主人だろうか。彼女はぎょっとして、急いで入口を締め切ってしまうのであった。
武器屋の二階は居住空間になっていた。階段を上って右の扉がディオンの寝床。左に視線を移すと、リリスの起臥する小さな物置部屋が目に入る。店主の彼女を差し置いて、自分だけが快適な部屋を使わせてもらっていることに、ディオンは少なからぬ罪悪感を覚えていた。
「あの……本当に入っていいんですか……」
「店の在庫は私の部屋に保管してるんだから。色々見せておかないとね」
彼女はそう言って扉を開き、ディオンを中へと招き入れた。多少戸惑いながらも入室するディオン。次の瞬間、彼の視界に現れたのは、天井まで届かんばかりに積み上げられた、大量の木箱の山であった。
「これ、全部商品ですか……」
「そうだよ。王国各地を巡って集めた魔道具コレクション。凄いでしょ!」
「これほど膨大な量を、どうやってここまで……」
リリスは少し笑って、足元の木箱をガチャガチャと引っくり返し始めると、やがて陶器のボトルのような物を手に取って立ち上がり、
「これに入れて、持ち歩いてたの」
別段変わったところの見当たらない、平凡な白磁の陶器瓶である。しかし彼女の口ぶりから察するに、何らかの魔道具であるらしいことは間違いないだろう。と、ディオンが首を傾げながらその陶器を見つめるうちに、リリスは続けて、
「この部屋にある物ぐらいなら、ぜんぶ残らず中に吸い込んでしまえる代物よ。便利でしょう?」
「怖いですよ……」
人間にも使えるのかと言いかけて、彼はすぐさま口を噤んだ。返答を聞くのが恐ろしかったのである。
それは封印の壺と言った。帝国期にごく少量生産された魔道具で、主に軍事遠征や遠隔地貿易に用いられたと史書には残っているらしい。「本当に、何にでも使えてしまうから」と、彼女はその効能を説明しながら言葉を濁す。
「これね。あと二つ持ってるんだけど」
再び木箱の山を漁り始めると、白磁の壺と同様の、今度はより古びた小さな壺――これは本当に壺らしい形をしていた――をもう二つ、ディオンの前に持ち出して、
「学院教授に見せたらね、億単位の値が付くって。購入したいから上に掛け合うって言われたのよ」
「億……ですか……」
非現実的な数字もさることながら、それとなく口にした「学院教授」なる言葉にも引っ掛かりを覚えるディオン。学院とは、王立学院のことを言っているのだろうか。いよいよ彼女は何者なのであろうかと、僅かに畏怖の念さえ覚える。
「いくら出されても、売るつもりは無いけどね」
「やはり……自分の手元に残しておきたいですか……」
「それもあるけど」
彼女は少し神妙な顔をして、古怪な二つの壺を眺めながら、
「この二つはね、詳細な情報が分かってないのよ。作られた目的も、その使用歴も」
「それは……どういう……」
「中にさ、何が入ってるか分からないじゃん」
その笑みは隠然として、妖しい輝きを放っていた。言い知れぬ蠱惑的な美しさを伴いながら、幻の中に淡く漂う、甘美な夢の味にぼんやりと浸らせてくれるのだ。浅瀬に浮かぶ酔夢のような気怠さが心地良く、しかし、このまま飲み込まれてしまうのが怖いぐらいに底知れない……。
「うっかり封印を解除しないよう、気を付けなきゃね」




