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39. 今年の慰霊祭は初参加です(本編)




ウィームはその日、火の慰霊祭を迎えた。



祝祭の中でも鎮魂の儀にあたる特別な一日で、この日はいつもどんよりとした曇り空の一日になるのだとか。




(何て暗いのかしら………)



昨日までの世界から明度をすとんと落とし、不思議な灰色のフィルターをかけたような独特の暗さは、この日が祟りを鎮め彷徨う魂達を弔う日であると再認識させるに相応しい、どこか不穏な気配を漂わせていた。


温度のない風がざあっと吹けば、火の気などないのにどこからか焦げ臭いような独特の臭気が鼻につき、ちりちりとした火の予感が絶えず神経を刺激する。



この慰霊祭で鎮められるのは、統一戦争で斃れた火の系譜の者達の怨嗟なのだが、慰霊祭の起源として終戦直後のウィームを襲った大火があったと思えば、犠牲の出たウィームの領民達には様々な思いがあるだろう。



(火竜の王子達が斃れ慰霊祭が行われるこの日は、ウィームにとっても王家の人達が喪われた日なのだ…………)




あの、美しいリーエンベルクが炎に包まれ、ウィームの民に愛されてきたウィーム王家の血を引く者達が傍流の一人まで逃さずに殺された日。

共に戦った美しい竜や妖精達も無残に命を落とし、王家の紋章や名前を記すものはことごとく破壊された。


住人達の蜂起を恐れて、住人を喪ったリーエンベルクを含め、著名な建物などは殆ど破壊を免れたが、それでも王家の紋章や名前を象った部分は削ぎ落とされたと言われている。


うず高く積み上げられ焼かれてゆく国旗や、国章をモチーフにした織物に品物達。

希少な歴史書や王家に伝わる魔術書も焼き払われ、その徹底ぶりに眉を顰めた人外者達も多い。

王家の人々の肖像画も、全て焼き払われた。


ネアは、影絵の中の記憶に過ぎずともその炎の色を知っていて、この慰霊祭の日のひやりとするような暗さにはやはり怯んでしまう。



(せめてこの日は、ウィームの人たちだって、亡くなった人々を悼みたいのだと、そう願っても不思議はないのに………)



けれどもウィームの民達はそれを声高に不満がる事はなく、今もなお、自分達の愛したウィームを焼いた者達の鎮魂を行わなければならないこの日を粛々と受け止め慰霊祭に参加している。



そんな姿を見ると、ネアはウィームの人々の誇り高さに胸が苦しくなるのだ。


皆に愛されたウィーム王家の人々の魂は、一つ残らず打ち砕かれた。

戻るべき魂がない彼等の為に鎮魂の儀を行う必要はなく、それを知るという事は、どれだけ残酷なことだろう。



目を閉じれば、影絵の中で見たリーエンベルクの光景が蘇り、統一戦争を知らない筈のネアも、言葉を交わした人々の生き生きとした表情を思い出す事が出来る。


その度に、会う事の出来なかった親族達を思うエーダリアや、愛する人達を奪われた戦争を知るウィームの人々は、どんな思いで火を使えない冷たい晩餐を食べるのかと考えてしまって胸が詰まった。




ゴーンと、どこか遠くで鎮魂の鐘の音が聞こえる。



この世界に来て様々な恐ろしいものを連れて来る鐘の音を聞いてきたネアにとって、この鐘の音はひたすらに胸を締め上げる悲しさだった。



統一戦争の犠牲は、決して本当の苦しみを知らないネアが自分ごとにしていいようなものではないけれど、やはりウィームを愛する者として、この日は死者を悼む為の一日なのだろう。




「少し風が出てきたようだね………」

「ええ。先程よりも空も暗くなってきましたね。朝食の後に外に出たエーダリア様が、今年はいつもより気温が低いかもしれないと話していました」

「冷気というものも一つの予兆になる。やはり、蝕などで土地に多くの死者を出した次の年の慰霊祭だからなのかもしれないけれど……」

「ディノ………?」



首を傾げたネアに対し、ディノは淡く微笑んで首を振った。



窓の外のリーエンベルクの中庭は薄暗く、咲き誇る花々の彩りがその仄暗い光の中で不思議な明るさを湛えている。


気になって目を凝らしても、雪のようにはらはらと風に舞う灰の雨はまだ降っていないようだ。

空の向こうが赤くなっていることもなく、ネアは、少しだけ安堵して部屋の中に視線を戻す。




「ああ、最悪だ。何で今年もこんなに火の気配が強いんだろう。僕が守る土地に何かしたら絶対許さないんだけど…………」



リーエンベルクの会食堂で、そう呟いたのはノアだ。


幸いにも、ネア達と過ごす三回目の火の慰霊祭では、最初の年の怯え方が随分と緩和されてきたようだ。

最初の年には真っ青だった顔色はいつものノアと言えるくらいにまでになっているし、朝食の席でもある程度は食事が出来ていた。


ただし、森の方を見るとなぜか顔色が悪くなり、もそもそとネアの隣にやって来て離れなくなるので、この日は、森の集会所でパオーンと鳴く生き物と出会った日という新たなトラウマが増えたようだ。



微かに眉を顰めて窓の外を見たディノの姿から、魔物らしい鮮やかな瞳の色が光の尾をひくようだと感じ、ネアはぎくりとした。

つまり、それだけこの部屋が暗く感じるということではないか。


ぶるりと身を震わせたネアをそっと抱き締め、ディノは小さく息を吐く。



「蝕の人死以外の要素としては、確かに今年も冬が長かったけれど、それでもやはり気になる火の気の強さだね。今年は、蝕明けのものだからと儀式用の魔術を何重にもかけ警戒していたようだが、…………もしかすると、そのような事では防げない事が起こるかもしれない」



例えば人間なら、そのような指摘はそれなりの表情や声音をもって成すものだろう。

けれどもディノは、静かな声で淡々と語る。


そのさらりとした言葉だからこその酷薄さで、ネアは伴侶の魔物が僅かに機嫌を損ねている事に気付いた。



優しい魔物なのだ。


それまでは扱い方を分からずにいた心を動かせるようになってきたディノではあるが、恐らく戦争自体への感慨は少ないと思う。


けれども、この火の慰霊祭で傷付き喪われたものが、ネアやノア、エーダリアやこのリーエンベルク、更にはかつてこの地を愛したグレアムという、自分の領域にあるものに爪痕を残した事を理解し、心を痛めてくれている。



「儀式用の魔術では、重ねてかけても防げないような事が起こりそうなのですか?」

「顕現しつつある火の気配の予兆に、どこか作為的なものを感じるからね。これは、………昨年の気配に近しいと言えるのではないかな」

「………と言うと、また火の気配を増幅させる良くないものが現れているのでしょうか?」


目を瞠って慌てて尋ねたネアに、ディノははっきりとは分からないんだよと悲しげに教えてくれた。



「けれど、この不確かさこそが、悪夢や悪変、あわいの出現などのようなものが齎す危険ではないという確信でもある。これは、………誰かが用意して煽られる炎だ」

「…………っ、………エーダリア様に………」

「まだここにいるから、僕が伝えておこう。………シル、確か、今年はイヴリースがこちらに来ていないんだよね?となると、第一王子絡みの事件が起こる可能性もあるのか。ヨシュアは夕方までは来られないんだっけ?」

「おや、君が彼を頼りにするのはめずらしいね」

「…………少し不本意だけどさ、昨年の様子を見ていて広域で火消しが出来るってことは、有難いかなって思ったんだよね。ほら、イーザのお陰でヨシュアもかなりウィーム寄りになったからさ、その点では信頼も出来るしね」



そんな話をしている魔物達の隣で、ネアは、その良くないものの姿は見えないだろうかと視線を向けた窓の向こうの、陰鬱な灰色の世界のぞくりとするような奇妙な美しさに密かに魅入られていた。


それはまるで、嵐の前の強い風にざわざわと枝葉を揺らす森の複雑な美しさにも似て、静謐な怖さが見せる情景だからこその繊細な美しさが胸を打つ。


けれどもそれも、上質な古典ホラーの導入のような不穏さの影を落とし、ネアは、どうか今年の儀式も無事に終わりますようにと願わずにはいられない。



「ひとまず僕は、エーダリア達と話して来るよ。………ええと、二人はここからどこにも行かないで」



勇ましく出て行こうとしながら、少しだけ不安そうにしたノアに、ネアも椅子から立ち上がった。



「エーダリア様のお部屋まで、一緒に行きますよ?」

「ありゃ、そんな風に心配されると凄く嬉しいんだけど、今日は第一王子のところの代理妖精達が来ているかもしれないからさ、もし、人為的な仕掛けが懸念されるなら、出来ればネア達を近付けたくないんだよね」


それは、第一王子派の者の中に問題のある人が紛れているかもしれないという事だろうかと首を傾げたネアに、ノアは死者の国に落ちた時の事を挙げた。



「あの時みたいに、他の誰かを標的とした仕掛けに君が巻き込まれたら困るんだ。…………僕はね、エーダリアやヒルドの事も特別に大事だけどさ、やっぱりこの日は君が一番なんだ。どうしても、君には傷付いて欲しくないんだよ」

「ノア…………」

「ノアベルト、ネアは私の伴侶だよ。君の妹でもある。どんなものであっても、君が恐れるような事は出来まい。そう言えば、安心出来るかい?」

「シル…………」



ノアは、口元をもしゃもしゃさせてからこくりと頷くと、執務室へ向かった。


ひらりと揺れた漆黒のコートに、トンメルの宴で見かけた漆黒のコートの人物の姿を思い出し、あの頃のノアの傷付き荒んだ瞳の虚ろさを思う。

今はこのリーエンベルクで大事にされているが、ネアだって今日ばかりは、ノアには傷付いて欲しくないのだ。


へにゃりと眉を下げたネアの頬に、ディノがそっと手のひらを当ててくれる。



「ノアが一人で行ってしまいました。怖い思いをしないといいのですが…………」

「ヴェルリアからの使者が来ているのであれば、政治的な思惑が絡むからね。ノアベルトはそれを警戒しているのだろう。リーエンベルクの敷地は、厳重に火の気配を遮断されているからここでノアベルト達に危険が降りかかる事はないよ」

「となると、夕方からの儀式に出るエーダリア様が心配です…………」

「……………それは、君もだろう」



そう呟いた魔物が、そっとネアを腕の中に収める。



「ここは君にとって大切な土地で、ここで育む人間達との繋がりはとても意味のあるものなのだろう。でもやはり、君を望ましくない気配のある場所に送り出すのはとても不愉快だ…………」

「ディノ…………」

「…………けれども君に、であればそこには行かせないとは、どうしても言えないんだ」

「ええ。それは、ディノが私という人間の在り方や大切なものを理解してくれて、私を、そして私の大切な方々を大事にしてくれているからなのでしょう」

「…………儀式の間に、私は足を踏み入れられない。その間は君をアルテアに預ける事になるだろう」

「ディノの資質で慰霊祭の儀式の魔術を踏むと、鎮める筈のものを活性化させてしまうかもしれないのですよね?」

「…………かつて、私はヴェルリアの側に手を貸したからね。ほんの気紛れだったけれど、魔術の繋ぎがどこかに残っているとそちらの側に影響を与えてしまいかねない。………このような時に、私の資質はとても不自由なんだ」



そう呟いた魔物がとても悲しそうだったので、ネアは手を伸ばしてディノを抱き締めてやった。



「あら、さっきノアに話した事を忘れてしまったのですか?それに私は、皆さんに貰った新生守護たっぷりケープを羽織って行きますし、戦闘靴を履いています。その上、ディノの伴侶なのですよ?」

「……………かわいい」

「むむ、そんな場合ではないという葛藤から、苦しげな一言になりましたね………」



ぺそりと項垂れた魔物を撫でてやりながら、ネアは人間の社会の仕組みについて思いを馳せる。



これまで、様々な理由から参加を辞退してきた慰霊祭だが、今年からはいよいよ儀式に参加するようになるのだ。


ディノの伴侶になりより頑強な守りを手に入れた以上、ネアが国の歌乞いで、その管理を任されているのがエーダリアであるからには、その体裁を保つ為に公式な行事への参加が避けられない事も多くなるだろう。


それは、この土地を愛して、ここに根を張るのだと決めたからこその責任なのだ。



(それに今日は、領内だけの儀式ではないとは言え、ヴェルリアからのお客さまには、ヴェンツェル王子とドリーさんがいるのだから、私もお二人を信頼して同席する事が出来る…………)



国というものが影を落とす関係である以上、第一王子という立場のヴェンツェルには完全な信頼は預けられないと考えた事もあったが、ネアも、今日までをウィームで過ごした日々の中でヴェンツェル王子の人となりを見てきた。


海竜の戦で得た海との繋ぎの利用の仕方や、昨年末のニケ王子との一件も含め、この人は、政治的な理由があっても決して説明なく背中を向ける人ではないと確信するに至っている。



(でも、だからこそ何もないのが一番なのだけれど…………)



このウィームで、自分達の訪れに合わせて起こる事件があれば、ヴェンツェル達も心穏やかではないだろう。


けれど、そんな稚拙な事しか考えられない自分は、政治的な視野を求められる場所ではどれだけ未熟なのだろうかと、痛感する思考でもあった。



他領の、ましてや王族の訪れる儀式は政治の場だ。


そして同時に、人間の手には負いきれないほどの魔術の動く場所でもあるのだから、なんと厄介なのだろう。

領主としての責務を果たすエーダリアが、どれだけの重責を背負っているのかを知るのは、こんな時だった。




「ノアが帰ってきたら、慰霊祭の日の昼食ですね。今年もシュニッツェルがあるので、きっとノアは喜んでくれるのではないでしょうか?」

「グヤーシュもあるのかな………」

「先にいただいたゼノ達が、小さなスープカップの具沢山グヤーシュが出たと話していましたよ。今日は冬の入りのような寒さなので、グヤーシュがあるのは嬉しいです」

「やはり、この日の食卓はウィームの郷土料理が多いようだね」

「…………ええ。どなたもその事に触れませんが、それが何だかとても素敵な事に思えるのです……………」



火の系譜の者達を鎮める為に、あたたかな食事を禁じられる晩餐の前の昼食で、ウィームの人々はウィーム風の料理をこれでもかと豪勢に食べるのだろう。


勿論、その様子が見咎められないように一口料理に変えた密やかな誇示ではあるが、それこそがここに暮らす人々なりの鎮魂の儀式なのだと、ネアは考えている。




「…………ネア、アルテアとは話をしたかい?」

「…………ディノ?こちらに来るのは儀式の少し前だと、カード経由で連絡がありました。もしかして、何か心配な要素がありそうなのですか?」

「いや、彼はここ数日、…………考えている事がありそうだからね。もし、いつもとは違う言動を感じたら、すぐに私を呼ぶんだよ?」



てっきり、アルテアとの打ち合わせが必要なのだろうかと考えていたネアは、思わぬ言葉に目を瞬いた。



「……………ディノも気付いていたのですね?」

「うん。君も気にかけていたようだね………」

「………アルテアさんは何というか、………お外ではそつのない、そして油断のならない怖い魔物さんなのでしょうが、お届けしてくれるパイの頻度や洗顔後のクリームを塗っているかどうか診察があるかないかで、何となく森に帰りたがっている時の気分が伝わってしまうよく懐いた使い魔さんなのです………」

「……………うん。予防接種の日の帰りに、換毛期のブラシかけを忘れないようにと言わなかっただろう?」

「…………少しだけ、それで何か企んでいると見透かされてしまうアルテアさんが、不憫なのかもしれないと思い始めました………」



ネアがそう言えば、ディノもどこか悲しげな目をした。


とは言え、何某かの企みがあると知れただけでどうこう出来るような魔物でもないので、本気でこちらに害を為すつもりであれば、早めに手を打たなければならない。



(スノーで自由に魔物さんらしく過ごした事で、心境の変化があったのだとは思う…………)



そんな揺り戻しは、相手があのような嗜好の魔物である以上は避けて通れない道でもあるので、まさかの今回の発現であったならよりにもよってと考えはするものの、そこは潔く諦めよう。


そこからは、どのような対策をするかなのだ。



「私がそれを懸念するのは、今回の火の気配の強さには、人間の手が加えられているような気がしてならないからなんだ。………このウィームのように、守護に繋がる潤沢な魔術を宿し、その土地を守る為にとエーダリアのような魔術師が展開した術式があるのなら、本来は悪意を持つ人間たちがいても、出来る事は殆ど無い筈なんだよ」

「………それなのに、怖い事が起こるという予兆が現れているからには、出来ない筈のことを可能にする人達がいるかもしれないのですね…………?」

「敷かれた魔術の隙を縫い、人間達に紛れてその悪意を煽るような生き物と共にね………」



(そうか、…………そのような事を好み、それを可能にさせる人物というだけでもう、手を貸したのが誰なのかという選択肢はとても狭まるのだわ………)



それならばと、ネアは今日のような日の装いとして愛用中の、きちんとして見えるが隠しポケットだらけのドレスの各ポケットをチェックした。


「…………ディノ、ポケット各所に潜ませるきりんさん達以外に、備えておいた方がいいものはありますか?」

「ご主人様…………」

「アルテアさんの事ですから、悪さをしても私が死んでしまうような事はしないと思うのです。となると、………私がするべきなのは、もし本当に使い魔さんが悪さをするのなら、その被害からエーダリア様達やこの慰霊祭を守ることなのでしょう」


きりりとそう言ったネアだったが、ディノは困ったように薄く微笑む。

伸ばされた手に頭を撫でられ、ネアはおやっと眉を持ち上げた。


「…………ネア、もし彼が何らかの思惑を持って慰霊祭に参加するのなら、君は、まず自分の身の安全を確保しなければならないよ?」

「…………は!そ、そうでした。ディノやノアに悲しい思いなどさせません。安全を確保してから、悪さをした方を鎮圧しますね」

「………ネア、鎮圧は騎士達やノアベルトに任せようか。他にも、この土地には優秀な者達がいるからね」

「……………ふぁい」



血気盛んなご主人様は魔物に窘められてしまい、ネアは、そんな自分の感覚の浮つき方にどきりとした。


こちらに来たばかりの頃は理解していた無力さを、今の自分はすっかり甘く見てはいないだろうか。


どのような道具を持ち、どれだけの守護や祝福を得ていたとしても、この世界で最も多くのものを動かせる魔術を扱えない以上、やはりネアは無力には違いないのだ。


油断し驕る怠慢が故に、近しい人達に迷惑をかけないようにしなければならないのだと、もう一度しっかりと自分に言い聞かせておかなければならない。



「ディノにそう言って貰えなければ、危うく、悪い人達をこの手でぎったんぎったんにしようと頑張ってしまうところでした。きりんさん、もしくは眠らせるベルからの、激辛香辛料油とお尻が痒くて悶絶する呪いの組み合わせの予定を立てていた私は、自分がか弱く可憐な乙女である事をすっかり失念していたのです…………」

「ご主人様…………」



愚かな自分を笑うようにそう告白したネアに対し、なぜか魔物はびゃっとなってしまい、羽織りものに専念し始めた。

無謀なことはするまいとそんな魔物を撫でてやっていたネアは、会食堂にやって来た給仕妖精の姿にぱっと目を輝かせる。



エーダリア達と一緒ではないのが残念だが、この火の慰霊祭の日の昼食は、あらためてウィームのことを思う食卓のようでとても楽しみにしているのだ。



「ディノ、お昼のようですよ。給仕さんが準備を始めたということは、ノアもそろそろ戻って来るのでしょう。………むむ!そんな噂をしていたら、ノアが戻ってきました」

「ありゃ、僕の噂してたの…………?」



エーダリア達に懸念を伝えられたものか、幸いにも一人で行って帰ってきても顔色を悪くした様子のないノアが、戸口からひょいと姿を現した。



「ええ。こちらで昼食の準備が始まったので、そろそろノアが戻ってくるかなと話していたんです。………それと、少しだけいいですか?」



ディノを羽織ったままのネアが正面に立つと、ノアは青紫色の瞳を瞠って、困惑したような表情を浮かべる。


ネアは、まずは羽織りものの魔物を脱ぐことから始め、身軽になるとえいっと伸び上がった。


美しい氷色混じりの髪がくしゃくしゃになった頭を撫でられた塩の魔物は、綺麗な瞳をふるりと揺らして途方に暮れたようにこちらを見るではないか。



「……………ネア?……ええと、僕は特に困った事にはなってないよ?」

「でも、今日は火の慰霊祭で統一戦争が終わった日なのです。そんな日に、このウィームで悪さをしようとしている人がいると考えたのなら、ノアはとても悲しいでしょう?」

「……………ネア」

「なので、離れていた間の分を、こうして撫でます。髪の毛も、くしゃくしゃになっているので後で結び直してあげましょうか?」

「…………え、どうしよう。……刺激が強過ぎる……」



ネアとしては、やはり今日は心を揺らし易くなっているであろう家族を大事にしただけなのだが、ノアはすっかり弱ってしまい、ディノの影に隠れてしまうではないか。

撫でていたら逃げられてしまった人間は、ふるふるしている義兄を慌てて捕獲する。



「ノア?なぜ逃げてしまうのですか?」

「シル、ネアが虐待するんだ…………」

「解せぬ………」

「………ずるい…………たくさん撫でる……」

「まぁ!ディノが正しい用法の狡いを使っています!」



ネアにたくさん撫でられてしまい目元を染めて逃げてきたノアの盾になってやりながらも、ディノは、少しだけ寂しくなってしまったらしい。

ぽそりと拗ねてみせたので、ネアは、そんな魔物も沢山撫でておいた。



「………ふむ。魔物のお手入れが終わりましたので、準備していただいた昼食をいただきましょう!」

「……………虐待」

「うん、僕も虐待された………」



自分の中で決めた分だけ魔物達を撫でると、さっと思考をさくさくシュニッツェルに切り替えたネアに対し、撫で尽くされてしまった魔物達は、目元や頬を染めて恥じらい震えながら席に着く。



(……………うん。二人とも、表情がまた柔らかくなったかな………)



そんな二人をちらりと見て、ネアは満足げに頷いた。

虐待という言葉は大変遺憾ではあるが、それでもこの二人が少し落ち着いたようで嬉しかったのだ。



「まぁ、今年も色々なお料理が少しずつ沢山食べられるのですね。イブメリアの日のお料理のようでわくわくしてしまいます!」



前菜として並んだのは、新鮮なチーズと春野菜の冷製で、細かく刻んだドライトマトは彩りだけではなく、旨味と塩味の決め手としても絶妙である。


白葡萄酒とオイルベースの味付けに大蒜と唐辛子を効かせて炒め煮にした雪牛と筍食感の方のアザミ玉の料理もほこほこしていてとても美味しいし、三口くらいのボリュームのジャガイモグラタンは優しい味だ。


こちらもほこほこの湯気を立てているグラッセした雪夜人参に、ディノのお気に入りの酢漬け野菜が、綺麗に湯むきしたプチトマトで宝石のように並んでいる。


どれもが一口くらいの量なので、ネアは、様々な味わいを楽しみながらぱくぱくとお口に招き入れた。


春らしい色味を添える食べられる花びらの乗ったサラダと、ウィーム特製のふくよかな琥珀色のビーフコンソメのスープに入っているのは、グリーンピースと小さな鶏レバーのクネルだろうか。



「そして、シュニッツェル様です!今年は私のものがとろけるチーズで、ディノとノアは、お酒の風味のある濃厚な茶色いソースなのですよね」



朝食の席で、昼食のシュニッツェルについての簡単な聞き取り調査があり、今年からはソースを選べるようになった。


ウィームのシュニッツェルには、蕩けたチーズをかけたり、衣に香草と粉チーズとほんの少しと塩を混ぜておきそのまま食べられるようにしたりと、土地によってあれこれ工夫されて実に様々な食べ方がある。


このお酒の濃厚な風味のあるソースも幾つかの土地で好まれ人気があることから、せめて暖かなものを食べられる昼食くらいは好きなものをと、今年からは選べるソース制となったのだった。


沢山の美味しいものを食べ進み、はふっとあつあつのチーズシュニッツェルを頬張ると、その美味しさに頬が緩んでしまう。

とろりとしたチーズに、さくっとした薄い衣と薄く叩き伸ばした牛肉がさくさくじゅわりと胸の弾む美味しさである。



(ふふ、ノアも幸せそうに食べているみたい………)




ネアのお皿には、ディノからおずおずと交換の品が献上されたようだ。

このような一口料理をどれも楽しみたい時には、サラダの葉っぱかシュニッツェルを交換するのだと、ネアの伴侶はきちんと把握している。


そして今回は、ネアもこちらの味を食べたいだろうかと茶色いソースのかかったシュニッツェルが献上された。



「では、ディノもチーズのものをどうぞ。………むぐ!こちらの茶色いソースもとっても美味しいですね。ソースに触れてへなりとなった衣がまた美味しいのです………」



シュニッツェルをさくさくもぐもぐしながら、薄暗い外を見れば、夕方に参加する慰霊祭の儀式について思う。

空っぽになった前菜のお皿が片付けられ、小さなカップのグヤーシュと焼きたてのパン、各種のバターが現れた。



(ああ、こうして最後に出されるのが、領民達の一般的な家庭料理になるようにしたのだわ…………)



そんな心配りに胸がいっぱいになる。



何らかの悪意を向ける人間が、ウィームのどこかで火の慰霊祭を損なおうとしているのであれば、それは許し難い事だ。


そんな不安や不快感を鎮めるのに、あたたかなグヤーシュと焼きたてのパンはとても効果的だった。




またどこかで、ゴーンと鐘の音が鳴り響く。

今度の鐘の音は、ウィームのどこかで火の手が上がったことを知らせる音であった。









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