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1話 ミナリア、命の灯る部屋

一人の少女が息絶えたその瞬間、異世界の「アリナミエル」の地で蒼穹都市群が沈みゆく。


空に最も近い神聖な土地。人も獣も、雲を越えた高みで太陽の祝福を浴びていた。


だが、ある日――大いなる禁忌が破られた。


世界の根幹を支える神柱が折れ、天地は激しく震えた。


天と地は裏返り、


空に浮かんでいた都市群は、そっくりそのままの形で、永遠の海の底へと転落した。


 今、人々は都市ごとに、かつてのままの形で地上――いや、海底に落ちた都市の中で暮らしている。


 天は重い岩盤に覆われ、空はもはや見えない。かつて天を仰いだ塔や大聖堂は、いまや天井から逆さまにぶら下がり、時おり岩水が滴り落ちてくる。


 人々はその雫を貴重な水源とし、都市の広場や路地に点在する池――それは塩辛い“海水”だ――から魚を獲って生き延びていた。


 土地は痩せ、緑は少なく、かつての都市同士は遠く離れ、互いの気配さえ届かない。


 多くの者が滅び、生き残った者たちは、それぞれ離れ離れになった都市の廃墟で、家族やわずかな仲間と身を寄せ合って暮らしている。


 それでも人々の間には、ひそやかな噂が伝わっている。


 「どこかの都市では、天地が再びひっくり返り、かつての空の下に戻れたらしい」


 「いつかもう一度、世界が正しい姿に戻る――そんな奇跡が訪れる日が来るかもしれない」


 誰もが天を見上げることのできない世界で、そんな小さな希望だけが、都市ごとに受け継がれていた。



――


淡い朝日がカーテン越しに射し込み、消毒薬の香りが漂う病室。穹空蒼(そうきゅう あおい)は白いシーツにくるまり、窓の外に広がる青空をぼんやりと見つめていた。小さな胸は静かな呼吸ごとにわずかに上下し、命の儚さを刻む。


ベッドの脇には、小さなノートと鉛筆、母の形見のスカーフがきちんと置かれている。頬に触れる冷たい風が、少しだけ生きている実感をくれた。その風は、遠い春の記憶――母と笑い合った桜並木を運んでくるようだった。


医師や看護師はみな優しい笑顔で蒼に声をかけるが、その目の奥に浮かぶ“悲しみ”の色を、蒼は子どもながらに感じ取っていた。誰もが言葉にしない別れの予感を、蒼の澄んだ瞳は静かに受け止めていた。


「今日はどう? 少し散歩してみる?」


若い看護師が声をかけると、蒼はゆっくりと首を振った。細い指がシーツをそっと握り、力ない仕草で答える。


「……ごめんなさい。今日は、窓からお外を見るだけでいいんです」


「無理しなくていいのよ」


看護師はそう言いながら、枕元に花を一輪そっと飾った。その白い花は、蒼の笑顔のように儚く、病室に静かな祈りを添えた。


午後、母のいない静かな時間が流れる。父も仕事で忙しく、面会時間が合わない日が続く。それでも蒼はノートに日記を書くのをやめなかった。ページには、母と見た桜の木、友達と交わした笑顔が、色褪せぬ記憶として刻まれていた。


「大きくなったら、お医者さんになりたいな。困っている人を助けられる人になりたい」


鉛筆の芯が震える手で綴る願いは、心のどこかで叶わないことを知っている夢だった。それでも、蒼の心は誰かの笑顔を願う純粋さで輝いていた。


病気は少しずつ、けれど確実に蒼の身体を蝕んでいく。季節が移り変わるたび、友達からの手紙が増え、部屋の花も替わる。でも、蒼の体は動かなくなり、やがて起き上がるのも苦しくなった。息をするたび胸に小さな痛みが走り、それでも彼女は青空を見つめていた。


最期の夜、父が眠そうな目をこすりながら病室に来てくれた。


「蒼、ごめん、俺は、何もしてやれなかった。母もお前も失うのか」――顔をぐちゃぐちゃにして、痩せ細った蒼の体を抱きしめていた。その涙は、蒼の肩にぽろぽろとこぼれ落ちた。父の腕の中で、蒼は母と過ごした春の日々を思い出し、胸が締め付けられた。


「うん……お父さん、大丈夫。私は死ぬのは怖くない。でも、お医者さんになれなかったのは残念だけど」と、痩せこけた顔で精一杯の笑みを浮かべた。その笑顔は、まるで桜の花びらのように儚くも美しく輝いていた。


主治医は悔しそうな顔をして、看護師たちは肩を寄せ合い泣いていた。彼らの涙は、蒼の小さな命の届かなかった未来への哀しみだった。


夜明け前、静かな呼吸が途切れる。まだ10歳という幼い小さな命が、静かに、穏やかに、灯りを消した。病室は、まるで時間が止まったかのように静まり返っていた。


カーテンの隙間から朝日が差し込む。その光の中で、蒼の顔はどこか安らかな微笑を浮かべていた。彼女の微笑みは、母との桜、友達との笑顔、叶わなかった夢をすべて抱きしめ、静かに永遠へと溶けていった。

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