選択と雲と不思議な冒険
本日のお話は先日のアンケートで投票いただいた、本編に纏わる“アルテア”と“ヨシュア”の“事故のお話”とさせていただきます。
朝からのウィーム独自の澄んだ空気に、目を細めた。
火の慰霊祭が終わり二日目ともなれば、そこは朝靄に視界を悪くしていてもやはりウィームという清涼さであり、そこかしこに魔術の細やかな光が煌めく。
 
昨日は微かに残っていた火の魔術の残響もなくなり、降り積もった灰はすっかり片付けられた。
まだ蕾を閉じて項垂れている白薔薇に、ネアが気に入っているという紫陽花の茂み。
乳白色の霧の中で鮮やかに滲むような緑の色と、薄水色の花をずしりと咲かせた月雫のライラックの木。
はっと目を引くのは、気温が高くなり過ぎずに春の長いウィームではまだ咲いているミモザの花だ。
遠くを飛んでゆくのは竜だろう。
あまり見ない飛影にふと、夜海の系譜の翼の形に似ているような気がしたので、例の竜かもしれない。
昨日は、事後処理を重ねながらも、リーエンベルクに留まった。
サルルカムに預けた魔術の影響から、目には見えないような障りが残っていないのかを、何回かに分けて診察する必要があったのだ。
四回目の診察では、シルハーンからはもう大丈夫なのではと言われ、ネアは唸り声を上げて暴れていたが、双方、ブルーベリークリームを乗せたチーズケーキを焼くという約束で大人しくなった。
(今日は、…………)
部屋に用意された温度管理も行き届いている紅茶をカップに注げば、ふわりと湯気が上がり馨しい星の夜と草原を渡る風の香りが鼻孔に届く。
リーエンベルクでは、相変わらずいい茶葉を揃えているようだ。
グラスなどが置かれた机の上には、白い雪翳りの紙が置かれており、他にも準備可能な紅茶の茶葉が記されている。
本日は、果実水も含め充分に満足のゆく選択肢が用意されていた。
幾つか興味を引かれるものがあったので、書類仕事や術式の調整が終わらないようであれば、追加で頼むのもいいかもしれない。
昼食にはネアから依頼されていたグラタンやサラダなどを作ってやり、夕方までにはアルビクロムに出かける予定だ。
窓辺にぼんやりと立ち、ただゆっくりと明けて行くウィームの夜と朝を見ていた。
(………………タジクーシャの周囲で、久し振りに対岸に立ってみようとも考えたが、………)
欄干の魔物に印付けをさせ、サルルカムに術式の基盤と誤認させる魔術で閉じさせたあの新しい術式は、展開する魔術は火に限定されていない。
用意していたのは剥奪の魔術だったのだが、よりにもよってそこを発火の魔術というつまらないものに置き換えてしまい、それがネアを燃やそうとしたのだ。
炎に包まれこちらを見ていた瞳の困惑に、息が止まりそうになった。
シルハーンの伴侶があの程度の火で失われる筈がないのに、それでも損なおうとする誰かの手が守護を撫でた事が不愉快だった。
けれどもあの時、ネアは、対岸に立とうかと思案した欲を満たすだけのぞんざいさで、この日でなければ自分を損なう事もあるだろうと事もなげに言ってみせた。
(…………それで充分だ)
そういうものだと理解し続ける事を知り、それでも構わないのだと下した選択こそを、もう一度見ておきたかった。
あの人間らしい強欲さで、我が身を損なうかもしれない毒を、それはそのようなものだから構わないのだと手に取る姿を見れば、かつての愉快さを思い出した。
それは、シルハーンともノアベルトとも違い、ここにいる人間達や、ウィリアムやグレアムとも違う。
資質でもなく業でもないただの欲求で損ない壊すものを、あの人間なりの身勝手さで受け入れるのがいい。
もしその手を自分の領域に向けるのであれば、どうであれ滅ぼすのだと向ける眼差しの苛烈さがいい。
(だが、今回は俺の手落ちだ。あの外見に反し、白樺ほどに男共の籠絡に長けている魔物はいない。試用術式であればこそ、違う土地に住む者に預けるべきだった…………)
もし、何らかの他の要因で、ネアが守られていなかったら。
それを思うと酷く憂鬱な気持ちになる。
特にネアに関しては、その時だけ守護が剥がれていたと言うような、考えられない事故に見舞われている可能性がないとは言えないのだ。
そんなことを考えながら息を一つ吐けば、ふっと背後に異質な気配を感じた。
振り返った先で見たのは、なぜか当たり前のように部屋に居るヨシュアだ。
長椅子から起き上がり、欠伸をしている。
「……………おい、何でお前がここにいるんだ」
「ほぇ、ノアベルトがここだって僕を案内したんだよ。僕はわざわざ会いにきてあげたのに、どうしてそんな風に怒っているんだい?」
その言葉と、長椅子の上に横になり寝ていたらしい姿に舌打ちを堪える。
わざわざ気配を断つ為の術式を何重にも敷いてこの部屋に送り込まれていたので、目を覚ましてからその気配に気付かずにいた。
「……………いつからだ」
「夜明け前かな。今日の夜明け前に、ヒルドとイーザは、今朝の霧雨の祝福石を採取しに行く為に約束をしていたんだ。だから僕も一緒に来たんだよ。眠っているアルテアを待っていてあげた僕に感謝するといいよ」
妖精ではないヨシュアが共にいると、霧雨の祝福石の質が変わってしまうらしく、ヨシュアは元々、外出するヒルドの代わりにリーエンベルクで待っている予定だったのだと続けられ、アルテアは深々と息を吐いた。
そんなヨシュアを任されたノアベルトが、この部屋を訪ねようとしたヨシュアを、部屋の主人に声もかけずに通したらしい。
 
リーエンベルクとは言え、この部屋には何層にも隔離結界としての術式を敷いておいた筈だが、それを揺らさないように忍び込む為にどれだけの手間をかけたものか。
やろうとしてやらなければ出来ない事だ。
(火の慰霊祭の報復だろうが…………)
「……………くそ、わざとだな」
「僕は、珈琲でいいからね。イーザと分けて飲むんだ」
「………は?」
「今回の事では、アルテアから謝罪の品物が貰える筈なんだ。僕達は珈琲で構わないけれど、アルテアが僕の好きな珈琲を知らないといけないからね。夜の金鉱石か、日輪の木漏れ日、雨霧と檸檬を希望するよ」
眉を寄せてそちらを見返せば、ヨシュアは、その謝罪の品物とやらが貰えると本気で信じているようだ。
 
当然のことだが、魔物同士では、そのような文化はない。
であればこのやり取りをどこで覚えてきたのだろうと内心首を傾げ、加えて祝福の紐づくようなものを欲されたことに困惑した。
珈琲は飲食物にあたる。
魔術の繋ぎを切る事は容易いが、好意の祝福の領域であるので、容易に他者に強請るものではない。
「いや、贈らないだろ。誰に入れ知恵された?」
「当然の権利だって、ウィリアムが教えてくれたよ」
「ほお、あいつに会ったのか」
「ネアのことで話を聞きに来たからね。今回は刺されなかったよ」
「……………成程な。あいつの入れ知恵か」
顔を顰めて追い払おうとしたところで、ウィリアムにその話をしたのは誰だろうかと考えた。
ノアベルトあたりであれば構わないが、ネアとのやり取りであった場合は、いささか都合が悪い。
つまり、こうしてヨシュアに珈琲を望ませる事までが、ネアの入れ知恵であった場合は。
(やり方はおかしいが、それで禍根を断とうとしているつもりなら、無下にすると荒れるだろうからな…………)
昨晩、生真面目な顔で伝えたい事があると言うので何かと思えば、最近はパンの魔物符を試してみたいと思っていると告白された。
あのちびふわとかいう生き物までならまだしも、パンの魔物だけは絶対にない。
今回のサルルカムの呪いでヨシュアがおかしな犬の姿にされていたようだが、無効化の呪いには、その者が纏った事のある最も無力な状態に貶めるものが術式として構築し易い為に最も多用される。
パンの魔物になどされようものなら、その種の呪いをかけられた時に、パンの魔物になるという事態になりかねないのだ。
つまり、それを使われる事だけは避ける必要がある。
「…………くそ、………後で届けさせておく。その代わり、一度きりだぞ」
「うん。僕は偉大だから、一週間は待てると思うよ。でも、……………ほぇ、何か来た」
最初のその音は、小さなものだったように思う。
ひたひたという足音が重なり、部屋の前でぴたりと止まるのが分かった。
思わずヨシュアと顔を見合わせてしまい、片手で前髪を搔き上げると、窓際のテーブルの上に置いてあったカップを取ってまだ温かい紅茶を一口飲む。
(…………いつもの狐ではないな)
明らかに何者かが部屋の前にやって来ているのだが、リーエンベルクのこの区画の廊下には絨毯が敷かれている筈なのだ。
つまり、聞こえたような足音がする筈もないので、今、この部屋の前に居るものは既存のリーエンベルクの住人ではあるまい。
そう思案を巡らせていると、扉寄りに立っていたヨシュアがこちらに回り込んで来る。
「…………おい、後ろに入るな」
「ほぇ、アルテアの部屋なんだから、アルテアが相手をするべきだよ」
「だとしてもだ。……っ、背中に触るな」
「シルハーンやネアだと、ここにいてもいいんだ。アルテアは意地悪なんじゃないかな」
「あいつらと一緒にするな。そもそも、お前が恐れるような階位のものは、そうそうないだろうが」
「……………階位って、怖いことと関係あるの?ネアは、怖いものをいっぱい持ってるよ?」
「あいつが特殊なだけだ…………」
しゃわりと音がした。
奇妙な音に目を細め、ゆっくりと扉の方に歩いてゆく。
ヨシュアが、はっとしたように息を飲み袖を引いたが、振り払って扉を一枚を挟むところまで近付くと、先程までは背中の後ろに隠れていたヨシュアが、なぜか追いかけてくるではないか。
場合によっては足手纏いになるので僅かに振り返って視線で追い払おうとすれば、どこか真剣な表情をして、いっそうにこちらに近付いてくる。
「いいか、扉を開ける邪魔をするなよ」
「アルテアは、………何か白い生き物を飼っているのかい?」
「は…………?」
「その履き物は、気に入っている生き物を模したものだろう?それとも、不思議な魔術が添付されているから、魔術道具なのかな」
「……………履き物?……………っ、」
ヨシュアに言われて視線を落とし、そのまま絶句した。
どう考えてもリーエンベルクに持って来ている筈のない、ネアが編んだ靴下を履いていたのだ。
だが、季節はもう、ウィームでも春の盛りに差し掛かる頃。
他の土地では初夏の気配を肌に感じ始めるこの季節に、毛糸の靴下を履いて眠る習慣はない。
(いや、…………靴下じゃない…………?)
考えれば、部屋の中で靴下だけで歩いているというのも妙な話だ。
思い返してみれば、就寝時は素足だったし、寝台から立ち上がった時に室内履きに爪先を入れた記憶がある。
もう一度足元を見下ろし、アルテアは、これはあの靴下と同じ意匠の室内履きであると結論を下す。
だがその直後に考えを改めた。
(耳と毛並みに微かな模様があるな…………あちらか…………)
どうやらこれは、ネアが白けものと呼ぶあの擬態を模した室内履きであるらしい。
どうやって入れ替えたものか、元々用意しておいた室内履きはどこへやったのかも含め、ネアから聞き出さなければならない事が増えたようだ。
だが、室内履きにつけられた雪豹の耳を見付けてしまい、暫く何も言えなくなった。
おまけに、またしても、ネアの言うところの着心地の魔術とやらが添付されているようだ。
「ほぇ、アルテアが動かなくなった…………」
呆然としたまま足元を見ていると、先程の、しゃわんという音がした。
もはやそちらはどうでもよくなり、先に追い払ってしまおうと扉を開ける。
こんなものを履かされ、それをよりにもよってヨシュアに見られた以上に厄介な事があるとは思えない。
「………………は?」
「ふぇ、…………変なのがいる」
まだ夜明けの光が廊下の下までは届かず、薄暗くなった扉の前に立っていたのは、奇妙な毛皮の塊だった。
大きさとしては葡萄酒の瓶くらいのものだが、小麦色の毛並みは、どれだけの魔術を身に宿しているのか、潤沢な魔術で微かに波打っている。
その生き物が体を揺らすと、輝くほどの魔術を帯びた毛皮がしゃわんと音を立てた。
目の前の物体の造形を飲み込めずに無言で見下ろしていたところ、どこからか萌黄色のものが現れる。
小さな手のような突起で差し出されたものは、一枚の黄色いカードだった。
受け取る為には屈まねばならず、それを躊躇していると、気にならなかったらしいヨシュアがさっと受け取った。
「何か書いてあるよ。…………手芸品を片時も手放さずに愛用されている我等が王に、是非にお見せしたい物があります。…………アルテアの系譜の生き物なのかい?」
「………………知らん。帰らせろ」
「アルテアは我が儘だなぁ。………ほぇ、また何か取り出した……………」
どう見ても、年明けにこの界隈で多く見かけられる毛皮の生き物を模したぬいぐるみのような物体は、恐らくは、そのぬいぐるみが魔術の潤沢なリーエンベルクで祝福を得てしまい、何かの器になったか、ぬいぐるみの精として派生したのだろう。
(そう言えば、………ボラボラの幼体をあの狐が狩らないように、ネアが同じ形のぬいぐるみを作って渡したと話していたな……………)
まさかこれではないかと考え、であればネアが作ったものが動き出した以上、まともな存在である筈もない。
ぞっとしてすぐさま部屋の扉を閉めようとした、その瞬間のことだった。
「……………っ、」
「ぎゃあ!糸をかけられた!!」
先程のぬいぐるみが、どこからか取り出した糸のようなものをこちらに放り投げたのだ。
召喚の釣り糸だと気付いた時には、既に遅かった。
勿論、本来であればこのくらいの物の処分は容易いのだが、今日ばかりは注意力が散漫になっていたらしい。
何しろ、視線を下に向けると、ネアが作ったに違いない雪豹の顔を模した室内履きが目に入るのだ。
「……………っ、」
勢いよく視界が暗転し、周囲の景色が変わった。
共に細い糸に一纏めにされたヨシュアと共に、どこかに放り出され顔を顰める。
高位の魔物の二柱を強引に招き入れるだけの力があるならば、どれだけ厄介な場所に呼び落とされたものか。
「…………僕を攫うなんて、…………ふぇ、アルテア、変な部屋にいるよ」
「…………ああ。リーエンベルクは出ていないようだが、…………っ?!」
直後、薄暗い部屋にぱっと灯りがつき、思わず目を瞠った。
窓のないその部屋には、壁一面に抽斗があり、飴色の使い込まれた木の抽斗の全てが開いている。
そしてそこから、先程のぬいぐるみと同じようなものがぞろぞろと這い出してくるではないか。
一瞬呆然としてしまってから慌てて体に巻き付いた糸を切り、動揺して暴れるばかりのヨシュアから離れた。
膝を突いて体勢を低くしたまま部屋を見回し、どうやらここは、リーエンベルクの中の裁縫部屋のようだと判断する。
滞在中に見かけたことはなかったが、元は王宮として使われた建物である以上、必ずある筈の部屋だ。
「僕を攫うだなんていい度胸だね。僕はとても偉大なんだよ。すぐに元の場所に戻す………ぎゃあ!いっぱい来た!!」
「…………っ、ふざけるな!離れていろ」
「で、でも何百もいるよ?!」
「……………は?」
背中に飛び付いてきたヨシュアの言葉に振り返り、背後の状況のまずさに目を瞠る。
どうやら、背後にある抽斗からの出現数の方が圧倒的に多かったようだ。
毛皮のものだけでなく、継ぎ接ぎの花柄の布のものや、ただの緑の布のもの。
ありとあらゆる素材のボラボラのぬいぐるみが部屋中に溢れかえり、周囲を取り囲んでゆく。
(…………作り過ぎだ!)
あまりの数に唖然としていると、ヨシュアが声を上げて泣き出してしまう。
「ふ、ふぇぇぇ!!」
「おい、煩いぞ」
「た、たくさん来て囲まれてる…………ふぇ、誰か助けて…………」
「何らかの派生があったとしても、元はと言えばただの布だろうが。排除くらい出来る…………守護だと?」
排除魔術でぬいぐるみ達を一掃しようとしたところで、その魔術の全てが守護に弾かれるという問題が起きた。
よりにもよって、このボラボラのぬいぐるみの全てに、厳重な守護がかけられていたのだ。
「ほぇ、何でアルテアの魔術を弾くのさ」
「……………この魔術の形は、ノアベルトだな。何であいつが、…………」
周囲をぐるりと取り囲んだボラボラのぬいぐるみ達は、綺麗な輪を幾重にも作ったところで、ぴたりと動きを止めた。
あまりの数の多さに、部屋を訪れた個体がここに戻っているのか、それともあれは含まれていないのかすら判別がつかない。
ざっと数えただけでも、二百はいるので、ネアが一人でこれだけの数のぬいぐるみを作ったのならば、病的だと言わざるを得ない。
一瞬の静謐の後、今度は、ばんと火薬が弾けるような大きな音がして、ヨシュアが飛び上がる。
音がした方を素早く見れば、部屋の右奥の天井から吊るされていたくす玉の様なものが割られ、青い布の垂れ幕のようなものがばらりと落ちて来た。
そこには、拙い文字で、手芸品を大事にしてくれて有難うと書かれている。
更には、紙吹雪のようなものが舞い散り、どこかで聞き覚えのある楽しげな歌が聞こえて来たではないか。
「ア、アルテア、どうしよう。リーエンベルクの中だから、部屋を壊したらイーザに叱られるよね。…………ふぇ、お、踊り出した!」
「……………わざわざ言わなくても、俺にも見えている」
「で、でも、…………ふええええ!!変なものが一斉に踊るよ…………!」
部屋中に詰め込まれたボラボラのぬいぐるみ達が、一斉に踊り出した。
しゃわん、しゃわんとぬいぐるみの生地が擦れる音がして、ボラボラのぬいぐるみ達は儀式舞のような不思議な踊りを続けている。
よく見れば、こちらの正面に立った一体は、必ず平伏するような姿勢を取り入れ、また次のボラボラに入れ替わる。
くるくると回りながら、何百ものボラボラのぬいぐるみ達は延々と踊り続けた。
ヨシュアは座り込んで泣き出してしまったが、そんなヨシュアを立ち上がらせて部屋の脱出の為の魔術構築を手伝わせた。
しかし、どれだけ転移をかけようとしても、扉を破ろうとしても、なぜかこの部屋では魔術の殆どが動かせない。
部屋を訪れたぬいぐるみのカードの書面を思い出し、系譜の問題かとヨシュアにもやらせたのだが、同じように魔術を動かせないようだ。
ただ、囲まれ、踊られ続けるだけの時間が、為す術もなく流れてゆく。
鍵を開けるような金属が触れ合う音がして、ぎいっと扉が開くまでにどれだけの時間をそこで過ごしたのだろう。
開いた扉から差し込んだのは、一筋の朝の光だった。
「………本当にこの開かずの間に使い魔さんがいるのですか?……………まぁ、いました!」
「わーお、本当にいたぞ」
「アルテアさん、どうしてこのようなお部屋に迷い込んでしまったのでしょう?……………アルテアさん?」
黙ったまま、扉を開けて部屋に入ってきたネアを見つめると、困惑したように首を傾げている。
こちらを見た瞳に何かを言おうとした時、背後にいたヨシュアが駆け出して、ネアの後方に立った霧雨のシーに飛び付いてゆくのか見えた。
「ふえ、イーザだ!た、助けて!!」
「…………やれやれ、なぜあなたは号泣しているんですか。部屋に閉じ込められたくらいなら、魔術で鍵を開けられたでしょうに」
「お、踊られたんだよ。変な生き物がいて………………ほぇ、いない………」
「まぁ、何かがいたのですか?」
「…………た、沢山、変な生き物がいたんだ。嘘じゃないよ」
「しかし、この部屋にはあなたとアルテア様以外の生き物の気配はありませんよ?我々が扉を開ける前に、逃げ出してしまったのでは?」
「ち、違うよ。扉を開けた時まで、いっぱいいて囲まれてたんだ!」
ヨシュアは、怪訝そうな顔をした霧雨のシーに、懸命に起こったことを説明している。
その様子を見て眉を顰めていたネアは、途中で気付いたようにこちらを見ると、鳩羽色の瞳を丸くした。
ゆっくりと歩み寄ってきて、伸ばした手で腕を掴む。
「…………アルテアさん、開かずの間になっていた裁縫部屋での冒険もいいですが、そろそろ出ませんか?それとも、お部屋にこっそり置いたおいた白けもの室内履きが気に入ってしまったのなら、もう少しお散歩を続けられますか?」
「……………幾つ作ったんだ?」
「…………む?」
「あの狐に、ボラボラのぬいぐるみを作ったと話していただろ。幾つ作った?」
「ああ、ノアが持っているものの事ですか?なぜかアルテアさんのお部屋の前に落ちて………むぐ?!なぜに、突然羽織りものになってしまったのだ?!」
「ありゃ、僕の妹にくっつき過ぎなんだけど…………」
ノアベルトの手には、先程部屋を訪ねて来た、小麦色の毛皮のボラボラのぬいぐるみがある。
ぎょっとして思わずネアの体を抱え込めば、そのろくでもないぬいぐるみを手にしたノアベルトは、派生したばかりの得体の知れないものを手に、ネアに近付けようとするではないか。
「…………っ、派生したばかりの生き物を、考えなしにこいつに近付けるな。こいつが、どれだけ事故り易いと思っているんだ」
「……………え?これ、ぬいぐるみだよね?」
「…………アルテアさん?ノアが持っているのは、私のお手製のボラボラぬいぐるみですよ。因みに、作った事があるのは一つだけです」
「……………いや、二百は見たぞ」
「…………私の評判の為にも釈明しますが、一人でボラボラのぬいぐるみを二百も作っていたら、ちょっと様子がおかしいですよね………?」
訝しげにこちらを見上げる瞳に、ひゅっと息を吸って言葉を失い、先程まではそんなボラボラのぬいぐるみが溢れかえっていた部屋を見回す。
二百どころか、あのぬいぐるみは一つもない。
部屋の壁一面の抽斗は全て閉まっており、締め切られた部屋にしては鮮やかな、萌黄色の絨毯の敷かれた小綺麗な部屋があるばかりだ。
勿論、くす玉も紙吹雪もどこにも見当たらず、部屋の中央には大きな一枚板の作業台があり、先程まで部屋の中央に立っていた筈が、気付けば随分と扉に近い位置に立っていたらしい。
まるで、白昼夢でも見たかのようだ。
声を上げて泣いているヨシュアがいなければ、証明する者もなく、ただ、幻を見たのだと考えるしかなかったかもしれない。
そう考えて苦笑しかけたところで、一つの疑問に行き当たる。
(だが、………もし、…………この扉が開かれないままだったなら、俺は、あの幻影から出られたのか…………?)
そう考えると、途端に背筋が冷えた。
ボラボラのぬいぐるみが溢れかえっていたあの部屋では、部屋から逃れる為の魔術は一切立ち上げられなかったのだ。
絡め取られた糸を切る事だけは出来たのが、せめてもの幸いだったのだろう。
「アルテアさん?」
「……………いや、幻影の類だろう。気にするな」
「むむ、何か見てしまったのですね?……………あら、作業台の横の椅子の上に何かありますよ?」
「ありゃ、本当だ。何か書いてあるみたいだし、カードかな。…………我らが王…」
「むぎゃ?!アルテアさん?!」
ノアベルトが読み上げようとしたその言葉が耳に届いた瞬間、ネアを抱えて部屋を飛び出していた。
部屋を抜けて廊下に出ると、自室にいた時刻から、二時間程は経ったのだろうか。
柔らかな朝陽が差し込み、すっかり明るくなった廊下の清涼な空気に堪らずほっとする。
「わーお、本気で怖がるアルテアなんて珍しいなぁ…………。それにしてもこの部屋って、何で開かずの間になったんだろうね」
「いいから、さっさと扉を閉めろ。鍵をかけ忘れるな!」
「…………え、そんなに?!」
こちらの剣幕にノアベルトは唖然としていたが、ネアがいるのでそれなりに警戒はしたものか、素早く扉を閉め施錠したようだ。
泣いているヨシュアを連れた霧雨のシーも困惑しており、何とも言えない雰囲気になる。
「…………一体何があったのだ」
「ぼ、僕とアルテアは戦ったんだよ。でも、踊りを止められなかったし、部屋から出られなかったんだ。ふぇ…………こんな部屋、なくなればいいんだ…………」
「うーん、何となく開かずの間になった理由は見えてきたけど、僕達には何も感じられなかったんだよなぁ…………」
「アルテアさん、その、私は霧雨の結晶石収穫を終えてこれから寝るところですので、お部屋まで送っていって差し上げましょうか?」
「必要ない。同行してやる」
「…………なぜ一緒に来るつもりなのだ。夜の狩りを終え、夜明けにかけて結晶石収穫も堪能した私は、これから罪深くも朝から午後にかけてぐっすり眠る予定なのです」
「シルハーンには、俺から話を通せばいいんだな。…………何だ?お前の気に入っている、あの白けものとやらの姿なら、問題ないだろうが。布団でも敷物にでも何でもなってやる」
「……………ほわ、自覚なく白けものさんの真実についての告白をしてしまうくらい、とても怯えています…………」
「わーお…………。僕、絶対に一人でこの部屋に入らないようにしよう……………」
ネアはまだ躊躇っていたようなので、抵抗出来ないように素早く雪豹の姿に擬態してしまい、喜んだネアに撫でられるに任せた。
あのボラボラのぬいぐるみが差し出したカードには、王という呼称があった事を思い出し、こちらの擬態であれば系譜の魔術を辿られまいと考え、尚更好都合だと安堵する。
ネアにはそのまま寝室に連れて行かれ、困惑した様子のシルハーンをネアが説得するのを、ネアの足首に尻尾を巻きつけたまま待っていた。
部屋を出ようとして立ち上げられない魔術を散々組み替えていたので疲労困憊していたのか、その後は意識が落ちるように眠ってしまったらしい。
力尽きたように擬態が解け目を覚ますと、なぜかシルハーンに額に手を当てられていた。
「……………っ、」
「ああ、起きたようだね。魘されて体力を消耗したのだろう。擬態が解けたようだ」
「……………夢か、…………擬態?…………っ?!」
「…………やはり、この擬態が君だったことを、ネアに明かすつもりはなかったのだね」
「………………ああ」
「君には先日の件で少し話したい事もあったのだけれど、この様子を見ていると、随分と色々な対価を支払ってしまったような気がするから、もういいかな…………」
この擬態についてはネアに正体を明かしていなかった事を思い出し、頭を抱えていると、妙に感慨深そうにシルハーンにそう言われ、どれだけ魘されていたのだろうと溜め息を吐く。
隣では、しっかりと春ものの薄手の毛布に包まれたネアが、尻尾と呟きながら眠っていた。
後日、ノアベルトが持っていたあのぬいぐるみは、あの開かずの間の話を聞いたシルハーンの提案で、派生や魔術侵食を防ぐ為の浄化の魔術をかけられた。
その際に、なぜかノアベルトが何重にも守護をかけていた事が発覚し、大切に保管された手作りの品物が得る祝福を生み出していた事も明らかになった。
とは言え、派生と侵食防止の魔術をかけられた以上は、二度と動き出す事はないだろう。
あの裁縫部屋のある場所は、騎士棟に分類される別棟だったと判明したので、意図せずに近付くこともないだろう。
あの日、ヨシュアの回収の為に部屋を訪れたネア達は、誰もいない部屋と部屋の前に落ちていたあのぬいぐるみを見て、ノアベルトが仕込んだというあの室内履きの魔術証跡を追いかけ、裁縫部屋に辿り着いたのだそうだ。
それを聞いて以来、リーエンベルクのあの部屋に滞在する時には、騎士棟を避ける為の排他魔術を敷き、あの室内履きを寝台の横に置いている。
ヨシュアと言えば、リーエンベルクを訪れた際には気にせず騎士棟も訪ねているようなので、案外神経が太いのかもしれない。
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