三話:野口隆太の一生
血が流れている。自分の血だ。なんだかわからない衝撃が走ったと思ったら、動けなくなった。目はかろうじて開く。でも腕を動かせない。足を動かせない。体中がおかしくなったみたいにぴくぴく痙攣してる。
――――ああ、そうか、これは交通事故だ。猫が引かれそうになったから、慌てて飛び出して、それで。
意識がぼーっとしている。頭も打ったのか。これはいよいよ危ないかもしれない。――――死ぬかもしれない。
隆太の視界は黒く染まっていく。じわりじわり誘いをかける死が、彼の体を蝕んでいく。痛みはどこかへと消え去った。そんな感覚の外側で、野口隆太は刻一刻と迫る怪しげな魔の手に魂をつかまれた。
『にゃー』
どこかでそれは鳴いた。
視界にはいないが、確かに声が聞こえた。猫の声だ。
隆太は最後の力で口角を上げた。
なんだよかった、助けることができたのか。てっきり一緒に轢かれたのだとばかり。ならきっと明日の新聞の見出しはもらったも同然だ。『おてがら! 十八歳の少年、猫の命を救う!』
ああ、見れないのが残念だ。
隆太は完全に閉じられた視界を嘆いた。もはや自分の運命は手に取るように分かった。体が冷たくなっていくのと比例して、どんどん黒い渦が心の中を満たしていく。
これが死か。隆太はそう思い、頬を流れる生温かな血に意識を向けた。痛みがないのは救いだった。
これまでの人生が頭の中を通過していく。それは紛れもなく走馬灯であった。
ろくでもない人生。自由なんてなかった。両親からの過度な期待が毎日毎日、白紙の上にペンを走らせる。やっとのことで受かった大学も、当然だの一言で流されてしまった。
こんな人生でよかったんだろうか。いや、よかったんだ。
勉強して見えたこともあった。世界は確かに広がった。無理やりだったかもしれないが、それが自分の選択である。恨めるはずもない。
特に歴史は面白かった。王宮に歌をきかせに行く、中世の吟遊詩人なんてものにあこがれもした。
アーサー王伝説は素敵だ。ニーベルンゲンの歌も素敵だ。
――――だからやっぱり、もし来世なんてものが本当にあるとして。
俺は吟遊詩人の歌を聴きたいなぁ。
そして、無慈悲にもそれは訪れる。刹那であった。
太田さん、あなた今日はさえてますよ。だってありましたから、不幸なことが。でも、だからこそ。
恨みませんよ神様。奇跡か何かで、あなたを恨めないんですよ。
――――そう思ったのを最後に、野口隆太の人生はそこで幕を閉じた。