アップルパイを召し上がれ
急用ができたから、デートはまた今度な。
そう言った彼氏は、日曜日を賑わせるロサンゼルスの某ショッピングモールで、鼻の下を伸ばしながら知らない女と歩いていた。
怒りで鼻息を荒くした彼女は二人に駆け寄り、彼の腕をぐいと引いて振り向かせると、そのままバチンと平手打ちをかました。ド派手な破裂音に人々は振り向く。
「ちょっと! 誰よこの女!」
そして今時ドラマや漫画でも聞かないベタな台詞がモール内に響いたのだった。
*
先週末のショッピングモールでの出来事をジェシカは今日まで執念深く覚えていた。失敗や事故による心の傷は、大抵美味しいものや時間が解決してくれるものだが、今回はまだその説を実証できていない。チーズたっぷりのベーグルサンドを一度に四つ食べても、腹がみっちりするだけで全然満足しないし、胸はムカムカしたし、体重は二キロ増えた。四日過ぎてもあの日のことは昨日のことのように思い出す。悔しさのあまり、もう五、六発ひっ叩いてやれば良かったと思うといてもたってもいられず、部屋のクッションでソファを力任せに殴りつけていたら、昨日ついに中の綿が部屋中に散乱した。
そんな話を大学のカフェテリアで友人に向けて愚痴るのも三度目だ。今日もジェシカはランチにベーグルサンドを頬張る。しかしやけ食いの時期はもう過ぎたようで、テーブルの上の品数は常識的な量になっていた。
「まだロブから連絡来ないのよ!? 普通何か言ってくるでしょ!」
「嵐が過ぎるの待ってるのよ。だって平手打ちして、浮気相手と三人でカフェ行って事情話された後にロブに水ぶっかけたんでしょ? ジェシカのことよくわかってるじゃない。私だって下手に連絡しないわよ」
「アンタは毎度毎度どっちの味方なのよ!」
「ちょっと勘弁してよ。私はどっちの味方でもないからね。友達だから話聞いてるだけ」
会話するにはヒステリックな声のせいで、二人の周りには人が寄り付かない。少し離れたところから好奇心の詰まった視線が向けられるが、誰もが触らぬ神に祟りなし精神で視線以上のものは寄越さなかった。ジェシカが何か愚痴を言う度に起こる現象である。このせいでジェシカは密かに「マンドラゴラ」なんてあだ名をつけられているが、本人は恐らく知らないはずだった。
友人は八つ当たりを軽くいなしながらジェシカのプレートからフライドポテトを摘み食いした。短期間で体重が増えたので、堂々と失敬されてもジェシカは文句を言わなかった。しかし目は極めて恨めしそうに友人を見る。自分の味方をしてくれないからなのか、ポテトを取られたからなのか、その両方なのか、定かではないが、大雑把なこの友人の前では些末なことだった。意に介さない態度のまま、彼女はジェシカの愚痴に対してコメントをつけていく。
「っていうか、ジェシカは神経質すぎ。浮気くらい大目に見るべきよ」
「それはアンタも浮気性だからそう思うんでしょ」
「もちろん。ボーイフレンドは多ければ多いほど楽しいのよ? ジェシカは男に誠実さを求めてるのよね。ロブがプレイボーイなんだからあんたも同じくらい遊んでる方がちょうどいいのよ、絶対」
「軽薄。私はそうは思わないわ」
友人が話している間にアイスティーを吸い、お説教を聞き流した後に悪態をつくように吐き捨てた。その友人のアドバイスは、浮気された愚痴を話す度に再三再四言われていることだったので真面目に聞く気も起きなかった。
ジェシカが浮気されるのはこれが初めてではない。現在の話の種になっているロブには片手で数えられないほど浮気されてるし、ワンナイトラブも数に入れるなら両足入れて数えても指が足りない。わかっているだけで、だ。それに加えてロブ以前の交際相手も全員浮気男だった。ついでに目の前の友人も浮気女だ。恋人や友人は過ごす時間が長ければ似てくるというのに、彼らはジェシカの一途さにまったく影響を受けず、いつだってジェシカが癇癪を起こすことになる。そしてそれが大抵別れの原因になってしまうのだった。
「ジェシカを彼女にしときたいって気持ちもわかるけどね。見た目いいし面倒見てくれるし、真面目なところだけなんとかすれば」
「ちょっと。私はママじゃないのよ」
「そこなんだよね〜、ママになっちゃうんだよジェシカは」
「だから浮気するってわけ? 信じられない」
ベーグルを口に押し込み、くしゃくしゃに握った包み紙をバンとテーブルに叩いた。だがやはり友人は意に介さず、二人は浮気賛成派と反対派として、不毛な水掛け論を繰り広げた。
愚痴を話されるからコメントをつけてやっているが、女の愚痴は解決を目的としていないことを友人はよくわかっていた。そもそも女の愚痴に目的はない。自分の主張を世界一正しいかのように語るのが一番大事で、それが実際に正しいかは問題ではない。言わなければ気が済まないから話す。それだけのことだ。
友人はそれを不毛だと思う。だけどそれを言えばジェシカが余計に腹を立てることはよくわかっていた。浮気を不名誉だと思うのならば、いっそその概念を捨てて浮気を受け入れた方がジェシカも楽になるだろう。しかしジェシカは友人の主張を一度も聞き入れない。浮気を許さないことがジェシカの信念なのだ。ただ、結局相手が別れ話を持ち出すまで恋人関係を続けているのを見ると、軟弱な信念だとは思う。自分から別れられず、浮気された後もダラダラと付き合っているということは、浮気を許しているということなのだから。男は助長するし、そういうところが浮気される隙になる。
友人は浮気する立場からジェシカのその浮気男製造気質をよく理解していたが、面倒くさいので口を閉ざしていた。ジェシカのことは嫌いじゃないが、恋愛においては根本的に価値観が合わないし、理解させるのも一筋縄ではない。そこの理解を近付けるのは恋人の役割だ。友人なら恋愛観が合わずとも他で合わせられるのだから。
そのようにジェシカを分析している友人も、結局やっていることはジェシカと同じで、自分の主張を押し付けである。しかし本人は気付いていなかった。
「ま、連絡来ないのが気になるならジェシカからすれば? 嬉しくって飛んで戻ってくるかもよ」
「なんで私から連絡しないといけないのよ!」
友人は水掛け論に飽きて適当に話をまとめようとしたが、失敗したようだ。しかしこのやり取りも過去に幾度かしたことがあるなと思い出し、友人は目を細めて浅く何度か頷いた。面倒くさいものを刺激したくない時の顔だった。それを隠そうともしないことが癪に障って「私何かおかしい!?」とヒステリックに噛み付く。
ジェシカにとっては浮気する方がおかしいのだ。だから自分が優位でなければいけないし、こっちが機嫌を伺うなんて負けを認めるようなものだ。そんなことをまた主張しはじめたが、友人は明らかに右から左に聞き流して自分が注文したミートパイを口に押し込んでいた。もうジェシカのポテトには手を出さない。
聞き流していた主張にはあえてコメントせず、友人は鞄とトレイを持って席を立った。
「今度浮気されたら、平手打ちして水ぶっかける前に私を呼んでね。ジェシカじゃないと見られないもん」
面白がっている口ぶりでそう言い残し、友人は次の講義に出席するために去っていった。
ジェシカは自分の主張を聞き入れない友人にヘソを曲げて、一枠空いているのを理由にアップルパイを追加で注文して食べた。
*
「フライドチキンでもやけ食いしたか?」
ホールを周りテーブルから空いた皿を下げた後、先ほどシフトに入ったばかりのニックからそう声がかかった。突然何を言われたのか理解できず、ジェシカは怪訝な顔で聞き返した。
「フライドチキン? 何?」
「食い過ぎて死にそうな顔してるぞ」
「別に何も食べ過ぎてないわよ」
「じゃ、生理か?」
気さくな調子で続けてそう問う彼に、ジェシカは射抜くような視線を向けて吐き捨てた。
「最低」
彼は普段ならばフランクなムードメーカーなのだが、今はそのふざけた態度に客が残したコーヒーをぶっかけたくなった。しかし気持ちを抑えて、持っていた皿を水の溜めた流しに入れる。そして付き合ってられないと言いたげに、虫を払うような仕草をした。
「カフェの店員が仏頂面じゃ客が逃げるぜ」
「接客中はちゃんとしてるわよ」
返事の代わりに口笛が吹いた。イラつくことでもないのにいちいち腹が立つのは、やはりまだ浮気とカフェテリアのことを引きずっているからだろうか。少なくとも、お腹が空いているからではない。
——カラン
店のドアのベルが鳴り、ニックと共にそちらを向く。一人の客が入店し、中に入ってきたところだった。起毛のセーターにロングスカートを合わせ、小さなバッグを下げた女だ。彼女を見た途端、ジェシカの顔が引きつった。
女性客はジェシカと目が合うと、至極人の好さそうな顔で微笑んで近付いてきた。
「こんにちは」
声は穏やかで、鈴のようだった。柔和で悪意の欠片もないその女にジェシカがイラついたのは、彼女が今回のロブの浮気相手だからだ。
「何しに来たわけ?」
「もちろんコーヒーを飲むために」
「アンタに出すもんなんて何もないわよ」
明らかにケンカ腰のジェシカにニックは慌てて前に出る。客の風貌を見て、難癖をつけて面倒を起こすタイプの客ではない印象を受けたのだろう。実際その女には教養を身につけた人間の清潔さがある。また、砂糖菓子が似合う柔らかい雰囲気は、対する相手に人畜無害で女性らしいか弱さを感じさせた。
「おいおいおい、客に絡むなよ。悪いね、好きなとこ座って」
ニックが言うと、女はさして気にしていない様子で微笑み、奥のテーブル席へ移動していく。その様子を見た後、ニックが小声で「客に八つ当たりすんなよ」と指摘する。
「知り合いか?」
「関係ないでしょ」
女を見た途端、頭にずっと居座っていた週末の出来事が克明にフラッシュバックした。
彼女の名はミルア。ロブ曰く、女友達を通じて最近知り合い、週末は共通の友人も含めて出かけるつもりだったが予定が変わって二人で出かけていたらしい。
にも拘らず、何故ジェシカが浮気相手だと断定しているかというと、ロブは友達だろうが彼氏持ちだろうが、ベッドインできる雰囲気と女にその気さえあれば、朝でも昼でも構わず寝る男だからだ。
過去にそうしてロブと寝た女は大抵ジェシカに余裕の態度を見せた。私の方があなたよりも魅力的な女なのよ。そう言いたげに。だから隙がないくらい余裕のあるミルアの態度は、恋人を出し抜いて男を寝取った優位から来るものに思えた。
店に来たのがミルアではなくロブだったなら、ニックはああもすぐ割って入ったりしなかっただろう。ジェシカはニックに仕事仲間以上の感情は持っていないが、男が自分以外の女に興味を持っているのを見るとどうしようもなく腹が立つ。
だからニックが行く前にミルアに注文を聞きに行ったが、彼女の余裕綽々の態度に自分の神経質さを味わっただけだった。
パントリーに下がりしばらく洗い物をしてから、デシャップ台の方から声がかかる。
「ほい、八番テーブル」
置かれたのはアップルパイとアイスコーヒー。先ほどジェシカがミルアから取った注文だ。
「……ニック行ってくれない?」
「お、いいの?」
手が離せないというほどではなかったが、単純に行きたくなくてニックにそう伝えると快諾してくれた。仕事を押し付けられたのに彼はむしろ嬉しそうだ。
ホールに出なくても、客席の様子は見ていなければならない。今はどこのテーブルに食事があるか、帰った客はいないか、トイレの状態は問題ないか、備品は足りているかなどのチェックもしなければならないため、オーダーがなくても仕事がゼロになることはない。
当然、客であるからには八番テーブルも見なければならない。が、オーダーをテーブルに置いた後のニックがミルアと何やら談笑している様子を見ると、あの席に限っては全部彼に任せてやりたくなるほど和やかだった。しかしそうそう長く留まることもなく、ラウンドの後にパントリーの前を通りかかると、彼はニヤニヤしながらジェシカに言った。
「彼女ロブに聞いてここに来たんだってさ」
「でしょうね」
聞くまでもない。ミルアはジェシカを覚えていたのに、この店に入った時に驚いたリアクションを取らなかった。つまり入店する前からジェシカがいることを知っていたのだ。二人の接点はロブしかない。つまり情報源もそこだけだ。
「珍しいタイプだ。君とは正反対」
「ああいうのタイプ?」
「興味あるね」
「趣味ワル」
ニックはそのままデシャップに戻っていった。あちらもコーヒーをすぐに出せるように片付けや諸々の仕込みなどしておかなければならない。ニックが離れた後、マスターが休憩中の食事をどうするかジェシカに訊ねたので、頭の中に叩き込んでいるメニューから好物を伝える。この洗い物を終わらせて、休憩に入るタイミングで食事は出来上がるだろう。
休憩はいつもカウンターの空席だ。マスターがスモークチキンとチーズのバケットサンドを、ニックがアイスコーヒーをカウンターに置くと、ジェシカは手を拭いて客席に回り休憩を取り始めた。一口がぶりつき、咀嚼している時だった。
「お隣いいですか?」
ジェシカが答える前に、ミルアは隣に座った。ジェシカは口を開かない代わりに至極嫌そうな目を向けたのだが、来店時のようにニコニコと微笑んでいるだけで全く怯まない。ジェシカはわかりやすく、しっし、と手を払った。その無礼千万な態度に怒りもしないので、カウンターの中で二人の様子を見ていたニックは、実はものすごく仲良いんじゃないか? と思っていた。
「いいじゃないですか。空いてますし。それに一人のご飯は寂しいでしょう」
「アンタと食べるくらいなら、食べたものの味を全部科学成分で報告してくるゲボ野郎と一緒の方がマシ」
飲食店にあるまじき言葉遣いにマスターから鋭い視線を向けられ、ジェシカは肩をすくめた。何を言っても立ち去らなそうだと察したので、ジェシカは不機嫌さを隠さず、カウンターに肘をかけて足を組み、自ら嫌われようと嫌な女のポーズをとった。
「アンタ何? 私のこと笑いに来たの?」
「いいえ。本当にそんなつもりじゃないんですよ」
ジェシカは怪訝な表情を浮かべる。信用していないという顔だった。
「忘れられなかったんです、ジェシカさんのこと」
意味深な台詞に、カウンターの中にいる男二人は興味深そうに二人を見た。対してジェシカはさして心に響いた様子もなく、それはそうだろうとあの時のことを思い出した。恋人を平手打ちするシーンなんて日常ではそうそうない出来事だ。寝て起きてすっかり忘れられるのは蚊帳の外の人間だけだろう。その時の恥を誤摩化すのと、ミルアを馬鹿にしてやりたくて、ジェシカは鼻で笑った。
穏やかな声には情熱の欠片も感じられなくてやはり嘘くさい。しかしミルアは構わず続けた。
「それで少しお話してみたくなったんです。気になった人のことは一方向から見たくないんですよ」
「……ふーん」
その時ようやく、少しだけなら話を聞いてやろうか、という気になった。ミルアの発言の裏に、ジェシカがいったいどんな人間なのか、ロブを通して情報を得ていることを察したからだ。一体ロブから何を吹き込まれているのか聞いてみたくなった。
しかしこのままカウンターでニックとマスターに聞かれたくはない。ジェシカは腰を上げ、皿とグラスを持った。
「じゃあ話してみる?」
そう問うと、ミルアは微笑み席を立った。
ミルアが掛けていた八番テーブルに移動すると、ミルアは奥の壁一面に添えつけられた長いソファに腰掛けた。ジェシカはその手前の椅子を引いて腰掛け、単刀直入に訊いた。
「で、私のことをどう思ってたわけ?」
「きれいな人だなと」
「そうじゃなくて。ロブから私について何か言われたんじゃないの?」
「まあ、多少は」
ミルアはそれだけ答えると、アイスコーヒーを運んで口を休めた。何から話そうか考えているのか、話し始めるまで少し開く。ジェシカは自分とミルアの間で話題の焦点が微妙にズレているように感じて、親を前にしている時と似た気分になった。自分の機嫌の悪さに一切触れようとしない態度も親に似ている。年齢は自分と同じくらいに見えるので、ミルアのそういう雰囲気はきっと生来のものなのだろう。いったいどういう環境で育てばこんなのほほんと生きることができるのだろうかと、愚痴っぽくなっている心境でジェシカはミルアを観察していた。当の本人はそんな風に思われているのをつゆ知らず、フォークで切り分けたアップルパイを小さな口の中に入れた。
そうして一息ついた後、ようやく話が続いた。
「ロブさんっていい人ですよね。人懐っこくて一緒にいると楽しいし、頼ってくれるし、母性をくすぐられるというか」
「……まァね」
そんなことを聞きたいわけじゃない。やっぱり失敗だったかなと、ジェシカは頬杖をついて聞き流した。
「でも恋人を放って他の女性と遊ぶところは軽薄だと思います」
「そうなのよ!」
ミルアの言葉にジェシカは手のひらを返したように勢い良く飛びついた。それに対してミルアは大して驚いた様子も見せず、他の女性と出かけることにあまり後ろめたさもないみたいですよね、と続けた。ジェシカは頭がちぎれんばかりに頷く。そこから「アンタが初めてじゃないのよ、前なんてね」と、浮気に関する愚痴を堰を切ったように話し始めた。その話はこれまで友人に話したものもあるし、聞き流されるのが嫌で胸に留めたままのしこりもあった。同意してくれる人がいるだけで言葉は流暢に流れていく。その饒舌っぷりは水を得た魚だった。ミルアが頷くだけでジェシカはここに理解者がいるという気になり、単純にもそれだけで彼女への敵意は霧散していった。
「やっぱり。そう言ってくれると思いました」
そう言って手を合わせるミルアは、彼女も浮気男に悩まされた経験があるようにジェシカに思わせた。そのエピソードも聞いてみたかったが、今は人の話を聞くよりも自分の話をひたすら聞いてくれるミルアに、自分の中身が空っぽになるまで話したくて堪らなかった。自分の話を否定せずに聞いてもらえると、友人にさんざん言われていた「真面目すぎる性格」が浮気をさせてしまう原因なのだろうかと相談めいた話まで不思議と吐き出していた。
しかし、楽しい時間というはあっという間に過ぎ去る。思い出した時に時計を見たら休憩時間ギリギリに迫っていることに気付いた。ジェシカは慌ててサンドイッチを口に突っ込み、アイスコーヒーで流し込む。
「もう時間ですか? 早いですね。もっと色々聞いてみたかったのに」
「私も話し足りないわよ。ここまで話すとは思ってなかったけど」
「また来るので、その時にまた色々聞かせてくださいね」
「じゃあさ」
ジェシカはミルアの隣にするりと移動し、小声で何か伝えた。ミルアが微笑んで頷くと、ジェシカは意気揚々と自分の皿とグラスを持ってパントリーに戻っていった。
一変して機嫌が良くなったジェシカに、ニックは呆れながら言う。
「仲良いじゃん」
「まあね」
その後ミルアはアップルパイとアイスコーヒーがなくなるまでゆったりと本を読み、二十分ほどした後に店を出て行った。その時に「じゃあ、またあとで」と言ったミルアに、ジェシカは口角を上げ、軽く手を振って応えた。
*
EDMが響くフロアの中。ショットグラスを一気に呷ると、周りから歓声が上がった。それを飲み干した本人は酔いなど知らぬ顔をしており、周りの方がよっぽど出来上がっていた。
「なぁんだミルア! 思ってたより全然イケるじゃーん!」
ジェシカは周囲の喧噪に負けないくらいに豪快に笑い、ミルアの肩を組んだ。ミルアは少しだけ得意げ笑いながら、ショットグラスをカウンターに置いた。
ジェシカがミルアを連れて来たのはクラブだった。カフェに訪れたままの格好では絶対に浮くので、クラブに行っても恥ずかしくない服を着てこいと言われたミルアは一度着替えるために帰宅した。シフトが終わった後のジェシカもメイクを直し、肩口が広く開いたニットのセーターにスキニーパンツ、ゴツい白スニーカーというスタイルで店の前でミルアを待つ。
ミルアは髪をポニーテールに結い上げ、深い色のミニワンピースにチェーンバッグを提げて、不自然ではない格好で待ち合わせ場所にやって来た。控えめだったメイクも昼間より発色のよいものとなり、夜の雰囲気に合っている。一度もクラブに行ったことがないだろうと思っていたので、ジェシカはその格好を見てまた少しミルアを見直した。
何度かナンパされたが、ミルアはジェシカの腕を取りながら意味深に断っていた。フロアで踊って少し汗をかくと、小休止を入れるためにカウンターの端に肘を掛けて小さく乾杯をする。強い酒を舐めるように飲みながら、ミルアはジェシカに訊ねた。
「ロブさんのどんなところが好きなんですか」
その問いはカフェから続いた今日の本題に聞こえた。
「さあ」
ジェシカの口調は酔いに揺れていていた。目線の高さまでグラスを上げ、カクテルと踊る人々を見る。
「本当に好きかわかんないわ。アンタはロブに惚れたの?」
「出会ったばかりですよ」
苦笑まじりに返ってきたその答えにジェシカは笑った。子供の可愛い無知な質問を聞いたような笑い方だった。
「恋に時間なんてないわよ。一瞬で恋に落ちれば、いつのまにか消えてたのに気付かないこともある。逆もそう」
自分の方が恋愛経験が豊富だと確信しながらジェシカは恋についてそう語った。
「ジェシカさんはどっちなんですか?」
「どうかな」
返答ははぐらかした。質問に対して律儀に経験を振り返ることもしなかった。既に両方を経験したけれど、どちらもうまくいかない恋だったから、真面目に答える気が起きなかったのだ。
「別に好みの男ってわけでもないのよ。なんとなく気が合って、いいかもって思って付き合ってみたら、だんだん最低な面が見えてきた。でもちょっと嫌なところが見えたところで、それで友達や恋人と関係を切ったりしないでしょ。浮気一回されたから別れるっていうのも、根性ない気がするしさ。……でもなんで付き合ってんだろっては考えるのよね。ダラダラ付き合ってるうちに好きか嫌いかもわかんなくなってくるの。誰と付き合っても」
ジェシカの声は呟きに近く、喧噪の中では水滴が水面に落ちるほどの微音だった。独り言のようになっていくジェシカの口元にミルアは顔を寄せた。ジェシカは自分の隣でぴったりと体をつけるミルアを感じていたが、不思議と不快感はなかった。だから顔を寄せて、気を取り直したようにニッと笑った。
「今まで付き合った男はみんな浮気野郎だったわ。その中でもロブは一番最悪!」
「どうして別れないんですか?」
「んー……」
ジェシカは答えず、床を見つめた。グラスが傾いてカクテルが零れてしまいそうだったのを、ミルアはそっと手を添えて防いだ。
どうして別れないのか。ジェシカは自分の心に問いかけてみた。それは今までも漠然と存在していた疑問だったけれど、意識して向き合うのを避けていたことでもあった。意識したら決着をつけなければいけない気がしたから。
「私が一番いい女だって言うのよ」
その台詞はジェシカの中に大切に仕舞い込まれた思い出だった。言葉にすると柔らかい思い出はジェシカからふわりと離れて、空気に触れて酸化して、朽ちて灰になる。だけどまた胸の中で思い出す。堂々巡りにその思い出は何度もジェシカの中で蘇った。
「馬鹿よね。嫌な呪縛よ。あんな男一回死んだ方がいいのよ」
言うと、ジェシカはグラスの中身を一気に煽った。ごく、ごくと喉を鳴らして豪快に飲む様は、その思い出に決別したいように感じた。ミルアはそんなジェシカを見た後、自分の手にあるグラスを口元で小さく傾けた。不意にそのグラスが奪われると、ジェシカは鼻先が触れ合いそうなくらいミルアに顔を近付けて言った。
「ねえアンタ、女とキスしたことある?」
ミルアは少し不意を突かれた顔をして、だけど正直にそっと答えた。
「あります」
「やっぱね。そんな感じしたわ。やっぱり違う? 男とするのと」
顔を離し、ミルアから奪ったグラスの中身をぐびりと飲む。先ほどジェシカが飲んでいたものよりも酒の味が強いカクテルだった。喉が焼ける感覚に酔いが回る。顔が離れていく代わりに、ミルアはジェシカに寄りかかった。
「そうですね、別の安心感がありますよ」
「ふーん」
フロアは喧噪に溢れている。酔うには最高の場所だった。ここでなら真面目でいるのがバカバカしく思える。何でもできてしまう気がした。
「私にもしてよ」
ジェシカが言うと、ミルアはそっとキスをしてくれた。唇は柔らかくて、酒の味がした。酒に酔うのとは違う感覚で、体がふわふわ浮く感じがする。気持ちよかった。全然嫌じゃなかった。
ミルアをこの場に誘えている時点で、ロブに対する愛情はかなり薄まっている気はしていた。そもそも、はじめからロブに愛情なんて抱いていたのだろうか。そんなことすら思う。
プレイボーイを自分の元に留めてやろうという意地はあったかもしれない。それは愛というよりは勝負だ。先に惚れた方が負けで、先に飽きた方が勝ち。だから惚れないようにしていた。ロブに負けたくなかったのだ。
トイレの個室に入って深い口付けをした時、女って気持ちいいと思った。ミルアは大人しい見かけに反して慣れた手つきでジェシカの体を撫でて、身も心も酩酊に誘導していった。クラブを出て、冷たく乾いた風に吹かれると開放感があった。裸になってしまいたいくらい。そのまま近くのホテルに行って、ベッドで二人とも服を脱いでまたキスをした。お互いの体を触れて、暖かい部屋の中でミルアが何かを言ったのを聞いた気がした。
「……て……しょうか?」
心地よい夢心地の中では、交わした会話なんてどうでもよかった。
不眠に悩んだことなんてないのに、その時は驚くほど気持ちよく眠った。
*
「ロブから返信が来ないの」
カフェテリアのテーブルに置いたトレイの脇のスマホを眺めながら、ジェシカは友人に言った。今日のジェシカは「マンドラゴラ」ではないので、二人の近場には他にも学生が座っている。
「まだ仲直りしてなかったの? 全然愚痴らないからとっくに和解してるのかと思った」
「したわよ。気が変わって先週私から連絡したの。その後すぐデートもした」
「じゃあ寝てるんじゃない?」
「火曜に送ったメッセージを木曜まで返さないほど寝てるわけないでしょ」
「また浮気してるとか」
「ロブは浮気しててもそういうとこマメなのよ」
「なんて送ったの?」
「学校来てないの? って。ロブが講義に来てないってキャシーが言ってたから」
「風邪でも引いて寝込んでるんじゃない?」
「メッセージ返せないほど寝込んでたら今頃死んでるでしょ」
「見舞いに行ってみたら? ロブって下宿暮らしでしょ」
会話の往復の後、ジェシカは画面を操作してメッセージ画面に変化がないかを確認したが、そもそも通知が来てないので変化があるわけがなかった。
その様子を見て友人は「やっぱりジェシカはママなのよね」と言い、ジェシカは「恋人なら心配するのが普通でしょ」と返した。
*
アルバイト先のカフェにミルアがやってきたのはその日の夕刻だった。先週とほとんど同じ時間。会うのはホテルで別れて以来だった。
彼女とその後何か進展したわけではない。そもそも連絡先すら交換していないのだ。寝て起きたら酔いも醒めて、ミルアに対してすり寄っていた気持ちは一晩限りのものだとわかった。同じ考えの相手と、酒の勢いで一夜過ごした。それだけだった。ミルアが平気な顔をしていたから気まずさもなかった。
ミルアの注文はアップルパイとアイスコーヒー。その日はニックは休みで、別の女の子がシフトに入っている。ジェシカはデシャップでコーヒーを淹れていたのでほとんどカウンターから出なかった。ミルアと話せたのは、その女の子が休憩に入り、ミルアの隣の席のテーブルを片付けている時だった。
「ミルア。最近ロブと連絡取れてる?」
アップルパイの最後の一切れを口に入れようとしていたミルアは、ああ、と思い出したような声を出して笑った。隠してはいないけれど、そういえば知らせていなかった。そんな様子だった。
「死にましたよ」
音が止まる。自分の中の時間が止まったようだった。
その浮いたセリフが頭の中で反芻する。その言葉は隠語か何かなのだろうかと、自分の中の引き出しを全部開けようともした。だが、むしろ「死」という言葉こそ、直接使わないための隠語があるべきではないだろうか。
そしてもう一度、その言葉をストレートに受け止めた。
死にましたよ。
「は?」
冗談。そうとしか思えなかった。だから笑った。ミルアはジェシカが驚いている間に最後の一口を食べ、ゆったりと咀嚼し、アイスコーヒーで流し込むのを済ませていた。ジェシカの信じていないと言いたげな声に対して、穏やかに笑う。ミルアは続けた。
「毒で死んだんですって。誰かに恨まれてたんでしょうかね。毒って力のない女性でも、簡単に男の人を殺せるって言いますから」
「ちょっと、もういいわよ。そんな冗談」
「冗談? 心外です」
ミルアはほんの少しだけ悲しそうな顔をした。ジェシカに信じてもらえないせいでそんな表情をしているように見える。ジェシカは自分の顔から笑顔が落ちていくのがわかった。表情が強ばっていく代わりに動揺が上ってくる。だって、ミルアの話を信じるならば。
「ジェシカさん言ってたじゃないですか。あんな男一回死んだ方がいいって。よかったですね、その通りになって」
「……え?」
死んだ?
朗らかな微笑みに意味が分からなくなる。どうしてこの女はそんなことを笑って言えるのか。
それが嘘なのか本当なのかはこの際どうでもいい。知り合いが死んだなら、普通悲しんだり嘆いたりするんじゃないのか。嘘を吐くならそういう振りをするべきだ。
ならば。
混乱して視界から遠近感がなくなる。ミルアの笑ってる顔がすごく遠くに見える気がする。だからミルアが立ち上がった時、ジェシカは必要以上に後ろに下がって、足に引っ掛けた椅子を倒してしまった。店中が二人を見る気配がする。ミルアはジェシカと体が触れ合うくらいの目の前を横切る時、彼女にしか聞こえない声でこう言った。
「ジェシカさんも、知らない人と食事をする時は、口に入れる前によく考えてくださいね。それが安全かどうか」
改めてミルアはジェシカを見て、笑った。柔和な、人畜無害な笑顔。天使のようなふわりとした微笑み。
「さようなら」
この一言が耳にこびりついてずっと離れなかった。
*
バイトを早く切り上げてロブの下宿に行くと、鍵がかかっていた。合鍵を使って中に入ると、ロブは倒れていた。揺り起こそうとしたら体が冷たくて、本当に死んでいるのがわかった。生まれて初めて人間の死体を前にして、ジェシカは呆然と座り込むしかできなかった。ロブが伸ばした手の先にはスマホがあって、死ぬ前に誰かに連絡しようとしたのかもしれないとぼんやりと想像した。
警察に通報したのはしばらく経ってからだった。事情聴取で警官から色々聞かれた。ぽつりぽつりと事実を話したことは覚えているが、具体的に何を話したのかは忘れてしまった。
テーブルの上には腐敗したパイがあり、毒で死んだ、という話がやたらはっきり耳に届いた。
毒。
その時、ミルアを思い出すと同時に、止まっていた頭の歯車がほんの少しだけギシリと回る。
——ああ、私ロブが好きだったかもしれない。
そのことだけが頭を占めて、初めて涙が流れた。みっともなく泣いて、警察にミルアについて話すこともできなかった。
家に帰された後、何もする気が起きなくて、まっすぐベッドに潜り込んだ。ロブのことばかりを思い出していた。死は生よりも遥かに存在が大きい。それなりに短くない時間をロブと過ごしたはずなのに、倒れているロブばかりが脳裏に蘇る。大きな鉛が目の前に落ちて景色を塞いでいるようだった。見上げても、左右を見渡しても黒い。それが記憶まで隠している。
明確に思い出せるのはロブの死体とミルアだけだった。身元が判明している場合は死体ではなく「遺体」と言うらしいが、その言葉は生きていた時間があったことを思い知らされるので言いたくなかった。ロブの時間の中にはジェシカもいたのだ。自分を知っている人間の死が、これほど重いものだとは知らなかった。
ロブの死を直視したくなくて、クラブでしたミルアとのキスを思い出そうとした。喧噪の中で恋愛観を語るジェシカに、体を寄せてきたミルア。女の子の体は華奢で、ミルアの言う通り男とは別の安心感があった。この人からは決して傷付けられないと思えた。その後のホテルでのことはほとんど思い出せないけれど、何かを言われた。
『……て……しょうか?』
アイスコーヒーとアップルパイ。ジェシカに信じてもらえなくて心外と悲しそうにしていた。どうしてミルアはロブの死を知っていた。いつから。どうしてミルアは警察に通報しなかった。ジェシカの浮気の愚痴を聞いたときと同じように穏やかな様子で、いったいどんなことを言っていた。どうして知っていたのだ。本当に知っていた? ロブが死んだことを。毒で死んだ。ロブの部屋。力のない女性でも、簡単に男の人を殺せる。ロブさんのどんなところが好きなんですか? アップルパイの最後の一口。どうして別れないんですか? 氷の溶けたアイスコーヒー。笑ったミルアの顔。死にましたよ。毒で死んだんですって。恨まれてたんでしょうかね。あんな男一回死んだ方がいい。その中でもロブは最悪。ジェシカさんも。腐敗したパイ。
知らない人と食事をする時は、口に入れる前によく考えてくださいね。それが安全かどうか。
それを思い出した時、頭の中でほとりと沈黙が落ちた。音のない波紋は体の外にまで広がって、ジェシカは無音の中で目を見開いた。瞬きもせず、心臓すら止まったかのように動けなかった。夢心地の中で聞いたはずのミルアの言葉。全て聞かなかったはずなのに、頭の中でホテルの記憶が再生される。ベッドの上で優しげに微笑んだミルアが、ジェシカに囁いた。
『殺してあげましょうか?』
ジェシカはアップルパイが食べられなくなった。