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42. 思わぬ展開だったようです(本編)




ぼうっと燃え上がった炎の中で、ネアはゆらゆらと揺れる火の影の中に居た。



(……………え、)



熱くはない。

熱くはないのだが、永遠のような僅かな時間を、炎の中はこのようなところなのだと、しょうもない知見を得ながら立ち尽くしていた。


その向こう側で呆然とこちらを見たアルテアが、ネアにはコマ送りに見えた一瞬でネアを抱き締める。

するともう炎はどこにもなく、ネアはただ、軋むほどに強くアルテアの腕の中に抱き込まれているばかりだった。



柔らかな布地に押し付けられ、鼻がへしゃげそうになる。

ネアはいつもこのような時、他の誰かはどうやって鼻を守っているのか不思議でならない。



でも、そんなことを少し考えたら、自分がどのようなものに襲われたのかの実感がじわりと沸いてきた。



(……………あれは、炎だった?)



包まれた瞬間、音が止まったように感じた。

安全な隔離結界の外側だけを燃やされたようだと考えて、ネアはディノの指輪に視線を落とす。



(守護があったから、熱くもなかったのかしら…………?と言うか、………リュツィフェールさんに攫われた時のように、ディノが近くにいるような気もする………)



そう考えかけたところで、炎の色を思い出し、まだその怖さを自覚しきれないままに体が震えた。




「……………っく」

「同時に治癒をかけてある。痛むところはないか?」

「……………もしかしなくても、わ、………私は今、燃えてしまったのでしょうか?」



まだ事態が上手く飲み込めずにそう尋ねたネアに、そっと体を離してこちらを見たアルテアの瞳は、ぞくりとする程に暗くどこか切実であった。


ネアは、酷く緩慢な仕草でもそもそと自分の体を見下ろし、なぜか焼け焦げ一つないケープやドレス、そして髪の毛を摘まんでその毛先を見る。


片手でネアを抱いたまま、もう片方の手の手袋を噛み咥えて引き抜くと、アルテアはそのまま手袋はどこかにやってしまって、剥き出しの指先でネアの頬に触れた。



頬に触れる肌の温度に、ネアの胸の中の怖さがすとんと下がり落ちる。



「損なった場所はなさそうだな……………」

「…………アルテアさんから見てどこかがなくなっていなければ、幸い焦げてはいないようです」

「……………痛みや違和感があれば、すぐに言え。サルルカム…………、」



凍えるような声でその名前を呼び背後を振り返ろうとしたアルテアが、ぴたりと動きを止める。


ぎょっとしたように体を揺らしたので、つられてネアも振り返ると、先程までアルテアが踏みつけていた青年は、今度は雲の魔物の手で、もくもくしたものに絡め取られ、ひょいっと空中に持ち上げられていた。


アルテアの視線に気付いたのか、こちらに視線を向けたヨシュアの表情の温度は低い。

またすぐに自分が持ち上げている青年に視線を戻したヨシュアは、人間達が恐れる雲の魔物の目をしていて、銀灰色の瞳は美しい刃のようだ。



「サルルカム、僕を呪っておいて、ただで済むと思ったのかい?」

「……………馬鹿な、あの呪いはそうそう簡単に解ける筈が………っ、」

「僕はね解けるんだよ。それに、閉鎖空間を作って剣で昼間を少しだけ切って貰ったしね」

「……………ヨシュアか。どこから………こいつか……」



苦い声でその名前を呼んだアルテアに、ヨシュアは小さく頷く。

酷薄で魔物らしい仕草には、泰然とした雰囲気すらあった。



(…………後ろは、……良かった気付かれていないみたい。そして、この人がヨシュアさんを呪った橋の魔物………)



背後の会場では慰霊祭の儀式を終え、これからは第一王子の話が始まる頃だ。

しかし、そのざわめきや拍手はおろか、垂れ下がった天幕のカーテンの向こうからは、なぜか物音一つしない。


ネアは眉を寄せ、ここは本当にただの天幕の内幕と外への出口の間のスペースなのだろうかと考えた。

外が曇天だからなのか、先ほどよりもずっと薄暗く感じてしまう。



「僕は偉大だから、ポケットの中からネアが燃えないようにしたよ。でも、シルハーンの守護があるから元々燃えなかったのかな………」

「俺も火除けはかけておいたがな。ヨシュア、そいつを寄越せ」

「ほぇ、何で僕を呪ったサルルカムを、君に渡さなければいけないんだい?」

「その蔓の先にはまだ獲物がいるからだ。……………それと、こいつを外のシルハーンのところまで届けろ。サルルカムが動いたなら、一個小隊が姿を潜めている筈だ。髪一筋とて損なわせるなよ」

「……………ネア、アルテアが我が儘だよ」



ヨシュアにそう言われて初めて、ネアは短く息を吐いた。


あらためて自分を腕の中に収めている使い魔を見上げれば、じっと見上げた先の瞳は青かったが、そこに浮かんだ諦観は先程までのものとは温度が違った。



見つめ合った僅かな時間で、何かを共有し理解したのかもしれない。

ネアはただ、この対岸に渡ろうとしていた使い魔は、今日ばかりは、そちらに行くのが嫌になったらしいと理解しふすんと頷く。



「アルテアさんは、お仲間とは仲違いしたのですか?」

「他の使いどころがあったんだが、何の計算も出来ずに先んじた奴がいたようだな。回収するしかないだろう」

「……………よりによってもの火の慰霊祭に、悪さをしようとしていたのではなかったのですね?」

「さすがに今日ばかりはない。ついでに付け加えておけば、火もない。言っておくが、ウィームには俺も屋敷があるんだぞ」

「ふむ。今日ではない日に、悪者共と結託し、私をぼうぼう燃やそうとしていたのですね」



ネアがそう言えば、アルテアはひどく嫌そうな顔をした。

ネアも、わざと言っているだけで、アルテアがネアを燃やそうとしたサルルカムの行いに賛同していないことくらいは理解しているのだが、ここは不安にさせたことへの仕返しである。



(きっと、火除けの守護を与えてくれた段階で、防御側に回ってくれたのではないかしら……………)



何か不手際があったと忙しなくしていたのは、よりにもよって火の慰霊祭に問題を起こし始めた悪巧み仲間を説得しようとしていたのだろうか。



「悪いが、議論している時間はない。後にしろ」

「今日のような日でなければ、私も特に気にしません。日を改めたのなら一安心ですから」

「…………は?」

「魔物さんはそういうものなのでしょう。森に帰らず今の場所で魔物さんらしく荒ぶるなら、その矛先が私に向くことも不思議ではありませんよね。今度は燃やされる前に、ぞうさんボールで反撃し…」


ネアの言葉に、なぜかアルテアは小さく呻いた。


「使い魔の契約があるんだ。お前を肉体的に損なうとなれば、俺にも跳ね返りがあるんだぞ?!」

「けれど、それを避ける為の知恵くらい、アルテアさんは持っている筈です。……その、まずはお外に出ませんか?私たちが出てこないと、ディノやノアが心配してしまいそうですから」

「……………相変わらず、お前は揺らぎもしないな。それと、ここはサルルカムの固有領域の中だ。橋や階段の系譜の魔物は、必ず渡しの固有領域を持っている。調印の呪いの中のような時間の隙間だと思え。時間の心配はいらない」

「まぁ、だからどたばたしていても、誰もやって来ないのですね…………」



そんなやり取りをしていると、サルルカムを雲の魔術で宙吊りにしたまま、ヨシュアがこちらにやって来る。


歩くたびにもわもわした雲のリボンのようなもので締め上げられ吊るされているサルルカムがぶらんぶらん揺れてしまい、拘束の締め付けが強まるのか短く苦痛の声を上げていた。


ネアとしては、ご随意にどうぞの心持ちである。



「…………僕を無視するなんて、許されないんだよ」

「ヨシュアさん、アルテアさんは蔓の先を掘り返しに行くようなので、その魔物さんは預けていただいてもいいですか?こちらは、ディノにヨシュアさんが守ってくれたと言いに行く予定なので、そちらで褒めて貰う方がきっと楽しいですよ?」

「仕方がないな。これはアルテアにあげるよ。僕が君に獲物を譲ったことを、覚えておかないといけないよ。……………ほぇ、アルテアが睨む…………」



ディノに褒められる方が楽しいと感じてくれた様子のヨシュアは、拘束していたサルルカムをぞんざいにアルテアの方へ放り出すと、ささっとネアの背中の後ろに隠れてしまう。


アルテアがどこからか取り出した杖をくるりと回すとサルルカムはしゅぽんと消え、周囲の天幕の色合いが、挟んでいた透明な硝子を引き抜いたように僅かに変化した。




「…………アルテアさん、」



背中に回されていた手でヨシュアの方に押し出され、ネアは、これから、今回の一件を着地させる為にどこかに出かけて行くのであろう使い魔の名前を呼ぶ。



こちらを見たアルテアの瞳は鮮やかな赤紫色になっており、いつの間にか、擬態は解いてしまったようだ。



だからここから先はきっと、ネアやその他の誰にも立ち入らせず、アルテアが魔物としての収拾をつける為の時間なのだろう。



これを残してまたいつか、ネアの対岸に立つか、或いはこれはもう不要になったと、呆気なく蓋を閉じてしまうのか。


それをどのように決めるのだとしても、それは彼の心の問題だ。




「……………俺が線を引くべきところまでは、こちらで対処する。今日の怨嗟の炎ではない不審火の大方は、こいつらの仕業だ。お前は、さっさとリーエンベルクに帰れ」



その言葉に、ネアは火の気配が無い筈のところで燃え上がった火が、やはり人為的なものだったことの確証を得た。


イーザの伝言から魔物達が導き出したように、サルルカムがその従僕に扮していた以上、デルフィッツ子爵がその中心にいるのは間違いない。



「デルフィッツ子爵ご自身も、今回の事件に関わっていらっしゃるのですね………」

「そいつと、サルルカムの両者の思惑が一致しての事だ」

「きりんさんの貸し出しは必要ですか?」

「いらん。育ち方を誤った枝葉を刈り取るだけだ。そもそも、お前の拘りのなさはどうかしてるぞ」

「拘るからこそ、ここはこのような形でいいんですよ。ただ、今日のような心の柔らかくなる日を荒らさず、私の大切な人達を傷付けず、私から食べ物を奪わなければ」

「………………最後がおかしいだろ」

「こちらで不自然な火に対処されている方に、何かお伝えしておくことはありますか?」



その質問に、アルテアはその前の会話の続きの諦観のまま、呆れたような溜め息を吐いた。


首を傾げたネアの頭の上にぼすんと手を乗せると、どこからか取り出した煙草を咥えながら短い伝言を預けてくれる。



「………そうだな。欄干の魔物に印付けされた者達の解術分は、こちらで対処すると伝えておけ。サルルカムの持つ呪いと祝福で、発火元にされた者を術式の基盤とする魔術だ。………ったく、これはまだ流通させる前の術式だったんだがな。………ノアベルトあたりに伝えておけば理解するだろう」



魔術に明るくないとさっぱりなその言葉にこくりと頷き、ネアは、背中を向けて転移してゆく魔物をそのまま見送った。



(…………ふぅ、)



ひとまず、使い魔の離反は避けられ、今年の火の慰霊祭の日に起こっている異常な発火の絡繰りも、おおよそ説明されたようなものだ。


ネアは深く息を吐き、外に出て行く為に表情を整える。


隣に並び差し出されたヨシュアの手を握ってやり、まずは、すっかり雲の魔物な姿をどうするべきかを手際よく指導することにした。


手は繋ぎたいけれど、怜悧な美貌ときゅっとひき結んだ口元が酷薄な印象のヨシュアは、魔物らしい華やかさではあるが、少々目立ち過ぎる。



「ヨシュアさん。その姿で出てゆくとみなさんが驚いてしまいますので、先程のアルテアさんのような姿に擬態出来ますか?」

「ほぇ。僕にアルテアの真似をしろっていうのかい?」

「時間がないので、一刻も早くです。でないと、ディノに褒めて貰う分量が減ってしまいますよ?」

「………仕方がないなぁ。僕は偉大だから、アルテアの擬態を真似るくらい何てことはないんだよ。それから、天幕を出たら僕の左側には行かないようにするんだね」



こんな時、魔物は不意に魔物の目をするのだから、困ってしまう。


首を傾げたネアは、左側に回り込んで立ったヨシュアをまじまじと見つめる。



「……左側に何かあるのですか?」

「ここからだと気配が不明瞭だけれど、さっきのサルルカムの系譜の生き物がいるみたいだね。アルテアの言う、印付けをしていた魔物じゃないかな。臆病な魔物だけど、柵付けで印を付けるのは上手いんだ」

「…………最近、そんなにょろにょろした奴の話を聞いたような気がします。夕暮れの時にしか出てこないので、お仕事で探した時には発見出来なかった魔物さんでしょうか。………ただ、そんな魔物さんが私に何かの印を付けようにも、遭遇していないのにいつやられたのでしょう………」



ここでヨシュアは、ふわりと擬態を纏い、見事に先程までのアルテアの擬態を再現した。


これから天幕を出て人々の目に晒されるのだからと、子供のように手を繋ぐのは止めることにして、優雅に伸ばされたヨシュアの腕に手をかけさせて貰い、ネアはドレープの美しい天幕の入り口をくぐる。



ふわりと頬に触れた風には清廉なウィームの香りの他に、僅かばかりの火の匂いもした。

やっとあのテントを出られたのだと安堵しつつ、ネアは、あまりにも暗いウィームの空を見上げる。



はらりと、また曇天の空から灰が落ちてくれば、どこかで大切なものが燃えてしまっているのではという恐ろしい予感に胸の底が震えてしまう。


この不安や悲しみこそが、火の予兆が齎す最初のものなのだ。



(そんな日に、ウィームで火の事件を起こそうとしているだなんて…………)



真っすぐに伸びた漆黒の絨毯の向こうに、ここで帰路につく参加者達を案内するウィームの騎士達が見えた。


幸いにも、既にデルフィッツ子爵の姿はなかったが、ネア達の前に二組の参加者が馬車待ちをしているようだ。

けれども、騎士達の手際のいい誘導を見ている限り、そちらに着くまでには送り出しも済むだろう。


ネアがちらりとヨシュアの方を見れば、絶賛選択の魔物が好みそうな擬態を展開中の雲の魔物は、これまた心得たように小さく頷いた。



「君はもっと話したいんだろう?音の壁の魔術を展開してあるよ。僕は魔物の役だし、ここではもう不自然ではないからね」

「まぁ。ヨシュアさんはさすがですね!」

「シルハーンの前でも褒めるといいと思うよ」

「ふふ。ではそうしましょうね。……そして、私が欄干の魔物さんとは遭遇していない筈だというお話なのですが……………」

「会ったのは僕だから、その時じゃないかな。リーエンベルクに行く前に、ウィームの橋の中でサルルカムの気配の強い橋を訪ねたんだ。そうしたら、凄く怒っている欄干の魔物に橋から追い出されたからね」

「…………なぬ」



(…………綿犬さんが………?)



硝子戸から室内を覗くのも一苦労だったあの小さなワフワフが、特定の橋を訪ねるだけの距離を歩けたのだろうかと、ネアは眉を寄せる。


何しろ、ポケットに入れておいても気付かれない大きさなのだ。



「………あのちびこい体のまま、街を移動して橋を探したのですか?」

「あの擬態でも、転移が出来るんだよ。僕は賢いから、地上に降りる時には色々な手を打つんだ。サルルカムの呪いは開いてしまったけれど、あのアヒルの首飾りは、そんな風に僕の力を削がれた時に魔術をそのまま使えるように、普段から魔術を蓄えた道具なんだよ」



それを聞いたネアは、思っていたよりも遥かに高性能であったのに、二度続けて鳴くと疲れてぜいぜいしてしまった綿犬について、とても悲しい気持ちで思い返した。



(でも、綿犬が魔術を使えたのなら、イーザさんがヨシュアさんをこちらに預けてくれた理由が、変わって見えるかもしれない………)



リーエンベルクを出る前に、夜紡ぎの剣を使って元の姿に戻ったヨシュアと話をしたが、時間が限られていたので、まだ詰め切れていなかったものもある。


秘密裏に送り込み、呪いが解けるまでの時間を稼げればというだけではなく、イーザは綿犬が魔術を使えることを承知の上で、リーエンベルクに向かわせてくれたのだろう。


訪れ方があのようになったのがヨシュア自身の問題なら、アルテアを警戒していたのではなく、加えて、立派な戦力としての投入だった可能性もある。



「……………と言うことは、きっと助けになると信じて、ヨシュアさんをポケットに入れたままにしておいたので、私はその目印で燃やされたのですか?」

「そうだろうね。印を付けたものを、サルルカムが燃やす手順なのかな。僕が、擬態を解けるくらいに偉大だったことを感謝するべきだよ。あの炎だって隔離結界で防いだんだ」

「………完全なる巻き添えだったと言わざるを得ません。慎重になったつもりが、まさかの仇となりました………」

「ほぇ………?」



問題の左側とやらはネアには分からなかったが、相手は魔物なので今ここで手を打つのはやめておいた方がいいだろう。

馬車に戻ればディノとノアがいるだろうし、会場の近くには帰ろうとしている他領の参加者達や、会場の警備をしているウィームの騎士や魔術師達が大勢いる。


巻き添えで怪我人が出るような事になれば、エーダリアを難しい立場に追い込んでしまう。

ヨシュアには、その魔物が誰かに印とやらを付けようとした時には邪魔して欲しいとだけ伝えておいた。



ゆっくりと黒い絨緞を踏みしめてその途切れる場所まで来ると、その先の石畳みの道に、白灰色混じりの水色の四頭の妖精馬に牽かれた見事な馬車が、カラカラと車輪の音を立ててやって来た。


今回の慰霊祭の為に、火の災いを避けるという霧雨の妖精馬を貸してくれたのはイーザとルイザで、これは、ヒルドが休日に弟達に剣技を教えてくれた事へのお礼だったのだそうだ。



リーエンベルクの歌乞いと、その契約の魔物にお辞儀をした二人の騎士が馬車の扉を開けてくれれば、ちゃりりと扉の雪結晶の細工が揺れた。


冬の日の夜明けのような水灰色に、白と青、そして、銀に見えるダイヤモンドダストの祝福石を集めて作られたのがこの馬車である。

御者台に吊るされた朝露の結晶石のランタンには、こんな曇天の日だからかぼうっと淡い魔術の光が灯る。


魔術で用意された馬車へのタラップは、ぎしりと踏めば爪先を置いた場所が煌めく、星空の事象石が使われていた。


馬車の中は空っぽに見えたが、ネアは大事な魔物とノアの気配をそこに感じて、ほっと胸を撫で下ろす。



ぱたんと馬車の扉が閉まると、ネアは伸びて来た腕の中にぎゅむっと押し込められ、ディノとノアのそれぞれから抱き締められていた。



「…………ぎゅ」

「ネア、無事で良かった。………怖くなかったかい?」

「も、もしかして、私に起きたことを見ていたのですか?」

「足元を繋いでおいたからね。君達がいた場所が橋の魔術で隔離されていても、それぞれに魔術の繋ぎの強い私達は、ここからであれば見通せるんだ」

「……………ごめんなさい、ディノ。あんな事に巻き込まれてディノを怖がらせたくはなかったのですが……」

「どうして君が謝るのだろう。…………アルテアが約束を守ってくれて良かったよ」

「…………ええ。別の機会用に仲良くしていた方々が、よりにもよって今日を選んで勝手に動き出したので、アルテアさんも困っていたようです。……………ノア。この通り、焼け焦げ一つないので、もう怖くないですよ?」

「ほぇ、ノアベルトが……………」



ネアの手をぎゅっと両手で掴んだまま、ノアは暫く項垂れていた。



その指先が震えているので、ネアはよりにもよってこのリーエンベルクが炎に包まれた日に、ネアを燃やそうとしたあの魔物を呪った。


やっと怖い事はないと、安心しかけたばかりなのに。



「……………今回の件を企んだ奴等は、僕からも特別な挨拶をしておかないとだね。僕は、今日ばかりはどんな理由であれ、君が傷付くのは嫌なんだ。火なんて近付けたくもないのに、…………君を、………僕がサルルカムの処遇をアルテアに預けたのは、僕があの場に出て行けば殺してしまうと分かっていたからだ…………」


そう呟いたノアを、ネアはディノに視線で頷きかけてそちらの手を離すと、もう一度ぎゅっと両手で抱き締めてやった。



「ノア。私はどこも悪くならずにここにいますし、悪いやつの正体は判明しました。後はもう、ノアがいるので一安心ですから、ノアを悲しませた人達は、懲らしめて貰いましょうね」

「………………ありゃ。僕がこれから狩り立てに行くのに?」

「これからは陽も落ちますよ?松明を持って火の気を集めたりもするので、私としては、大事な家族をあまり外に出したくないのですが…………」



ネアがそう言えば、顔を持ち上げてネアの瞳を覗き込んだ塩の魔物は、その瞳を揺らしてどきりとするくらいに無防備な顔をした。



「………君達が話していた、この近くにいた欄干の魔物は捕まえてあるよ。分かったことはノアベルトから、ヒルドとダリルにも連絡済みだ」


そう話してくれたのはディノだ。


だから馬車は、会場近くを回ってみるということもなく、帰路についたらしい順調な走り出しなのだろう。

窓から見える風景を追いかければ、リーエンベルクに戻るコースに違いない。



「ディノ、有難うございます。ディノももう一度抱き締めますね!」

「……………ずるい」

「でも、ディノもあの場はアルテアさんに任せて我慢してくれたのでしょう?」

「…………うん、私が直接あの場を踏むと、慰霊の魔術が歪むからね。…………彼等は、火元になった人間達に過失があると示すつもりだったようだ。怖かっただろう………」

「ええ。あの時に、サルルカムさんが口にしようとしたのは、そうして騒ぎ立てる為の言葉だったのかもしれません」

「いや、あれは一種の術式なんだ。橋の魔物は人間を呪うのが好きで、ああして伝えた言葉で獲物を魔術の仕切りに追い込んでしまう。手を加えたようだから、アルテアは、それを固有魔術として確立したのかもしれない」

「カムス橋の魔物さんも、呪うのがお好きだと聞いた記憶があります………」

「一部の橋の魔物には、そのような気質を持つ者達がいる。橋には、通行の可否で行動の制限を与えるという資質があるからね」



(つまり、欄干の魔物さんが印を付け、何らかの魔術でその印のついたものを燃やす?………そしてサルルカムさんの魔術で、印を付けられた人こそを犯人だと示してしまうのが、今回の事件で主軸となる仕掛けなのかもしれない………)



犯人とされてしまう者も、燃やされてしまえば申し開きは出来なくなる。

事件を起こし、その責任を犠牲者に押し付ける事で、様々な局面を思うように扱える魔術なのだ。



ネアは、約束通りにヨシュアが火から守ろうとして助けてくれたのだとディノに話してやり、ヨシュアは誇らしげに胸を張った。

ディノに褒めて貰えてご機嫌のヨシュアは、馬車の中から転移でイーザ達に合流するらしい。



「イーザの会…………知り合いが、あの欄干の魔物に体当たりされた後に、おかしな魔術の添付がある事に気付いたらしいよ。印のようなもので、条件を満たすと発動するようになっていた魔術が火の系譜のものだったから、気になって調べていたみたいだね」

「イーザ達は、その魔術の証跡を追いかけているのかい?」



そう訊ねたディノに、ヨシュアはふるふると首を振った。

アルテア風の擬態はすっかり解いてしまい、いつものターバン姿の魔物に戻っている。



「イーザも呪いをかけられたから、ルイザの所に預けて来たんだ。もう解けた頃だから、迎えに行くんだよ」

「まぁ、…………イーザさんも呪われてしまったのですか?」

「僕と一緒にいたからね。でも待ち合わせをしていた魔物が色々力を貸してくれたから、その魔物が代わりに、付けられた印を消して回っているみたいだよ」

「イーザさんは、そんな状態でも、こちらに力を貸して下さったのですね……………」



ネアは、手紙に残されていた魔術の証跡から、それはグレアムではないかと考えたのだが、印を消して不審火の被害を防いでいるのは、バンルとその友人であるらしい。

最初に印に気付いたイーザの友人とバンルがそちらを主導し、ヨシュアはリーエンベルクに来てくれたという流れだったようだ。


印を付けられたイーザの友人は、今朝になって引き剝がして保管してあったその魔術が火の魔術を帯びた事から、そこに敷かれた魔術が火の慰霊祭に紐付く事に気付いた。

慌てて、他にも被害者がいないかどうかを調べ始めてくれたのだそうだ。



ネアは、取り敢えずアルテアのカードを開き、欄干の魔物が捕縛済みである事と、バンル達も印を消して回っているようだと共有しておいた。



「その方が、添付された魔術がどのようなものなのかを調べる為に、剥がしたものを保管してくれていて助かりましたね………」

「他の火事の様子と合わせると、生き物に添付した魔術と、川沿いの区画や、大聖堂近くの火事のように品物や家に仕掛けてあった魔術があるみたいだね。…………会場の近くにサルルカムと欄干の魔物が揃っていた事を考えると、あの近くにいる誰かを標的にもしていたのかな………」



そう言うノアはまだ辛そうで、ネアの手をずっと握っている。

ネアは、ヨシュアにお別れを言った後、そんな義兄の手を何度もにぎにぎしてやった。

伴侶を椅子にしながらなので、どちらも労える態勢だ。




馬車はやがてリーエンベルクに着き、ネア達は馬車から降りて、残って警備をしていたエドモンなどの騎士達ともその話をした。


リーエンベルクの騎士達は、数より質の魔術師としての才を持つ精鋭だ。

だからこそ、その銘を拝する騎士の数はこれだけの領の領主館としては異例の少なさなのである。


その為に部隊ごとに任務を受け持つのではなく、誰がどの作業を担当し、どこで誰それと入れ替わるというような配置が常になっていて、現在、リーエンベルクの守りを引き受けているエドモンと彼に付く騎士達は、先程まで街で火の見回りをしていたらしい。


会場警備から外れたグラストとゼノーシュと交代する形で、こちらに戻ったのだと聞いたネアは、交代の連携の素晴らしさも、リーエンベルクの騎士達の優秀さ故だと考える。


個人の能力が高く転移などの魔術を計画的に利用出来るウィームだからこその配置だが、こうして情報を共有するときに、街の警備の状況も目で見て理解していてくれているので話が早い。



「先程、ヒルド様からも連絡が回って来ました。確か、最後に会った街の西側の担当をしていた騎士団は、水の系譜の魔術を持つ者ばかりだったように思います。念の為に、呪いなどの解術が可能な者もいた方がいいと連絡をしておきましょう」

「欄干の魔物以外にもその構築に手を貸した魔物がいるようだから、術式の階位が高い恐れがある。人間が行う場合は、解術ではなく、引き剥がすようにした方がいいだろう」

「では、それも必ず。………頼めるか?」

「は!」


エドモンの指示で通信に向かったのは、先日の調印の呪いで、標的にされた青年騎士だ。


彼は言の葉の祝福のある一族の出で、暗号通信などの言葉周りの魔術に長けている。

母親は言葉の魔術の有名な研究者であるらしく、ガレンにも籍を置き論文を発表する度に学会を論争の渦に巻き込む才媛なのだとか。


なお、森の見回りにはシバが出てくれているらしいが、妖精栗鼠達がねぐらにする立派な木にも火の術式が敷かれており、それを一瞬で破壊したミカエルは、子育ての時期の妖精栗鼠達を危険に晒したとたいへんな怒りようであったという。



少しずつ、少しずつ。

震えて困惑していた歯車が動き出すように、あちこちで守りが固められ、ウィームを害そうとした者達には追っ手がかけられている。



(……………でも、あのサルルカムという魔物さんは、欄干の魔物さんが付けた印を目で見て、それから私を標的にしたのだろうか。それなら、今回の計画に噛んでいたアルテアさんが、最初に気付く筈ではないのかしら?)



ネアは、そんなことを考え、ディノとノアに相談してみた。


二人もあの場面を見ているのだから、アルテアが叱られる可能性を懸念して隠す必要はない。



「あえて君を囮にしたという可能性もあるけれど、彼の様子を見ている限りそれはなさそうだね。であれば、サルルカムは最初から君を狙っていた可能性が高い」

「……………まぁ、やはりそうなのですね」

「……………ある程度はアルテアが責任を取って処理するだろうし、その方が確実だからこそ、今は彼に任せるけれど、僕の妹に手を出そうとしたんだ。その報いは受けて貰わないとね」



(あ、…………)



ノアがそう宣言した時、ネアは、ディノがはっとするほどに凄艶な微笑みを浮かべたことに気付いた。

こちらもこちらとて、燃やされかけたネアの伴侶の魔物である。

ディノにも何らかの含みがあるのは当然かもしれない。



会場の警備をしているゼベルから一報が入り、エーダリア達もそろそろ会場を出るようだ。


全員がリーエンベルクに戻れれば、騎士達も更に動き易くなる。

エーダリアをリーエンベルクに預け、ヒルドはまた街に戻るのかもしれない。



思わぬところから子爵捕縛の一報が入ったのは、エーダリアが予定より大幅に遅れてリーエンベルクに戻ってからの事だった。







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