序章2
西行寺と呼ばれた少女が説教部屋から出ると、フロアにいる二十余名が一斉に少女へと視線を向けた。
席を立っているのは二名で、残りはデスクで事務作業をしている。フロアは背の高いパーテーションで三つの課に区切られていて、少女のいるここは『対策一課』と呼ばれていた。二課と三課も隣接しているが、他の課をパーテーション越しに覗き見ることは出来ないようになっている。
少女がぺこりと頭を下げるのと同時に、フロアの入り口近くからショートボブの若い女性が猛スピードで駆け寄ってきた。
「ひゃっはー! 新鮮な女子高生だー!」
甲高い声を上げながら少女へ抱きつくと、その顔に頬ずりをする。
「うひぃ!」
「ひゃっはー! すべすべだぁ! くれよその肌ぁ!」
「ひぃっひぃぃぃ……」
悲鳴を上げて逃げようとする少女をさらに強く抱きすくめ、女性は頬ずりを続ける。
「やめなさいって。いつもいつも。だから嫌われるのよ。ツムギは」
いつからそこにいたのか、セミロングの女性がショートボブの女性の肩を掴んで少女から引き剥がす。
「えー。ちょっとくらい良いじゃない。ねぇ、ヒメちゃん。……え? 嫌われてるのあたし?」
「え、えっと……」
「ほら。困っているでしょ。ごめんなさいね。西行寺さん。ツムギがあなたを待ち伏せしようってきかなくて」
少女の乱れた黒髪を手ぐしで整えながら、セミロングの女性が謝罪する。
「い、いえ。びっくりしただけですから。髪、ありがとうございます」
「あたしもヒメちゃんの髪の毛触っていい?」
「やめなさい」
ツムギが少女の髪へと伸ばした手を、セミロングの女性が掴んで止める。
「えー。ちょっとくらい良いよねぇ?」
「ちょっとちょっとって、さっきから同じことばかり言って。セクハラおじさんみたいよ」
「そう言うレイはやめろやめろって、口うるさい継母みたいね」
「なによ継母って……」
ツムギとレイのやり取りを視界の隅に入れながら、少女はじりじりとふたりから距離を取っていく。
「ひゃっはー! ここは通さねぇぜー!」
だがその少女の行く手をツムギが遮った。
「ひぃぃ……」
「だからそれ、やめなさいって言っているでしょ」
レイがツムギのうなじを掴む。
「わーかったって。もうしないから放してよ。あ、痛い。お願いします放してください痛い痛い」
やれやれと、レイが痛がるツムギを解放した。
「西行寺さんは、次にどこへ行くかもう決めたの?」
レイの問いに、少女が「はい」と答える。
「渋谷近くの高校です。そこの寮に入るつもりで」
ツムギがパッと眼を輝かせた。
「いいなー! あたしも高校に通いたい!」
「なにを言っているの。あなたはもう二十五歳でしょう」
「レイだって二十五じゃん」
「二十四よ」
ところで、とツムギが少女に訊ねる。
「どう? パートナーは見つかりそう?」
「いまはまだなんとも……でも、そこで決められたらとは思っています」
「おー! ついにヒメちゃんもパートナーを!」
ツムギは驚き、レイが嬉しそうに微笑む。
「西行寺さんなら、きっと良い人とめぐり会えるわ」
「パートナーとの関係はね、最初が肝心だよ。最初に舐められると、あたしみたいに毎日お小言を言われるからね。最初にガツンと上下関係を示したほうがいいよ」
「ツムギの場合は私生活がだらしないからでしょ? 飲み終わったペットボトルをベッドの隅に溜め込んでおくとか意味がわからないもの。どうして捨てないのよ?」
「面倒臭いんだもん」
「それで私に片づけさせるのね?」
レイがギロリとツムギを睨む。
「い、いい、いやいやそういうわけじゃなくてですね。そ、そうだヒメちゃん。パートナー候補の子に当たりはつけているの?」
「はい。調査班の方たちが何人か見繕ってくださって」
「良さそうな子がいたのね?」
レイが訊ねる。
「ええ。わたしよりすこし背が低くて、優しそうな子がいるんです。その子、寮のふたり部屋をひとりで使っているらしくて。同室になれるように手配をお願いしてあります」
「ほうほう」
ツムギとレイが、やや俯き加減の少女の爪先から頭の天辺へと視線を移動させる。百六十センチそこそこのふたりが見下ろす少女の身長は、いいところ百五十センチ前後だろう。
「ヒメちゃんよりちっこいとか、マジウケるねー」
能天気な声を出すツムギの脇腹を、レイがすかさずつねった。
「痛ったい! もげるっ!」
「パートナーが決まったら私たちにも紹介してね。西行寺さんの場合は、少し強引にいくくらいの気持ちでちょうどいいんじゃないかしら」
レイはツムギの脇腹をつねったまま、笑顔で少女に言う。
「は、はい……」
「でもあたしたち、しばらく日本を離れるんだよね。紹介してもらうのは、帰国してからになっちゃうかな」
ツムギはレイから逃れると、脇腹をさすりながらそう言った。
「海外へ行かれるんですか? どこへ?」
少女の問いに、ツムギが足元を指差す。
「ほぼ日本の裏側。結構やっかいな規模で『クライエント』が発生しているらしくて」
「そう、なんですか……」
少女の声が沈む。
「心配しないで、西行寺さん。私とツムギは大丈夫だから」
「そうそう。ヒメちゃんの方こそ、困ったことがあったら連絡してよ。飛んで行く――のは無理だけど、相談くらいなら乗れるから」
「はい。ありがとうございます」
「ごめんなさい。西行寺さん。引き止めてしまって」
「いえ。大丈夫です」
「ヒメちゃんまたね。パートナー選び、がんばって!」
少女はツムギとレイに頭を下げると、フロアの出入口へと歩みを進めようとした。
そしてわずかに、その足を止める。
フロアにいる全員の目が、少女へ向けられていたからだ。
だが彼らはすぐに視線を逸らした。まるで少女の存在など、気にもかけていなかったかのように。
少女もすぐに歩き始める。彼らの行動に気づいていないと装って、ゆっくりとフロアを進んでいく。
そんな中でひとりだけ、少女から視線を外さない青年がいた。
少女はその青年に気づかない。顔を俯かせ、長い黒髪で、少女は自身とこの場にいる者たちの姿を遮っている。
ばさり、と音を立てて、少女の足元に一冊のカタログが落ちた。
少女が足を止める。
ヒッ、と短い女性の悲鳴がした。カタログは、その女性の机から落ちたものだ。
フロア内の空気が明らかに緊張したものへと変わる。
誰かの唾を飲む音が聴こえるほどの静寂が訪れ、事の成り行きを皆が見守るも、口を開く者はいない。
ツムギとレイのいる場所からは状況が見えないようで、急に足を止めた少女に対して、どうしたのかとふたりは様子を窺う。
カタログを落とした女性が、怯えた顔を少女へ向けた。
「ご、ごめんなさい。じゃま、じゃまするつもりじゃ――お願い、許して……」
女性は胸の前で両手を組み、わなわなと唇を震わせる。
事情を察したレイが気色ばんだ。
「ちょっとあなた! そういう態度はないんじゃ――」
「まあまあ落ち着きなよ」
ツムギがレイの言葉を遮る。
「ヒメちゃんなら心配ないって。黙って見てなさいな」
「でもあんなの!」
「いいからいいから」
なおも不満を口にしようとするレイを、ツムギが押しとどめる。
少女はふたりのやり取りを耳にしながら、しばし逡巡する。そして決意したようにカタログを拾うと、それを落とした女性の机へとそっと戻した。
緊迫した空気の中、少女は俯いたまま口を開く。
「――だ、だい、大丈夫です。わたしこそ、じゃまし、じゃまして、ごめん、ごめんなさい」
か細く、たどたどしくそう言うと、少女はすこし歩みを速めてフロアを横断した。
そして再び頭をぺこりと下げると、スチール製の両開き扉を開けてそそくさと出て行った。
はぁー、と長い安堵のため息があちこちで上がる。
ほらね、とツムギが得意げな顔をした。
「心配なかったでしょ?」
「……私、ああいうの好きじゃないわ」
レイが不満そうに頬を膨らませる。
あははとツムギが笑う。
「あたしだって好きじゃないって。でもね。あなたがあたしやヒメちゃんを守ろうとしてくれるから――なんて言うか、救われるのよ」
「……そんなの、当たり前じゃない」
あんたとはパートナーなんだから、とレイが付け加える。
カタログを落とした女性は、同僚たちから「大丈夫?」「平気?」と声をかけられていた。
しかし当の本人は、先程とは打って変わった上気した顔で「うん! うん! お話しちゃった!」と興奮気味で両肘をバタバタと上げ下げしている。
その様子を尻目に、少女から目を離さずにいた青年が、隣席に座る赤縁眼鏡の男性を指先でつついた。
「ちょっとちょっと先輩。いまなにが起こったんです? なんかみんなの様子おかしくなかったです?」
「なんかもなにも、明らかにおかしかっただろ? なにおまえ? まさかあの子を知らないのか?」
赤縁眼鏡は青年の手を払うと、呆れた顔を向ける。
「いや知りませんって。オレ先週四国から異動してきたばっかりですよ」
「勤務地とか関係ないぞ。顔見てわからないとか冗談だろ?」
「そう顔! ちらっとしか見えなかったけど、めっちゃくちゃ美人じゃなかったですか? いまどき腰まで届く黒髪とかレア過ぎるし! あの子、ここに所属してるんですよね? 次に来たとき連絡先とか訊いちゃおっかなぁ」
まじかよ、と赤縁眼鏡が身体を引く。
「本気で知らなかったのか……。ここ――というか、俺たちと同じ組織で働いていれば、誰でも知ってるってレベルの人間だぜ。彼女は」
「だから誰なんです? もったいぶらないで教えてくださいよ」
「俺としては答えを言っているつもりなんだけどなぁ。まあいいや。――問題。いまから十七年前になにが起こったか。答えてみろ」
えー、と青年がうんざりした声を出す。
「オレ、先輩のそういうまどろっこしいところどうかと思いますよ」
「俺はおまえのそういう無礼なところがどうかと思うよ」
はいはい、と青年がわざとらしく首をすくめた。
「ええっと、十七年前って言ったら――え? 十七年前?」
さっと、青年の顔から血の気が引いていく。
「……十七年前って、もしかしてあの」
「そうだよ。やっとわかったか」
赤縁眼鏡は腕を組み、フンと鼻を鳴らした。
「――彼女の名前は西行寺姫華。かつて『人類の敵』とまで呼ばれていた女の子だよ」