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 穏やかな春の昼下がりである。乾いた空気が心地よく、うららかな陽射しが窓の隙間から差し込むのを、店主のリリスはカウンター越しにぼんやりと眺めていた。


 それは全く平穏な小路の光景であった。中心街へ買い物にでも出かけるのだろうか。二軒隣の花屋の娘が、籠を片手に店先を通り抜けて行くのが見える。きっと、今日もまた、長閑な一日が流れて行くのだろう。淡い金髪を陽光にきらめかせながら、薄い唇をきゅっと結び、彼女は漠然とそんなことを思う。


 しかし、そんな表の通りの景色とは裏腹に、店内は不気味な静寂に包まれていた。


 「どうも、いらっしゃい……」


 すぐに彼女は、目の前の異様な男と向き合わねばならなくなった。窓の向こうに視線を外している最中も、その男はじっと、彼女の顔を見つめ続けていたのである。


 軍装と思しき、くたびれたカーキの詰襟を着崩して、ぼろぼろのブーツを引き摺りながら、男は伸びきった髪を乱暴に掻き上げると、


 「いいですか? 私は正気です。正気ですからね。私の話を、よくお聞きくださいね」


 存外、端正な顔立ちをしているものだと、リリスは少しはっとする。透き通ったエメラルドの瞳を輝かせ、なにか差し迫ったものを感じさせる調子で、男は両者の間を隔てるカウンターに身を乗り出しながら、

 

 「貴方は私の奥さんになる人です。そう誓いましたよね。ええ……誓いましたよね。覚えていませんか」

 「はあ?」

 「お忘れですか。あれだけ互いに、愛を確かめ合ったというのに。やはり覚えていませんか」


 口火を切った男の言動はいよいよ不気味さを増していった。リリスは怪訝な顔で男の様子を注視しながらも、その語りに耳を傾けようとして、


 「あなた、魔境帰り?」

 「ええ! そうですとも!」


 突然大きな声を出すものだから、リリスは驚いて、びくりと体を震わせた。男は構わず語りを続ける。


 「魔境より戻ったのは三日前……いえ、四日も前でしたかな。街の様子は随分変わっていて。ええ、何もかも。ぞっとする思いでしたよ。まず教会が無くなっているでしょう? それに兵舎も。あの、ケンドリコス酒場はどうなったんです?」


 やや興奮気味に声を震わせ、早口でまくし立てる男を前に、カウンター越しのリリスは困惑しながら、


 「さっきから何の話をしているの?」

 「いえ、ですからね。貴方はミレラでしょう。ケンドリコス酒場の女給です。私のお嫁さんになる人です。私が帰ってきたら結婚すると、約束したでしょう」


 リリスは黙り込んでしまった。彼女はこれまで一度たりともミレラなどと名乗った覚えはない。酒場で働いたこともなければ、その店名にも、思い当たる記憶がまるで無いのである。


 「狂人ですかね」


 傍らのディオンがぼそりと呟く。痩身の、顔色の悪い、背丈の高い不愛想な青年である。神経質そうな目をしていて、男に訝し気な視線を送りながら「気味が悪いな……」と。すかさずリリスが脇腹を小突いて、


 「失礼だよ」

 「すみません。つい……」


 再び男の方へ目をやる二人。聞こえているのか、いないのか、ディオンの侮言などまるで意に介していない様子で、男は例の、頓狂な話の続きを語ろうとする。


 「他に好きな人が出来たのでしょうか。……その、隣の青年は?」


 勘弁してくれと言うように、両腕を広げるリリス。


 「彼は店の従業員。ここは私の武器屋さん。ついでに、私の名前はミレラじゃない。リリスなのよ」

 「なるほど言われてみれば。確かに貴方は目が違う。私と同じ緑の目だ。ああ、彼女は青い目をしていた。いや。しかし……」


 何やら長考している様子の男である。しばらく経って「ふむ」と唸ると、またじっと彼女の顔を見る。


 「青も緑も似たようなものでしょう。私の方で、勘違いをしていたのかもしれません。緑だったかもしれません。そうかもしれません。お互い同じ瞳の色だから、まるで運命じゃないかと、二人で笑いあったような気さえします。ええ、そんな気がしてきました。そうなのでしょう」


 流石にうんざりして、この男を店から叩き出してやろうかとも考えたリリスだが、喉より出掛かる心無い言葉の数々をぐっとこらえつつ、


 「ともかく。うちは武器屋なんで。商品買ってもらわないと」

 「ああ、すみません。そうですね……」


 彼女の毅然とした態度を前に、男はぐるりと店内を見回した。そして、思い出したように口を開くと、


 「剣をね。携帯していたのですが。森の中で無くしてしまったのです」

 「……森の中? 魔境で? 武器を無くしたの?」

 「ええ。本当に死に物狂いでしたよ。五日か、六日か。眠る余裕すらありませんでした」

 「……よく帰ってこれたわね」


 その結果の発狂であろうかと、これにはリリスも同情した。男の目にしたであろう、世にもおぞましい光景を思い浮かべて、不意に憐憫の情が湧いて出たのである。たった一人で森の中、絶えざる魔物の襲撃に怯えながら、幾日も暗闇を彷徨い続けていたのだろうか。


 彼女の顔から困惑と不審の色が消え、その表情は、傍目から見てもいくぶん和らいだように見えた。一方のディオンは相変わらず警戒の念を解いてない。当の男は呑気なもので、じっくり店内の商品を物色すると、


 「では、こちらを頂きましょう」


 店の中でいちばん高い剣を持ってきて、カウンターの上にゴトリと置いた。リリスは少し驚いた。元々売れると思っていなかったコレクションであるために、この剣には値札を付けていなかったのである。


 「お金、あるの?」

 「いいえ」

 「いや、それじゃあ売れないよ」


 男は平然と、少し笑みを浮かべながら、その簡素な造りの剣を握りしめ、


 「王都の自邸に戻れば、いくらかね。宝石なり金貨なり用意できますよ。馬を使えば半日と掛からないでしょう。今すぐ取ってきますからね。……ああ、私、ヴィクトルと申します。ヴィクトルです。どうか忘れないで下さいね」


 一度沸き上がった憐みの情がゆるやかに溶け、疑念と困惑がふたたび胸中を支配する。リリスはため息を吐きながら、駆け足で退店しようとする男を呼び止めた。


 「馬じゃ王都になんて行けないよ。本土への道は封鎖されてる。東の壁を見てないの?」

 「ああ! あの壁! あれは何なのですか」


 また、思い出したように手を叩く男。リリスは妙な感じを覚えながら、


 「魔境の広がるこの半島を、王国本土から切り離すために造られた巨大な壁よ。本当に知らないの?」

 「切り離す? この街もろとも半島を?」

 「ええ。本土に魔物が侵入するのを恐れてね。四年前に、国王陛下が造らせたのよ」

 「はて? 龍は空を飛びますから、壁なんぞ造っても無駄でしょうに」


 男の意見は至極真っ当なものであった。それが故に、リリスはますますこの男が分からなくなっていた。


 まさか四年以上も魔境を彷徨っていたことはないだろう。男がこの街の人間であるならば、壁の存在を知らないというのも奇妙な話である。やはり、記憶が変になってしまっているのだろうか。


 「本土へ渡るには海路を使うしかないけれど、かなりの危険が伴うわ。密輸船の乗船料だって安くないし」


 「はあ……」と男は微妙な顔をして、


 「ともかく、私は馬で行きますよ。馬で走れば半日と掛かりませんからね」


 まるでリリスの忠告に耳を貸そうとしない。馬を用いて、陸路で王都に向かうと言って聞かないのである。そしてあろうことか……。男は直後に、全く図々しい要求を彼女へ突き付けるのであった。


 「そこで相談なのですが。その、馬を買うための金をですね、少々貸して頂けないかと」

 「……分かった。いいよ」


 言われるがまま、リリスは手持ちの紙幣を手渡した。すると男は不思議そうに首を傾げて、

 

 「失礼ですが。こんなもので、馬を買うことが出来るのでしょうか」

 「乗船料のつもりなんだけど、まあいいや。馬を買っても十分余るから」

 「そうですか。いえ、大変失礼いたしました。何せ勝手が分からぬものでして」


 と、ぶつぶつ呟きながら、どうにも腑に落ちない様子を見せていたが、やがて男は「失敬」と一言。あっという間に店を飛び出して、表の通りを駆け抜けてしまったのである。


 二人は唖然とする他なかった。しばらくして、リリスは気疲れした様子でため息を吐いた。隣のディオンが薄く笑って、


 「あいつ。代金払わないどころか、逆に金取って行きましたよ」

 「もう疲れた。追っ払えたなら何でもいいや」

 「せっかく開店できたのに、初めての客があれとは。幸先悪いですね……」


 リリスはむうと唸った。彼女には、先の男がただの発狂者とも異なる、何か特殊な事情を抱えた人間のようにも見えていた。


 彼は龍を知っていた。魔境のことを熟知しているようだった。そして、剣の価値を一発で見抜いた。密猟者、もといハンターの半数が帰らぬ人となる魔境の森で、武器を失いながらも生還したという話が本当ならば、或いは……。


 「渡るべき人間の手に、渡ったのかもしれないね」

 「はい?」

 「あの剣よ。帝国末期に作製された一点物なの。二回目の魔境遠征に際してね、大将軍ダフネに下賜されたと伝わる幻の聖剣」


 ディオンは少し複雑そうな顔をして、


 「歴史の話は疎いもので。すみません」

 「武器の効能さえ覚えてくれれば、それでいいよ」

 「いえ。僕も武器屋の店員ですから。できる限り努力しますよ……」


 彼女の大きな緑の瞳が、儚げに、憂いを帯びながら、じっとこちらを見つめている。底知れぬ深い海のようでもあり、夜空に瞬く一等星のようでもあり、淀んだ沼のにごりのようでもあり、しかし……。


 「助かるわ、ディオン」


 リリスは笑った。本当に綺麗な笑顔だった。この幸せが、いつまでも続いてくれたらいいのになと、ディオンは切実にそう願っていた。


 いつまでも、平穏な日常が続きますように、と。

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