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中編

* * * 


 エドルードの人生で一番幸運な出来事は、三歳年下の子爵令嬢マリアベル・クラニスと出逢えたことだ。

 クラニス家はアンゼム家の分家であり、お互いのカントリーハウスも近くにあったことで、昔から家族ぐるみの付き合いがあった。特にエドルードとマリアベルは仲がよく、幼いながらに結婚の約束までしていたほどだ。


 しかし幸せな時間は長く続かない。マリアベルの母であるしっかり者のクラニス子爵夫人が若くして亡くなり、その後子爵と後妻が借金を重ねたせいでクラニス家は没落してしまったのだ。


 たった七歳の幼馴染みの女の子が、意地悪な継母の手によって借金のカタにどこぞの変態富豪へ売り飛ばされそうになった時、救いの手を伸ばすのが間に合ったこと。それがエドルードの人生における二番目の幸運だ。

 父親の力を借りたエドルードは、マリアベルの無能な父と性悪な継母を追い出してマリアベルを無事に保護した。貴族としてのクラニス家を立て直すことこそ叶わなかったが、クラニス家の借金もアンゼム家が本家として肩代わりして清算した。

 そしてその日から、よすがをなくしたマリアベルはメイドとしてアンゼム家で働くことになった。


 しかしそんな境遇が、マリアベルに負い目と遠慮を感じさせてしまったのだろうか。

 マリアベルは“主人”と“メイド”の立場の違いを強く意識するようになり、エドルードに対しても一定の距離をもって接するようになったのだ。

 同じ屋敷で暮らして一日中一緒にいられるようになったはずなのに、無垢で無邪気な幼い恋人達の戯れはむしろ遠い過去のものに変わってしまった。


 それでもエドルードの想いは変わらない。

 両親から持ち掛けられる見合い話を固辞し、自分にまとわりついてくる令嬢達を軽くあしらう。エドルードの心には、常にマリアベルだけがいた。


「もうわたくしでは、エドにいさまには釣り合わないわ」


 瞳に悲しみを宿してそう微笑むマリアベルの姿に、何度胸が締めつけられたことか。一人で物陰に佇んで、遠くから切なげに自分を見つめる少女の眼差しに気づかないエドルードではなかった。


 いつまで経っても婚約者候補の一人も選ばないエドルードの真摯な思いに、両親も理解を示してくれた。

 エドルードとマリアベルの共通の友人である、メガバーデ侯爵家の嫡男ヤイガ、ニキンセム伯爵家の兄妹オーウェンとオリア。みなこの恋を応援してくれている。

 あとは、マリアベル本人の了承を得るだけだ。


 だが、どんなにエドルードが縋っても、マリアベルが頷いてくれることはなかった。


「エドにいさまに、これ以上ご迷惑はかけられないもの」 


 ふるふると首を横に振る彼女の言葉は、いつも決まっていた。


「迷惑なわけがないだろう。私がそうしてほしいだけなんだ。愛しいマリー、君は何も負い目を感じる必要なんてない」

「だけど……わたくしなんかじゃなくて、エドにいさまにはもっとふさわしい人が……」


 マリアベルはつらそうに目を伏せる。そこから先は言葉にならず、マリアベルはただ肩を震わせて静かに涙をこぼしていた。

 抱きしめようとするエドルードの手をすり抜け、最愛の人は走り去っていってしまう。エドルードは何もできない無力な自分に唇を噛み、こぶしを強く握りしめた。


 そんな日々が二年も続いた、ある日のことだ。主催者に対する義理のつもりで参加した舞踏会で、人生における三番目の幸運が舞い降りた。


 淑やかなマリアベルとは似ても似つかない、品のない桃色の髪と媚びきった翡翠の瞳。

 成金とはいえ所作が丁寧なおかげで苦痛こそ感じなかったが、元から流れる卑しい血は変えられない。

 苦労を知らない美しい手とあどけない笑顔も、幼稚さの象徴のようで鼻につく。

 庇護欲を誘う華奢な体躯に、子供のころのマリアベルの姿が重なったが、それだけだ。


 彼女──男爵令嬢ピア・ユストを目にした瞬間、稲妻に打たれたかのように鮮烈な天啓がエドルードのもとに下りた。


 マリアベルがアンゼム家の使用人として暮らすようになって十年の月日が流れていたが、これまでエドルードはマリアベル一筋で、ただの一人も女の影を感じさせたことはなかった。

 だからこそ、あえてマリアベルとは何もかもが正反対のこの少女を傍に置き、マリアベルの本音を引き出そう。

 嫉妬でも後悔でもいい。エドルードがとうとう他の女に靡いたと思い込めば、マリアベルは剥き出しの感情を見せてくれる。そしてその源を辿れば、自分自身の本当の想いに気づいてくれるに違いない。


 それは一種の賭けだった。一歩間違えれば、マリアベルはエドルードに見当違いの祝福を告げてしまうだろう。そうなれば、最愛の人を永遠に失ってしまう。だが、それだけのリスクを冒さなければ、かたくななマリアベルの心は融かせない。


 エドルードはさっそくこの素晴らしい・・・・・計画を実行に移した。

 すっかり舞い上がって恋人面してくる成金令嬢には辟易したが、いい虫よけにはなったようだ。エドルードの隣にいるピアを見て諦めたのか、これまでさんざんエドルードに群がっていた令嬢達がさっと引いていったので、こんなことならもっと早くカモフラージュの女を作っておけばよかった。


 ピアと一緒にいるところをマリアベルに見せつけるため、エドルードはピアを何度かアンゼム家のタウンハウスに招待した。マリアベルの笑顔はぎこちなく、すっかり真っ青になって不安そうにわなないている。

 彼女がピアの存在を好意的に受け取れていないのは明らかで、それが意味するところはつまりエドルードへの愛と未練が彼女の中に強く残っているということだ。

 手ごたえを感じたエドルードは、それからもマリアベルに対する当てつけのようにピアを社交界に連れ回した。

 エドルードの両親、それから共通の友人であるヤイガとオーウェン、オリアにはあらかじめ事情を話して協力を頼んでいて、全員快く応じたので、ピアに対してつじつまを合わせる役とマリアベルに発破をかける役も任せることにした。


 そしてついにエドルード達の目論見通り、マリアベルはようやく自分の本当の気持ちに気づいてくれた。ピアはエドルード達にとって、縁結びの天使になったのだ。


 他の女がエドにいさまの隣に立つところなんて見たくない。一生エドにいさまが傍にいてくれると、心のどこかで甘えがあった。こんな身勝手なわたくしを嫌いにならないで──


 穢れない涙と共に打ち明けられた本音に、とうとうエドルードはマリアベルを力強く抱きしめて口づけを交わすことができた。


 こうして、めでたく一組の恋人が真実の愛に辿り着いたわけだ。


 ──だが、華やかな主役二人が抱えるたいそうな事情など、その他大勢の脇役には何一つ関係ない。

 主役気取りの赤の他人に、自分の人生が踏みにじられていい理由にはならないのだ。


 ヤイガ・メガバーデ、オーウェン・ニキンセムとオリア・ニキンセム。

 この三人がエドルードに手を貸したのは、友情によるえこひいきからだった。自分達こそこの恋愛譚ものがたりの重要な助演だと信じ込む彼らにとって、の両片想いを成就させる以外に大事なことなどひとつもない。


 一方で、アンゼム伯爵夫妻が息子の計略に加担したのには、ふたつの理由がある。

 ひとつめは、成金男爵の娘など取るに足らない存在だと思っていたから。同じ下級貴族出身の令嬢でも、マリアベルは昔から面倒を見ている少女だし、何より遠い親戚だ。情の比重は当然マリアベルに傾く。赤の他人の男爵令嬢のことなど軽んじていいという意識は、アンゼム伯爵夫妻の心のどこかに確かにあったのだ。

 ふたつめは、愛息子が計画したこの茶番劇において、当然ピアも合意のうえで舞台に上がっていると思い込んでいたこと。それを免罪符にできる時点で無軌道な若者達より伯爵夫妻のほうが多少分別はあるといえたが、ピアの意思確認を怠ったという点において無知と愚かさを露呈しただけに、より罪が重いともいえる。


 大人はピアを軽んじているがゆえに彼女への確認を疎かにして、仮に彼女が何も知らなかったとしてもどうとでも丸め込めると無意識に慢心してしまう。

 若者達はただ主演二人の愛の物語を完結させられればそれでよく、それ以外の登場人物など最初から眼中にない。 


 ──自分こそ世界の中心にいるという思い上がりの代償を支払う時は、刻一刻と迫っていた。


*


「紹介しましょう。彼女が私の婚約者の、マリアベル・クラニス嬢です」


 会う人会う人にマリアベルを紹介するたび、相手は怪訝そうにマリアベルとエドルードを見て顔を見合わせる。きっとマリアベルの聖女と見まがうほどの神々しさに気後れしているのだろう。


 マリアベルはたった七歳で表舞台から姿を消してアンゼム家の使用人として育てられたから、他家の人間に知られていない。例外は、子供の頃からの友人だけだ。

 本当はマリアベルのことは自分以外の男の目になど触れさせたくないのだが─その嫉妬深さはヤイガやオーウェンにもからかわれてオリアを呆れさせている─、いずれアンゼム伯爵夫人になる彼女は社交をしなければならない。そこで顔合わせのために時間を作ってマリアベルを伴い社交界に出るのだが、返ってくる反応はみな同じだった。


「てっきりエドルード殿はピア嬢と婚約を……」

「それは誤解です。私の最愛は、マリーただ一人だけですから」


 マリアベルを不安にさせないようきっぱり告げる。マリアベルはうっとりとエドルードを見上げ、熱っぽい眼差しを送っている。けれど相手は曖昧に笑い、そそくさとどこかに立ち去ってしまった。


「いくらなんでもあれはおかしいだろう。デビュタントをもてあそんだということか?」

「ピア嬢のようないたいけな少女をたぶらかしておいて、しれっと別の女と結婚しようとするとは。さすがアンゼム家のご子息だ。ずいぶんといいご身分じゃないか」


「あのご令嬢、一体どこのどなたなの? クラニス家だなんて聞いたこともございませんわ」

「アンゼム家のご親族で、今は没落した家の出ですってよ。他に嫁ぎ先が見つからなかったのかしら。その分際で本家に嫁ぐだなんて図々しいことですけれど」


 ひそひそ、ひそひそ。エドルード達に向けられる視線は冷たい。マリアベルが心配げにエドルードの袖をつまんだ。


「気にすることはない。きっと、私達に嫉妬している連中や、ゴシップ好きの口さがない連中が勝手なことを言っているんだろう。すぐに収まるさ」


 この時はまだ、エドルードも鷹揚に構えていられた。


*


「おい。約束の時間はとっくに過ぎているのに、どうして仕立屋はまだ来ないんだ?」

「じ、実は先ほど、急に断りの連絡が……」


 エドルードが睨むと、従僕はしどろもどろに答えた。マリアベルはしょんぼりと肩を落としている。

 結婚式と新生活に備え、マリアベルにはドレスが入り用だ。クラニス家から持ち出せる家財道具はなかったし、なによりエドルードが恋人にドレスをプレゼントしたかった。


 だが、国中の仕立屋が、アンゼム家を訪問することを拒むという事件が起きていた。


 今日のように、一度は呼び出しに応じて予約を取り付けた店があっても結局断られてしまうのだ。

 直接店に足を運んでも、支払いのためにアンゼムの名を告げた途端に「注文はすべてなかったことにしてください」と追い返されてしまう。


 マリアベルの採寸をしないといけないので代理人を立てるわけにもいかず、偽名を使っても必ずどこかで注文主が露呈して何もかも白紙に戻るのだ。同じことはメガバーデ家とニキンセム家でも起きているらしい。


「一体何がどうなっているんだ……」


 ウェディングドレスを仕立てるには時間がかかる。花嫁衣装が一向に決まらないせいで、結婚式の準備も進まない。予定では半年後にはマリアベルを正式に妻として迎えられるはずだったのに、そのきざしはまったく見えなかった。


「気にしないで、エドにいさま。ドレスなんてお義母かあ様の素敵なドレスがいくらでもあるもの」

「だが、それを仕立て直せる針子がいないことにはどうにもならないだろう」


 ちょっとした繕い物ならまだしも、ドレスの仕立て直しをメイドにやらせるには限界がある。

 有名な仕立屋から腕のいい針子を引き抜こうにも、生意気にも難色を示されてばかりだ。さすがに母のドレスをマリアベルにそのまま流用するには着丈が合わないし、なにより当時のウェディングドレスのデザインはあまりに古めかしい。これではマリアベルが可哀想だろう。


 問題はマリアベルの盛装だけにとどまらない。アンゼム伯爵夫妻とエドルードの服も新調できないのだ。

 服を専門に取り扱う商会の対応はどこも変わらず、オーダーメイドどころか既製品の一着すら売ってもらえない。衣服業界の対応を感知したのか、宝石業界もだんだん冷たくなってくる。おかげで婚約指輪どころか贈り物の髪飾りひとつ手に入らない。何か異常事態が起きているのは明白だった。


*


 その日珍しくアンゼム家に届いた招待状は、王宮の舞踏会の招待状だった。明らかに義理だとわかるものだったが、王族からの招待なら受けないわけにもいかない。


 どんな催しでも、ファッションのテーマを統一させたり、小物の色やら生地の柄やらを指定したりする細かいドレスコードがつきものだ。ドレスコードを守りつつも自分らしさを演出し、なおかつ流行に合わせて装いを新しく用意するのは当然のことだった。それすらできないのがみじめで仕方ない。


 今回のパーティーの趣旨に合う盛装をなんとか衣装部屋から引っ張り出して、エドルードはマリアベルを連れて王宮に向かう。けれど急ごしらえのコーディネートは明らかに浮いていた。

 アンゼム家の経済状況にはなんの問題もないのに、盛装の着こなしが甘いだけで自分達がいやに貧相になったかのように感じられる。どこに行っても肩身が狭かった。


「ご覧になって。あのお二人、以前と同じお召し物ですわ。どうして新調なさらないのでしょう」

「もしかして、わざわざ分家の娘を娶ってあげたのではなくて、分家の娘にしか嫁いでもらえなかったのかしら。流行に合わせたお召し物すら用意できないなんて……ねぇ?」


 くすくす、くすくす。注がれる刺のある眼差しはそのままに、嘲笑が加わって幾重にも響く。悪意に満ちたその声音はわざとらしく、あえて屈辱的な憶測を言っているかのようだった。きっと、エドルード達に聞かせているのもわざとなのだろう。


 社交界にエドルード達の味方はいなかった。マリアベルの友人作りのために方々に送った招待状が人を招くことはなく、アンゼム家に届く招待状もない。同じく社交界から白い目で見られているメガバーデ家とニキンセム家も、完全に孤立した状態だった。


 こんなはずではなかったのに。一体どうしてこうなってしまったのだろう。


「アンゼム領に帰ろう、マリー。あんな奴らと付き合う必要なんてない。私達にはお互いと、私達のことを本当に理解してくれる家族や友人との強い絆さえあれば十分さ」


 その迷いを振り切るように、エドルードはマリアベルの手を引いた。

 伯爵夫人から借りたドレスは、サイズが合っていないせいでひどく不格好だ。豊満な胸部は窮屈そうに潰れ、シルエットが崩れてしまっている。生地やデザインだって、とても今風とは言いがたい。

 けれどマリアベルこそはどんな姫君にも見劣りしない最高の女性で、その魅力は服飾などには左右されない。そのはずだ。そうでなければならない。


「そ……そうね、エドにいさま」


 マリアベルはぎこちなく微笑み、エドルードのエスコートに従って歩き出す。

 やっと足を踏み入れられたはずのきらびやかな世界を、何度も振り返りながら。愛しい人が隣にいることこそが最大の幸福で、彼さえいれば豪華なドレスや宝石なんて必要ないのだと、自分に強く言い聞かせて。 


* * *

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