俺は誰?
「ζを助けてくれたそうで有難うございます」
「ζ? 」
海老のように腰を折り曲げたヤドカリの婆ちゃんは、俺の白いカップに、
飲み物を注いでくれた。
そして、大儀そうにテーブルの傍のぼろい揺り椅子に腰掛ける。
婆ちゃんはヤドカリに目配せして、なんだか困惑している様子だ。
「えっと、拓様、あなたどこから来たんですか? 」
ヤドカリはここへ来てから、俺に対して丁寧語を使い始めた。
まるで、VIPでももてなすように。
「知らん」
「シランだそうよ、お婆ちゃん」
「え? 」
「いて……」
俺が口を挟もうとすると、彼女の木靴で思いっきり足を踏まれた。
「まぁまぁ、そんな遠くからわざわざ、ζの友達だそうで、ごゆっくりしていってくださいね」
「お、おお」
俺が愛想笑いを返すと、老婆は安心しきった様子で奥の部屋へ姿を消した。
「ちょっとあんた! 」
「はい、なんでせう」
テーブルに置かれたカップを両手で包むようにもって、ほんわかと出された飲み物を啜る。
紅茶に近い味のそれは、喉越し柔らかで、旅で疲れた俺の体に染み渡っていく。
「なんでそんなに物しらないの? 」
「さぁ」
「仮にも人間ってことはこの世界の常識くらい知ってるはずでしょ」
「知らんがな」
俺はなぜヤドカリに糾弾されているのだろう。長いすに足をかけてまで怒る彼女は、高校の中間テストで欠点取ったときの母親の形相とそっくりだった。美人なのに、もったいない。
「で、ζってなんなんだ? 」
「ふー、本当に知らないのね……」
「ええ、まぁ」
彼女は俺の無知の理由を聞くのを諦めて、ζが何なのかを話してくれた。
掻い摘んで言うとこうだ。
今いる場所はダルっていう国のイストという地区だそうだ。
ダルってのは、人間が納めている国だ。
で、イストは元々は魔族と人間のハーフが寄り集まってできた独立国エストにあったのだが、
ダルがエストを侵略して、エストという国は史上から消えうせ、ダルの領土と一体化した。
それが500年前のことらしい。
そして、ダルの当時の王様は、飲み込んだ元エストの人々に様々な法律を適用した。
支配側だから当然といえば当然のことだ。
その一つに、
・元エストの民、名を名乗る事を禁ずる――があったのだ。
でも名前がないと管理は大変だ。
よって、一人一人ζやδ1とか、記号と数字で無限の組み合わせをつくり、
それを各々にあてがって、この国の異民管理局が一人も漏らさず帳簿に記載して異民(元エストの民)を統制しているわけだ。
「なるほど良く分かりました」
「良かった――で、」
彼女はテーブルの向こうの席にどかっと腰掛けて、胸元で人差し指を立てたまま目を閉じた。
何か考えているのを示唆するかのように、指を振り子のように左右に振っている。
だが、その早い振幅を突然止めたかと思うと、指先をこちらに向け、目を幾分吊り上げて言った。
「で、あなたはどこから来たのよ? 」
「知らん」
それから、堂々巡りがしばらく続くことになった。