雪竜の祠と罠にかかった竜
そこは森の入り口だった。
深く豊かなウィームの森の木々の影が落ち、鮮やかな緑の入り口は、午後の陽に少しだけ暗くなっている。
とは言え太陽の角度的には日光がよく当たるようで、緑の草地になった地面には沢山の黄色と白の小花が咲いていた。
枝葉の影でさわさわと揺れる黄色い花は、茎の部分がすらりとした一輪咲の蒲公英のような花だ。
白い小花は菫に似ていて、白を貴色とするこの世界においては、庶民の白とも言われる階位の高くない白い花であるらしい。
「不在の花という事もあるよ」
「まぁ、そんな呼び方もあるのですね?」
「魔術が潤沢なようで空に近いから、司るものが不在にしていると言われていたからね」
「実際には違うのですか?」
「これは、終焉の系譜の花なんだ。冬が終わり春が来ると、冬の間に蓄えた冷気や終焉の要素を、こうして地下から汲み上げて咲かせる事で浄化する。通り道としての白を持つものだからこそ、白が必要ではあるけれど、階位は低いものなのだろうね」
「でも、そのお役目は季節が変わって行く為にとても必要なものですよね……」
「うん。それを理解する者達が多いウィームでは、階位の低い花ではあってもとても大切にされているようだ。ウィリアムもこの花のことは気に入っているらしい」
ディノがそう言った途端にぽぽんと幾つかの不在の花が開いたので、系譜の王に気に入られていると知って嬉しかったようだ。
ネアはそんな可愛らしい花を微笑んで見つめ、森のいい匂いを胸いっぱいに吸い込む。
あちこちに咲いた花の匂いと、瑞々しい緑と木々に蓄えられた僅かな雨の香り。
たっぷりと花を咲かせたクヌギの木の花は、どこか香ばしいような独特の匂いがする。
重なり合う木々の枝はふくよかな緑色で、その鮮やかさは緑柱石のような透明な彩りだ。
そんな森を彩る花々が美しいのは当然だが、息を飲むほどに美しいのは満開のライラックの木々だろうか。
ネアがこの世界に来る前も好きだった花だが、こちらの世界のライラックは花の中に結晶化した祝福石が混ざっていてきらきらと光る。
こぼれそうな程の花をつけた枝が重そうにしなり、森をこの上なく美しいおとぎ話の世界に塗り替える。
「ウィームは、ライラックが一年中見られますが、この季節のライラックの青さや薄紫や濃い紫の鮮やかさはうっとりしてしまいますね。……でも、秋の鮮やかな赤紫色のものも好きですし、冬の紫陽花のような複雑な青紫色に水色のものも素敵で甲乙付け難く…………」
「それなら、今度ライラックの絵を君にあげよう。ライラックの絵しか描かない有名な妖精の画家達がいるからね」
「まぁ、そんな妖精さんがいるのですか?」
「妖精の国にある花の谷の妖精の一族で、とても穏やかな一族だと聞いている。以前、グレアムが支援していたから、どこで買えるのかを聞いてみよう」
「…………しかし、高価なのではないでしょうか?それなら、こうして森でも楽しめますから…」
「君は、浴室に飾ってあった絵が逃げてしまったのを悲しんでいたからね。その絵は森の風景を妖精の魔術でキャンバスに移し描くものだから、ライラックの森に繋がる窓が出来たようになるけれど…」
「ほ、欲しいです…………」
淡く微笑んでライラックの絵について教えてくれたディノは、自分の説明でネアが頷いてしまうのを分かっていたようだ。
先日から、新しいリボンのお礼に自分も何かを贈りたいと話してくれていたので、ここは甘えてしまおう。
二人で使う浴室に、そんな絵が飾れたら素敵に違いない。
リーエンベルクの家事妖精には、絵画を特別な魔術で保護する者がいるので、水周りなどに飾られる絵は、その妖精がまず保護魔術をかけてくれる。
そんな魔術のお陰で、この世界では、浴室や水回りの施設の壁にも素敵な絵画を飾れるのだ。
(でも、新しい浴室の絵が来たら、ディノに保護して貰ってもいいかもしれない………。その方が全部自分で整えた感が持てるような気がするだろうし…………)
何となくだが、ディノは二人の部屋の中の品ものを自分の手で整えるのを楽しんでいるように思えるので、家事の専門家の処置が必要ではない部分は、ディノに任せようと思う。
なお、浴室から逃げ出したのは最近かけ替えたチューリップの絵だったのだが、その絵は、発見されたリーエンベルクの備品室にある飾り棚の薔薇の彫刻に恋をしていたらしい。
ネア達の部屋に来た翌日には逃げ出してしまい、備品室の前に立てかけられていたので、ネアは、恋するチューリップの絵を飾り棚の向かいの壁に戻してやった。
元々は向かいの壁に立てかけられていたチューリップの絵は、より飾り棚が見やすくなった新しい居場所に感激したものか、夜になると幸せそうにさわさわと揺れて祝福の光を落とすらしい。
絵を飾った真下の床石が星空のように光るようになってしまい、エーダリアは見たことのない魔術の重なりに大感激だ。
(エーダリア様が、飾るところのないチューリップの絵を貸してくれた時に、元々飾ってあった絵は、気に入ったというヒルドさんにあげてしまっていたし…)
チューリップの絵に逃げられたと知ったヒルドは、その絵を返してくれようとはしたのだ。
しかし、ヒルドは森の系譜のシーの、それも王だった階位の妖精であるので、その一族が滅びた今も身に持つ階位の高さに花壇の花々の系譜はその階位の高さに慄いてしまう事がある。
生花であればそこまででもないのだが、絵画や織物の中の花々の、その中でも階位が低い花は萎縮してしまうこともあるので、例えば今回問題となったチューリップの絵は部屋に飾れないらしい。
(そんなヒルドさんがせっかく気に入ってくれたのだもの…………)
なので、住まいを変えてヒルドの部屋に飾られている絵は、ぜひそのままでいて欲しいと伝えてある。
さくさくと軽い足音を立てて森を歩く。
出来る限り可愛い花々を踏まないようにしつつ、僅かに窺える獣道を辿った。
ピチチと小鳥が鳴き、枝の上からは不思議な毛皮箱のような生き物がぶら下がってこちらを見ている。
伸びやかな季節を迎えた森は賑やかで、ネアは足元にきらりと光った森結晶を見付けてご機嫌になった。
「もう少し先でしょうか…………」
「うん。この先の窪地にある古い史跡だと聞いているからね」
「見付けてくれたのが、ミカエルさんで良かったです。ちょうど私達がお散歩の途中だった事や、エーダリア様がお仕事の前で相談に乗って下さったことも」
「うん。その竜は、飼わない竜なのだろう?」
「私の師匠が引き取ったお子さんですので、ディノにとっては、私の師匠のお子さんで、私の恩人さんのお子さんですね」
「それならいいのかな」
本日の仕事は午後からなのでと、買い出しに出かけたネア達が出逢ったのは、慌てたようにリーエンベルクを訪れたミカエルだった。
美しい夜色の翼を持つ彼は、禁足地の森に住んでいて、ウィームの森の小さな生き物達を溺愛している優しい雨降らしだ。
仲良くしているアメリアに会いに来たのかなと思っていたが、そんなミカエルが探していたのはネア達だったらしい。
(森でこの辺りでは見かけたことのない竜さんが、古い史跡に仕掛けられた獣避けの罠にかかって動けなくなってしまっているということだったけれど………)
その青年は、心配して声をかけたミカエルに対し、怪我などはしていないが歴史のありそうな史跡を壊して脱出するのも心苦しいので、誰か人を呼んで来て欲しいと頼んだそうだ。
そしてそれは、もしリーエンベルクの騎士達に声をかけられるのなら、リーエンベルクに暮らすネアという名前の歌乞いとその魔物であれば尚助かると付け加え、ミカエルはそんな救助依頼をネア達に届けてくれたのだった。
その際に、罠にかかった青年は、自分は擬態している竜でテイラムという名前であること、この森に来た目的も合わせて託してくれた。
奪われれば悪用されかねない名前を明かすという誠実な姿に、ミカエルもこの竜は大丈夫だろうと考え、ネア達を探してくれたのだと言う。
「師匠は、まだお家に帰れていないのですね………」
「あわいを彷徨っているのなら、時間の波間を逆行してしまうことや、時間の止まった土地に滞在してしまっているのかもしれないね」
「………そのような土地があるのですか?」
「あわいは、かつて存在した場所が映し残されている事も多い。そのせいか、最下層のあたりは時間の流れが複雑な場所も多いんだ。下層のものではないけれど、君が訪れたイブの家のあるあわいも、古い時代に繋がっていただろう?」
「そうでした!あの辺りはもう、開発されてモナの街とその周辺のお屋敷街になってしまっているのですものね…………」
ネア達が、イブの家からこちらの時間とのずれがなく帰れたのは、あわいの列車に乗ったからなのだそうだ。
魔術という何でも出来そうなものに理や規則が設けられているこの世界では、道筋を外れてしまう事で歪んでしまうものがとにかく多い。
(グレーティアさん達は、あわいにいても問題なくやっていけているように考えていたけれど、もしかしたら困った状態にあるのかもしれないわ………)
不安になったネアが魔物の三つ編みを掴むと、ディノはきゃっとなりながらも、安心させるように微笑みかけてくれた。
「恐らく、最初に落とされたところから移動しようとした時に道筋を外れたのだろうけれど、その事に損なわれるような者達ではないよ。彼等を見かけた者達の話を聞いている限り、自分達の状況は理解している筈だ。一人は死者だというから、その存在を損なわないように丁寧に元の道筋に戻っているのだろう」
ディノ曰く、あわいの迷い道から正規の道筋に戻るのにも幾つかの手順があると言う。
その中でも、時間の逆行や停滞のあるあわいは、比較的古い道の入り口になっている事が多い。
(街道を外れて迷子になってしまったけれど、焦って山道を使ったりせずに、古いけれどしっかりとした道を選んで帰ろうとしている感じなのかしら…………)
ウェルバという偉大な魔術師に加え、貪食の魔物もいるので、その種の知識に不足はないだろうと教えてくれたディノに、ネアもこくりと頷く。
帰ってこないという事実だけで慌ててしまったが、ウェルバの存在はかなり特殊なものなので、ここは慎重さこそを優先するべきなのだろう。
「………そうでした。普通にお話ししていたので、うっかり忘れてしまいますが、ウェルバさんはあわいに閉じ込められていた死者さんなのですよね…………」
「君を助けてくれたようだからね、ウィリアムとも話をして、彼がある程度の時間をこちらで過ごせるようにする準備はあるが、まずは、あわいから戻って貰うしかない」
「確か、ウェルバさんも、その事はご存知なのですよね?」
「ノアベルトが伝えてくれているよ。三回ほど見かけたと話していたから」
「むぐぐ、私も師匠達に会って、きちんと元気な顔を見せたいのに、ノアと一緒にあわいの列車に乗ってみても出会えませんでした……」
実はネアも、師匠に偶然会えるかなの旅に二回も挑んだ事があった。
しかし、残念ながらばったり遭遇するという願いは叶わず、がっかりして帰宅している。
「師匠達があえて、そのような所を経由している可能性もあるのだとしたら、帰りを待っているテイラムさんは寂しいでしょうね…………」
「あちこちの接点で、伝言を預けているようだけれどね。………今回、あの竜がこちらに来ているのもその為だろう」
春の花が咲いたウィームの森を歩き抜けると、なだらかな窪地が現れた。
ここはかつて、雪竜の王子が求婚に成功して荒ぶり、どすんと着地して出来た窪みだと言われており、古い史跡が残っている。
残されている史跡は、今はもういないその雪竜の喜びが齎した祝福を守ろうとして建てられた小さな祠のようなものだ。
美しい雪結晶の祠は、今でも恋の成就を願う者たちが足を伸ばして花を手向ける事があるという。
今は亡きその雪竜の安らかな眠りを願いつつ、月日が経ち既に目には見えなくなってしまったかつての祝福に自分の思いを重ねるのだろうか。
柔らかな草地をててっと小走りになりながら下ると、大きな木の影に目的地が見えて来た。
テイラムは、鮮やかな青のケープを纏い、森狩りにやって来た貴族の青年のような服装をしている。
さっそくこちらに気付き、振り向いたようだ。
「テイラムさんです………!」
「おや、あの術陣はグレアムのものかな………」
「なぬ。グレアムさんのものなのに、ちびふわにはならないのですね………」
「ご主人様…………」
(わ、…………簡素な祠だけれど、白みがかった銀灰色の結晶石が美しくて、木漏れ日に光を蓄えているような色合いがとっても素敵…………)
今も残る、雪竜の恋の成就を示す祠は美しかった。
ネアは、テイラムがそれを壊さぬようにと気を遣ってくれたことに感謝し、久し振りに顔を合わせたグレーティアの養い子にぺこりと頭を下げた。
しっかりと立てているので、深刻な怪我などはなさそうだとほっとする。
「お久し振りです、テイラムさん。お怪我などはありませんか?」
「こちらこそご無沙汰しております。御足労いただき、申し訳ありません。この通り、なかなかに高位の魔術のようなので、壊さずに足枷を外すのに手間取りまして、お二人なら或いはと助けを求めさせていただきました」
がっちりと不思議な灰白の鎖に片足を拘束されているテイラムは、擬態をしているようだ。
柔らかな砂色の髪に濃密なチョコレート色の瞳の青年姿で、ウィーム風の装いをしている。
背筋を伸ばしてすっと立つ姿には執事然とした雰囲気があり、所作にはグレーティアに育てられたからかもしれない優雅さが窺えた。
「これは、………特定の条件を満たした者だけを捕らえる魔術のようだ。一度擬態を解けるかい?」
「擬態を、でしょうか………?」
「君の持つ資質がたまたま捕獲の条件に見合ったようだね。捕まえた者を傷付ける意思は感じないから、ただ捕まえるだけで良かったのだろう。…………もしかすると、ウィーム王家の者を捕縛する為に用意した罠の残りではないかな?君は、僅かにだが光竜の血を持つ竜のようだ」
ディノにそう言われたテイラムは、目を丸くしたネアの隣で落ち着いた様子で頷く。
どうやら、知っていた事であるらしい。
「ええ。僕の一族は、遠い昔に光竜から分岐した竜種だと聞いています。とは言え、他の竜種にも気付かれないくらいのその血を、この術式は識別してしまうのですね………。さすがウィームと言うべきか………」
「光竜と人間の組み合わせで発動するように敷いた罠に、光竜の血を引く君が、竜の血を引く人間に擬態した事でかかったようだね」
そう言われたテイラムは、さすがに予想外だったのか目を瞠っていたが、事情が飲み込めると小さく笑った。
「………僕の技量では、完全な人間には擬態出来ないんです。なので竜の血を引く人間に擬態したのですが、まさかそれで足留めされてしまうとは………。僕が至らぬせいで、お二人にご迷惑をおかけしてしまい申し訳ありません」
しゃわんと淡い光が弾け、テイラムが一度擬態を解くと白灰色の鎖はふわりと霧のようになって消えてしまった。
選別の仕方や、傷付けずに捕らえようとした事からも、これはリーエンベルクから抜け出してこの場所に遊びに来ている王族を、うろちょろしないように捕縛する為の仕掛けの可能性が高いらしい。
「………きっと、困った脱走常習犯がいたような気がしますね」
「詳しくは彼に聞いてみる必要があるけれど、そうしなければならない理由があったのだろう。本来は、罠にかかると気付けるようにもしてあった筈だよ」
無事に解放されたテイラムは、恐縮した様子であらためてお礼をさせて欲しいと言ってくれたが、捕まえてしまった魔術は顔見知りのグレアムがうっかり残してしまったもののようなので、それは辞退させて貰った。
「それに、脱走したエーダリア様がひっかかると危険でしたので、教えて貰って良かったです」
「はは、そう言っていただけると、僕としてもそれならばと言いやすいです。ただ、もしどこかへ出かけるご予定であったのなら、その分の保障はさせて下さい」
「むむ、であれば、知り合いの竜さんに差し上げるお土産の買い足しの為に市場に行く予定だったので、もし可能であれば一つお願いしてもいいですか?」
「勿論ですとも」
ネアからの提案の切り出し方を奇妙に思った筈だが、テイラムはすぐに頷いてくれた。
テイラムは、口調はとても丁寧な青年だが、服従する側の者でなく傅かせる側の者という雰囲気がどこかにあり、もしかすると王族や貴族の竜だったのではないかなとネアは考えていた。
ぼんやりした記憶の中に、そっくりな誰かを縛り上げた記憶があるが、きっと気のせいである筈だ。
(或いは、師匠の息子さんだから、そちら側の立ち振る舞いが身に付いてしまったのかしら。…………にゃわわる側な、女王様や王様的な…………?)
それもまた、一種の王族なのだろうかと考えかけ、ネアは不思議そうにこちらを見ているテイラムに気付かれないようにごくりと息を飲む。
もし全くの部外者だった場合、この疑いはあまりにも失礼ではないか。
「実は、その知り合いの竜さんのご友人が、光竜さんにとても親しみを持たれている方で、世界の各地を巡ってその逸話を集めておられるのです。なので、もし良ければご先祖様のお話を伝えて差し上げてもいいですか?ただ、テイラムさんの一族の存在が隠されていたり、あまり触れずにいて欲しい事であればそちらの優先度の方が高いので、ばっさり断っていただいて構いませんから」
その提案に、テイラムは二つ返事で頷いてくれた。
一族の末裔として僅かに光竜の血を受け継いではいても、それはもう光竜の系譜の竜であると名乗れないくらいのものなのだとか。
特に隠すようなものでもなし、伝えてくれて構わないそうで、何ならこちらから一族の話をしてもいいと言って貰い、ネアは嬉しくなる。
「僕の一族は、北方に僅かばかりではありますが、父方の遠い親戚筋が残っている筈です。光竜から分岐したと言えば殆どの竜種がそうなのですが、その中でも光竜の血筋が魔術識別されるくらいに濃いのは、僕の一族が血を薄めない事を尊ぶ竜だったからでしょう。ですので、階位もさして高くなく特異な力や伝承などはありませんが、やや珍しい竜種としてのお話は出来ると思いますよ」
そう微笑んだテイラムに、ネアもにっこりする。
(良かった、バーレンさんに教えてあげよう!)
市場への買い出しは、ダナエのお土産の為だった。
食べる量が多いダナエの為のものなので、何度かに分けて市場に足を運び、ウィームの季節の食材の中から、安価に大量に買えるものを購入しようとしている最中なのだ。
市場を使うのは領民達なので、いきなりの買い占めで迷惑をかけないよう、ちょこちょこ足を運んで買い貯めている。
そんなダナエの友人のバーレンは、同族である光竜の情報を求めている内に、世界各地で様々な光竜から分岐した竜達にも出会い、そこから、光竜とそれ以降の竜種の歴史を紐解いているらしい。
分岐した竜種の歴史から、光竜の証跡が浮かび上がる事もあると話していたので、良い情報を届ける事が出来そうだ。
テイラムも、さしたる負担もなく恩が返せると分かったからか安堵したように息を吐いている。
彼の立場では、謝礼は必要ないと言われたところでそのままには出来ないだろうし、こちらの要求に応えられる要素があってほっとしたのだろう。
「そう言えば、ウィームには師匠達の件で来られたのですよね?」
「ええ。あの雨降らしに伝えたように、グレーティア様がこの地を通り抜けたあわいに滞在しているようなので、その接地面から森の妖精に預けた手紙を受け取りに来ました。その帰り道だったんですよ」
「まぁ!お手紙を受け取られたのですね!グレーティアさんのお話を聞けて、何だかほっとしてしまいます」
ネアの言葉に、テイラムも頷いた。
足を鎖に絡め取られても冷静だったその顔に青年らしい喜びを見て取って、ネアは、テイラムがどれだけ養父を慕っているのかをあらためて感じる。
「元気そうですよ。時間の流れの特殊なあわいにいるようで、まだ感覚的には五日ほどなのだとか。手紙を書いた時にはタジクーシャという宝石と商人の街に滞在していて、これからもう一階層上のあわいに出るとありました」
「五日…………?」
さすがに驚いて慌ててディノを見上げると、ディノも首を傾げている。
「随分と歩みが遅いように感じるけれど、本人達は気付いているのかい?その計算だと、こちらに戻るまでにもう一年近くはかかってしまいそうだ」
「い、一年近くも…………!!」
ぎゃっとなりかけたネアは、そろりとテイラムの表情を窺う。
さすがにショックを受けているかと思えば、なぜかけろりとしている。
「やはり、それくらいはかかるのですね。本人も、体感している経験と計算している日数が合わない事は理解しているようです。僕宛の伝言も、これからタジクーシャに入るという連絡から随分と経ってから、滞在二日目という今回の手紙を受け取りましたからね。行動を共にしている魔物によると、この先は、七階層を丁寧に登り、戻りでの時間は残り八ヶ月という目算のようですが…………」
「うん、七階層ならばそれくらいかな。段階を踏んでいるのであれば、望まない場所で前に進めず拘留されている事もないのだろう」
「あなたにそう言っていただけて、重ねて安堵しました。そのような意味でも、お礼を言わなければなりませんね」
ディノのような高位の魔物からもお墨付きを貰えたことが、とても心強かったのだろう。
テイラムは、また青年めいた柔らかな眼差しを浮かべ嬉しそうにしている。
ネアは、共にあのあわいで過ごしてくれたグレーティアの家族を安心させてくれて魔物を労うべく、手にした三つ編みをぎゅむぎゅむしてやった。
「ご主人様……………」
「ディノが教えてくれたことで、私も一緒に安心させて貰えました。私の魔物のお陰です」
そんな事を言われてしまった魔物は当然ながら張り切ってしまい、新たな情報を追加してくれた。
「ムガルは、大食である事ばかりが周知されているけれど、時間をかけて丁寧な作業をする事を得意とする魔物だ。一人であれば容易くこちらに戻れる彼が、食料庫のある自分の城をこれだけ長く空けてまで行動を共にしているのだから、君の養父やその養父を大切に思っているのだろうね」
「…………有難うございます。今日は、この手紙を受け取る事の出来た幸せな日でしたが、あなたに教えていただけたことを知り、その安堵から二重の喜びを得られた日となりました」
きっと、その手紙が収められたポケットなのだろう。
左側の胸ポケットを手でそっと押さえ、テイラムは、艶やかに微笑み見た事のない美しいお辞儀をしてくれた。
「僕の一族に伝わる最上級の感謝を。それと、グレーティアからの手紙に、気になる宝石の街の噂がありましたのでお伝えしておきますね。タジクーシャの王は、とある人間を探して街を移動させたようです。騒がしくなる前にと街を出る事にしたそうで、それ以上の事は書かれていませんでしたが、念の為に記憶に残していただければと思います」
「おや、なぜそれを私達に伝えようと思ったのかい?」
「ネア様は、この国の歌乞いですからね。タジクーシャが開くのは他国のようですが、とは言え、ヴェルクレアにも幾つかの証跡を残し、ウィームにも宝石竜が現れたと聞きましたので」
そんな言葉を残し、テイラムは、少し離れたところで竜の姿に戻り、美しい琥珀色の瞳と茶色の鱗を持つ竜の姿になってアルビクロムに飛んで行った。
紫がかったふくよかな茶色の鱗が美しく、毛皮などを持たない、ネアの生まれた世界で一般的だった所謂ドラゴンの姿である。
「…………ご本人の仰るように、初めて見る竜さんでしたね。尾っぽの先に、宝石のような綺麗なとげとげがありました」
「御者竜だね。ゼノーシュの系譜の竜だよ。とても目が良く、周囲の者達の気分を察し、状況の整理や調整をする事に長けている。こちらにとって有益な情報になるかもしれないとタジクーシャの事を伝えてくれたのも、その系譜の者として、何かの因果の糸を感じ取ったのかもしれない」
「そう言えば、ゼノの系譜の方を知るのは珍しいですね」
「見聞の系譜は観察者としての趣も強く、元よりあまり多くは派生しないんだ。系譜の特徴として、数を増やさないことを資質とする傾向が強い」
静けさを取り戻したウィームの森で、そんな珍しい竜を捕まえてしまった雪竜の史跡は、ひっそりと佇んでいた。
この地で、ウィーム王家に仕えた家臣の娘だったという女性との恋を実らせた雪竜の王子の子供達は、やがて統一戦争に向かう事になったと言われている。
ネアは、ここに来るまでの道中で拾った美しい森結晶を祠の前に置くと、ふんすと胸を張ってディノの方を振り返った。
誰が供えたものか、既にそこには可憐な春の花々が置かれていて、その事が心を和ませてくれる。
「…………さて、我々は市場に行きましょうか」
「そうだね。帰りに、市場で小海老サンドを食べるのだろう?」
「はい!今日はエーダリア様達がお仕事でリーエンベルクを空けるので、料理人さん達は午前中はお休みされていますから、私とディノは、一緒に美味しい小海老サンドを食べましょうね」
「可愛い、弾んでる…………」
小さな事件を無事に解決し、ネア達は春の深まる美しい森を抜けて市場に向かった。
なお、テイラムが足を捕らわれたのは恐らく雪竜の祠だろうと教えてくれたエーダリアは、その祠の周囲に特殊なウィーム王族だけを捕獲する罠があったと報告すると、害がないものなら一度試してみたいとうっかり口にしてしまい、ヒルドに叱られてしまった。
ディノがグレアムから聞いた事によれば、その時代のウィーム王家には、政務に行き詰まると森に脱走してあの祠のところで昼寝をするのが好きな王子がいたそうで、周辺に仕掛けられた罠はその時の名残りだという。
アルビクロムにあるグレーティアのチョコレート店は、領内外からもお客が来る有名なお店であるらしい。
総じて食べ物が美味しくないアルビクロムにあって、ウィームやヴェルリアにも劣らない程に美味しいチョコレートが有名なのだそうだ。
ネアは、チョコレートを買いに行ったゼノーシュから、テイラムがグレーティア不在のあの店を見事に切り盛りしていると教えて貰う度に、御者竜の青年の元気そうな様子にほっとするのだった。




