序章1
「本当に休暇を取らなくてもいいの? まだ慌てなくてはいけない状況ではないのでしょう?」
グレーのスーツを着た、五十代くらいの痩せた女性が心配げな声音で訊ねる。
はい、と長い黒髪の少女が頷いた。
「いまは大丈夫でも、明日には違っているかもしれませんから」
顔を上げた少女の視線は、目の前の女性へ向けられてはいない。ふたりが挟む木製テーブルに置かれている。それが彼女の癖なのか、それとも意図的にそうしているのかはわからない。
「困ったわねぇ……」
女性がそう溜息混じりに言うと、目の前の少女がぎゅっと両手を握り合わせた。
その様に、女性は少女と初めて会った日のことを思い起こす。
色の白い娘だというのが第一印象だった。染料でも塗っているのかと思うほど肌が白く、対照的に墨汁でも染み込ませているのかと見紛う黒髪。
だがその第一印象は即座に上書きされることとなった。
初対面の少女は両手の拳を握り締めたまま、ただの一度もそれを緩めずにいた。こちらからの問いかけには返答をするが、少女からの質問はひとつとしてなく、俯いたまま身じろぎもせずにいる。
まるで地面に突き立てられた、頼りない木杭のようだと女性は思った。
――さてどうしようか、と女性は少女のぎゅっと握り合わされた両手を見る。
このまま感傷に浸っていても仕方がないし、個人的な事情であまり少女を刺激したくもない。
新宿にあるオフィスビルのワンフロア。その最奥にある十二畳ほどの部屋に、女性と白いセーラー服を着た少女は向かい合って座っていた。
室内にあるのは二脚のパイプ椅子とテーブル。窓はなく、外からは室内の様子が窺い知れない。部屋の扉には応接室と表示されているが、ここで働く職員達は誰もそうは呼ばなかった。
『説教部屋』
それがこの部屋の通称だった。
部屋にいるのは女性と少女のふたりだけだ。女性が少女と面談を行う以外に、この部屋は久しく使われていない。
女性は腰を上げ、スカートの皺を伸ばしてから座りなおす。
西行寺さん、と女性が少女を呼ぶ。
「私には、あなたたちのような『ちから』がないから強くは言えない。でもわかるわよね? あなたがやってくれている仕事は危険で、もう数えるほどしか担い手がいないの」
西行寺さん、と女性が繰り返す。
「だから私は、あなたに休んで欲しいのよ。一週間――ううん。三日だけでもいいから。『それでもあなたは行く』と言うのね?」
女性の声は優しい。けれどその言葉の中にあるのは、責任の所在を明確にさせたいという意図だ。
それは少女へ正しく伝わる。
「――はい。『自分の意思』で、そうします」
はっきりと少女は答えた。
「そうですか。わかりました。なにか必要な手配はある?」
察しが良くて助かる。もともと扱いづらい娘でないのだ。女性はパイプ椅子の背もたれに体重をかけた。
「高校の寮に入ろうと思っています。パートナーもそこで決められたらと」
「あら。ようやくあなたもパートナーを持つ気になったのね?」
女性の声のトーンが上がった。
「ええ。同室になる人をすこし調べてもらっています」
「良かった。口うるさく言った甲斐があったわ。形骸化しているとはいえ、規則だから。入寮の手続きはこちらでやっておくから安心して。学校名はわかる?」
「私立の武蔵東学園です」
「むさしひがしがくえん、ね。漢字はこれで合っている?」
女性は手帳に書いた文字を少女へ見せた。
「はい。合っています。――では、わたしはこれで失礼します」
少女が椅子から立ち上がろうとする。
「待って西行寺さん。あなたはいま、いくつだったかしら?」
「十七歳です」
「じゃあ編入する学年は二年でいいかしら?」
「はい」
「そう。もういいわ。行きなさい」
そう言った女性の背中に、ぶわっと汗が浮かぶ。
しまった、と女性は下唇を噛む。「行きなさい」などと偉そうな口を利いてしまった。少女の気分を損ねたかもしれない。
恐る恐る女性は少女へと視線を向ける。
扉の前で、少女は深く頭を下げていた。
「はい。よろしくお願いします。失礼します」
少女は踵を返すと静かに扉を開けて室外へ出て、静かにそれを閉めた。
女性は目を見開き呼吸を忘れたまま、少女の立ち去った扉をしばし凝視する。
やがて長く息を吐いて脱力した。
「――まったく。もう三年も経つのに慣れないものね。他の子たちには、こんなことないのに」
女性は扉の脇にある掛け時計を見た。時刻は十五時八分。
「……私、今日あの子の顔を見た?」
自問して、女性はごりごりと乱暴に眉間を揉んだ。