契約。
「土日、入れそうかい?」
「そうですね、学校が早く終わったら、平日4時からでも入れると思いますよ、でも、10時までですかね」
「うん、高校生は法律によって厳格な規則があるから、その辺は配慮して決めるよ、じゃないと私の手が後ろに回ることになるからね」
前田は苦笑しながら、各種契約書を俺達に渡していく。日曜日の昼下がり、事務所で俺達は早速、前田探偵事務所と労働契約の手続きに入っていた。
「そういや、学校とご両親の方は大丈夫? 」
「はい大丈夫です! 事前確認できています」
うちの学校はアルバイト禁止じゃないため、親の承諾があればバイトすることができる。俺の親には簡単な仕分け作業だと言ってあるので、元々放任主義な父は社会勉強も必要だろうと、特に反論はしなかった。母は顔を歪ませて難色を示したが、俺がきっちり弟の面倒みるのと、勉強はおざなりにしないという二つの条件を飲む事でしぶしぶながら最後には首を縦に振ってくれた。
「じゃあ、3日後、水曜日の4時、この事務所へ来て欲しい、仕事はまずは簡単なものからやっていこう」
「はい、分かりました、よろしくお願いします」
深々と俺達は頭を下げて、探偵事務所を辞去した。
「しかし、兄貴、よくあそこでバイトする気になったね」
「ああ、まぁ、金もなかったし、多少興味も湧いたんでな」
興味が湧いたというのは半分本当だ。
俺は陰陽師の力を普段から持て余していて、それが人々の役に立つのなら一度存分にその力を振るってみたいと思ってはいた。幽霊と関わる仕事っていうのはその意味じゃ、陰陽師と相性がいいし、興味がそそられるのは否定しがたい。
「でも、思ったよりダーティな仕事でもなさそうだしね、無理強いはしないって言ってたし」
「うむ、それが一番心配だったが、俺達の意志は尊重してくれるらしいので良かった」
最初の説明が曖昧だったので、俺達は大きく誤解していたが、真琴の話によると、霊との交渉はあるが、相手にしっかり承諾をしてもらう事が前提となっている。そして、犯罪に手が染まるような事はしないらしい。何にでも抜け道というものがあるらしくって……まぁ、手錠をはめられるような事態はないだろうってことだ。まぁ、その辺は言い回しが微妙だったが、仕事が怪しいと思うなら断る事はできるらしい。ある程度、融通がきくということで、それなら軽くバイトしてみようと思ったわけだが、アルバイトをする気になった本当の理由は他にある。
昨日の夜、俺達は顔を見合わせたまま可笑しな雰囲気に包まれていた。
まるでそれは、恋人同士がキスをする前に目を合わせて甘美なひと時に浸るかのような。
輝が後少し部屋に入ってくるのが遅ければ――
ふ、たらればは言うまい。
それに、これは俺の希望的観測に過ぎない。
だけど――俺はあの時、真琴との距離が一気に縮まった気がしていた。
それは深海の底からテレポーテーションして、海の表面にふっと現れたザトウクジラが照りつける太陽を拝んだ時のようというか。
完全に俺の思い込みかもしれない。
俺にそんな予感を探知する能力があるかと言えばないと言い切れる。
いっちゃなんだが、俺はこれまで女に全く縁がない人生を歩んできた。
そんな俺に女との距離を測る定規や巻尺のような能力が備わってるなんておこがましい。
だが、世の中杓子定規ではかれない不可解な事象はいくらでも転がっている。
全く未知の体験をしたからといって、それを全否定していいものだろうか?
俺の独断と偏見で言うなら、俺の容貌は二枚目には程遠いが、それほど悪くないと自負はしている。
性格においてもこれといった大きな欠陥はないはずだ。
それでも彼女ができなかった理由を敢えて深く掘り下げるなら、常に受身でいたせいもあるかもしれない。自発的に陣地へ乗り込む努力をしなかった。恋愛へなだれ込む端緒を掴もうと、自ら接近することを潔しとしなかった。
それは俺の脆いハートを覆うように張り巡らされた防衛本能が働いていたせいもある。
言い訳がましいが、俺と言う男は繊細すぎたのだ。石橋を慎重に叩きすぎて手を傷めて、そこで踵を返して、自宅にバンドエイドを求めて帰るような人生をこれまでは送ってきたのだ。
しかし――――昨日はこれまでとは違う手ごたえのようなものを実感していた。
俺の灰色の学園生活に転機の兆しが見え隠れした瞬間を網膜に焼き付けたのだ。
あの後、輝がやってきてから、真琴は輝にも俺と話したような事を告げ、輝も承諾した。
その後、仕事で必要になるからと、俺達にメアドを教えてくれた。
俺はその時は少しばかり落胆した。
初めて母ちゃん以外から教えてもらった異性のメアド。
本当いうなら独り占めしたかった。
「真琴ちゃん来てなかったね」
「今日は用事があって遅くなるらしい」
「何で知ってるの? 」
「そんな気がしただけだ」
真琴もあそこでアルバイトをしているが、同じ高校生の身分。
フルタイムで出ているわけじゃなかった。
彼女の通っているのは水川高校。あの嘘話で俺達が足を運んだ学校だ。
「輝、お前、携帯に真琴からメールあった?」
「今日は1件仕事の話のメールが入ってたね」
「そうか」
俺はそれを聞いてほくそ笑む。
おもむろに自分の携帯を開いて、メールを確認する。
今日一日で10件もメールが入っていた。
二件は父と母、もう二件は友達、残りの6件は――
『今ね~、休み時間~! 牧野君は何してる~? 』
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『今日ちょっと友達とカラオケ行くんで遅くなる~! 急いで帰るけど間に合わないかな^^;』
輝には1件しか、しかも仕事メールしかないのに俺にはこんなに――
一応真琴には輝には雪乃という彼女がいる事は知らせてある。
その事に真琴が気を遣ったとも邪推はできるが、それでも、気のせいか、俺に偏って送られたメールの数々。
しかも、やけにプライベートな内容だ。
俺は携帯を乾いた音を立てて折りたたむと、ズックにしまい込む。
夕闇に沈む街を弟と歩きながら、俺は何か予感めいたものに心が弾まずにはいられなかった。