40. その火には悪意が窺えます(本編)
ウィームの街で火の手が上がったという一報に、無言で立ち上がったノアが、リーエンベルク内の連絡板に歩み寄る。
会食堂のある部屋の窓からは街の方は見えないので、ネアはぎりぎりデザートまでを食べる余裕があったことに感謝しつつ、美味しいアップルシュトルーデルの最後の一口をぱくりと口に入れて立ち上がった。
もぎゅもぎゅしながらの駆け付けでは危機感がなさそうに見えるかもしれないが、事件には体力勝負な一面があって、あちこちに迷い込み、落とされているネアは、その事をよく承知しているのだ。
(………どうか、酷いものではありませんように………)
隣ではらはらしながらやり取りを聞いていると、ノアは手早く必要な事を聞き終えて通信を切る。
幾つかの質問に答え助言もしていたので、そんな塩の魔物の知恵は、いつの間にか、リーエンベルクの騎士達が自然に受け取れるようになった頼もしいものなのだろう。
ボールで遊んで欲しい銀狐だけではなく、魔物としてのノアも、いつからかこのリーエンベルクの輪の中の仲間になったのだ。
「火の手が上がったのは、どの辺りだったんだい?」
「川沿いの船着き場から火の手が上がって、近くの家々に燃え移ったみたいだね。火の手は大きいけれど、あの辺りは商業区画だから火除けの魔術がしっかりと敷かれていたみたいだ。燃えているのはその排他結界の表面だけらしい」
「ふぁ……………、それを聞いて安心しました。予防接種の日にお昼を食べたお店もある辺りですね……………」
「うん。無事で良かったよ。………ただ、儀式会場からは離れているし、川沿いは統一戦争では焼けていない区画の筈なんだ。これはやっぱり、人為的に計画されたものだと判断しても良さそうだね……………」
実のところ、魔術には細やかな規則がある。
この慰霊祭で鎮められるのは、あの日の火の再現としての魔術顕現の引き金となった者達だ。
実際に慰霊碑に名前の残る火竜の王子が現れるということはなく、どこかで上がる怨嗟の火の手は、あくまでもその時の無念が土地の記憶として残ってのことに過ぎない。
つまり、残響のような幻が見られることはあっても、そこには犠牲者達の明確な人格が覗く事はなく、であるからこそ、その怨嗟の残滓が生前によく知らない土地までを無差別に襲う事はない。
(火の手が上がるのはいつも、反対側を流れる川沿いか、ローゼンガルテンやリーエンベルクの近く。そして、ヴェルリア軍の侵攻路となった森を抜ける街道から、その二箇所に繋がるどこか)
燃え上がるのは記憶の足跡なのだと教えてくれたのは、エーダリアだった。
だからこそ、あの日と同じあの場所に上がる火の手を、ウィームの人々はどれだけのやるせなさで見るのだろうかと。
(つまり、足跡のないところで上がった火の手は、明らかな自然発火ではない火だったのだ…………)
火の手が上がった土地は、慰霊祭で該当する戦没者達が訪れておらず、怨嗟を向けない土地だった。
となると、その事件を引き起こした何者かは、そんな魔術の理を知らない者か、あえてこれが火の系譜の者達の祟りではないのだと宣言したのかのどちらかなのだろう。
「火を防げたのは、日頃、騎士さん達が丁寧に街の方々とお話をされているからなのでしょうね」
「うん。被害に遭った店や船着場の辺りは、アメリアが担当していたようだね。最近、五年に一度の結界の修繕を行ったばかりだったみたいで、店の前の花壇も焦げた花一つないってさ」
「あの辺りは、どのお店もお花が綺麗ですものね。燃えてしまわなくて良かったです…………」
「でもね、燃え上がった火の階位は、ウィームでなければ街のひと区画を焼き尽くしても不思議ではないくらいのものだったみたいだ。………防げた事が幸運な偶然であって、仕掛けた側が手を抜いた訳じゃない」
今回幸いしたのは、ウィームの火災防止法の厳しさであった。
ウィーム程、火による事故や災厄を倦厭する土地はないだろう。
単に土地の系譜との相性が悪いと言うことではなく、火による被害がどれだけ領民達の心を削るのかを、戦後に生まれた現在の領主はよく理解している。
よって、それを防ぐ為の法律がしっかりと制定されているのだった。
飲食店などが立ち並ぶ区画では、年に一度、リーエンベルクから派遣される騎士達による魔術結界の無償点検が行われ、これは、指定された期間内に点検を受けないと、店の営業許可が一時的に凍結されてしまう程に厳しく徹底されている。
人間が考えもしないような理由で荒ぶる人外者達も多く暮らしているウィームでは、ちょっとした諍いでも、思っていた以上の被害が出る事がある。
そんな時に広範囲に影響が出ないようにと、人の出入りのある施設では特に、結界種の管理が厳しくなっているのだ。
とは言え、もし点検で守護結界や火除けなどに綻びが見付かれば、五年に一度までは無償で結界の修復や強化をして貰えるとあって領民達も協力的だ。
リーエンベルク側からすれば、大きな事故を未然に防げるだけでなく、点検の際に各店舗に正統な理由で騎士達を向かわせられるので、不正や違法な商売がないかを調べたり、点検の間に、領民達の悩みや不満などを会話の中から拾ういい切っ掛けにもなるのだとか。
街の騎士達だけでは見落としていた病や穢れなど、階位の高い騎士達だからこそ気付けることも多い。
街の見回りをしながらやってしまうので、負担としてもそこまでではないようだが、簡単な事だからと蔑ろにしていたら、今回の炎を防げなかったかもしれなかった。
(…………その火はきっと、誰かが死んでしまうかもしれないと理解した上で、仕掛けられたものなのだろう)
そう考えるとわなわなしてしまい、ネアは胸が潰れそうになる。
昨年の時も思ったのだが、よりにもよってこの日にウィームを損なおうとする悪意そのものが耐え難く思えた。
「さて、一度座ろうか。そちらの鎮火は街の騎士達で充分に対応出来るようだし、怪我人も出ていないみたいだ。犯人の特定は出来ていないけれど、今はまだ僕達が外に出る時間ではないからね」
一通りの話をし終えると、ノアはにっこり笑ってそう言ってくれる。
高位の魔物らしい所作で椅子を引かれ、ネアは、今日は一番大事にしなければいけないノアから気遣われてしまったとしゅんとした。
ノアの引いてくれた椅子に座り、心を落ち着けるべく、まだ湯気を立てている食後の紅茶を最後まで楽しむことにする。
ディノとノアも座り直し、三人は食事の続きのお茶に戻った。
「街の騎士さん達で解決出来るくらいの規模で、本当に良かったです…………」
「うん。ウィームは、騎士たちの階位が高いから、こういう時に僕も助かるよ」
「犯人の捜索は、こちら側の者で足りるのかい?」
「ダリルのところの弟子の、ほら、シルも会ったことのある宰相の息子が指揮を執るらしいよ。ヴェルリア絡みだから、ヴェルリアの有力者である彼は、使いどころなんだろうね」
「ウォルターさんであれば、ガヴィレークさんもご一緒でしょうし、頼もしいで……………ぎゃ!」
すっかり失念していたが、ダリルの弟子達という頼もしい味方もいたようだと息を吐いたネアは、ふっと視界の端を横切った黒っぽい影を見てしまい、ぎくりと体を揺らした。
ネアの悲鳴に気付いたディノがすかさず体を寄せて視線を辿ってくれたが、同じもの見てしまい、こちらも同じように体を揺らす。
「す、隅っこから、もわもわした物体がこのお部屋を覗いていまふ………!」
「わーお、変な毛皮の生き物がいるぞ…………」
ここで、ノアの表現に毛皮のという言葉が登場したことに賢くも気付いたネアは、これ以上怖いもの見ないようにと慌てて背中を向けた硝子戸の方を、そろりと振り返った。
(可愛いやつかもしれない………?)
そして、怖さを堪えてよく見てみれば、謎めいたふわふわもこもこの生き物が、外から精いっぱい伸び上がって室内を覗いているようだ。
残念ながらとても小さいので、何とか硝子戸の隙間に頭を出すのがやっとであるらしく、その控え目な様子こそが、じっとりとこちらを盗み見ているような恐怖映像になっていたのだろう。
わふわふ。
わふわふと小さく弾み、もわもわした生き物は、会食堂の中を覗こうと必死に頑張っている。
「何だろう、獣かな……………」
「わーお。僕、あの獣見たことあるんだけど…………」
「…………こんな日に、窓の隅っこからこちらを覗いているとたいへんなホラーですが、あれはもしや、ヨシュアさんな綿犬では……………」
会食堂には、中庭に出られるようになっている大きな硝子戸がある。
その端っこにちょみっとだけ顔を出して、必死にわふわふしているのは、以前に拝見したことのある雲の魔物の擬態姿ではないだろうか。
きちんと観察すれば毛並みは美しい銀灰色なのだが、ただでさえ暗い日に、逆光になっているので黒い影に見えたようだ。
「……………え、なんで今日、あの擬態なんだろう?」
「どうして犬になってしまったのかな……………」
「むむむ、綿犬を模倣した悪い奴の可能性もあるのでしょうか?」
「よし、まずは僕が調べよう!」
魔術仕掛けの鍵を開け庭に一歩出たノアの足元で、綿犬はもふもふと円を描くように駆け回る。
呆然と見守るネア達の前で、ノアが屈みこんで片手でひょいっと抱き上げれば、ちょいっと舌を出したままのお疲れ具合で、綿犬はくしゃんとへばってしまう。
ネアの観察では、足が短く子供用のぬいぐるみのようなもふもふ具合で、星形のちみっとした尻尾も以前に見たままの姿のようだ。
「どうでしょう?悪い奴なら、すぐさまきりん札を出しますね」
「ギャワン?!」
「……………わーお。ヨシュアだね。おっと、ここに紙が挟んであるみたいだ………」
「むむ、アヒルさんチャーム付きの首輪をしていますね……………」
「ヨシュアが……………」
「まぁ。ディノが、アヒルさんチャームにしょんぼりです……………」
「えーっと、ふむふむ。イーザからだね。暗号文字だけどこの式を反映すると…………」
綿犬の首輪に隠されていた紙片には、霧雨のシーであるイーザからの暗号が記されていたようだ。
小さく畳まれて上手に隠されていたものを広げ、ノアが解読してくれる。
「リーエンベルクの、特定の人物にしか見付けられないように条件指定してあるけれど、この魔術はイーザのものじゃなさそうなんだよな。……………もしかすると、グレアムかもしれないなぁ………」
「まぁ、グレアムさんがお手紙を隠してくれたのですね?」
「よし、解けた。問題はデルフィッツ子爵、………それと、ヨシュアの呪いは一時間程で解けます。……………え、これって呪いなんだ……………?」
「ギャワン!」
「わーお、呪いなんだ……………」
「その、綿犬さんとお話をすることは可能なのでしょうか?」
「難しいのではないかな。擬態しているだけの獣は意思疎通が可能な場合が多いけれど、呪いなどは、相手を無力化することを目的としているから、意思疎通を可能とする要素は残していない筈だよ」
「ふむ。であればこうです!」
ノアの手から綿犬を借りたネアは、もこもこのちびこい生き物を、そっと床の上に下ろした。
なぜに床に下ろされたのだろうと首を傾げている綿犬に、正面にしゃがみ込んだネアは、最も原始的な方法での意思の疎通を試みる。
「いいですか、ヨシュアさん。はいなら一度、いいえなら二度鳴いて下さいね」
「ギャワン」
「ヨシュアさんに呪いをかけたのは、お名前の挙がった子爵様なのですか?」
「ギャワン、ギャワン」
頑張って二度鳴いたものの、続けて鳴いたのでぜいぜいしている綿犬を撫でてやっていると、これはいいぞと呟いたノアが、魔物らしい微笑みを浮かべて綿犬を見下ろした。
けれども目の前に聳え立っている背の高い魔物の陰に入ってしまった綿犬は、見下ろされることにむしゃくしゃしたのか、どことなく反抗的な目をしているような気がする。
「相手を知っているかい?」
「……………」
「え、何でそっぽ向かれてるんだろう………?」
「では私が通訳しましょう。ヨシュアさん、その呪いをかけた方をご存知ですか?」
「ギャワン」
「それは人間かい?」
「……………」
ノアが質問をすると、綿犬はぷいっと横を向いてしまう。
二度も無視されてしまった塩の魔物はすっと冷ややかな目になったが、そちらは見ようとしない。
短い脚で一生懸命に踏ん張り、頑なに顔を背けていた。
「その方は人間でしたか?」
「ギャワン、ギャワッ!」
「最後の鳴き方で失敗していますが、二回鳴いてくれたので否定とみなしますね。では魔物さんでしたか?」
「ギャワン」
「むむ、偉大なる質問者は、早くも当たりを引いてしまいました。犯人は魔物さんです」
「ヨシュア、それは、私達が知っているような魔物かい?」
「ギャ………………ワン?」
「む。微妙な反応ですね」
どうやらネアの方を見て首を傾げているので、魔物達は知っていてもネアは知らない魔物の可能性が高いようだ。
ネア達はそのまま質問を重ねようしたのだが、綿犬はぺたんと床に突っ伏してしまい、もう疲れたという頑固な眼差しを見せるではないか。
このあたりはヨシュアらしい気儘さではあるのだが、綿犬の姿をしているのでどうも調子が狂ってしまう。
ディノもそうだったのか、これから魔物を名前を出してゆくから、該当する人物の名前が出たら鳴くようにと言いつけたものの、ぺたんこになったままの綿犬を困ったように見ていた。
「とりあえず、デルフィッツ子爵の方から進めようか。彼のことであれば、僕はよく知っているよ。何しろ、統一戦争時にウィーム王族の殲滅を支持した、生粋のヴェルリア王族至上主義として有名な一族だ。因みに、その当時の子爵は、僕が直々に、死者の国にも行けない海の底の奴隷商に引き渡しておいたけれど、当代の子爵はあまり尻尾を見せないんだよね。今回の慰霊祭にはヴェルリア貴族の代表として参加する予定で、その息子は第一王子派だからあと一押しなんだけど、それなりに面倒な守護を固めて警戒はしているかな」
「……………そのような思想の者であれば、この慰霊祭では注視しておいた方がよさそうだね」
その子爵は、ヴェンツェル王子達と同じブロックにある、ヴェルリアからの招待客の席に座る予定であるらしい。
今回、第一王子が、一般席ではなくあえて自分達と同じ招待客の席にその子爵を招き入れたのは、恐らくヴェンツェル王子達の方でも子爵を監視する意味合いがあるのだろうと言われている。
そんな招待客席は、会場の左側前方に少し斜め配置されており、当人達には優位性を感じさせるようにしながらも、実際には中央列のウィーム側の席並びの者達からよく見えるようになっているという巧みな配置なのだ。
「……………もしかすると、ヨシュア、君に呪いをかけたのって、サルルカムじゃないかな?」
「ギャワン」
不意にノアがそんな名前を挙げた。
思わず同意してしまった綿犬は、ノアの質問に答えてしまったことが悔しかったのか、小さな体でじたばたと荒れ狂っている。
「やっぱりかぁ。サルルカムは、デルフィッツ子爵と懇意にしている魔物の一人だからね」
「その方は、どのような魔物さんなのですか?」
「橋の魔物のひと柱で、階位は男爵。ってことは、格下に呪われたってことだよね?」
「ギャワ!!」
「むむ、綿犬さんが抗議しているようですよ」
「ヨシュア、落ち着こうか……………」
窓の外の空がふっと翳った。
はっとして遠くの空を望めば、どうやら、会食堂の窓が開いている反対側、つまりは街側の空が暗くなっているようだ。
その直後、また火の手が上がったことを知らせる鐘の音が聞こえてきた。
この時間で二度も鐘を鳴らすような規模での問題が起きたとなるとなると、さすがに多過ぎると言わざるを得ないのだそうだ。
表情を曇らせるノアの横顔に、ネアはその腕にそっと手を当てた。
目を瞠ってこちらを見たネアの大事な家族は、鋭く細めた青紫色の瞳を揺らして唇の端を少しだけ持ち上げる。
「…………うん。落ち着いているよ。僕の大事な妹は大丈夫かい?」
「はい。山猫さんの紫陽花はディノに頼んでしっかり守って貰っていますし、ひとまず綿犬をポケットに入れてみたので、何かがあってもヨシュアさんは道連れです」
「え、ヨシュアはポケットに入れなくていいんじゃないかなぁ………」
「ヨシュアをポケットに入れてしまうなんて……………」
「ギャワ…………」
ふうっと息を吐いて、ノアはゆっくりと体をこちらに向けた。
怜悧な美貌には見慣れた家族らしい温もりが窺えるが、小さく噛み締めた不安が、その眼差しをどこか硬質に見せる。
「外客棟から外の様子を見に行ってもいいかい?」
「はい。私も街の方が気になってしまっているので、是非にそうしたいです」
「ヨシュアは、……………寝たようだね」
「なぬ。ぐっすりではないですか………。あのお手紙を書いてからの一時間後なのか、こちらに到着する時間を見越しての一時間後なのかで、ポケットから出す時間が変わってくるのですが…………」
「えー、もう出しておくといいんじゃないかな。ほら、僕が預かるから、ネアはシルと手を繋ぐといいよ」
「ディノ、」
「………うん。これにしようか」
「なぜに三つ編みなのだ………」
三人は、茶器などの片付けを頼む為に家事妖精に連絡を入れると、会食堂を出て外客棟に向かった。
そちらの棟に向かうべく歩いている廊下の窓からの風景が変わってくると、リーエンベルク前の並木道の向こうにぞっとする程に暗くなった空が見える。
その向こうに何が起きているのだろうかと考えれば、ネアはまた胸が苦しくなった。
ふと、考える。
(今日は、特別な日なのに)
そんな心の揺れやすい日にウィームを損なわれるのがどれだけの苦痛なのかを理解しているであろうアルテアが、果たしてこの日に悪さをするだろうか。
けれどもそう考えるのは所詮人間なので、こういう日だからこそ、アルテアはこちらの隙を突くのかもしれない。
きっと分かってくれるはずだと考えてしまうのは、人間の高慢さに過ぎず、彼の様子を確かめようと無理矢理約束の時間よりも早く呼び出す訳にもいかない。
(昨日の夜に、今日は人と会う用事があるから、こちらに来るのはぎりぎりの時間となるとアルテアさんから連絡をくれたくらいだから…………)
「…………ノアベルト」
そして、最も街の方がよく見える部屋に入ろうとしたところで、部屋の前の廊下でばったりエーダリアと行き合った。
今日の慰霊祭の為の儀式装束に着替えており、決してヴェルリアの色は纏わないが、あえてウィーム風の色も避けるその装束は、精緻に施された祝福の宝石を縫い込んだ刺繍がきらきらと光り、鴉羽のような色の光沢を纏った漆黒のものだ。
この儀式装束の豪奢さは、領主でありガレンの長でもあるからこその装いなのだが、まるで王族のような凛々しさに、ネアはおおっと眉を持ち上げる。
元々エーダリアは怜悧な美貌の持ち主なので、銀髪に複雑な色を集める鳶色の瞳でこんな漆黒の装いとすると、一介の領主というよりは王子としての威厳すら感じてしまう。
だからこそ、エーダリアの儀式装束にはフードがついているのだと、以前にヒルドが教えてくれた事がある。
この通りの華やかさに、継承権を放棄したくせに何事かと難癖をつけてくる中央の貴族は少なからずいるので、王族の正装にはなく、魔術師の正装であるローブを彷彿とさせるよう、敢えてフードがあるデザインのケープを羽織るのだ。
「ありゃ、エーダリアもこっちに来たのかい?エルゼはもう帰ったのかな」
「ああ。彼等も、街の様子がおかしい事は理解している。兄上の訪問前に火の手が上がると、ウィームだけの責任になりかねないからな。ウィームの視察と称して、予定になかった兄上のウィーム視察の公務を入れてくれたところだ」
「ああ、それはいいね」
にんまり微笑んだノアに、エーダリアも頷く。
いささか荒っぽいが、この度の事はウィームの管理責任だと言われぬよう、ヴェンツェルを街に出してしまうのは最も効果的な手法だろう。
もしそんな批判が上がるようであれば、ヴェンツェルが素知らぬ顔で、自分と共に火竜の祝い子が街中を歩いていたので、火の系譜の怨嗟が荒ぶってしまったようだと嘯けばいいのだ。
ウィームとの繋がりは、ヴェンツェルの足元を盤石にする備えの一つである。
第一王子派としても、ウィームとの関係が公に出来なくなるような事態は避けたいのだとか。
騎士達と連絡を取っていたというヒルドも合流して、五人は、かつてはウィーム王が民衆に向けての挨拶を行なっていたバルコニーから、街の方を眺めた。
並木道の向こうの空がぐっと暗くなっており、その中でもひと際空が黒く白い灰のようなものが降っているように見えるのは大聖堂の尖塔が見える方角だろうか。
火の手が上がったことを知らせる鐘の音はぞくりとする危機感を孕んではいるが、あわいの出現の鐘などに比べると、人間の管理するものという感じがする。
「……………大聖堂の近くだな。あの辺りであれば、騎士達の層も厚い。………ヒルド、報告はどうだった?」
「火の手は強いようですが、近くにゼベルがいたので問題ないようです。教会側も、対岸の火事ではなくなったので、協力的なようですよ。………それと、禁足地の森についてはアメリアの友人の雨降らしがおりますので、何か異変があれば彼が連絡をくれるそうです。そちらに充てた騎士を、もう少し街に割いてもいいかもしれませんね」
「ああ。本来なら、その雨降らしと連携の取りやすいアメリアを森に充てたいのだが、今日ばかりは騎士達の指揮を任せたいからな………」
「儀式会場の警備は、グラストが最終確認に入っていますが、エメルもおりますので、そちらは問題ないでしょう」
「そうか……………」
小さく呟いたエーダリアは、このような曇天の下では瑠璃色の虹彩模様のあるオリーブ色にも見える瞳をこちらに向けた。
バルコニーの手すりのところまでは隔離結界が働いているが、守護をすり抜ける風にはたはたと漆黒のケープが揺れる。
薄暗い空から染み落ちる鈍い陽光に光る祝福石達の煌めきが、とても頼もしく思えた。
「お前が初めて参加する慰霊祭が、このような状況になってしまってすまないな」
「まぁ、どうしてエーダリア様が謝ってしまわれるのですか?悪いのは、折角の慰霊祭の邪魔をしようとしている方々です。会場には私もいますが、エーダリア様は、ヒルドさんやノアから離れないようにして下さいね?」
ネアのその言葉に、エーダリアは瞠った瞳を僅かに揺らし頷くと、今度は、心配そうにノアの方を見ている。
その視線に気付いた塩の魔物は、艶やかで冷ややかな魔物らしい表情で微笑んだ。
「僕は、火の系譜の奴らの慰霊なんてするつもりはないから、今日は人外者としての参加にするよ。ヴェルリアとは塩絡みであれこれあるから、僕の属性は適当に誤魔化すようにね」
「ああ。……………だが、大丈夫なのか?その、………ここに残っていても……」
「僕が一番不愉快なのは、あの日みたいに守るべき者の傍にいられないことなんだ。……………ネアが参加する最初の儀式が終わって、陽が落る頃にはリーエンベルクに帰っちゃう予定なんだから、君は僕が傍にいられない時間に対して不満を言うことも出来るんだよ?」
「……………言う訳がないだろう」
そう言ったエーダリアの声にあったのは、家族のような響きで。
そこにはもう、かつて白持ちの魔物達に必要以上に歩み寄ってはならないと戒めた面影はどこにもなかった。
そんな声が嬉しかったのか、ノアは青紫色の瞳を微笑みに細めて一つ頷く。
「多分さ、もう何年かしたら、僕もこの日の火の色なんて、何とも思わなくなるよ。そうしたら、慰霊祭を執り行うエーダリアやヒルド達の傍に、最後まで居られるようになるんじゃないかな」
「……………ああ。その時は宜しく頼む」
ざざんと木々を揺らして強い風が吹いた。
その風に混じるのは、雪のようにも見える灰の雨だ。
リーエンベルクの近くでも灰の雨が降り出したその時、ディノが手を伸ばしてネアを抱き締めた。
「アルテアが来たようだ。そろそろ、儀式会場に向かう時間だね……………」
その言葉にしっかり頷くと、ネアは、会場のすぐ近くで待っていてくれると言うディノを、ぎゅっと抱き締め返してやったのだった。




