一章第4話 【一年前、あの不可解の少女に】
目の前に現れた少年―――京崎柳は手に持った何かをエンプレスに思いっきりかけた。
頭から滝のように降り注いだのは、透明な液体だった。
「なんとか間に合ったぞ」
手に持ったバケツをそこら辺に投げ、すぐにオルタナの元に駆け寄る柳。
柳がかけた透明な液体は、時間を稼いでいる間に汲んでいた水だった。
エンプレスに気づかれずに厨房に行き、戦っている間に水を汲み、オルタナに注目を浴びているうちに後ろに回り込んだのだ。
ついでに切り落とされた指の部分は厨房で取ってきたタオルなどを強く結び、最低限の手当をした。
「それでもヤナ、水をかけてなんの意味があるの?」
「まぁ、見てたらわかるさ」
エンプレスの表情が変わり、さっきまでの微笑みが消え、怒りの表情に変わっていた。
髪や顔に水が滴り、視線が強くなり、歯をギリギリと鳴らしている。
「まぁいいわ、二人とも一緒に殺してあげるから……」
そう言って鎌を粉にし、二人の方へ飛ばそうとする、が―――
「えっ―――」
飛ばした粉は少し進んだところで失速し、地面に崩れ落ちた。
また、粉を操り舞わせようとするが、今度はびくとも動かなかった。
「何が起きてるの……」
何度も手を伸ばしたり、降ったりも試してみたが、粉はびくともしない。
そうこれが柳の計らいだった。
「どうかしたか?」
そんなエンプレスを煽るように聞く柳。
だがそんな問いかけも聞かずに何度も試行錯誤する。
「無駄だって、お前勉強したことないだろ」
ようやく柳の発言を耳に入れた時、ナイフをクルクルと回しながらエンプレスを見ていた。
「知ってたか? 液体を吸い込んだらその質量だって重くなるんだ」
「あっ―――」
なぜ粉が浮かなくなったのか、ただオルタナを助けるために水をかけた訳ではなく、『死神』そのものを行動不能にさせることが目的だったのだ。
現にエンプレスの唯一の武器、鎌が粉になってしまい元に戻らなくなった。
「もう終わりだ」
柳がナイフをエンプレスに飛ばすと、刺さる場所をまだしつこく粉にして回避する。
その部分は水が乾くまで当分戻ることはないのだが、それでもまだ生きたいという意志が見える。
「お前は人を殺しすぎた、これは当然の報いだろう」
柳はナイフを投げては回収し、それを繰り返した。
当然、粉になった物は地面に崩れ落ちる、さっきのエンプレスと認識がつかない姿になってしまった。
顔はドロドロに溶けて、地面にどさっと落ちる。
「オルタナ、この次はどうするんだ?」
「後は私に任せて」
粉が砂の山のような姿になったそれを、本格的に処理する工程に入った。
オルタナはその山に近づき、それを回収しようとする。
だが、何か違和感を感じた……
「あっ――――――」
誰かがそんな掠れた声を上げながら、何か鈍い音が食堂に響いた。
「ん? どうした―――」
何の音かと振り返る柳には、信じられない光景が目に映った。
何かの上半身と下半身が斜めに切断され、下半身は立ったまま、上半身は地面に這っていた。
それは―――緑色に輝いた髪も、血に塗れてしまった。
それは―――エメラルドのような瞳も今は死んだ魚のようだった。
それは―――切れた部分からは赤黒い臓器が垂れていた。
「―――あ?」
一瞬、何が起こったのかがわからなかったが、それも数秒だった。
たったの……たったのあの一瞬でオルタナが死んでいた。
「オル……タ……ナ…?」
数秒前まではあんなに元気だったのに、立ったの一瞬で何があったのか。
震える視界で辺りを何度も見回す。
だが、それといった武器や人影はなかった。
切られたところからは赤黒い血が流れ出ており、時間が経つたびに血が広がっていく。
「やっぱり……人というのは所詮はそんな注意力なのね」
突然、そんな声が食堂に響いた。
生徒も、オルタナも、死神も全員が死んだはず。
この船には今、柳しかいないはずなのに。
「死神というのは常に裏をかく方法を見つけているの」
だがその声もさっきまで聞き馴染みのあった声だ。
特に柳からしては嫌悪にしかならない声だが、一般からしたらとても透き通って綺麗な声だった。
「なんでお前がまだ居るんだよ……!」
「だから言ったでしょ……私は偽りの死神だって」
柳の視界には、さっきドロドロになった死神が鎌を持って立っていた。
頬を真っ赤にして嫌な微笑みを浮かべ、柳を見る。
「さっき倒したはずじゃ……」
「はぁ……これだから頭のよくない人間は嫌いなの、これっぽっちのことも対策しておかないなんて」
そう言って何か食堂のドアから物音が聞こえた。
「――――――っ!?」
ドアから入ってきたのは、それはエンプレスの姿だった。
「なぜお前が二人居るんだ……?」
「あら? 二人だけじゃないわよ?」
また新たにドアから一人、厨房の奥から一人、柳の背後からや天井からなど、予測できないところからエンプレスの姿が現れた。
「私の能力が粉状になるだけと思った時点でもう負けていたの、だって私が増殖するなんて想像すらできなかったでしょ?」
「――――――そうかよ」
追い詰められた柳は、どうにかしてこの場を凌ぐ方法を考えるが、全く出てこない。
それどころか、オルタナがやられたという衝撃がでかく、何も考えられない。
正直、今まで戦えてたのはオルタナありきだったのに、今はそれがない。
視界すらもどこにやったらいいのかも分からなかったが、柳はある一点を見て、何かに気づいた。
(オルタナがまだ動いている……)
オルタナはゆっくりとポケットの中を漁る。
呼吸が荒く、今にも出血多量で死にそうなのに、それでも必死に何かを探していた。
「――――――ヤナ……」
しばらくして、か細い声がオルタナから聞こえてきた。
「あら? まだ生きていたのかしら」
「……オルタナ!」
柳はすぐにオルタナに駆け寄った。
「まぁいいわ、最期くらい会話を許しましょう」
退屈そうに言うエンプレスの言葉を振り払い、オルタナに少し触れた。
何かを見つけたオルタナは、ポケットから出した物を柳に渡した。
「……なんだこれは?」
オルタナが渡したのは、手に収まるくらいのサイズの透明なカプセルだった。
中には何かが入っており、それがなんなのかはすぐにわかった。
それは爪だった。
小さなカプセルには爪の破片が何枚か入っていた。
「……このままヤナが一人で戦ってもすぐに死ぬだけ」
そう真剣な顔でゆっくりと喋り始める。
「……これは最終手段として使うつもりだったけど、これはヤナに使おうと思う」
そして、オルタナは間を空けて言った。
「―――ヤナ、このカプセルを開けて、この私の爪を食べて」
「……っは?」
一瞬、オルタナの言ったことが理解できなかった。
ただ、そろそろオルタナの命が限界に達している。
正直、理由を聞いている時間もないだろう。
「……食べれば、俺たちは助かるのか?」
「……ただ確率が高くなるって話だよ」
その言葉を聞いた時には柳はもう覚悟していた。
すぐにカプセルを開けて、手のひらに爪を出した。
「食うぞ……オルタナ……」
柳は手に取った爪を口に入れて飲み込んだ。
特には何も味はしなかった、無味無臭だ。
飲み込んだすぐには何も起きなかったが、少し時間が経って気づいた。
オルタナが完全に動きを止めてしまった。
少し不自然だった、あんな怪我をしていたが、まだ少しは生きていける時間があったのに。
死ぬのが少し早すぎだ……
「……もういいかしら?」
気づいた時にはエンプレスの姿は数十人ほどになっていた。
「ちょっと待ってくれよ……」
「嫌よ、これ以上私が待って何のメリットもないでしょ? 会話も終わったのなら私がまだ待つ理由がないじゃない」
そう言ってエンプレス達は柳を円陣のように囲った。
全てのエンプレスが鎌を持ち、柳に向ける。
「もう諦めましょ? これが死神と人間の差かしら」
嘲笑うように言った一人のエンプレスは、柳に向かって歩き始めた。
そして柳に鎌を振りかぶる用意をした。
「……これで終わりよ」
「―――そうかよ」
その時、何か柳の体に異変が起きた。
なぜか身体中が熱くなってきた。
頭から汗も少しずつ垂れてきて、呼吸も少し荒くなる。
あの爪の効果なのだろうか。
(……なんだよこれ)
正直、少し舐めていた。
爪を食べるだけで少しでも生きれるならそんな覚悟なんて簡単にできただろう。
それまでがこんなに苦しいなんて思いもしなかった。
―――熱い。
「じゃあ……この子と一緒にあの世へ行くかしら」
必死に悶える柳などを関係なくエンプレスはそう言った。
そして柳に目掛けて鎌を振りかぶった。
「なっ……!」
そう驚いたのはエンプレスだった。
柳に振りかぶった鎌は不意にも動きを止めた。
刃が体まで届かなかった。
「……なんだこれ、勝手に体が……」
柳は反射的に体が動き、エンプレスの鎌を片手で止めていた。
自分が動いたわけでもなく、体が勝手に反射的に動いた。
片手に持った鎌を押し返して、柳は立ち上がった。
これもまた、柳自身が動いているわけでもなく、何かに乗っ取られているように体が動いた。
そしてその瞬間、柳の脳内に声が響いた。
『ちょっとだけ体を借りるよ、ヤナ』
柳の体にオルタナが入った。
片手に巻いていたタオルを取ると、斬られた指がもう治っている。
これもオルタナが乗っ取ったからだろうか、柳の再生力も常人ではなかった。
治った指をグーパーして動作を確認する。
そして体をグッと伸ばした。
「さて、カウンターと行こうか」
そうオルタナが柳の声で言った。
(ヤナの体は動きやすいな……私の体とは大違いだ)
オルタナは柳の体を使い、軽々しく動く。
そして元々オルタナが使っていた鎌を持ち、エンプレスに向けた。
「あら? さっきと少し風貌が変わったかしら?」
「私がこの体に入ったからね、少しは顔も変わるんじゃない?」
「その声でその喋り方……少し調子が狂うわ……」
「そう? 私は別にそう思わないけど」
オルタナがそう喋り終わった瞬間に、思いっきりジャンプした。
高い位置からエンプレスを見る柳は、全てにおいてこの死神に勝ったと確信した。
天井から垂れた電灯を振り子のように使い、エンプレスの円陣からひとまず抜け出した。
そして一人のエンプレスの背後をとり、後ろから切り裂いた。
「―――あああああぁぁぁがあぁ!」
そんな断末魔が食堂に響いた。
切り裂かれた一人のエンプレスは、血を撒き散らしながらドスっと胴体を落とした。
「やっぱり、粉になる前に切ったら普通に殺せるんだね」
柳はすぐに距離を取り、すぐに対応できるようにもう武器を構えている。
「あら、もう一人が殺されちゃったわ、けどこんなにも人数が居るのにまだ勝てる希望があると思っているの?」
「そんなのやって見ないと分からないでしょ?」
「一人殺したからって調子に乗らないでちょうだい」
円陣の形を崩し、バラバラに分かれたエンプレス達は、一気に柳に駆けて行った。
「そうそう、こういうのを待っていたんだよ……」
まず一人のエンプレスが鎌を振りかぶった、だがすぐにガードをして、反撃をする。
エンプレスも粉状になり、鎌を避けた、がその勢いを殺さず後ろから来ていたもう一人のエンプレスを斬った。
「狙っているのは君じゃなかったんだよ」
急に来て対応出来ずに血を流すエンプレスを横目に見ながら次に来た攻撃をガードした。
今度は三人一気に襲ってきた、それもすぐに対応して攻撃を避けてはガードする。
次の瞬間柳は食堂のテーブルを使い、バク宙のような動きをした。
ちょうどその時、後ろからも二人来ていたからだ。
「死角から来ても意味ないよ」
後ろから来ていた二人の背後を取って背中を切り裂いて、さっき戦った三人に蹴飛ばした。
ボーリングのピンのように倒れた三人の隙を取り、また斬った。
「体が軽いと動き方の幅も増えるね、色んな戦い方が出来て楽しいよ、ヤナ」
柳はそう呟き、また一人とエンプレスを切り倒した。
「ちょっと好き勝手しすぎじゃないかしら?」
気づくと柳の足元には粉が舞っていた。
それは手の形となり、柳は片足を掴まれた。
すぐにその手を斬ろうと、鎌を振ろうとしたが、また違う手が柳の腕を掴んだ。
「これで好きには動けないでしょう?」
ついには四肢を掴まれてしまい、身動きが取れなくなってしまった。
身動きの取れない柳の前に一人のエンプレスが来た。
「これだけで私を止めれると思ってるの?」
「そうね、現に貴方は身動きが取れてないでしょ?」
「私がただ動けないふりでもしていたら?」
「……戯言はいいわ、もう終わりにしましょう?」
「そうか……」
柳は武器を持っている方の腕を思いっきり振り、拘束を振りほどいた。
すぐに両足を掴んでいる手を斬り、反対の腕の拘束も解いた。
「やっぱり、あまり力が入っていなかったから直ぐに解放できたよ」
「……そうみたいね」
「もしかして分身体になる程力が弱くなってきてる?」
エンプレスは少し驚いた顔をした。
それ言えばさっき分身したエンプレスが襲ってきた時も、直ぐに対処できた。
何か動きが少し鈍かった気もした。
明らかに本体並みの力まで出ていない。
「あら、よくわかったわね、確かに私たち分身体は本体程の力は出せないわ、それでもこれだけの数がいるの」
「私は量より質派だけどね」
「私たちは本体からしか分身しないわ、まぁ本体はあんなにドロドロになってしまったけど」
結局あれが本体だったのかと気づいた。
これ以上分身しないとわかっただけで少し心がホッとした。
確かに本体よりは弱いが、数が数だ。
気を抜いたらすぐにやられてしまう。
「まぁでも、もう私の勝ちじゃない?」
「何を言っているの?」
「だって君以外の分身はもういない、君が最後の一人だよ」
「えっ……?」
気づくとそのエンプレスの周囲にはもう分身が一人もいなかった。
エンプレス本人も、何十体もいたからそんなすぐに倒されるとは思わなかった。
正直、勝てると思っていた。
「別に、このヤナの体なら最初から勝てると思っていたし」
気づくと、エンプレスの顔が少し震えていた。
怯えだろうか、驚きだろうか、そのような顔にも見えた。
「じゃあ、もういいかな」
柳は鎌を向けた。
あんなに余裕そうにしていたエンプレスの表情が崩れていくのを眺めて、少し近づいた。
エンプレスはがむしゃらに鎌を振って抵抗するが、それはかすりもしなかった。
オルタナの言ったカウンターは本当に成功した。
はずだった。
「――――――誰?」
何か食堂の入口から何かの気配がした。
エンプレスの可能性は低いだろう、もう分身も出来ないし、沢山やっつけた。
後はなんだろうか、エンプレスから逃げ切った生存者?
それも低いだろう、船客が殺された頃はまだエンプレスの分身も居た。
避難も完了してるだろう。
じゃあ誰―――?
「ありゃ? まだ終わってなかったの?」
入口から入って来たのは、少し背の高い男性だった。
髪が黒色で銀のメッシュが入っていて、少し毛先がうねっていた。
肌も色白かった。
「あーあー、こんなにドロドロになっちゃって……」
服は少しデザインの凝った白いロングコートのようだった。
その男はエンプレスの本体に近づいた。
「エンプレス、早くしないと帰れないよ?」
「……分かってるわよ、でもこの少女が帰してくれないのよ」
「少女? 明らかに少年じゃないか?」
その男はそう言った。
そしてオルタナの死体を見て、もう一度柳の姿を見た。
「あー、そういう事か」
この一瞬で今がどういう状況かを理解した。
つまりはエンプレスが追い詰められているということだけ。
「最近の人間はそういう事が出来るんだな……」
これはオルタナが柳の体を乗っ取った事に対してのだろうか。
最近の人間、この言い回しから憶測するに、この男も死神の一人なのだろうとオルタナは考えた。
――――――状況は最悪になった。
「この少女に手こずるとか、エンプレスもだいぶ落ちたねぇ」
「うるさい、そんな事は今はどうでもいいわ」
「まぁ、いいさ。早く帰らないとだしチャチャッと終わらせちゃおう」
その男はそう言って、手を少し前に出した。
そして、指をパチッと鳴らした。
マジックのように手からトランプが生み出された。
「少し眠ってもらうから、じゃあねー」
そのトランプは柳に目掛けて飛ばされた。
綺麗なカーブを描き、それは頭部に直撃する位置だった。
すぐに鎌で対応しようとしたが、速度的に間に合わなかった。
トランプは柳の頭に刺さった。
刺さった衝撃でバランスを崩し、倒れてしまった。
少しずつ、視界がボヤけていった。
少しも体に力が回らなくなってしまった。
だんだん意識が遠のいていった。
そして、いつの間にか気絶してしまっていた。
オルタナのカウンターは、あの男のせいで呆気なく幕を閉じた。