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脱走犯と予防接種の呪い




リーエンベルクの朝は穏やかだ。


であるので、そんなリーエンベルクにて、朝からこれだけの大規模な捜索が行われたのは、場合によっては統一戦争ぶりということになるのかもしれない。


ネアが、スカートの裾を翻して階段の下に見付けた仲間にばたばたと駆け寄った時、振り返った赤紫色の瞳の魔物は開いた状態で固定してある扉の後ろを調べているところだった。



ふと、公爵位の魔物を探す場所ではないという気持ちになりかけ、ネアはぶんぶんと首を横に振った。

そんな塩の魔物は銀狐としての生も謳歌しているので、探すのは戸棚の下や扉やカーテンの影でいいのだ。



「いたか……………?」

「いいえ。今、外客棟をヒルドさん達が探してくれています。騎士棟の捜索を終えたゼノも来てくれるので、きっとすぐに見付かると思うのですが……………」

「籠の中で寝ているのではないかい…………?」



厳しい面持ちで言葉を交わしたネアとアルテアに対し、ディノは自分の友人が予防接種を嫌がって逃走中という事態がまだ飲み込み難いようだ。



悲し気に目を瞬き、きっと忘れているだけではないかなと呟いている。

友人思いなのは良い事だが、脱走の瞬間を見たエーダリアという立派な証人がいるので、間違いなく逃走犯なのだ。



本日の装いは、予防接種仕様なのだろう。

アルテアは、シンプルな水色に同系色で繊細な模様のあるシャツに、パンツとお揃いの生地の生成り色のジレを合わせている。

丁寧に捲り上げた袖はバンドで留めており、クラヴァットの代わりにシュプリの泡のような綺麗な琥珀色のスカーフを巻いた襟元のボタンは一つ外していた。


腕組みをしてすらりと立てば、商売なども手がけるやり手の貴族の休暇中の装いのように見えるが、実際には予防接種が怖くて逃げ出した銀狐を探す使い魔なのだ。



ここで時刻は正午の半刻前。

既に、予定の出立より一刻も遅れていた。


予防接種の後のくしゃくしゃな気分の銀狐を労わるべく、獣については銀狐のみ入店可能という謎の入店規制がある川沿いのお店で美味しいラビオリを食べる予定だったネアは、ぐぬぬと眉を寄せる。


チーズまみれという名前のその店は、銀狐が好きそうな各種チーズのラビオリが名物で、安価ながらに美味しいと有名なお店なのだそうだ。


予防接種の後のご褒美のつもりで計画したものの、ネアもすっかり楽しみにしており、絶対にランチタイム中に駆け込みたい。




「この建物内からは出られない筈なんだな?」

「はい。今回は予防接種があることを……………諸事情で忘れてくれず、ずっと警戒していたようです。頑張って挑もうと考えてくれているときもあったのですが、ヒルドさんの見立て通り、やはり当日に逃げましたね。その時の為に、ヒルドさんの指示の下、エーダリア様が昨日の夕方からこっそり空間を閉じていたんですよ」

「ああ、だから俺にも転移の間から入って来るようにと言った訳か。念の為に聞くが、空間を閉じてからは見かけているんだろうな?」

「はい。今朝、しゃかしゃかと走って逃げて行く狐さんを、エーダリア様が目撃しています。つまり、そこまでは屋内にいてくれた筈ですから………」



しかしながら、銀狐はただの狐にあらず本当は公爵位の塩の魔物なのだ。

万が一、魔物の姿に戻った上での脱走である場合は、とっくにリーエンベルクから出てしまっているだろう。



(でも、まだノアが告白していないのに、実はノアだったなんて言えない………)



ネアはディノと顔を見合わせ、何の疑問も抱かずに動物の習性とリーエンベルクの魔術の親和性について話しているアルテアをそっと見守った。



(何だろう、とても大事にしてあげたい…………)



そう考えると伸び上がって頭を撫でてあげたくなるが、こちらの魔物はディノとは違うのでそんなことをしたら嫌がりそうだ。



「…………つまり、その場合は中央棟の一階が、最も有力な隠れ場所という事になるな」

「むむ!こちらのお部屋の………我々のものですが、ある棟よりなのですか?」

「ここには、お前達の部屋に加えて、ノアベルトの部屋もあるんだろうが。敷かれた承認魔術の環境からして、入り込めばすぐに見付かる筈だ」

「…………はい」

「……………おい。何で目を逸らした。まさか、部屋で匿ってないだろうな?」

「匿ってはいません………」

「そう言えば、ノアベルトの姿がないようだな…………」



すっと目を細めたアルテアにそう言われ、ネアはぎくりとした。


銀狐がいる時だけ姿を消している塩の魔物はどう考えても怪しいのだが、今はまだ、アルテアはその因果関係に気付いていない。

気付いてしまうのも時間の問題だと考えてから年単位で時間が経過しているので、最近のネアはもはやどう接してあげていいのか分からなかった。



(ダリルさんの書架でも、可愛がっているペットが、実は友人だった公爵の魔物の取り扱い方の指南本なんて置いていないし………)



多頭飼いの本を引っ張り出して参考になる箇所がないかと読み直してみたが、先住使い魔に隠れて、新しく飼い始めた使い魔と遊んでいるところを見られてしまった時の対処法しか書いてなかった。


カテゴリは秘密への対処法として記載されているが、この問題の役に立つとは思えなかった。



(どうか、魔物の姿で逃げていませんように………!)



エーダリアやヒルド達は承知しているが、逃げているノア本人は、既にアルテアがこちらに来ていることを知らない可能性がある。

うっかり人型の時に銀狐な発言をしてしまったら、大変な事故になるかもしれないのだ。



ネアの技量程度では予防接種から逃げている銀狐だけでなく、心の折れた使い魔までを背負い切れる気がしないので、どうか事件は一つまでで収めていただきたい。



そもそも、本日の最大の難関は、銀狐を予防接種の会場に連れて行くことではなかったかと眉を寄せていると、こちらが答えるまでは引かないつもりか、アルテアにじっと見つめられた。



「…………ノアは本日、とある綺麗なお知り合いの方の心を傷付ける危険がある為に、姿を隠しています。心を通わせるということは素敵な事ですが、誤解やすれ違いで大きな危険を孕むこともありますからね…………」

「相変わらず、暇潰しの回収が杜撰なままなのか………。この先もここに住まわせるつもりなら、女関係の問題はいい加減少しは自重させろ」



ネアはとても遠回りして真実をぼかしにぼかして伝えるに留め、アルテアは、狙い通りに女性関係のトラブルでノアが姿を消していると受け取ってくれたようだ。



(あっ、傾かないで………)



銀狐とアルテアという繊細な問題に心がくしゃくしゃになってしまったのか、ぺそりと傾いてしまったディノを慌てて支えて元に戻していると、アルテアが呆れたようにこちらを見ているではないか。


不自然ではないだろうかとひやりとしたが、ディノは銀狐が可哀想で弱っているだけだと考えてくれたようなので、ネアは心の中で男前に額の汗を手の甲で拭う。



「では、中央棟にいきませんか。午後になると、既に注射が終わってよれよれになった獣さん達が街中に多く見られるようになります。遅くなればなるだけ不利ですので、ここはしゅばっと狐さんを見付けたいですね!」

「どちらかと言えば、お前の狙いはそのあとに予定している店の昼食だろうな」

「む、よく聞こえませんでしたが、中央棟に向かいますね!」



ギクシャクと体の向きを変えて中央棟に続く廊下を歩けば、ふつりとこちらの横顔を見たアルテアの視線の温度に、ネアは微かな懸念を覚えた。


実は、ダリルから忠告されているのだ。


アルテアにとって、ネアは使い魔の主人という絶対的な存在ではあるが、それは仕え甘やかしたいという欲求ばかりではない。

そう言われると、ネアもその通りだろうなとは思う。


元々アルテアは、油断のならない相手だが、興味深いし、気は合うかもしれないという関係性の上での応酬を気に入ってよく現れるようになった魔物だと言うのが、ダリルの認識だ。


(その自由さを愛するが故に、彼はどれだけ味方のように寄り添ってはくれても、自分を明け渡すことだけはないと思っていたって、ダリルさんは話していて………)



ネアもずっとそう考えていた。

まさか、ここまで当たり前のように隣に立ち馴染み、呼びかければ助けに来てくれる隣人になるとは思ってもいなかったのだ。


そんな中で、今回のスノーでネアが共に過ごした死の精霊のリシャードが、かつてのアルテアの立ち位置に近いのではないかと、ダリルは懸念しているらしい。


事件について共有したことで、アルテアはネア達がどんな風に過ごしていたのかを知ってしまっている。

そうなると、かつて自分が気に入っていた居場所に誰かが入り込む事を許さず、捻くれ者の魔物はあえて敵対してみたりもするかもしれない。

何となく想像出来るような気もするが、そうなるとたいへん厄介なのだとか。



(……………そんな時に、狐さん問題が発覚したりしたら………)



なぜ銀狐を予防接種に連れて行くという簡単な問題に落ち着いてくれないのだろうと息を吐きかけ、とは言え本当は銀狐じゃなくて塩の魔物なのだと思い直したので、ネアの脳内はとても混乱していた。



「…………ふと思ったのですが、白けものさんは、今年も予防接種をしないのですか?」

「いらん。いいか、その話題を二度と出すなよ。特にウィリアムがいる場所では絶対にだ」

「そんなウィリアムさんからは、ちびふわには予防接種が必要なのかどうか調べて貰うようにと宿題を出されています」

「その場合は、あいつも行くんだろうな?」

「…………は!そ、その場合は…………ディノも?」

「ご主人様……………」

「あんなに愛くるしいムグリスディノに、ぷすりと注射をするなんて許しません!昨年も大丈夫でしたので、予防接種はなしでゆきましょう」

「だったら、俺も必要ないだろうが。この問題はおしまいだ」



どんな方程式を使ったのかは謎だが、行動学的な考察における計算の後に銀狐潜伏ポイントを指定したアルテアの指定した場所に歩いてゆけば、目的の場所では既に大捕り物が行われていた。



「おや、ゼノーシュが見付けてくれたようだね」

「ほわ、…………アルテアさんの言った通りの場所に狐さんがいました。そして、懸命に抵抗していますね………」

「うん。…………ノ………伸びているね」

「……………確かに伸びてはいます………」



静かな目をしたゼノーシュは、庭仕事用の道具などを入れた夜柳と森結晶の道具入れの下から、けばけばの生き物をむんずと鷲掴みにしてしまい、引きずり出していたところだった。


引っ張られて体が伸びきってしまった銀狐は爪を立てて前足で踏ん張って必死に抵抗しているが、少年姿とは言え相手は公爵位の魔物なので、そのままべりっと引き剥がされて引っ張り出されてしまう。



「……………何となくですが、畑から大根やお芋を引っこ抜くような光景です」

「尻尾は抜けてしまわないかな………」

「ふむ。まだお出かけもしてないのに、たいそう荒ぶっていますね」

「おい、出かける前からあの様子なのか……………」

「脱走を図った時点で、狐さんの心は会場に到着してそこが予防接種会場だと知ってしまうのと同じくらいの荒ぶりだと思うので、今年は、会場に連れてゆくのがなかなか大変そうですよね……………」



ネア達が見守る先で、銀狐はムギャムギャぶりぶりと振り回していた尻尾をぎゅむっと掴まれてしまっていた。

そのふかふかの尻尾が気になったものか、アルテアが瞳を眇め、収穫した銀狐をこちらに掲げていてくれたゼノーシュの方から、やけに静かに視線を戻す。



「まだ輪郭が変わっている様子はないが、換毛期の様子はどうなんだ?」

「夏毛になりたくなくてずるをしていなければ、今年の換毛期はまだのようです。なので、いつもの予防接種恒例の飛び散る狐さんの毛問題はなさそうなのですが……………」



ムギーと無念の雄たけびを上げたのは、確保された手から逃げ出せないと理解した銀狐だ。

悲し気に自分を見ているディノに気付いて助けを求めようとしたようだが、運命はとても残酷であった。


ネア達とは反対側からゆっくり歩み寄ったヒルドと目が合ってしまい、けばだてて振り回していた尻尾をパサリと落としてお尻に巻き込み、じわっと涙目になる。

しかし、がくがくと震えている銀狐を両手で掴んだゼノーシュは、銀狐の無言の訴えも虚しく、問答無用で脱走犯をヒルドに引き渡してしまった。



「皆に迷惑をかけて逃げ回れば、予防接種を受けずに済むと思いましたか?」



こんな時、ヒルドはいっそ凄艶なほどに美しい。


ひんやりとした微笑みでそう問いかけられ、銀狐は何かを狐語で訴えかけているが、じっと見つめられるとそのままぐんにゃりと項垂れた。



逃走犯確保の名誉を得たゼノーシュは、ぱたぱたとこちらにやって来て、檸檬色の瞳をきらきらさせてネアを見上げる。



「僕が見付けたの。偉い?」

「ゼノのお陰で予防接種に行けますので、狐さんを見付けてくれたゼノには、クッキーを贈呈するしかありません!」

「わ、春の限定のクッキーだ…!」

「この桃味はまだむっちりとした質感の残った干し桃がぎっしりで、私の一押しなので是非食べてみて下さいね」

「うん。もしまた逃げたら、僕が探すから言ってね。だって、ネアのクッキーを貰うのは僕だもの」



そう微笑んだクッキーモンスターの愛くるしさに幸せな気分になりつつ、ヒルドにたっぷり叱られてしまってから、そっとディノの腕に託された銀狐の方を見る。



やっと味方の腕に収まりほっとしたのか、銀狐確保の情報を受けて駆け付けたエーダリアにも、ムギャムギャの狐語で何かを訴えているが、とは言えエーダリアも、領主の立場で予防接種をさせない訳にはいくまい。


エーダリアは、不憫そうに銀狐をそっと撫でてやったものの、無言で力強く頷いてみせて激励としたようだ。


後はもう、涙目で震える銀狐と、そんな友人を抱きかかえてこちらも悲しい顔のディノが見つめ合うばかりで、その様子を見たアルテアが深く溜め息を吐くと行くぞと声をかけてくれた。



ネアは、慌ててディノの腕の中の銀狐にリードをつけてしまう。

脱走しても自分で帰れるのは間違いないが、攫われたりしたらいけないのでリードは必須である。



(良かった。これで今年も春の予防接種はあの獣医さんにお願い出来そう…………)



ウィームの中でも、リーエンベルク周辺で予防接種が受けられるのは、封印庫前の広場と大聖堂前の広場なのだが、ネア達は昨年よりご贔屓の獣医がいる。


共同会場での接種を受け付けているのは三日間のみであるので、個人の医院を訪ねるという訳にもいかないご贔屓の獣医を求めて、この期間内に絶対に会場入りしなければならないという任務だったのだ。



ヒルドが叱ってくれたお陰で、幸いにも銀狐はしょんぼりしている。

今しかないと意気込み、最初から気付かれてしまっている今年の予防接種は、いきなり転移で会場近くに移動することになった。



中央棟からの転移は承認制なので、視線を向けたアルテアに対しヒルドが頷き、ネアは銀狐を抱いたディノではなく、アルテアの手に掴まる。


淡い転移の薄闇を踏んで降り立ったのは、昨日の雨が上がって綺麗に晴れたウィームの街の一画だ。


実は昨日の朝に、一瞬だけ雨が上がって虹が出た時間があり、虹の系譜の花や結晶石の収穫に領民達ははりきった。


ネアは、朝食をフレンチトーストにするとエーダリアに伝えてあったので、ノアに付き添われたエーダリアも、リーエンベルクの中庭や禁足地の森の入り口であれこれ収穫したようだ。


その後のあれこれでは、さすがに周囲に影響が出ないように、ディノのお城に移動したり、部屋でも空間を閉じていたりと対策をしている。

このあたりのことは、魔物はちっとも気にかけないので、ネアが厳しく指導しなければならなかった。




「…………そして入り口でもう、最悪の出会いがありました」

「……………見ないようにした方がいいのではないかい?」

「貸せ。逃がされると困る」

「…………うん」



予防接種会場の入り口でネア達を待ち受けていたのは、建物が少ないので声の良く響く封印庫前の会場の出口のところで、注射をされたばかりでギャワンギャワンと泣き叫ぶ黒と琥珀色のまだらな狼姿の獣だった。


困り果てた飼い主のご夫婦がリードとおぼしきものを引っ張っているが、その獣は、注射されてしまった恐怖のあまり腰が抜けて動けないようだ。

自分に多大な恐怖を与えた会場から立ち去ることも出来ずに石畳の地面に蹲り、人間で言えばぎゃん泣きの状態で声を上げているので、まだ注射を受けていない獣たちのいる会場はとてもぴりぴりしている。



それはディノの手からアルテアに移された銀狐も例外ではなく、目をまん丸にしてけばけばになったまま、泣き叫ぶ狼から目が離せずにいるようだ。

アルテアの腕に乗せた前足にぐぐっと力が入っているようなので、あまりの怖さに爪を立てているのかもしれない。



(急いで済ませてしまわなければ……………!)



焦ったネアは、伸び上がって注射待ちの列の向こうを凝視し、すぐにお目当ての羊の角のある髑髏面の青年医師を発見した。

封印庫前の会場は二か所に分かれているのだが、その中でも若い医師たちの集まる区画に、該当する人物の後ろ姿が見えたのだ。


相変わらずの手際の良さを見せる青年は、終焉の系譜の魔術を持っているらしい。

端正な顔立ちに真剣な表情を浮かべ、鳥なのか馬なのか分からない謎の生き物の羽毛をかき分けて注射をしているようだが、あまりにもその羽毛状態の毛が多いので珍しく苦労しているようにも見えた。


例年通りに石畳の上には青い絨毯が敷かれており、綺麗な飴色になった木の診察台が置かれている。

優美な作りの診察台の上に、鳥馬のような生き物がぐでんと乗っかっている光景は異様だったが、そんな生き物が怖いのか、次に並んだぽわぽわの羊のような毛を持つ黒い犬は前の患者を見つめたまま呆然と固まっているようだ。


そうやって列を分けるようなことはせずに、高位の獣と普通の獣を一緒の列に並ばせてしまうことで、階位の低い獣たちは高位の獣の気配に緊張してしまい、泣き喚く率が低くなるという手法には、以前アルテアも感心していた。

しかしながらこの手法は、どの列を担当する獣医でも難しい個体を受け持てる自信がなければ出来ないので、この場には優秀な若者たちが揃っているのだろう。



「ディノ、アルテアさん、いつもの方を見付けました。あの方は、今年も一番端の列ですね」

「ああ。…………三人目か。今回は集まった人数が少ないな。さっさと済ませるぞ」

「最後尾に並んでいる鹿さんは、恐怖のあまりに泡を吹いて気絶していますが大丈夫なのでしょうか…………」



どうやらあの狼が大騒ぎしているので、その騒ぎにつられた獣達が狂乱することを避けた飼い主が多いらしく、この時間の封印庫前予防接種会場は、訪れている患者が少ないようだ。

或いは、もう帰ったようだが、あれだけの大騒ぎをしている狼がいたので、怖がりの獣の飼い主達は、大聖堂前の会場に移動したのかもしれない。


いそいそとお目当の列に並んだネアは、銀狐が、既にムギャムギャ大騒ぎを済ませたばかりであることに感謝しつつにんまりと微笑む。


「狐さんは今のところ静かですね……………」

「落ち着いたようだね。このまま、あまり怖い思いをせずに済ませてしまえるといいのだけれど……………」

「悟りを開いたかのような、静かな眼差しです。……………む、まさかこれは、大騒ぎの合間に発生する虚無の眼差しでは……………」

「また暴れてしまうのかな……………」



ぎくりとしたネアは警戒して様子を窺っていたが、列の最後尾に加わっても、銀狐は世界の真理を見据えた哲学者のような眼差しで遠くを見つめていた。

アルテアの腕に移され、もう逃げられないと観念したのかもしれないし、今朝からの大脱走劇で疲れが出てきたのかもしれない。

今年は捕縛用の豆を投げつけられるような事件も起こっていないようだし、三人目ならあっという間ではないか。

このまま終わってくれればと願うばかりだ。




ネアが、そう油断しかけた時のことだった。



突如として、ムギーと声を上げると、アルテアの腕に横抱きにされたまま、銀狐は再びムギャムギャの大騒ぎを始めてしまった。


宙に浮いた足をじたばたとさせ、尻尾を振り回しての荒ぶる銀狐を抱いたまま、これもまた恒例のように、アルテアはただ静かに前だけを見ている。

ただし、今年はまだ換毛期が来ていないので、ふわふわの毛が飛び散って毛だらけになることはないようだ。


ネア達の二組前にいたふわふわの黒犬が無事に注射を終え、その次の失神したままだった鹿も無事に予防接種を終える。

なおこちらについては、とうとう意識を取り戻さないままに注射されてしまったようなので、眠りなどの魔術をかけるのは予防接種の効果との相性の問題で難しいものの、失神している分には構わないようだ。


やっとネア達の順番になった。

いつもより待ち時間がぐっと少ないので、何だか不思議な気持ちになる。



荒ぶる銀狐を抱えたアルテアが前に出ると、仮面をかけた獣医こと、シヴァルがおやっと眉を持ち上げる。

だが、心得たものですぐにネア達の方を見て頷き、指先輪っかの準備をしてくれた。


その輪っかを見た銀狐が、負けじとムギャワーと鳴き声を上げたが、互いにやるべきことを分かっている男たちの前にはやはり無力であったようだ。

首輪部分をしっかりと押さえたアルテアに素早く診察台に下ろされ、首の動きを固定されたままシヴァルに口輪っかをされてしまいむぐぐっとなる。

すかさずアルテアが胴体部分と尻尾を押さえてしまい、その隙に首裏にぷすりと注射針が刺さった。


ほんの一瞬のことであった。



「まぁ、毛が膨らんで狐さんの体が二倍になりました……………」

「膨らんでしまうのだね。………アルテア、ここからは、私が預かるよ」


ぷすりと注射を刺すだけなのだから当然だが、予防接種自体はいとも簡単に終わってしまう。


ネアが証明書を受け取っていると、よれよれになった銀狐に前足を伸ばされ、そこからはディノが引き取ることになったようだ。

唯一の味方の腕に避難した銀狐は涙目で震えているし、慣れない仕草ではあるものの、ディノはそんな友人を撫でてやっていた。


証明書を渡してくれながら、シヴァルが今回の予防接種の諸注意と、新しい効能を教えてくれる。



「今年から、脱臭魔術の効果が強くなっている。本来持つ魔術の香りは損なわず、汚れなどの匂いだけを除去するようになったらしい」

「まぁ、それはいいですね。こちらの狐さんは無臭めだったので気になりませんでしたが、中にはいい匂いがしている獣さんもいますから」



ネアがそう言えばシヴァルは目を輝かせて力強く頷いたので、獣たちの本来のいい匂いが失われてしまうことを残念に思っている派だったようだ。

場合によっては毛皮の会に勧誘出来るかもしれない。



(白けものさんもいい匂いがするから、これからはもう予防接種を受けても、無臭にされてしまうことはないのだわ…………)



ウィーム内で行われているこの予防接種は、国内で一般的な薬剤より様々な効果の階位が高いものであるらしく、こうして年々改良されていっているのだとか。

この分野は、アクスやアルテアも絡んでいない獣医師達の独自の研究の成果であるらしく、アルテアが興味を持ったように眉を持ち上げていたので、これから参入の余地があるかどうかを調べてみるのかもしれない。


シヴァルは次の患者に向かうようだ。

ネア達の後ろに並んでいたのは、街中のどこかで見かけたことのある立派な虎で、どっしりとした前足を石畳に踏ん張り、縄のような太いリードを持った男性にぐいぐい引っ張られている。

そのままでは埒が明かないと素早く判断したものか、シヴァルがきらりと光る注射器を手に持ちそこに歩み寄る方式で、ぷすりと注射されてしまっていた。



「ディノ、虎さんが倒れましたよ……………」

「ネア、毛だらけの生き物に浮気をしてはいけないよ。ほら、チーズのラビオリを食べに行くのだろう?」

「は!そうですよね。……………狐さん、よく頑張った狐さんには川沿いに新しく出来たチーズのお店で、名物のチーズラビオリを御馳走しようと思うのですが、一緒に行きませんか?昨年の秋の予防接種から、注射後に食べてはいけないものの縛りがなくなりましたので、祝福などの香辛料が入っていても美味しくいただけますよ?」



ネアのそんな言葉に、涙目だった銀狐は尻尾の先を小さくふりふりした。

ネアは体を屈めてそんな毛皮を纏った家族を撫でてやり、尻尾はけばけばだが気分は落ち着いたらしい銀狐の姿にさてとと背筋を伸ばす。


予防接種会場が込み合うのはこれからの時間のようだ。

昨年までは、最も待ち時間の長くなる最終日ではなくとも、午前中ですらなかなかに混んでいたのだが、午後にして何かの問題が起きて受けられなくなるのも嫌なのでと、多少の待ち時間は覚悟の上で会場入りしていた。



「今回は、思いがけず早く順番が来て良かったですね」

「やれやれだな。いい加減慣れろ」

「……………む、狐さんが前足で攻撃を………。そして、どんなに前足を伸ばしてもその位置からは届きませんね………」

「届かないのかな…………」

「届いてないぞ」



ふっと唇を歪めて意地悪に微笑んだ選択の魔物だったが、予防接種を受けさせられてしまった銀狐の呪いがどこかに届いてしまったものか、その直後に悲劇が起こった。



この時期のウィームの風物詩と言えば、獣たちの予防接種だけではなく、雲雀の縄張り争いというものもある。


精霊である青雲雀と、妖精である黄雲雀の間で起きる抗争は、周囲の人々を吹き飛ばすくらいの激しさで、ネアも、何度か飛んでいってしまう領民の姿を見かけていた。


同時に雲雀料理を出す店も並ぶのでなかなかにシュールな光景だなと思っていたのだが、そんな雲雀抗争に初めて巻き込まれるのが今この瞬間だとは、狩りの女王とて思うまい。



「ぎゃ?!」



突然の突風にネアはぎゅっと目を瞑ることしか出来なかったが、はっと気付いてしまい、結界を立ち上げてくれたアルテアには誤算があったようだ。


自分たちの足場を守るまでは良かったのだが、それでも一陣の風が結界の中に吹き込んでしまい、銀狐の脱走防止でつけてあったリードがディノの手を離れ、アルテアの顔面にばしんとなったのだ。



「…………ほわ」

「アルテア…………」



はらりと落ちるリードと、僅かに赤くなった顔面を片手で押さえた使い魔の姿に、ネア達は目を瞠ったままおろおろと視線を交わし合う。


ディノは落ち込んだ様子で謝っているし、予防接種の悲しみとこの世界の不条理を訴えていた銀狐も、目を丸くしたまま尻尾をぴしりと立ててしまっている。



「……………アルテアさんにも、チーズラビオリを御馳走しますね。………その、ひりひりしてしまっているなら、撫でて差し上げましょうか?これでも私は素晴らしい氷の魔術の使い手ですから………」

「やめろ。……………それよりも、何なんだこのリードの素材は」

「表側がカワセミで、裏側が竜さんです。悪者が狐さんを盗もうとしても、絶対に切れない安全仕様なんですよ」

「戦場に出る騎士でも、ここまでの武装はしないぞ」



そのような素材だったので、選択の魔物の顔面を赤く出来てしまったのだろう。


恨めし気にこちらを見るアルテアは既に赤くなった部分を治してしまっていたが、やはり顔面をペット用リードに攻撃されたとなればショックも大きいだろう。



そんなつむじ風を起こした雲雀達は、どこか遠くに飛んでいってしまっている。

振り返って会場を見てみたが、巻き込まれたのはネア達だけで済んだようで、予防接種待ちの人たちにも被害は出ていないようで安心した。



ピチチと鳴きながら、空高く舞い上がる雲雀達の姿に季節を感じれば、いよいよこの土地の住人になれたような気がして唇の端を少しだけ持ち上げる。



ネアは、ばしんと音がして、妖精雲雀に負けた青い雲雀が儚く打ち落とされてゆく姿と、それを追いかける屋台主達の姿を感慨深く眺めた。




チーズラビオリは、チェダーチーズ風のものとフェタチーズのものが美味しかったとここに記しておこう。















明日の更新はお休みとなります。

Twitterで今後の企画のお話のアンケートを取らせていただきますので、もし宜しければご参加下さい。


また、5/11 0時より、TwitterでSSをぱらぱらと書かせていただきますね。

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