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第一章②

 自室に入って扉を閉めた川澄葵依は、美菜に貰ったばかりのイモチップスと通学鞄をどさどさと足元へ取り落としてしまった。

 なにが起こっているのか即座に判別できない。葵依は両手でゴシゴシ瞼を擦ると、もう一度室内の様子を確認する。

 自室のベッド。毎日葵依が眠っているベッド。

 それが『空中』に浮かんでいた。

 「こ、れは、なに?」

 川澄葵依は停止していく思考の中で、どうにか状況を理解しようと試みる。

「あ、あの……」

 聞きなれぬ声が、葵依へとかけられた。

「ひゃっ!?」

 思わず声が出る。

 室内から葵依へ声をかけたのは、見覚えのない少女。

 自分と同じ半袖のセーラー服を着た、長い黒髪の少女だった。

 あの、と少女が繰り返す。

「あの、あ、あなた、誰ですか?」

 質問の意味を把握するのに、葵依はしばしの時間を要した。

「……それって私の台詞じゃない? ここ私の部屋のはずだけど」

 自分でも意外なくらい、しっかりとした言葉を葵依は発する。

「あ、あのわ、たし、わたしは」

 葵依とは対照的に、少女はまごついていた。戸惑っているようにも見える。

「これあんたが?」

 葵依は浮かんでいるベッドを指差した。

「えと、はい。ま、魔法です」

「まほ、う……? とりあえずそれ、ベッド、私の、降ろせる?」

 おかしな単語が耳に入る。しかし葵依は、それをとりあえず無視することにした。

「あ、はい」

 少女が頷くと、ベッドは音もなく床へと舞い降りた。

 葵依は少女から距離を取りつつ、ベッドへ腰掛ける。自身の足が震えているとわかる。

 部屋から逃げ出したほうが良かったかもしれないと葵依は考えた。

 小さく深呼吸をしてから、葵依は黒髪の少女を見据える。

「いまのもう一回やってくれる?」

「え?」

「もう一回、いまの、やって」

「は、はい」

 葵依の足が床から離れる。すう、と垂直にベッドが五十センチほど浮かび上がった。

 葵依はベッドから降りると、その下を覗き込んだ。ベッドを押し上げるような器具はない。ベッドの上を見渡すも、吊り上げているような糸もない。

「――降ろして、ベッド」

「はい」

 先程と同様に、ベッドが音もなく着地する。

 あの、と少女は胸の前で指を組むと、その黒目がちな瞳を忙しなくうろうろと動かした。

「ど、どう? これね。魔法なの。凄いでしょう? 好きになれそう?」

 少女はちらちらと葵依の顔色を窺う。

 葵依は口元を押さえると床に膝をついた。

「無理。……怖すぎて吐きそう。なにこれ白昼夢?」

「だ、大丈夫? 背中さすりましょうか?」

「やめて。近寄らないで」

「え、はい……」

 葵依の横でしゃがんだ少女は、悲しそうな顔をして離れていく。

 ――この少女はいったい何者なのだろうと、葵依はその姿を盗み見た。

 少女の腰に届く黒髪は蛍光灯の明かりを反射して、濡れているのかと思わせるほどに光沢を放っていた。その豊かな黒髪が、少女の華奢な身体となめらかな白磁の肌をよりいっそうに際立たせる。睫毛の長い円い瞳は潤み、まるで葵依になにかを求めているかのようだった。

 高くはないが形の良い上品な鼻筋に、艶やかに膨らんだ唇。女同士ではあるが、その唇に思わず手を伸ばしたくなる誘惑に駆られた。

 しかしあまりにも色素の薄いその肌は、触れるだけで少女の存在を汚してしまいそうな錯覚に陥らせる。

 まるで絵画から抜け出してきたような、そんな儚い印象を与える美しい少女だった。

 思わず見惚れてしまう。

 これほど美しい人間を、葵依はこれまで見たことがなかった。

 少女は葵依と同じセーラー服を着ている。だが学校で彼女を見た記憶はない。これほど目を引く容姿をしているのだ。一度でも見れば記憶に残るだろうし、皆の話題にもなるはずだ。

「なんだか写真とずいぶん違うみたい。背も高いし……成長期かしら?」

 少女はぶつぶつと独り言を呟いているが、思考をフル回転させている葵依の耳には届かない。

 あの、と少女は言葉を繰り返す。

「あなたに、わたしのパートナーになって欲しいの」

「……はい?」

 葵依は間の抜けた声を出す。

「えと、あなたに、私のパートナー」

「いや、聞き返したんじゃなくて。パートナーってなに? どういうこと?」

 葵依は震える膝を押さえつつ立ち上がると、どうにかベッドへ腰掛けた。

「パートナーって言うのはわたしのお仕事を手伝ってくれる人のことで、わたしはあなたにそれをお願いしに来たの」

「はあ」

 葵依は相槌を打ち、話の続きを待つ。

 少女は小首を傾げた。

「どうかしら? パートナー」

「え? いまので説明終わったの?」

「え? なにかわからないところがあった?」

「いやいやいや。わかんないわかんない。なにひとつわかんない。お願いしに来たとか言ってたけど、そもそも私たち初対面よね?」

「そうだけれど、わたしはあなたのことを知っていて会いに来たのよ」

「嘘つかないで。さっき私に『あなた誰ですか?』とか言ってたじゃん」

「あ、あれは思っていたのとちょっと違ったからつい……」

「思ってたのと違った? なんか失礼なこと言われている気がするんだけど」

「き、気のせいよ。では話もついたし、さっそく初めてのお仕事をこれから」

「なんの話もついてませんけどっ!?」

 葵依は少女へ詰め寄ると、その両腕を掴んだ。

 ぺたり、と少女はその場にへたり込む。

「あわわ。あわわわわわ」

 珍妙な言葉が少女の口から漏れている。

 強くやりすぎたかと、葵依は慌てて手を離す。

「ご、ごめん。痛かった?」

「い、痛くはないわ。でもこ、怖くて……」

 少女は涙目になっている。

 少し捲くれたスカートから、白くて細い太腿がちらりと覗いていた。

「怖い思いをしているのは、私の方なんだけど……」

 葵依は少女へ手を差し出すと、「立てる?」と訊ねた。

 しかし少女はその手を取らずに、じっと見つめている。

 そしてまた「あの」と言った。

「もしかしてあなたは、ふ、ふふ、『不良』というものなのかしら?」

「不良? 私が?」

 少女の問いに葵依は面食らう。そんなことを言われたのは初めてだった。

「ち、違うの? でもあなた髪の毛を赤く染めているし、日焼けをしているし、背も高いし、なにか筋肉質だし。そういう人は不良なのでしょう? 怖い……」

「赤毛なのはお祖父ちゃんからの遺伝で、日焼けして筋肉がついているのは外で部活をしてるからだよ。それに背だって、言うほど高くはないでしょ?」

 葵依の祖父はフィンランド人で、彼の毛髪は孫である葵依に遺伝していた。

 肩に届くふんわりとした癖のある頭髪は、明るい茶というより赤に近い。

 そして少女が指摘したように、葵依は高校二年生の少女としてはやや長身だ。

 日焼けをした引き締まった身体と切れ長の目が、相手に威圧的な印象を与えてしまう。

 けれどそれが誤解であることを、葵依の傍にいる者達はすぐに知ることとなる。

 化粧っけのない瑞々しい肌にたっぷりとした睫毛。

 瞬間的に目を惹くような派手な美しさはないが、祖父譲りのすっと通った鼻筋。

 なにより切れ長でありながらも、性格をそのまま現しているかのようなその優しげな目元が、相対する者に安心感を与えてくれる。

 女子高という限定された空間でさえなければ、彼女に魅了される者は多かっただろう。

 もっとも現在通っている高校においても、少なからず葵依のファンはいるのだが、それは彼女の知るところではない。

 ところで、と葵依が言った。

「私はさっきから手を差し出したままなのだけれど、これは引っ込めたほうがいいの?」

 掴んだら投げ飛ばされるとでも思っているのか、少女はさっきから葵依の手を胡散臭そうに眺めていた。

「……別に投げ飛ばしたりしないけど」

「うへえっ!?」

 少女は驚きの表情と共に、素っ頓狂な声を上げる。

 先程からこの子は、ちょいちょい残念な声を出しているなぁと葵依は思う。

 もしかして、と少女が言った。

「あ、あなたも魔法を? わたしの心を読んだの?」

「まさか。……この話、床に座ったまま続ける? お腹冷えるよ。パンツ見えそうだし」

 うう、と呻き声を上げながら、少女は恐々と葵依の手を握る。

 葵依はひょいと少女を引き起こした。

 華奢な少女は見た目通りに軽い。

 身長は百五十センチくらいだろうか。

 美菜ちゃんよりも少しだけ背が高いかな、と葵依は思う。

「ひいぃぃ。片手で持ち上げられたわ……」

 少女は恐怖に満ちた目を葵依に向け、まるで猛獣を前にした小動物のように震える。

「お願いだから、そんな目で私を見ないで。それよりも、訊きたいことがたくさんあるんだけどいいよね?」

 葵依がベッドへ座るよう促すと、意外にも少女は素直に従ってくれた。葵依もその隣に並んで座る。

 訊きたいことと、訊きたくないことがあるな、と葵依は考える。

 訊きたいのは少女が何者でなにをしにきたのか。

 訊きたくないのは少女が発した『まほう』と言う単語のこと。これを訊いてしまうと、否応なしに巻き込まれてしまう。そんな予感があった。

 とりあえずは無難な――比較的そうだと思える質問をすることにした。

「まずは――さっき言っていた『仕事』ってなに? どんなことをするの?」

 ぐすぐすと鼻を啜る少女に葵依は訊ねた。

 なんだか尋問でもしているような気分だ。

「手伝ってくれるの?」

 少女はズズっと鼻を啜る。

「なんでそうなるのよ。嫌に決まってるでしょ。内容だけ教えて」

「ええと……とても端的に言うと『人の心を救う仕事』かしら」

「さっぱりわからない。具体的に教えて」

「うーんと……魔法を使って、その人の心が救える場所へ行って、心を救うの」

「説明ヘタクソすぎない? 一ミリも内容が想像できないんだけど」

 呆れ顔の葵依に、少女は耳まで赤くなる。

「し、しかたないでしょ。人に仕事内容を説明したことがないのだから。――実際に体験してもらえればわかりやすいのだけれど……どう?」

 少女がさきほどよりも可愛らしく小首を傾げた。

「どう? どうってなに? いまの流れでやると思ったの?」

「やってくれないの?」

「やるわけなくない? だいたいその仕事ってあんたひとりじゃできないの?」

「で、できるわ。でも職場でパートナーを持つように言われているから……」

「なにそのふわっとした理由。そんなので納得すると思ってるの? それに職場ってなによ? どこにあるのよ?」

「し、新宿」

「うーわ近い。ここからすっごく近い。めちゃくちゃ嘘っぽい」

「そ、そんなこと言われても……」

 少女の瞳に涙が浮かび上がっていく。

「パ、パートナーを持たないと上司のひとから意地悪を言われたり、怒られたりするし……どうして持たないのって訊かれるけど、なってくれる人がいないからだし……パートナーいないのもう、わたしだけだし……」

「おお……」

 葵依は吐息を漏らす。

 わかった。わかってしまった。

 事情は相変わらずさっぱりわからないが、きっと落ちこぼれているのだろう。目の前の少女は。

 葵依は、唇を噛んで涙を堪えている少女を改めて見る。

 要領が悪そうで、説明がヘタクソで、おまけになんだか運も無さそうだ。

 そう思うと急に気の毒になってきた。

 が、それとこれとは話が別だ。

 それじゃ、と葵依が淡々と言う。

「気を付けて帰ってね。寮母さんに見つかると面倒だから、バレないように注意して。あともう私の前には二度と現れないでね」

「ウソでしょ!? わたしをこのまま放りだすの!? 人の心はないの!?」

 少女が葵依の胸に縋りつく。

「ちょ、近づかないで怖いからっ! 人を呼ぶよ!? 不審者扱いされるんだからね」

「じゃ、じゃあお願い! 最後のお願い! 目を、目をつぶって」

「な、なによそれ! 嫌よ怖い! 怖い怖い!」

「一瞬! 一瞬だけでいいから!」

 少女は葵依の腰へ両腕を回すと、絶対に離さないとばかりにしがみつく。

「ひいっ! お母さん! 助けてお母さん!」

 葵依は少女を引き剥がそうと顔を押すが、がしりと組みついて離れない。

「えーん。お父さーん!」

「む、無駄よ。助けなんてこないわ。諦めなさい」

「あ、あんたねぇ! 自分がなにを言っているかわかってんの!? ああもう!」

 葵依はぐっと両目をつぶる。

 そしてすぐにそれを開いた。

「ほら! 目をつぶったよ! だから離れ……て……」

 開いた葵依の視界に広がるのは。

 ――満天の星空だった。

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