夜の海と真夜中の虹
さらさらと夜が降り積もる。
その夜の暗さに、真夜中の中央に向けての淡い夜の光が差し込み、漆黒の霧のような火の慰霊祭特有の暗さを祓ってゆく。
だが、まだ外は火の慰霊祭の夜だ。
空には重たい雲が敷き詰められ、夜目にも雪のような灰の雨が降る。
寝台の上で眠る大事な伴侶の髪を撫で、呼気の温もりにそっと手のひらを当てた。
(ああ、君は生きている…………)
炎に包まれても何一つ損なわれず、どこか誇らしげにこの指輪を見下ろした瞳は、いつかの遠い日にこのウィームで見た祝祭の日の雪空のようだった。
愛おしくて愛おしくて、だからこそ損なわれなくても、損なおうとする意志の形に胸の底がじりじりと焦げる。
「出かけてくるよ、ネア。すぐに戻るからね」
そう声をかけて微笑むと、ネアの隣に横になったノアベルトが小さく微笑む。
今夜は火の慰霊祭の夜なので、ノアベルトがこの部屋の寝台にいるのだ。
そのお陰でネアを一人で残して行かずに済むし、ノアベルトにはネアがいれば大丈夫だろう。
「ネアには僕がついているけれど、それは明日にでも僕がどうにかしてもいいんだよ?」
「……………うん。でもやはり、私が行こう。白樺があの王宮を離れている夜がいいだろう」
「そうかもしれないね。それじゃあ僕は、ここでずっとネアを守りながら、ネアに守って貰っているから、何かあったら声をかけて」
「今夜は君ではない方がいいのではないかい?夜が明けるまでは外に出ない方がいいだろう」
「ありゃ。シルにまで心配されちゃったなぁ………」
青紫色の瞳を細めてそう笑ったノアベルトに、心配しているみたいだよと頷けば、なぜか背中をばしりと叩かれた。
「…………ネアでなければ、あまり嬉しくはないような気がする」
「そりゃそうだよ!僕が叩いたのは、…………何だろう、何か胸の奥がもしゃもしゃしたから?」
「…………もしゃもしゃ、するのかい?」
「うーん。何だろうこれ…………。もぞもぞ………かな」
首を傾げたままのノアベルトにネアを託し、これまでに集めてきた品物がそこかしこに置かれた部屋を出た。
淡い転移を踏んで外に出ると、火の慰霊祭の魔術が揺蕩う、焦げ臭いような独特な魔術の香りがした。
空には星はなく、魔術基盤の異変による重たい雲が夜の光を隠している。
雨雲のようには見えるが、その雲を発生させているものは純粋な魔術の凝りだけなのだと説明すれば、ネアは目を丸くして空を見上げていた。
あれは確か、初めての火の慰霊祭の事だ。
ネアは、どんな説明にも目を輝かせ聞き入ってくれるので、楽しくなってあれこれ話を続けた。
すると、それまでに知識としては理解していたものの、自分がこの世界のことをあまり知らなかったような気がしたものだ。
(いつだったか、質問しかしない魔物に出会った事がある………)
その魔物は美しい銀の髪を持つ銀匙の魔物で、彼女は話す度に質問を重ね、渋々答えると歓声を上げ、素晴らしいだの、感動しただのと同じような言葉を吐き出した。
すぐに疲れてしまい二度と会わずにいたら、押しかけてきて取り縋って泣かれてしまい、途方に暮れていたところをギードが助けてくれたのを覚えている。
(ネアは、沢山質問をするけれど、それよりも目を輝かせてあちこちを見たり、匂いを嗅いだり、歩いていったり飛び跳ねたりする事が多いのかな…………)
まずは自分で大切そうに飲み込み、それから魅入られたように質問をするのだ。
ふわりと足元に渦巻いたのは、霧混じりの闇色で、幾つかの魔術を手繰り寄せ探していた色のものを爪先で辿る。
(損なわれて、体を縮こまらせてしまえば、ネアはいつものように、飛び跳ねたり駆け出したりしなくなってしまうかもしれない…………)
周囲を取り巻く魔術の彩りがあちこちから巻き絞られたリボンのように巻きつき、収束したところからまた解けてゆき、全てがばらばらになる頃にはそこはもうウィームではなかった。
ざざんと波が打ち寄せる夜の海岸は、柔らかな夜の光を浴びてきらきらと光る。
なぜこんな美しい夜なのに、ウィームだけはあんなに暗く重苦しいのだろうと考え、その不公平さを考えた。
ネアは今日、小さな声で話してくれた。
この恐ろしく悲しい過去を思う火の慰霊祭にも、やはりこの世界なりの美しさがあって、灰の雨の降る暗いウィームの街並みを眺めていると胸が潰れそうなのに、美しくて胸が詰まるのだと。
恐ろしくても美しいものもあるのだなと思えば、狂乱しかけたグレアムと別れた日に雨のように降っていた花びらも美しかったことを思い出す。
(そうか。…………そのようなものも、美しいと考えてもいいのか…………)
またひとつ、初めての理解を胸に小さく微笑む。
胸の奥がざらざらと音を立てるような不快感があるのに、ネアが教えてくれたものが宿る部分だけはこんなにも暖かい。
そんな事を考えながら、満月に晒され銀色に染まった夜の海辺を歩いた。
ざざんと波が揺れ、細やかな水飛沫に月光の祝福と海の祝福が弾ける。
海面には月夜だけに咲く海椿が茂り、海の中の森を明るく照らしていた。
珊瑚の回廊には明かりが灯り、遠くから海の乙女達の楽しげな歌声が聞こえてくる。
恐らくそちらは、あの人間を手に入れた海の乙女達が、姉妹達を弄び虐げた愚かな人間を断裁しているのだろう。
その歌声を聞けば、少しだけ胸の奥のざらつきが和らいだ。
ネアを損なおうとした人間の苦痛よりも、そう考えた人間がもう自由になれないという事がいい。
デルフィッツという人間に対しての興味そのものはさしてなく、それは、ネアを傷付けようとする危うい花棘やナイフのようなものだった。
なくしてしまうのが一番であるが、二度と触れないところへゆくのであればそれでも構わない。
また海の向こうから、美しい歌声が聞こえてきた。
海の乙女達は、波や海溝の精霊の幼体である。
幼い頃は脆弱でも、精霊として育てば小さな港町など高波に沈めてしまう程に獰猛な生き物だ。
ノアベルトの言うように誰かがその機を早めたのは間違いないが、あの人間は、海の系譜の成り立ちをよく知らずに、精霊に近くなった海の乙女達や、より長く生きた波や海溝の精霊達の怒りを買ったのだろう。
馬車から降り、慰霊祭の天幕により近い空間の歪みでネアの帰りを待っていたとき、あの人間が天幕から出てくるのを見た。
もし、その男がネアを傷付けるなら。
もしくは、ネアを何らかの形で怒らせ、ネアがそう望むのなら。
すぐに捕まえて壊してしまえるように魂の色を見定め、どこにも逃げられないようにはしておいたが、こちらで対処する必要はなかったようだ。
夜を渡る風に顔を上げると、ざわりと海と月影が揺れた。
打ち寄せる波間から、次々と海の乙女達が手を差し伸べ、月光の煌めきから羽ばたく妖精達は、視線を向ければ砂になってしまう。
晴れた夜空に姿を現したのは、月影の精霊に、星の魔物達。
けれども、光の粒が凝るようにして現れたひと柱の魔物の姿を見ると、海も月も星も、悲鳴のような声を上げてあっという間に散り散りになっていった。
しゃりんと鈴が鳴る。
空気がけぶるようだとネアが話していた高位の生き物の顕現の魔術を帯び、その魔物が、よく輿に付けていた鈴の音が響いた。
身一つで現れても鈴が鳴るのであれば、よほど気に入って身に付けているのだろう。
そんな事を考えるようになったのも、ネアと出会ってからのような気がする。
それまでは、持ち物や振る舞いを透かして誰かを覗く事などなかった。
言葉も温度も、心の表面を滑り落ちるようにただ流れ落ちて遠ざかるばかりだったのだ。
「…………我が君。御身にこのような場所まで足をお運びいただくとは、わたくしの不徳の致すところでございます」
青く明るい月明かりの浜辺に、一人の女が長い衣を惜しげもなく砂に汚して平伏していた。
栗色に白斑らの髪に獣の角を持つ今代の白樺の魔物は、幼い少女の姿をしている。
だがこれは、高位の魔物達の中でも女としての欲を堪能する残忍で享楽的な魔物で、人間達が惑わされるように無垢ではない。
以前は美しい青年達を連れていたが、ここ数年は、気に入った少女達を数多く連れ去っていると聞く。
中でも白樺が好むのは、罪人なのだそうだ。
であるが故に、どのような主張があっても自分の為に誰かを破滅させたのだからと、自身を罪人なのだと言うネアは、決して近付けないようにとダリルからも言われていた。
もしそのような興味を持ち、ウィームを覗いたのだとしたら。
「私の領域だと理解した上で、君はあの人間を唆したのかい?」
そう尋ねれば、伏せたままの栗色の髪が僅かに揺れる。
ゆっくりと顔を持ち上げこちらを見据えた眼差しは、微かな絶望を刷き、その上で欲望を浮かべた魔物の眼差しだ。
「ええ、あの土地が我が君の守護を得ていることは知っておりました。だからこそわたくしは、御身の伴侶を、ウィームとヴェルリアの境界を崩す投げ石にしようという愚かで稚拙な絵空事を語ったあの醜い人間の男に、であれば火の慰霊祭こそが相応しいのではないかと囁いたのです」
「あの人間を無残に死なせる為に?」
「ええ。それ以外の理由などあるでしょうか。我らが王の持ち物を欲した愚かな人間は、やはりあなた様に裁かれなくては」
その言葉に、ああ、白樺はネアを持ち物だと思ったのだなと得心した。
だからこそ、自分が見付けた獲物をウィームに追い込んでおき、それで満足してしまったのだ。
誘導された者達がそこで行う事がウィームを損なう可能性があり、その中でネアが危険に晒されるかどうかは問題ではない。
なぜなら、ネアを所有物のように考える白樺にはきっと、ネアが人間としての役割を全うする為に、危険の見込まれる慰霊祭に出かけて行くことが許される理由が分からないのだ。
サルルカムや欄干の魔物達の階位を見定め、それがこちらに害を為す可能性はないと判断して、捕まえた獣を放るようにしてウィームに投げ込んだのだろう。
(そうか、……………)
分からないのだ。
ただ、良かれと思ってやった行為には、悪意は一欠片もなかった。
そう言えばこの魔物は、他の魔物や他の生き物には残虐なことをするが、他のそのような趣向の魔物達とは違い、自身の足元を危うくするような事は好まない。
本心がどうであれ、彼女は、選び抜いて集めたお気に入りの奴隷達を壊されないようにと、第五席までの魔物達との衝突は上手に避けていた。
「…………我が君、」
ふと、その声が先程より近くで聞こえ、近付いた白樺をひたりと見つめる。
白を持つ魔物はそう簡単に壊れてはしまわないが、不用意にこちらの領域に踏み込んだ事で指先が僅かにひび割れたのか、恥じ入るように反対側の手で押さえていた。
「どうして君は、私に近付いたのだろう?」
「…………褒めて欲しいからですわ。けれども我が君は、怒っておられるのですね?」
「君を褒めようとは思わないけれど、怒りを感じる必要もないだろう。君には理解出来ないであろう事が、私はとても不愉快なのだから」
「まぁ、それは残念ですわ。あの獲物を差し上げれば、私を気に入ってご寵愛下さるかと思いましたのに」
「なぜ私が、君を望まなければならないんだい?私が望むものは、私が既に手に入れているものだけなのに」
そう答えると、白樺は小さく微笑んだ。
「それは残念です。我等が王の寵も得てみたかったのですが。…………人間など、とは申さずにおきましょう。わたくしにも、特別に気に入った人間がおりますから」
そう微笑む白樺は、冷ややかなと称される事の多い微笑みを歪めると白緑の服裾を持ち上げて立ち上がり、今度は砂浜に身を伏せず、立ったまま腰を折って一礼してみせる。
彼女の言葉に、少しだけ考えた。
その声音が、かつてネアを気に入り始めた頃のアルテアのように思えたのだ。
「…………では、どうぞわたくしを罰して下さい。あえて高貴な方の宝物を壊すのも好きですが、我等が王の持ち物には手を出しませんとも。わたくしの浅慮で、我が君の伴侶を危険に晒した事への償いはいたしましょう」
それは真摯な響きで、けれどもどこか愉快そうな声音に、自身を損なうような暇潰しをも好む気質の欲深さを見た。
白樺は、悪食の蒐集家とも呼ばれている。
世に知られる、様々な奴隷の蒐集に加え、その体を以って集約する体験も好んで集めた。
与えられるであろう苦痛や恐怖も、白樺にとっては得難い蒐集物の一つとして知覚されるのだろう。
「では、君の契約者を差し出すかい?」
「……………あの人間を?」
「君のよく知るこの国の人間の王は、その鉢に入れてしまえば目障りなものがなくなるからと、そう見越してデルフィッツという人間の思惑に気付かないふりをしたのだろう」
「あの男には、そのようなところはあるでしょう。しかし、障りを受けるような振る舞いではなかったはずです」
「………ノアベルトの呪いやその他の約定に触れなかったのであれば、彼は、私や、あの土地の領主の支持者達の手による排除を見据えたのではなく、単純に当人の自滅を望んだのだろう。けれど、結果としては私の望まない事をした。であれば、それもなくしてしまっても構わないとは思わないかい?」
そう尋ねれば、こちらを見た瞳に僅かではあるが、困惑したような躊躇いが揺れた。
「…………ええ。あやつは所詮暇潰しのようなもの。望まれるのであれば、…」
「かつて、私に教えてくれた者がいたよ。把握せずに積み重ねていった荷物は、やがては、持ちきれないくらいの重さになるのだと。そして、それを知るのは大抵の場合、二度と取り戻せなくなってからなのだそうだ」
「……………我が君?」
「………そうだね、今はその人間を貰うのはやめておこう。その代わり君は、もしその人間が、私の伴侶とその住処を損なおうとしたのなら、そうして私がそれを許さないと決めたら、その時こそ、君の手で私を不愉快にするものを滅ぼすといい」
「御意」
「この事を、あの人間の王にも伝えておくように」
「………はい?、そういたします」
そう命じれば、白樺は訝しげな表情のまま、けれども頷き深々と頭を下げた。
(……………いつか、自分にも気に入った人間がいると話した君が、自らの執着の在り処に気付けば、もう二度とこのような事はなくなるだろうか……………)
しかし、それを理解しないままにその手で滅ぼす事もあるのかもしれない。
或いは、僅かばかりの執着はすぐに消えてしまい、そう遠くない内に飽きてしまう可能性もある。
だが、この誓約を知ったあの人間の王は、自らの手でしっかりとそれを防ぐだろう。
(……………この誓約が、罰としての効果を出すとは考えていない)
意図的に、ネアにあのような事が起こると予測した上で画策したのなら、この国の王は塩の魔物の呪いに食われた筈だ。
それを考慮し、まだ有用なあの王に支払わせるものはこの程度でいいと考えている。
白樺と交わした誓約は、抑止力の一つとして積み上げるばかりのものでいいのだった。
「…………では、俺からも今回の出来事の対価を徴集させて貰おう」
月明かりの下にゆらりと揺れた影が、はっとした白樺が振り返る前に、身の丈程の大剣を軽々と振るった。
ざん、という鈍い音がして、断ち切られた首を慌てて押さえ、白樺が眦を吊り上げる。
「……………っ、おのれ、犠牲めが!おぬしは関係なかろうが!!」
「関係なくはないんだ。君が危険に晒したのは俺の友人であるし、シルハーンの伴侶だ。加えて、俺はあの欄干の魔物から術式添付までされている。その発端となった君に報復するだけの、因果の魔術は紡げるようだな」
「………………何だと?あやつは、侯爵位の魔物に、印付けの魔術を添付したのか?あり得ぬわ。階位で弾く筈ではないか」
「やはり君は知らなかったんだな。彼等が扱おうとした魔術は既存のものではなく、高位の魔物が手を貸して構築されたものだ。その結果、術式の持つ魔術階位が密かにかなりの高さに設定されている」
そう説明したグレアムに、白樺は、欄干の魔物がグレアムまでを巻き込んでしまった事が真実なのだと理解したようだ。
「……………あの愚か者めが。よりにもよって、最も呪わしい男にこの身を傷付けさせる理由を与えるなど…………。こちらに戻された際に八つ裂きにしてくれる」
軋むような憎しみの声でそう呟き、グレアムの方を睨むと、白樺は、再びこちらに向き直り首元を片手で押さえたまま頭を下げて姿を消した。
しゃりんと、鈴が鳴る。
「君も来るとは思わなかった」
「申し訳ありません。逃げられる前にと剣を振るってしまいましたが、もう、彼女との話は宜しかったですか?」
「済ませてあるよ。欄干の魔物から術式の添付を受けたイーザの友人は、やはり君だったのだね」
「ええ。欄干の魔物が持つにしては階位の高いもので、気になって調べていたのですが一歩出遅れました。お力になれずに申し訳ありません」
「いや、君達がいたから、あの子を悲しませるような事にはならなかったのだろう」
「それは、火の予兆と気配から違和感に気付かれたあなたが、早々にあの周辺一帯の火の系譜の魔術領域を下げて下さったからですよ。でなければ、最初の発火は少々危うかったでしょう」
苦笑してそう言うグレアムは、昔から気に入っている大剣をしまい、白樺が消えた後も静まり返っている海の方を満足げに一瞥した。
このあたりが、少しだけウィリアムに似ている。
白樺の魔物と因縁があるのかと聞けば、数年前に求婚されたので断ったばかりなのだとか。
「リドワーンに、あの人間の処分を頼んでくれたのは、君なのだろう?」
「本人が率先して動きましたよ。ですが、友人達に、より自然な形であの子爵を排除出来るのは海の系譜だろうという話はさせていただきました。幸い、付け入る隙のある愚かな人間でしたので」
「有難う、グレアム。…………そう言えば白樺は、サルルカムや欄干の魔物が扱う魔術が、アルテアの付与したものだとは知らなかったようだね」
「そのようですね。俺も驚きましたが、そこはやはり、本気で何かを企めばアルテアは器用な魔物なのでしょう。………俺自身、アルテアが手を加えた魔術だと気付いたのは、今朝になってからです」
「アルテアが調べるまでその介入を気取らせなかったのは、ノアベルトの呪いに触れないように動いたからかもしれないね」
「加えて、サルルカム達もヨシュアへの恨みを晴らす計画に切り替える為に、アルテアに計画が漏れないようにしていたのでしょう。…………シルハーン、今回の事をウィリアムは聞いていますか?………その、彼は、後から聞いたら寂しがるでしょうから」
そう言われ、微笑んで頷いた。
「ネアがね、就寝前にカードから報告していたよ。彼女は、ウィリアムがよく終局の予兆などを拾ってしまうところを見ているから、こちらで起きていることを知らずに、何かを感じて不安にさせてしまうと良くないのでと、伝えておいたのだそうだ」
「それは頼もしいですね。彼女は、魔物の不安や欲求によく気付いてくれる。ウィリアムには少し、繊細なところがありますから」
「うん………。ネアは、君を見付けてくれたくらいだからね」
「…………………ええ」
ウィームで集まっている友人達との集会所に戻るのだというグレアムと共に、ヴェルリアの海辺を離れた。
転移の薄闇の中で別れる際に、日取りを変えたウィリアムの誕生日の話をしたが、グレアムはそこに参加出来るのが嬉しそうだった。
(そうか、これも話しておいた方がいいのかな…………)
ふと思い出し、アルテアには、白樺は、あの術式がアルテアのものだとは知らなかったようだと伝えておいた。
それを聞いたアルテアは、白樺の魔物には、統括の魔物としての警告のみで済ませる事にしたそうだ。
恐らく、回収した術式を温存するべく、自分が今回の一件に深く関わった事は伏せておくつもりなのだろう。
「まぁ、私の大事な魔物が帰ってきました」
そうしてリーエンベルクに帰ると、ネアはなぜかすっかり起きてしまっていて、寝台の上でノアベルトと話をしているではないか。
ここを離れていた事を知られてしまいぎくりとしたが、ネアは立ち上がって、三つ編みをほどいた髪を梳かしてくれるという。
「ネア…………」
「ディノは、悲しい思いをしたり、誰かに虐められていませんか?もしお出かけの先で困った事があったのなら、伴侶にはきちんと報告して下さいね?」
「…………君は、私がしてきた事を厭わないのかい?」
「でも、それはディノにとっては必要な事なのでしょう?それに、悪い奴めをくしゃりとやるのは気分的には私も賛成です。そんな魔物さん達をぽいして来たのでは?」
「……………今回の事件の裏で手を引いた白樺と話をして来たよ。………でも、彼女は、ウィームを害そうとした人間をこちらに送りつけただけのつもりで、自分がした事が私達を不愉快にするとは理解していなかったんだ。だから、二度とそのような事をしないように、それを考えられるような言葉で誓約をするに留めた」
「ふむふむ、その場合はそれでいいのかもしれませんね。ディノが踏み止まってくれたのは、その魔物さんがこの国の王様達に近しい魔物さんだからですか?」
「あの王は、まだこの国に必要なのだろう?であれば、白樺を壊してしまわない方がいいのかなと思ったんだ。ただ、グレアムは、白樺の首を切り落としていたかな…………」
おずおずとそう話せば、ネアは白樺をそのままにした事よりも、グレアムがした事の方が気になるらしい。
目を丸くしていて、そんな表情もとても可愛い。
「………ほわ、グレアムさんが」
「わーお、らしいなぁ。…………それにしても、白樺はわざとじゃなかったんだ?」
「デルフィッツという人間の思惑に気付いて、私に差し出したつもりだったようだよ。………けれど、彼女が気に入っている、この国の王の為でもあるのだろう。…………それが彼の為であると、自分では理解しきれていないようだったけれどね」
白樺にとっての獲物は、デルフィッツという人間とその人間と手を組んだ魔物達の方だったのだと話せば、ノアベルトは片手を額に当てて天井を仰ぐ。
「ありゃ、そっちかぁ。…………アルテアと同族だね」
「…………あらあら、懐いてるのに自覚がない魔物さんなのですね?」
「うん。けれども君は決して関わってはいけないよ」
「はい。王都の方にはあまり近付かないようにします。……………ですが、いつか絶対に私だと分からないようにして、またヴェルリアのお店でオゼイユのソースなお食事がしたいです………」
「うん。また行こうか。きっとノアベルトが擬態を手伝ってくれるよ」
「僕に任せて。一緒に行ってしっかり隠すよ!」
「ふふ、ではその時は、三人で出かけましょうね」
微笑んだネアが伸ばした手で撫でてくれたので、隣に座ってからネアを膝の上に抱き上げると、頭を擦り付けた。
「………白樺は、場合によっては壊してしまおうと思ったのだけれど、壊しても意味のないものだったよ。………結局、君に怖い思いをさせたものを裁けたのは、海の乙女達だったね…………」
「だからディノは、すっきりしない顔をしているのですね?では、私がたくさん大事にしたら少し元気が出るでしょうか?」
「……………ずるい」
「むむ、またそちらに行ってしまったのですね…………」
ネアの向こう側では、ノアベルトが幸せそうに寝そべっている。
聞けば、今日は特別に怖い思いをしてしまったからと、もしまた堪らない気持ちになったら、もう一度この部屋に泊まりに来てもいいとネアが約束してくれたのだそうだ。
「僕は大事にされているんだなぁ…………」
「あら、家族なのですから当たり前ではないですか。エーダリア様もノアの事が心配だったようで、何か喜ぶような事を計画出来たらと話していましたよ」
「………………ありゃ。何だろう。胸の中が変な感じだ」
「ふふ、それは嬉しくて照れ臭くて、大事にされて悲しかったものがじたばたしてしまうからではないでしょうか?」
「うわ、やめて!もっと変な感じになるから…………!」
髪の毛をブラシで梳かしてくれているネアに、デルフィッツにこちらで対処出来なかった事を気にしていないか、我慢出来ずに尋ねてみた。
するとネアは、鳩羽色の瞳を瞠って、困ったように微笑むのだ。
「では、ディノも私と同じ気持ちなのですね。…………私も、私の大事な伴侶や家族なノアを悲しませた人を、この手でくしゃりとやれなかった事が少しだけ悔しいんです」
「…………君も、なのかい?」
「ええ。でも、悪さをした方は皆さん処罰を受けそうですし、私の大事な方は怪我なく済みましたから、後はもう、むしゃくしゃした分だけ自分を甘やかして洗い流してしまいましょうね」
「……………うん」
ブラシで髪を梳かして貰うと、大事にされている温度が肌に触れて堪らなく心地よい。
うっとりと息を吐き、ネアの声に耳を傾ける。
「……………ただ、もし、主犯格の誰かが逃げ出して無傷のままでいたのなら、私が追いかけていって滅ぼすつもりでしたが………」
「ご主人様……………」
「ありゃ、かなり本気だぞ…………」
「当然ではないですか、私の宝物を怖がらせたのですよ!」
「宝物……………」
さりさりと髪を梳かし、そこに口付けを落としてくれる。
宝物だと言ってくれたネアに胸の中が苦しくなり、唇の端を持ち上げた。
この言葉を貰えるのは珍しいのだ。
まだ、三回くらいしか言ってくれていない。
「わーお、日付が変わったところだけど、少しだけ虹がかかったぞ」
「……………なぬ。夜の虹がきらきらしています。これは見にゆかねば!!」
「ネアが逃げた……………」
そのまま三人で話している内に眠ってしまい、夜が明けると、朝食の席でエーダリアからお礼を言われた。
昨晩かかった虹を見たウィームの人々が、火の慰霊祭が明けてウィームの美しい夜が戻ってきた事をとても喜んだのだそうだ。
エーダリア達も、街の見回りをする馬車からその虹を見たのだとか。
隣の席で、微笑んだネアがこちらを見た。
ノアベルトはまだ眠いのか、銀狐の姿になってエーダリアとヒルドの間の席で丸まって眠っているし、昨晩の内に、サルルカムが暮らしていたアルビクロムの橋の調査も終えてきたというアルテアも、同じ朝食の席に着いている。
ノアベルト曰く、今回の一件のアルテアへの制裁は白けものの靴下で行うのだそうだ。
(ああ、君がここにいて、君を大切にするものがここに揃っている…………)
かつて、一人きりの屋敷でピアノの曲を聴いていたネアは、とても簡素な朝食を食べていた。
ジャムは高いのであまり使わなかったと話していた彼女が今は、季節の果物のジャムをたっぷりパンに乗せて幸せそうだ。
その光景に満足して、ネアが美味しいと喜んでいる焼きたてのキッシュを食べる。
酢漬けのトマトはとても美味しいので、最後まで取っておこう。




