いくさ
こんなのありえない……
薄暗くなって間もなくの奇襲だった。
黒い野獣の群れがどっと村を呑みこんだのだ。
村人たちはなすすべなく……
「拓! 逃げるぞ! 」
「そ、そんな」
モルトさんが鎧で覆われた俺の肩を揺らす。
「みんなを置いていくわけ……うわ」
言っている合間にも黒い獣は怒涛のごとく押し寄せてくる。
飛び掛ってきた一匹を横なぎでしとめると、すぐにモルトさんの後を追った。
「はなせ! ヤシチ! 」
「うるせえ! 逃げるが勝ちよ! 」
「馬鹿! 母さんがあ! 」
「あきらめな! 」
「いやだ~~! 」
ヤシチは姉御を無理やり脇にかかえ、森のほうへ突っ走っていく。
モルトさんも俺もその後を追うしかなかった。
姉御の悲痛な叫び声は暗い森のしじまにいつまでもこだましていた。
逃げ道はそこだけしかなかった……
森の奥までくると、モルトさんが荒い息を抑えながら振り返った。
「もう来ていないぞ……どうやら逃げ切ったようだ」
「母さん……」
姉御がすすり泣いている。
あの気丈な姉御が……
ヤシチは姉御の肩に手を置いて怒鳴った。
「こら、いつまでも泣くな! あれは……逃げて正解だ、俺の判断は間違っちゃいねえ~、ち、違うか?
どうなんだ、とにかく、泣くな! ここをでたら安心だ! 」
ヤシチは泣き崩れた姉御の隣に腰を下ろし、悲痛な様子に戸惑いながら大声を上げ続けている。
モルトさんは木の根元で屈み、森の暗闇をじっとみつめている。
俺はその場に両膝をつい荒い息を整える。
どうしようもなかった……
あれは俺たちには。
やるせない……
一瞬でなにもかも……
何かが崩れさる時はいつもこんなかんじなのだろうか?
幼い子供たち、井戸端会議をしていた女たち、拒絶派のみんな、他の村人たち、畑や、村の建物、築き上げてきた歴史、全てが一瞬で……
滔々とまとまりのない思いが現れては消えていく。
「こら、立て! 拓! 行くぞ! 」
「え……」
我に変えると、モルトさんが厳しい表情で見下ろしている。
姉御もヤシチに支えられながらではあるが既に立っている。
そうだ……感傷に耽っている場合じゃない。
まだこの森を抜け出していないんだ。
森の暗闇に淡く差し込む月光がぽつぽつと光の円を地に描いている。
その円を辿るように、俺たちは森の出口に向かって歩んでいた。
もう姉御も泣いていない。
みんなの足取りも幾分早くなっている。
このままいけば、朝までには森を抜けられるだろう。
しかし、先頭を走っていたモルトさんが足を止めた。
「おい、妙な声が聞こえないか? 」
「あん? なんだ? 」
「こ、これは……」
どこかで一度……
「この声は……ウーフ神」
「馬鹿な」
ヤシチは動揺した顔でモルトさんを見た。
と、その時姉御が低い声で言った。
「か、囲まれている……」
姉御は右手に持っていた短槍を構えた。
「いつのまに……」
「どういうことだ……」
ヤシチも驚いたように鎌を構えた。
「拓、突っ走れ! 」
モルトさんに手を引かれ走り出して間もなくだった。
振り返ると、四方八方から湧いて出た黒い獣が、さっきまでいた場所を埋め尽くしていた。
「姉御~~~~~! 」
あの数では姉御が……
「モルトさん、ま、待って! 」
「うるさい! 今は突っ走れ! 何も考えるな! 」
モルトさんは俺の右手を掴み、引きずるように前へ進む。
「姉御~、モルトさん離して! 」
何も言わず、モルトさんは俺の右手を引き続ける。
俺はなにがなんでも姉御を助けるつもりでいた。
だが、背後からあの黒い獣が迫ってきている。
尋常でない数の獣が。
その圧倒的な恐怖に意志は鈍り、足が竦んでしまう。
「姉御……くっ」
俺はやむをえず体を反転させて、モルトさんの後に付き従った。
なすすべがない。
いや、それもいい訳に過ぎない。
ただ……俺は、己の命が惜しくて逃げたのだ……
「この道はウーフ神の祠への一本道だ、あそこには大きな広場がある。そこからも森の外に出る一本道があるんだ」
「は、はい……」
俺は力なく答えた。
脱力しきっている。
姉御が……
もうなにもかもどうでもよくなっていた。
モルトさんの言うとおりなら、このまま俺たちは森を抜けられるかもしれない。
だが、姉御を見殺しにして、俺一人だけ助かって……
生き残ったとしても俺は……
「ほら、着いたぞ、拓」
木々の間隔が広がったかと思うと大きな広場が視界に入った。
なんだここは……
幹の太い大木が真ん中にある祠のために場所を空けたかのような広場。
天上はドームのように中心に向かって葉が茂り、交わる一点から一本の光の筋が祠を照らしている。
厳かで神秘的な空気が辺りに漂っている。
「どうだ、拓、面白いところだろ、ウーフ神様の祠だぞ」
「これが……」
「しかし、痛快だったな。俺たちだけ逃げ切った」
モルトさんは表情を弛緩させて言った。
「言わば、あの村の生き残りだぞ」
「で、ですけど……村のみんなも、ヤシチも、姉御も……」
俺が背中をかがめて切れ切れに言うと、モルトさんはにやりと笑った。
「いいじゃねえか、俺たちは助かったんだ」
「…………」
何かモルトさんの様子が変だ……
「そんな風に思えるわけ……」
その時、またあのウーフ神の鳴き声が聞こえた。
俺は背筋が寒くなった。
あの声が聞こえるときは、どうもよくない事ばかりが起きる。
「来たようだな……」
「え? 」
俺は周りに意識を巡らした。
「いやあ、騙すつもりはなかったんだけどな、お前に言ったら計画がおじゃんになるかもしれないからな」
モルトは悪びれる様子もなく淡々と言った。
周りを多数の黒い獣が取り囲み、背後に屈強な男が2,3人立っている。
「こいつらはシギ村の殲滅のために雇われた獣使いだ。笛で獣を操る。あのウィーンウィーンって音はこいつらの笛の音、そして、こいつらを取り仕切るのが俺だ。シギ村殲滅の任の元締めだ。」
「…………」
最初は信じられなかった。
しかし、モルトは次々と秘密を暴露し本性を俺に見せていった。
その間に彼への信頼は見る間に怒りへと変わっていった。
「そう怒るなよ」
「…………」
「まぁ、その気持ちも分かるぜ、だがよ、お前はもともとあの村のものじゃないし、酷い扱いだって受けていたじゃないか」
こいつのせいで姉御が……
俺の体は怒りで燃え上がっている。
許せない……
「俺はお前を気に入っていた、だから逃がしてやったんだ」
勝ってなことを……
怒りを抑えながら、モルトに荒い口調で言った。
「あんた、何も後ろめたさや罪悪感はないのか? あ、あれだけシギ村で信頼を得ていたのに」
「そりゃ……まぁ、俺にも人間の心はあるからな~」
モルトさんは目をくるりと回してとぼけたような顔で言った。
「少しは心が痛むさ。だがな、俺は元々商人だ、うまい話があればどこへでもいくし、あらゆる取引をこれまでしてきた。時には天秤にかけるような事態もあった。今回はタオ村についたほうが俺には有利だった。それだけの話だ。」
「…………」
俺は黙ったまま彼を睨みつづけた。
このやろうぬけぬけと。
人の命や信頼も交易品と同じ感覚で……
モルトは大きなため息をついて首を振った。
「やれやれ、分からないかな、お前には」
モルトは目配せで手下に合図を送った。
「交渉不成立のようだ」
背後の男たちが奇妙な形の笛を口に加え、あの音を響かせる。
すると、黒い獣たちが俺の周りを取り囲み唸りを上げ始めた。
この数では俺は嬲り殺しだ……
こうなったら……携帯を使うしか。
自分が死んでまで、この世界の秩序を守るつもりはない……
そこまで考えて俺はある事に気づいた。
元々携帯を使っていれば、姉御を助けられたのではないか?
なぜあの時それが浮かばなかったのか……
結局、俺は……俺の命だけが一番大事なのか?
「やれ」
その合図の前に『世界崩壊』の文字を打ちおえていた。
後はOKを押すだけだった。
「こらーーーー! モルト! てめえは殺す! 」
ところがそこへ何者かが飛び込んできた。
「え? 」
暴風のような勢いで獣たちを蹴散らす黒い影。
一瞬で獣たちの5,6匹が絶命の声をあげて倒れる。
「ヤシチ……? 」
「拓……貴様、おめおめと」
「お前……良く生きていたな」
モルトが驚いたように言った。
「あの状況で」
モルトの言葉にヤシチは更に激した様子で怒鳴った。
「この野郎! どういうつもりだ! 」
「なんのことだ」
「なぜあそこで奴等をけしかけた? 」
「ふ、ふふ……」
「こいつ……最初っから俺まで殺すつもりだったのか……ゆるせねぇ! 」
ヤシチは猛然とモルトに襲い掛かる。
しかし、その前に黒い獣が立ち塞がりモルトに近寄れない。
「こら、お前も手伝え」
唖然としていた俺は我に変えると、反射的に携帯をしまい剣を鞘から抜いた。
ヤシチの切り込みに乗じて、俺も狼たちを薙ぎ払う。
しばらく小競り合いが続いた。
しかし、多勢に無勢。
俺たちは徐々に後退させられる。
絶対絶命だった。
「糞が、お前のせいでホタルは! 」
ヤシチの言葉に俺は姉御の事を思い出した。
が、それどころじゃなかった。
黒い狼が一斉に俺たちに飛び掛ってきた。
ヤラレル……
だが、その時――――
辺り一面に目映いまでの白い光が閃いた。
神々しいまでの光を放つ途方もなく大きな……
その光は瞬く間に、黒い獣ややモルトさんたちを飲み込んだ。
あっというまの出来事だった。